へたくそなサヨナラ
瞬くと、優緋は窓外のどこか遠くを、あるいはどこでもない遠くを眺めていた。深夜のファミリーレストラン。客は疎らで、でも僕達は当然のように長時間ソファ席を陣取っていた。僕はしばらく来週の休みの予定について幾つかの提案をしていたが、その途中で話を中断せざるを得なかった。
「聞いてる?」
「ええ」
「で、どこに行こうか」
「どこってどこよ」
彼女はそんなことを当然のように訊いてくる。そしてまた意識をここではない場所へ移してしまう。
大学に入学して新歓コンパで知り合い、酔っ払った勢いのまま告白をした。知り合って間もない先輩にけしかけられてその気になったのだ。優緋は誰もが一目で恋に落ちるとまではいかないが、進学を機に東京に出てきた田舎者に好意を抱かせるには十分に洗練されていた。文字通り玉砕覚悟だったその申し入れが受け入れられたとき、これから始まる大学生活が色鮮やかに広がっていく心持ちがしたことを憶えている。
僕達はしっかりと時間をかけて恋人関係を築いた。彼女は僕のおままごとのような恋愛観にどこか楽しみながら付き合い、時に母親のような懐の深さで、時には悪魔のようなしたたかさで手を引いてくれた。今思えば、全ては優緋の掌で踊らせられていただけのようにも思う。ただ、だからと言って自分が主導になってその関係を引っ張っていける訳もなかったから、僕は彼女に一から十まで感謝しないわけにはいかないと常々思っていた。
「来週の土日なんだけど」
僕は根気よく、はじめから週末の予定を説明しなおす。
「それで、どこに行こうか」
「ごめんなさい。そうだ私、その日は用事があるんだった」
彼女はプランの全容を一通り聞いた後、あくびをしながらそう告げた。ファミリーレストランのソファー席は僕達以外に埋まっているところはなかった。だから一度沈黙に包まれると、それを打ち破るのは容易ではない。
「何があるの」
僕は沈黙を恐れて間髪いれずにそう聞いた。でも、聞いた後になって思わず息を呑んでしまう。
「ちょっとね」
ここのところ優緋は、そのある種において万能な言葉を多用した。ちょっとね、と言えば僕がそれ以上は立ち入って事情を聞いてこないと知っていたから。だから今日は、自らを奮い立たせて問いかけてみた。
「秀臣くん、なんかあった?」
しばらくして彼女は僕の問いに問いで応えた。眉を寄せ、本気で心配しているようにこちらを覗き込んでくる。
「どうして?」
「どうしてって、秀臣君、今日、なんか変だよ?」
そう言われて必要以上にビクついてしまう自分に情けなくなる。一通りビクついた後、自分は何も悪いことをしているわけではないのだ、と心に言い聞かせる。しかしその透き通った視線を受け止めると、どこかで自分の考えが見透かされているように思って、落ち着かなくなってしまう。
優緋は知っているのだろうか。彼女に僕とは別に好きな男が出来たことをぼくが知っていることを。その男に心が移って久しいのに気付いていることを。その情報が確かである確証を得ていることを。
彼女はあるいは気付いているかもしれない。自分の態度に対する僕の反応が依然と少しずつ変わってきていることに。そして少しずつ別れの色が濃くなり、そのタイミングを見計らっているのかもしれない。
しかし表面上は何一つ別れる要因がない。僕はもちろん今も彼女のことが好きだ。大好きだ。彼女だってきっと僕のことを嫌いになったわけじゃない。それはこんな深夜のファミリーレストランへの呼び出しに応じてくれるところからも感じ取れる。それに心根の優しい彼女だ。安易な別れで僕を傷つけたくないと思ってくれているのかもしれない。僕を悲しませたくないが、自分の恋心は無視できない。その二つの間で葛藤している彼女の気持ちが僕には痛いほど伝わってきた。
「突然だけど、僕達、別れよう」
自分が口にした言葉が自分でも信じられなかった。ずっと練習してきた台詞だったが、言ってみて、本当に言えた自分に驚いてしまった。ファミリーレストランには、有線の陽気なインストミュージックが流れている。僕はその言葉が店内に響き渡ったように感じてあたりを控えめに窺った。
「なによ突然・・・。秀臣君、ほんとに変だよ?」
