すききらい(6)
『今夜空いてる?』
桃吾はスマホのメッセージを見て驚いた。優果からだ。
優果からメッセージが来るのは1ヶ月ぶりだった。
『空いてる。いつもの店でいい?美衣奈にはあそこ辞めてもらったから。』
急いで桃吾が返信すると、すぐにメッセージが届く。
『いや、今日は桃吾の家入れて。他の女は来ないようにして。』
桃吾は二度驚いた。優果が家に来たがるなんて、いつぶりだろうか。驚いている間に、優果から『できる?』とさらにメッセージが入る。
桃吾は内心びくびくしながら返信をした。
『分かった。誰も来ないから安心して。もう美衣奈しか会ってないから。あの子は優果とのこと分かってくれる。』
続けて桃吾は美衣奈へメッセージを送る。
『美衣奈、今日は家来ないでね。大事な来客。』
少しして、美衣奈から返信が来た。
『優果さん?』
桃吾は苦笑した。ついこの前、美衣奈は優果のことで泣かされたというのに、すぐに優果と察するところも、その名前を 臆せず出すところも、さすがのメンタルだ。
『そう。大事な話し合い。邪魔したら美衣奈とはもう会わないから。』
桃吾も強気に答えた。美衣奈のしたたかさは理解しているため、どんな時でもしっかりと釘を刺しておくことが肝心だった。
美衣奈の返信は早い。
『分かりました。でも明日は絶対行きますから。』
桃吾はOKとスタンプを送った。
◇
「久しぶりに来た。桃吾の家。」
優果は玄関でパンプスを脱ぐと、のこのこと居間を見て回った。
「そうね。働き出してからはお互い店で飲み食いする方が楽だったし。」
桃吾は優果へハンガーを手渡す。優果の様子がいつもどおりであることに内心ほっとしていた。
「それ酒?」
「うん。仕事帰りに買ってきた。頼んでなかったけど、食べ物ってある?」
「適当に買ってあるよ。惣菜だけど。」
桃吾がキッチンから惣菜のパックを持ってくると、二人は黙々と晩酌の準備を始めた。
優果がふと思い出したように顔を上げた。
「え、ひょっとして桃吾の家って就職祝いの時以来?」
「ああ、そうかも。飲みすぎて泊まっていったんだよね。」
「そっかー、どうりで久しぶりなわけだよ。懐かしい。」
二人はなんとなく笑いながら、グラスに酒を注ぎ、カチリと合わせた。
なごやかな雰囲気で、久しぶりの夜が始まった。
「まだあの子と続いてたんだ。みいなちゃん?だっけ。」
優果が酒で口を湿らせながら、脈絡なくたずねた。
桃吾は少し焦った顔をして答える。
「続いてるっていうか、あの子だけ切れてくれないんだよね。他の子はもう完全に切れて、連絡もないんだけど。美衣奈は何言っても諦めなくて。」
優果は面白がるような顔で言った。
「ほんとに全部の女を切ろうとしてたんだ。」
「そうだよ。メッセージ送ったでしょ。もともと真剣な関係でもないから、切ろうと思えばいつでも切れる。」
ふうん、とから返事の優果を見て、桃吾は説明を続けた。
「美衣奈だけはしつこいんだ。でも優果のことも分かってるし。だからバイト先も変えてくれた。物分りのいい子だよ。」
優果は物珍しげに桃吾の顔を見つめた。
「・・・そんなに人のこと分かってる桃吾、初めて見た。いい感じなんじゃん、美衣奈ちゃんと。」
そう言って、小さく笑ってみせる。
桃吾は「そう?」と首を捻った。
「いい感じなのは優果でしょ。颯斗くん、優果が何しても許すじゃん。いい子だよね、ほんとに。」
桃吾が颯斗のことを切り出すと、優果は「うん」と頷いた。
「うん、颯斗はいい子。純粋で可愛くて。私のこと凄く好きでいてくれる。よほどのことが無い限り、別れないと思う。」
優果のやわらかい笑みを見つめながら、桃吾はそっかと笑った。
なんとなく二人同時に酒を飲む。
静かな夜だった。どこかの家のテレビがかすかに聞こえてくる。
二人は黙って酒を飲み、唐揚げをつまんだ。もそもそと肉を噛み砕く。
ソファにもたれながら、優果がぼんやり呟いた。
「これって、別れ話なのかなあ。」
桃吾は寂しそうな顔をした。
「付き合ってもいないのに、別れなきゃいけないの?」
優果は箸を置き、ソファに座り直して桃吾の顔を見た。
「だって、桃吾がいたら桃吾に行っちゃうもん、私。颯斗だけじゃなくて、今までの彼氏も、今後付き合うかもしれない別の人も、桃吾より優先できないと思う。好きなのに。」
