すききらい(3)
「優果さん、しいたけダメでしたよね?」
ベージュのエプロンをつけた颯斗が、キッチンからこちらを振り返って言った。
私は颯斗の家に来ていた。晩御飯にピザを作ってくれるとかで、張り切っているのだ。
「うん、苦手。ごめんね。」
「全然問題ないですよ。しいたけがダメならしめじに替えればいいじゃない。」
「可愛いマリーアントワネットだなあ。」
思わずつぶやくと、颯斗がきりっとした顔でこちらを睨む。
「優果さん。可愛いはやめてって言ってるでしょ。」
「ああ、間違えた。頼もしいマリーアントワネットだった。」
「もう。」
憤慨する颯斗も可愛い。
可愛いから可愛いと言っているのに、それで怒るのだから困った子だ。そして怒るとさらに可愛くなる。一体どういう仕組みなのだろう。
「今度可愛いって言ったら、倍返ししますからね。1可愛いにつき、2いい子いい子しますから。」
「2いい子いい子?」
私がぽかんとしていると、颯斗が近づいてきた。ソファに座った私の目の高さに合わせるように腰をかがめて、両手で頭を撫でつけてくる。
「ちょっと、何なの。」
手つきが優しいので髪が崩れることはないけれど、目を合わせながら大事そうに頭を撫でられるのは恥ずかしい。
「いい子いい子してるんです。優果、いい子だよ。いい子いい子。」
颯斗が甘い声で言いながら、丸い目を柔らかく細める。まるで子猫でも可愛がるように、ゆっくりと頭のあちこちを撫で回す。
「やめてやめて。本当に恥ずかしい。」
私は真っ赤になって、身をよじって逃げ出した。とんでもない破壊力だ。
「ふふ。優果さん、恥ずかしがり屋ですもんね。これがやだったら、もう可愛いって言っちゃだめですよ。」
颯斗が楽しそうに笑って手を放した。もう撫でてくる様子がないので、大人しく並んで座る。
「颯斗、いつからそんな小悪魔みたいなことできるようになったの・・・。」
私は唖然としていた。ピュアっ子だと思っていたら、小悪魔っ子だったなんて。まだ心臓がどきどきしている。
「優果さんのこと好きになってからですよ。意地悪なことしたくなっちゃうのは、好きだから。ごめんね、優果さん。」
颯斗がそっと手を握ってきた。
「恥ずかしがってる優果さんも可愛い。好き。」
この子はいつだって、こうやってたくさん好きと言ってくれる。私もぎゅっと手を握り返した。
「私も。意地悪な颯斗も好きだよ。」
頭を颯斗の胸に預ける。悪い子の颯斗のせいで、完全にスイッチが入ってしまった。
「ね、もっと意地悪して?」
甘えるようにささやいて、じっと颯斗を見つめた。
颯斗の手がまたもや頭に添えられた。さっきより随分熱くて、急いた手つきだ。私はうっとりと目を閉じる。
こういうときの颯斗がじつは一番可愛いのだけれど、さすがにそれは口に出さないでいる。
「あ。あの映画、いつ観に行きます?」
颯斗がテレビのCMを指さして言った。
「あれ、もう始まってたのか。早いね。」
漫画原作の推理もので、前々から「観たいね」と話していたものだ。
私たちは、カウンター席に並んで味噌ラーメンをすすっていた。ピザを作る計画は颯斗の自業自得ですっかり頓挫したので、近所のラーメン屋で済ますことにしたのだ。飲み会帰りのサラリーマンがふらっと入りやすい、味が濃くて美味しいラーメン屋。ここのチャーシューは噛むのが大変なほど分厚い。食べ切れる気がしなくて、しれっと1枚颯斗の器へと移し替えた。
「来週の木曜日どうですか?レイトショーで。」
「木曜かあ。」
たしか、桃吾と会おうと思っていた日だった気がする。まあ颯斗の可愛さを話したいだけで、別に大事な話もない。
「分かった。空けるね。」
スマホのカレンダーを見ながら答えると、颯斗が覗き込んできた。
「予定ありました?ほかの日にしましょうか。」
「ううん、いいのいいの。ちょっと友達と会おうかなって思ってただけ。」
「え、じゃあそっち優先してください。映画は金曜日にしましょう。」
颯斗が慌てて言った。優しい子だ。
「え、いいよ。あいつとの予定こそいつでもリスケできるから。映画、木曜日ね。予定入れとく。」
