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すききらい(4)

 

 薬缶がシューシューと音を立てるのと同時に、チャイムが鳴った。

 桃吾は溜息をつきながらコーヒーを淹れる。恐らく、もう少ししたらまたチャイムが鳴って、次に「開けて欲しい」というメッセージがスマホに来るだろう。


 ここ数日、毎日のように美衣奈が家に来ていた。

 自分にも予定があるし毎日は困る、と伝えているのだが、「でも桃吾さん、毎日お家にいますよね?」と美衣奈は全く諦める様子がない。このガッツは若さ故か、彼女の性格故か。

 案の定スマホが震える。桃吾は渋々応答した。家の前に来られては、無視する訳にはいかない。薬缶を置いて玄関へ向かう。

 解錠すると、当たり前のような顔をして美衣奈が家に入ってきた。

「お邪魔します。桃吾さん、ドーナツ買って来ました。一緒に食べましょ。」

 駅前にあるドーナツ屋の紙箱を持ちながら、美衣奈がにっこり笑う。使わせるはずもないのに、泊まる気満々の荷物を持ってきているのもいつもと一緒だ。

 桃吾は呆れた顔で言った。

「よくこう何回も来るね。いつも断ってるのに。」

「でも桃吾さん、いつも入れてくれるじゃないですか。」

 美衣奈はケロリとしている。

「家の外で粘られるのも迷惑だからね。」

 桃吾は「迷惑」という言葉をあえて使ってみせたが、美衣奈には特に効果は無いようだ。

「別に外でもいいのに。中に入れてくれるんだから、やっぱり桃吾さんは優しいですね。」

 彼女には独特のポジティブさがある。初めは戸惑っていた桃吾だったが、だんだん慣れてきた。美衣奈への遠慮はもはやほとんど無い。

「大人だからね。最低限の優しさだよ。今日もいつもどおり。お土産は一緒に食べるけど、終わったら帰ってもらうから。」

 桃吾ははっきりと言い切って、客人用のコーヒーカップを取りにキッチンへと引っ込んだ。


 久しぶりのドーナツは美味しかったが、夜に食べるには重い。

 こってりしたチョコクリームをなんとか平らげると、桃吾はさっさとテーブルを片付け始めた。

「ご馳走様。毎日貰ってばかりで困るな。もう充分。大丈夫だよ。」

 にっこり微笑む。これは牽制だ。

 美衣奈は強引なところがあるが、基本的には桃吾のことが好きなのだ。嫌がられることはしたくない、と思うのが乙女心であろう。

 自分に恋する女の扱いには慣れている。桃吾はそういう男である。

 それでも、美衣奈は目をぱちぱちさせながら「じゃあお土産なしで遊びに来ようかな」と呟いている。ポジティブというより、もはや強情である。

 桃吾は苦笑して、「玄関まで送るよ」と美衣奈に帰るよう促した。


「桃吾さん。」

 ショートブーツを履いてから、美衣奈は桃吾を見つめた。

「まだ他の人に会ってないんですね。」

「そうだね。」

 他の人とは、女のことである。

 桃吾は、女たちと連絡をとるのをやめていた。

 数人の女と定期的に会っていたが、少し連絡を無視して会わずにいれば、自然と関係は切れていく。その程度の好意。

 それでも美衣奈だけはしつこかった。

 連絡を無視しても「何かあったんですか?」と家に来る。どの子とも会いたくない、会ってないと伝えても、諦めるどころか「じゃあ今はいつでも空いてるんですね」と妙なガッツを見せてきたのだった。

「前も言ったけど、美衣奈を特別にしてるわけじゃないからね。勝手に来るのは迷惑だと思ってるから。」

 一応釘をさして桃吾が言うと、「分かってますよ、桃吾さんは優しいですもんね」と美衣奈は笑った。

「早く優果さんと仲直りできるといいですね。」

 そして「おやすみなさい」と言って、美衣奈は出ていった。


「優果か。」

 桃吾はソファに腰かけてぽつりと呟いた。

 優果からはまだ連絡が来ない。女たちとの関係を精算したのは、優果の機嫌をとるためだ。

 もちろんこれは一時的なもので、頃合いを見てまた何人かとは会うつもりである。優果のためとはいえ、自分の生き方すべてをいきなりねじ曲げることはできない。

 しかし、桃吾は案外すっきりしていた。人付き合いとは、基本的に面倒くさいものだ。女は特に、嫉妬や執着ですぐ感情的になる。知らぬ間に疲れが溜まっていたのかもしれない。たまにはリセットするのも悪くないなと思った。