淡々と話す優果を見て、桃吾は首を振る。
「そんなことない。優先できてるよ。俺じゃない人を。優果は俺に安心を求めてるだけ。それ以外のものはちゃんと颯斗くんとか、他の人から貰おうとしてる。慣れの問題だよ。そのうち俺じゃなくても良くなる。颯斗くんだけで良くなるから。」
優果はあっけにとられて桃吾を見返した。
「桃吾、そんな風に思ってたんだ。」
「知らなかったでしょ。」
「うん。・・・まあ、たしかにそうかもだけどさ。」
優果はぼんやりと唐揚げの載った皿を見つめながら考えるような顔をしている。
「たしかに桃吾に話したら安心する。だから会いたいって思ってるのはある。でももし、他にも安心できる人がいるからって、桃吾じゃなくてもいいやって思うことはないんじゃない?慣れはあるけどそれだけじゃないし。桃吾だから会いたいんだもん。」
桃吾は苦笑した。
「俺も優果だから会いたいし、優果との関係だけは切れたくないって思ってるよ。でもそういう言い方はやめたほうがいい。恋人とは違うんだから。優先する必要も、別れる必要も無いんだよ。そうやって颯斗くんにも説明すればいいじゃん。いい子だから分かってくれるでしょ。」
優果は呆れた顔をしていた。
「そんなに怖いの?私のこと失うのが。」
桃吾は笑みを貼り付けたまま固まった。優果の顔を見る目には不安が浮かんでいる。
優果は構わず話を続けた。
「さっきから、まるで予防線張ってるみたいだよ。あのね、恋人でも優先されないことはあるし、恋人じゃなくても人は別れるよ。そういうものなの。だから颯斗は不安になってるの。私が桃吾を優先してて、桃吾を大事にしてるのが分かってるから。たぶん美衣奈ちゃんも分かってるんじゃない?分かってるけど、それでも桃吾の傍にいたいんでしょ。健気でいい子だね。」
優果はそう締めくくるとさっと立ち上がり、キッチンから新しいグラスを二つ持ってきた。ビニール袋からがさごそと焼酎を取り出し、二つのグラスに手際よく注いでいく。桃吾は呆然としたまま、黙ってグラスを受け取った。
二人は目も合わせず、各々ぼんやりと焼酎に口をつけた。
「・・・じゃあさ。」
グラスが空になった頃、桃吾がやっと口を開いた。
「じゃあ、優果は、恋人じゃなくても俺と別れたいの?恋人の颯斗くんを優先するために。恋人じゃない俺とは、もう会わないってこと?」
桃吾の顔は無表情で、感情が読めず、口調も平坦だった。対する優果は、痛くてたまらないという顔をした。どちらも口を開かず、小さな沈黙が下りる。
やがて、優果が耐えきれないという風に口を開いた。
「・・・分からない。そういう話をするつもりでここに来たけど、桃吾にもう会えないのはやっぱり嫌。颯斗を安心させてあげたいのに、なんでそこまでしなくちゃいけないのって思っちゃう。」
優果の言葉を聞いた途端、桃吾ははあと長く息を吐いて頭を抱えた。
「なにそれ。優果まじ何しに来たの。ほんと困る。」
優果もだるんと行儀悪くソファにもたれかかる。
「仕方ないじゃん。颯斗、ほんとに可哀想なんだもん。どうにかしたいじゃん。でも、桃吾が私の生活からいなくなるのは、困るじゃん。」
優果は口を尖らせている。
桃吾はグラスを持って立ち上がり、焼酎を足した。優果の分も注いでから、そのまま隣に腰かける。
「俺だって困るわ。物分かりのいい風を装ってたけど、俺、優果を繋ぎとめるのに女の子全部切ってんだよ?優果に捨てられたら俺、ひとりぼっちだよ。」
「嘘ばっかり。」
優果は焼酎を飲みながら意地悪く笑った。
「美衣奈ちゃんがいるじゃん。あの子がいれば案外へーきかもよ?私なんかいなくても良くなるんじゃない?」
からかうように優果が言うと、桃吾はむっとした顔をしてみせる。
「他の人がいればいいわけじゃないって言ったのはどの口だよ。」
じゃれるようににらみ合ってから、二人はケラケラと笑った。
「美衣奈はさ、たぶん俺のこと憐れんでるんだよな。」
桃吾がイカリングをつまみながらぽつりと言った。
「憐れんでる?」
「たぶん。俺が優果のこと好きで好きでたまらなくて、大事すぎて手を出せない男、みたいに思ってるんだよ。」