優緋は怪訝そうに、でもありったけのやさしさを湛えた笑みを浮かべた。が、彼女のその表情も僕には想定内だった。きっと僕から別れを切り出されたら、はっきり言って彼女は寝ているところにバケツの水をぶちまけられたくらいの衝撃を受けるだろうと思っていた。そのくらい僕からそんな申し出があるとは思っていなかったことだろう。それもそうだ。何しろ僕は今でも馬鹿の一つ覚えのように毎朝、目覚めると優緋とツーショットで撮った写メが設定されているケータイの待ち受け画面を眺めているくらいなのだから。その気持ちが会っている最中に滲み出していないわけがないのはわかっている。でもだからこそ僕はこちらから別れを切り出そうと決心したのだ。優しい彼女をこれ以上苦しめたくない一心で、名残のない別れをする必要があったのだ。
「好きな人が出来たんだ」
何日も別れる理由を考えた結論が、この答えだった。
「うそ。そんなわけない。私、秀臣君が他の女の子と一緒にいるところを見たことないし、こう言っちゃなんだけど、あなたってどちらかといえば奥手なタイプじゃない? もちろんそれは悪いことじゃないんだけど、簡単に人を好きになったり嫌いになったりできる人じゃないじゃない」
「たしかに僕は簡単に人を好きになったりするような人間じゃない。でも、好きな人が出来たことは事実だ」
優緋に自分の心を見透かされたようで、僕は半ばムキになってそう答えた。
「別に今、付き合っているわけじゃない。僕がただ一方的に想っているだけだ。もしかしたらただの片思いに終わる可能性の方が高いかもしれない。でも、それって一種の浮気だろ? 他に好きな人が出来たのに惰性で付き合うなんて君にも失礼だし、第一君も他に好きな人がいる奴と付き合い続けるなんて嫌だろう」
一口で用意してあった言葉を並べ立てると、僕はコーラの入っていたグラスの氷を無遠慮にゴリゴリと噛み砕いた。グラスの下に溜まった水がジーパンに垂れたが気にしなかった。有線の陽気な音楽が、辺りをかえって空虚にしていた。僕はそれを打ち破るように立て続けに三つ、小さく解けた氷を大げさに噛み砕いた。
「・・・やっぱり嘘。だって秀臣君、私のこと、嫌いじゃないでしょ」
確信を持った瞳で優緋はこちらを見上げた。
「嫌いじゃないよ。でも、嫌いじゃないのと好きって言うのは別物だろう」
嘘をつくのは一つだけにしたかった。出来るだけ、好きな人に正直でいたかった。ひとつ嘘が増えるごとに、心の中の風船が膨らむ音がする。
「とにかく、僕はもうこの関係が続くことに耐えられないんだ」
「うそ」
「だから君はこんな奴とは早く別れて、早く別の恋を見つけるといいよ」
そう言ってもう一度ぼくはグラスを煽った。そこにはもう氷はなく、一滴の水滴も残っていなかった。底を眺めていると、水滴が一つ、零れた。僕は自分から別れを切り出しておいて、不覚にも涙腺を凍らせることに失敗した。
「さっきまで来週の予定の話をしていたじゃない」
「それは・・・別れていない以上は付き合っているんだから当然の内容を話していたに過ぎない」
僕はもう言い訳をするのが億劫になって、いじけ気味にそう言った。
「私は別れるつもりないよ」
「・・・もう別れたほうがいい」
優緋の言葉が僕の心を大きくグラつかせるが、ここまで来て、はいそうですかと引き下がるわけにもいかない。
「私、秀臣君と別れたくない」
「引き止めたって無駄だ。もう決めたんだ」
会話を断ち切るように立ち上がると、優緋もテーブルのグラスを両手で大事そうに握り締めながら泣き始めた。
「ごめんなさい」
彼女は振り絞るようにそう言った。
「最後まで秀臣君の優しさに甘えちゃってごめんね」
優緋はその言葉をもって僕のくだらない演技に付き合うのをやめた。
「いままで、ありがとう」
そして彼女はグラスを見つめたまま決別の挨拶をした。
「僕が言うのもなんだけど、早く僕のことは忘れるといい」
しかし僕は演技を続けた。続けずにはいられなかった。幼稚なロマンチストの考えた最高のシナリオを演じ、ピエロとしてこの場を去りたかった。
「君が幸せになることを祈っている」
ぼくはその言葉を最後に優緋に背を向けた。