ささっとカレンダーに予定を入力する。この日は職場にヘアアイロンを持って行くのを忘れないようにしなければ。平日のデートは家に帰る時間がないから、仕事の格好のままになってしまう。せめてもの抵抗で髪をセットし直そう。
「優果さん。」
颯斗が少し真面目な声で呼んだ。なんだろうと思って顔を向けると、口を歪ませて颯斗が続けた。
「あいつって、誰ですか。男の人なんですか。」
「ああ・・・。」
そうだ、颯斗にはまだ桃吾のことを話していないのだった。
これまでも、付き合っている男に対して、桃吾のことを話すのはとても慎重に判断してきた。妙な誤解をされては困るからだ。なんなら、桃吾のことを話さないまま別れた男だっている。
ラーメンが伸びるのも構わず、うつむいてじっとしている颯斗を見て、この人には話してもいいな、と思った。
それは、彼の性格なら話しても問題ないだろう、という冷静な判断と、頼むから問題なく受け入れてほしい、という願望とが半分ずつ入り混じった感情だった。
私は、桃吾のことを簡単に説明することにした。
「うん、男。桃吾っていって、高校からの腐れ縁なの。高校、大学と同じで、働いてからも割と家が近くて、愚痴とか話しまくってる。もうずっと癖みたいになってて。定期的に会うの。お互いに適当に話すのにちょうどいいんだよね。」
少し言葉を切って颯斗の顔を伺う。颯斗は、じっとこちらを見つめていた。とりあえず黙って聞くつもりらしい。
「最近は、私が颯斗のことばっかり話してて、桃吾にもうんざりされてたところだし。あいつならいつでも話せるから、気にしないで。その日は映画に行こ。」
話を切り上げて、首をかしげてみせる。颯斗に言葉を発してほしかった。
颯斗は少し目を伏せて、悩むような顔をした。けれど、私をもう一度見て、微笑んでみせた。
「分かりました。映画、木曜日に行きましょう。桃吾さんのことは、今はまだちょっとだけもやもやするんですけど、優果さんの仲良しな友達だってことは分かったつもりです。」
たぶん精一杯私に寄り添ってくれているんだろう。言葉ほどは割り切れていないのが、颯斗の表情から伝わった。
ごめんね。でも、嬉しい。
眉根を寄せたまま、颯斗は「だから」と続けた。
「だから、これからも桃吾さんと会うときは教えてください。内緒にされると変に疑いそうになっちゃうので。僕、優果さんのこと疑いたくないです。好きなんです。」
そう言って横から手を伸ばし、箸を持っている私の手首をそっと掴んだ。
店内はだしや油やネギの匂いで充満しているのに、颯斗の香水の匂いばかり感じる。
私は颯斗の方を向き、にっこりと微笑んだ。
「分かった。ちゃんと言うね。ありがとう。」
それから、2人で残っていたラーメンをすすった。
やはり麺は伸びてしまっていて、香ばしいスープも脂っぽくなっていた。
颯斗と2人で食事をするのは好きだ。
でも、ラーメンは美味しく食べたかった。
◇
「それでリスケして今日になったわけか。」
桃吾がタコわさをつまみ上げて言った。
結局、2人は火曜日の夜に『酔いどれ小町』に集っていた。優果が颯斗と映画を観に行ったのは、先週の木曜日のことだ。
「うん。桃吾ならサクッとリスケ出来そうだったし。颯斗もギリギリの状態だったからさ。」
優果は少しだけ申し訳なさそうな顔をしてビールを啜る。
「ギリギリって?」
桃吾は興味深そうにたずねる。
優果は、うーん、と考えながら答えた。
「桃吾と私が会うことさ、一応いいよって言ってたけど。颯斗にしてはかなり渋ってた。私に嫌われたくなくて、とりあえず責めなかったって感じ。」
「それ、かなり正当な反応だよね。」
桃吾は他人事のように笑った。
「颯斗くんって、本当にちゃんとした子なんだね。可愛いわ。俺まで好きになっちゃいそう。」
ケラケラと笑い続ける桃吾を、優果は嫌そうに見つめる。
「桃吾には女がいるんだから、冗談でも颯斗には手を出さないで。」
「当たり前じゃん。」
「どうだか。もはや人なら何でも良さそうなんだもん。信用ならない。」
「そこまで守備範囲広くないっての。」
「いや、押されたら拒まないと思うよ。桃吾、そういうとこあるから。」