桃吾は唇をゆるめて微笑みながら続ける。
「そんな俺に尽くしてさ、いつか優果を忘れて自分を大事にしてもらいたい、みたいな執念が凄くて。真面目でいい子だけど、俺がそこまで真面目じゃないからさあ。続くかって言われると、分かんないなあ。」
「なあんだ。てっきり改心したのかと思ってた。桃吾、変わらないね。」
優果はどこか安心した顔で笑った。
「ほんと、人の扱いが雑。」
優果が空になったグラスをちょい、と桃吾に傾ける。桃吾はやれやれ、といった顔で酒瓶を取る。
「知ってるよ。だから優果にはこんなに優しくしてるじゃない。」
桃吾は優果のグラスに焼酎を注いでやりながら笑った。
「それに、そんなに簡単に変われたら苦労しないよ。」
テーブルのつまみは粗方片付いていた。
優果がスナック菓子をごそごそと探す傍ら、桃吾は皿に残されたパセリをむしゃむしゃと食べる。
「優果の好き嫌いも相変わらずだよね。」
優果は顔をしかめた。
「パセリはパサパサするし変な味がするから嫌い。別に食べなくても困るものじゃないし。好きなものを食べたいんだもん。」
テーブルに、チーズクリームのサンドクッキーや個包装のチョコレートが並ぶ。どれも優果が好んで買う定番のお菓子だ。
桃吾はニヤニヤしている。
「パセリじゃなくて、可愛い年下彼氏のこと。颯斗くん、いかにも優果の好きそうな子だもんね。何回かあのタイプと付き合ってだけど。いっつもでれでれしてたよなあ。」
優果は恥ずかしそうに酒を飲んだ。
「うるさい。いいの。可愛いんだから。」
桃吾は楽しそうに笑い、ポテトチップスの中身を皿にあけて優果の傍に置く。
「このまま優果の嫌いを踏み抜かないといいね、颯斗くん。優果の嫌いって難しいから。」
優果はポテトチップスを箸でつまんでぱくりと食べた。
「桃吾こそ。女の子と遊び過ぎて、美衣奈ちゃんに愛想つかされないといいね。そのうちバレるんじゃない?私なんかよりよっぽど他の女の子と遊ぶことの方が多いってこと。」
二人はすっかりくつろいだ顔をして、くだらない言い合いをしては笑いあった。
口数が増えるのに比例して酒の量はどんどんと増え、テーブルに広げたお菓子もどんどんと減っていく。久しぶりの長い夜だった。
◇
『とーごくん、優果さんを家に入れて二人で話すらしいよ。今夜。』
スマホが光っている。
美衣奈からのメッセージが、颯斗のスマホに届いていた。颯斗は少しだけ不安になる。
『二人だけで家って、大丈夫なの?』
少しして、美衣奈からそっけない返信がきた。
『まあ大丈夫でしょ。いやだけど。とーごくん、優果さんのことかなり大事にしてるし。』
それは逆もまた然りだ、と颯斗は思った。優果も、同じように桃吾のことを大事にしている。
二人が過ごす時間が別れ話であるといいな、と颯斗は思った。そうしたらこの漠然とした不安から解放される。
その後しばらく美衣奈と情報交換を続けた。
就寝前、颯斗は祈るような気持ちで、そっと優果へメッセージを送った。
◇
「あれ、メッセージ来てるよ。颯斗くんから。」
桃吾が優果のスマホを覗き込んで言った。
優果が睨みながら手を伸ばすので、桃吾は肩をすくめて手渡す。
「勝手に人のスマホ見ないで。」
「通知が見えただけだよ。テーブルに出しっぱなしにしてるから。」
優果はもそもそと起き上がった。ぼさついた髪もそのままに、大きく伸びをする。
桃吾はテーブルにあった水をごくごくと飲むと、ついでに落ちていた優果のブラウスを拾った。優果の方を見ると、布団を軽く巻き付けてベッドの上に座っている。
桃吾は優果の隣に座ると、むき出しの肩にブラウスをかけた。水を差しだせば、優果はスマホから顔を上げることもなく受け取る。
「颯斗、なんかまた不安そうにしてる。今日桃吾と話すって言ったから?」
桃吾は美衣奈のことを思い出した。
「あ、美衣奈かも。優果が家に来ること知ってるから。颯斗くんにも教えたのかもしれない。」
優果がぎょっとして桃吾の顔を見た。
「なんで颯斗と美衣奈ちゃんが知り合いなの?」
「さあ。美衣奈が調べて会いに行ったみたい。優果のこと聞き出すために。」
優果は不思議そうな顔をした。桃吾は「まあいいじゃん」と言って優果の隣に寝転んだ。