 どこか物足りなさを感じるのは、やはり優果から連絡がないせいだろう。

「どうしてるかなあ。」

 ぼやきながら、桃吾は久しく見ていない優果の顔を思い浮かべた。

 記憶の中の優果は、日本酒を飲んでは魚をつまんでいる。優果と食べるご飯はいつも美味しかった。

 チョコレートドーナツの重みは、いつの間にか体から消えていた。



 カランカランと軽い音が鳴る。ほぼ同時に、つま先が濡れた。

「あーあー。」

 落としたカップが床を転がる。せっかく測った水をぶちまけてしまった。

「優果さん!?何してるんですか。」

 隣で鍋を見ていた颯斗がギョッとして言った。

「ごめんごめん。」

 慌てて計量カップを拾い上げ、もう一度水を測りとる。

 颯斗は心配そうにこちらを見てから、水を受け取って鍋に入れた。

 今夜はカレーだ。颯斗と二人でたくさん野菜を切って、グツグツと煮ている。私の家のキッチンが広くて良かった。こうして並んで立つことができる。

「優果さん、最近調子良くないですよね。」

 鍋をかき混ぜる颯斗が俯いたまま言った。

「そう?寒くなってきたからかなあ。」

 私はとぼけた返事をして、水浸しの床をさっさと拭いた。

 颯斗は何か言いたげな顔をしている。私は「食べる準備しなきゃね」と呟いて、逃げるように食器を抱えキッチンを離れた。


 ダイニングテーブルに、コトリコトリと食器を並べる。

 颯斗の小皿、私の小皿。

 颯斗のスプーン、私のスプーン。

 颯斗のグラス、私のグラス。

 淡々と2人分の食器を並べていると、また頭がぼんやりしてくる。

 最近なかなか頭がすっきりしない。目の前のことに集中できなかったり、考えがまとまらなくてモヤモヤしたり。

 颯斗にも気付かれるくらいなのだから、相当なのだろう。この不調の原因は分かっている。認めたくないが、桃吾に会っていないせいだ。

 思わずため息が出る。なんて軟弱なんだろう。


「優果さん。」

 いつの間にか颯斗が後ろに立っていた。心配そうに眉根を寄せている。

「どうしたの。カレーは?もう出来た?」

 フォークを綺麗に並べ直しながら、慌てて取り繕う。ぼんやりしていたのはバレてるかもしれないけど。

「カレーは大丈夫。あとは待つだけです。その間に、やっぱりちゃんと話しませんか。」

 颯斗に誘導されるがまま、私は椅子に座った。颯斗もダイニングテーブルの向かいに座る。食卓には食器しか並んでいないのに、なんだか変な感じだ。

「話ってなんのこと?」

「優果さん、桃吾さんと喧嘩したんですか?」

 颯斗は真っ直ぐこちらを見ている。

 数週間ほどはぐらかしていたけれど、流石に潮時だろう。私は小さく息を吐いた。正直、気が重い。

「喧嘩じゃないよ。嫌になってるだけ。しばらく会うつもりないの。」

 言葉少なに答える。嘘はなかった。これが一番素直な言い方だ。

「しばらくって…。」

 颯斗は言い淀んだ。

 何を気にしているのだろう。しばらくは、しばらくだ。それでいいじゃないか。

 私は少し苛立った。

「ぼんやりしてたのはごめん。ちょっと考え事してただけ。ね、もう食べよう?」

 勝手に言い切って、キッチンにあったサラダを持ってきた。颯斗の皿にも盛ってみせたが、無反応だ。仕方がないので、一人でサラダを食べ始める。


「でも、桃吾さんと会えないから、優果さん、元気ないんじゃないですか。」

「そんなことないよ。桃吾のこと考えただけで気分悪いもん。」

 咀嚼の合間に答える。

 私は今、目の前のレタスを食べ切ることだけを考えている。

「本当ですか。」

「うん。」

 レタスは青くて綺麗だ。ちょっと水っぽいけど。トマトも買っておけば良かったな。

「嫌だけど、本当は会いたいんじゃないんですか。」

「そんなことないって。」

 レタスだけを見る。

「じゃあ、どうして元気ないんですか。」

「知らない。そういうのあるでしょ誰でも。」

 レタスだけ。

「ねえ、優果さん。」

「しつこいなあ。」

 とうとう私は顔を上げて、颯斗を見つめた。不安そうな顔をしている。

 なんでそんな顔してるんだろう。

「いいでしょ、桃吾のことなんて。颯斗には関係ないじゃん。」

「でも、僕がいるのに。」

「だから何?」

 言っていいことじゃないとは思った。でも、無性にイライラして、口が止まらなかった。

「何が不満なの?こうして会ってるんだからさ、文句ないでしょ。」

 颯斗の顔が強ばったのが見えた。

 やってしまった。


「…ごめんなさい、優果さん。今日は帰ります。おやすみなさい。」

 なぜか颯斗が謝って、素早く帰っていった。

 こんな時でも敬語だし、鍵をかけて出て行くのを忘れない。根が真面目で優しい子なのだ。

 優しい子だと、分かっているのに。

「カレー食べて寝よ…。」

 颯斗とは正反対の私は、そのままカレーを食べ、皿も洗わずに寝た。


 翌朝の気分は最悪だった。



「桃吾くん、お酒かコーヒーしか飲まないよね。」

 美衣奈がソファで紅茶を淹れながら、ちらりと桃吾を見つめた。

 桃吾は一人掛けのチェアで優雅にコーヒーを啜っている。


 美衣奈の襲撃にもすっかり慣れた桃吾は、もはやルーティーンのひとつとして受け入れ始めていた。彼女はアルバイトがない日、こうして桃吾の家にやって来る。桃吾は夕食を用意してやり、食後にはお茶を共にする。