「えー?そう?」
話しながら、刺身やら煮物やらをパクパクと平らげていく。二人の会話は、食べたり飲んだりすることと等しい速度で進んでいた。
腹が空いたら器から食べ物をすくう。杯が乾いたら酒を注ぐ。相手が話したら言葉を返す。
そこには特段強い意思や考えもない。習慣のような、ごく自然なもの。
颯斗にはこの感覚を上手く説明できないだろうな、と優果はぼんやり思った。
颯斗といると、どうしたってドキドキして、甘えたり甘やかしたりしたくなってしまう。そうやって過ごす甘く濃い時間も好きだが、そればかりでは疲れてしまうのだ。
桃吾と過ごす気楽な時間は、優果に必要不可欠であった。そのことを桃吾も分かっていて、いつでも会う時間を作ってくれるのだ。
それに桃吾だって、フラフラと適当に遊んでばかりでは心もとないに決まっている。自分と桃吾は、言わば持ちつ持たれつの相互支援関係だ、と優果は解釈していた。
「優果、次日本酒いくでしょ?つまみどうする?豆腐とかならいいかな。」
桃吾がメニューを見ながらさっさと注文を固めていく。優果は「なんでもいいよ」と返した。桃吾は苦笑して、
「好き嫌い多いんだから、そんな丸投げしないの。」
と言った。
「だって桃吾は分かってるじゃん。信頼あっての丸投げだよ。」
優果は楽しげに答えて、ビールをぐいぐいと飲み干す。アルコールが喉を通ってお腹を満たしていく感覚が気持ちいい。
「やっぱり食べるなら美味しく食べたいよねえ。」
しみじみ呟くと、桃吾は「何当たり前のこと言ってんの」と不思議そうな顔をした。
「あ、桃吾さん。」
会計を済ませて『酔いどれ小町』を出たところだった。
若い女が桃吾へ声をかけてきた。長い髪をゆるやかにカールさせ、スモーキーピンクのカーディガンを羽織っている。
「今日、来てたんですね。」
嬉し気に微笑む顔を見て、優果はこの女を知っているような気がした。どこかで会ったことがある。
女と対照的に、桃吾の顔はこわばっていた。
「美衣奈ちゃん。なんで。」
「えへへ。ちょっと店長と話したくて来たんです。来週のシフト変更したくて。良かった、今日来て。桃吾さんに会えるとは思ってませんでした。」
ああ、と優果は静かに理解した。
この女はここの店員だ。以前来た時、桃吾に見とれていた。あの時は前髪を上げていたので、すぐには気が付けなかった。
そうか、桃吾はこの『酔いどれ小町』の女とも会っているのか。
優果はすっと酔いが冷めていくのを感じた。
「俺さ、ここでは君に会いたくないって言ったよね。」
桃吾は少し苛立った声を出した。
「ごめんなさい。邪魔をする気はなかったんですけど。偶然会えたから、嬉しくなっちゃって。」
女は少し申し訳なさそうな顔をしてみせたが、あまり動じていない様子だ。少し優果を見つめてから、バッグを肩にかけ直した。
「じゃあ失礼します。桃吾さん、またお家遊びに行きますね。」
きらきらと微笑みながら、小さく手を振って女は去って行った。恋をしている若い女特有の、明るさと強さ。自信に満ちた目。
優果は嫌気が差した。今自分がここにいることも、桃吾が横にいることも。
すたすたと駅に向かって歩き出した優果を見て、桃吾は慌てて追いかけた。
「優果、待って。ごめん。」
声をかけるが、優果は無表情に前を向いたままだ。桃吾は焦って説明した。
「違うんだよ。あの子、店で俺のこと見てから、連絡くれってしつこくて。優果のこととか、他の子のこととか説明したんだけど、それでもいいから会いたいってずっと言われて。」
優果は相変わらず無反応に歩き続けている。桃吾はめげずに続けた。
「それで、あの店では絶対に俺と会わないって条件出したの。シフトの時は俺行かないし、俺が飲みに行く日は店に来ないようにって。だから本当に、優果と会うときに邪魔させる気はなくて。」
唐突に優果が足を止めた。低くため息をつき、目だけを桃吾に向ける。
「別にいいんじゃない。桃吾がどこで誰と会っても。好きにしたらいいじゃん。」
そしてまたすたすたと歩きだした。桃吾はしばし立ち尽くしたまま、呆然としていた。
それ以降、桃吾のもとに優果からの連絡は来なくなった。