「それより、颯斗くんと続けたいなら、俺と寝てることは言っちゃだめだよ?さすがの颯斗くんもたぶん怒るから。」
優果は「当たり前でしょ」と言ってスマホを脇に置いた。メッセージを返し終えたらしい。
「でも颯斗なら、怒るより泣きそう。泣きながら縋りついてくるの、超可愛いんだよねえ。」
うっとりしている優果を、桃吾は呆れた顔で小突いた。
「優果ちゃん、さすがにシャレにならないわよ。」
スマホが小さく鳴って、メッセージの受信を知らせる。優果はさっと内容を確認し、『うん。明日の夜は会おうね。おやすみ』と返信した。
「あ、明日っていうか、もう今日なのか。」
優果がはたと画面に表示された時刻に気付く。いわゆる丑三つ時と呼ばれる時刻だった。
「今日美容室の予約してるんだった。もう寝るわ。」
優果はとことんマイペースだ。さっさと布団にもぐりこみ、「電気消してー」と言う。桃吾は苦笑して「おやすみ」と言い、寝室の電気を消した。
桃吾はそのまま床に座り込んだ。ベッドの足に背を預けながら、ぼんやりと考える。
優果は、俺のことが好きなわけではない。もちろん嫌っているわけでもないだろうが、少なくとも恋情はない。
優果は、好きな物を与えて欲しいだけなのだ。
嫌いな物が退けられて、好きな物だけを与えてもらえる時間。それを求めている。俺はそれを与えることができる。優果の好きな物だけ、好きなことだけをしてあげられる。その延長で、たまにこうして二人で寝ることがある。優果は気持ちいいことが好きだ。
優果は俺に甘えていて、俺は優果に甘えてほしいと思っている。
俺は優果に甘えられることで安心できるのだ。優果には俺が必要なのだ、と思えるだけで心が落ち着く。自分の所在がはっきりするような、見えない穴がふさがるような。
「別れるなんて、一生できないな。」
桃吾は思わず呟いた。
「私だってできない。」
くぐもった声が聞こえた。
桃吾がベッドの方を振り返ると、優果が寝転んだままこちらを向いている。
「桃吾とは、ずっとこのままがいい。」
桃吾はニヤニヤして優果の方へ身を乗り出した。
「このままって、どのまま?」
優果は眠そうな顔のまま、平然と答える。
「このまんまよ。会って喋って飲んで食べて、たまにヤって。」
桃吾は「あらやだ、爛れた関係だわ」と茶化してから、さらに優果にたずねる。
「そういうの、一般的になんて呼ぶか知ってる?」
「まあ、セフレと呼ぶのかもしれないけど。」
優果が少し気まずげに言うと、桃吾は優しく微笑んだ。
「そう、その言い方だとセフレみたいだね。」
そしてゆっくり手を伸ばして、優果の髪を梳きながら答える。
「でもセフレは、俺が遊んでる女の子たちみたいなことでしょ。俺と優果はセフレじゃないよ。」
優果はいぶかしげな顔をした。
「じゃあ、私たちは何なの。」
桃吾は笑って答えた。
「口直しだよ。」
手をするりと移動させ、優果の頬を撫でながら桃吾は続ける。
「すっきりしたいんだよ、俺たち。優果は偏食だし、俺は雑食でしょ。よそで食べ疲れちゃうから、寄り添ってリフレッシュしたいの。ちょっと冒険しても、いつもの慣れた味に帰れるのって安心するじゃん。」
桃吾の手がゆっくりと優果の唇をなぞる。
「だからさ、優果は離れちゃだめだよ。離れちゃだめだし、変わっちゃだめ。傍に居て。いつでも呼んで。俺のこと直して。」
慈しむように優果の顔を見つめてから、桃吾はそっと手を離した。
優果は目を瞬かせている。妙に納得した顔つきだった。
「そっか。そうかも。」
桃吾の顔を見つめ、幸せそうに笑う。
「桃吾こそ、女にうつつ抜かして変わったりしたらだめだからね。いつでも呼んで確かめるから。そのままでいて。私を満たして。」
ベッドの中から、優果の手が桃吾を引き寄せる。桃吾がそのままベッドにもぐりこむと、どちらからともなく抱きついた。
好き嫌いは誰にでもある。
しかし、好きか嫌いかだけで、人や物や感情をきっぱりと分けられるはずがない。
好き嫌いはすべての基準にはならないし、好き嫌いだけで満足が得られるわけではないのだ。
好き嫌いをするくせに、手放せないでいる二人。
どうしようもなく狡くて我儘な二人だけが、互いの隙間を埋めていく。
満ち足りた夜を過ごして、次の朝を待つ。