 美衣奈は桃吾と寝たがっていたが、桃吾はやんわり断っていた。一応、女と遊ぶのは休んでいる期間であったし、美衣奈は優果の機嫌を損ねた原因でもある。ここで美衣奈と関係を持つと、次に優果と会った時に飯が不味くなるような気がしたのだ。

 その「次」がいつになるのか、まだめどはたっていないのだが。


「そういえば知ってる?優果さんのこと。」

 美衣奈がカップアイスを食べながら、のんびりと言った。桃吾は思わずぎょっとして美衣奈を見る。

「え?優果?」

 頭の中を覗かれたようでどぎまぎしたのと、美衣奈の口から優果の名前が出たことに驚きが隠しきれない。

 そんな桃吾の様子を見て、美衣奈は拗ねたような顔をした。

「桃吾くん、全然こっち見てくれないくせに。優果さんにはそんな反応するんだから。」

「だって、美衣奈から優果のこと聞くと思わないじゃない。びっくりするよ。」

 桃吾は取り繕うようににっこり微笑んで、いそいそと美衣奈の隣に座った。

「それで?優果の何を知ってるのかな、みーなちゃん。」

「どうしようかなあ。桃吾くん、みーなに優しくないから、知ってたことも忘れちゃいそう。」

 美衣奈は頬を膨らませ、ついとそっぽを向く。可愛らしい素振りだが、どうやら桃吾と駆け引きをしたいようである。

「意地悪言わないで、教えてよ。」

 桃吾は美衣奈の髪を撫でてみせる。

「じゃあ、もっと優しいとこ、見せてくれますか?」

 目を潤ませながら、美衣奈が桃吾の手を握る。

 そのままゆっくりと桃吾の手を移動させ、頬、口、首、と自分の肌に触れさせていく。桃吾はじっと美衣奈を見たまま、されるがままだった。

「触って。」

 美衣奈が吐息混じりに囁いて、ゆっくりと桃吾の手を撫でた。

 桃吾は黙ったまま、美衣奈の頭をぐいと引き寄せ唇を奪った。強く深い口づけに美衣奈は驚いて目を見開いたが、嬉しそうに応えていく。

「美衣奈。」

 口づける合間、桃吾が囁く。

「美衣奈、俺には優果が必要だ。」

 美衣奈がピタリと動きを止めた。呆然と桃吾を見る。

 桃吾は息を切らせることもなく、穏やかな顔で美衣奈を見ている。

「優果が大事。だから、教えてよ。美衣奈。」

 つかの間二人は見つめあっていた。

 やがて、はあと美衣奈が息を吐く。

「分かりました。降参。桃吾くん、ずるい。」

「仕方ないよ。俺とは場数が違う。」

 桃吾は悪びれもせず微笑んでいる。

「でも、美衣奈、キス上手だね。」

「なにそれ。なんで余裕なの。」

 軽口を叩きながら、二人並んでアイスを食べる。先ほどの熱はすっかり冷めていた。


「優果さん、最近あちこちで飲んでるんだって。」

 美衣奈はぽつりぽつりと話し始めた。

「なんか、いわゆる合コン?だと思うんだけど。友達が働いてる居酒屋にも、何回か来てるみたいで。それも毎回違う人たちとらしいの。うちの店にはさすがに来てないけど、私も前にバーに行くところ見たことがあって。」

「え、美衣奈、優果に会ったの。」

「会ってはないよ。見ただけ。あっちには気付かれてないし。」

 さすがの美衣奈も、優果と直接会うのはまずいと思っているらしい。

「ふうん。でも優果、颯斗くんとはどうなったんだろう。」

 桃吾はぼんやり考えるように言った。

「颯斗くんって誰?優果さんの恋人?」

「うん。かなりいい感じそうだったのにな。もう別れたのか?」

 なんとなく違和感があり、桃吾は考え込む。

 そんな桃吾の顔を覗き込んで、美衣奈が言った。

「気になるなら、私、調べましょうか。」

「え?」

「優果さんのこと。調べてあげる。」

「調べるって・・・。」

 困惑する桃吾に、美衣奈はにこっと微笑む。

「任せて。私、そういうの結構得意なの。」

「そうなんだ?」

 よく分からないが、優果のことが知れるのは助かる。桃吾は曖昧に頷いた。

「その代わり。」

 美衣奈は続けた。

「調べたら、ちゃんとご褒美ちょうだいね。今みたいなのとか、もっと凄いのとか。」

 きらきらと顔を輝かせる美衣奈を見て、桃吾は苦笑する。やはり彼女は強い。


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