すききらい(1)
「これ、食べないのか?」
誠二はいつもそう言って私の皿に残った食べ物をさらっていく。
嬉しそうに、誇らしげに。それが自分の役目だとでも言うように。
たしかに私はセロリが苦手だ。だから残していた。でも、それはあなたに食べてもらいたかったわけじゃない。
自分の皿にあったものが、目の前の男の口の中へと消えていくのを、私は苦々しい気持ちで見ていた。
「優果はほんと、食べられないものが多いよな。」
人の食べ物を噛み砕いた口で、男は得意げに笑う。私も微笑んだ。
「いつもありがとね、誠二。」
その夜、私はこの男にさよならを告げた。
◇
「それで、誠二くんと別れちゃったわけかあ。」
「仕方ないでしょう。もう無理、って思っちゃったんだから。」
優果はあっさりと言って卵焼きを取り分ける。
平日の夜、サラリーマンがうろつく飲み屋街の一角にある、こじんまりした居酒屋『酔いどれ小町』。仕事終わりの1杯を飲みながら、優果は近況を報告していた。椅子に座れることと、個室であることと、価格帯のわりに酒の種類が豊富なことが気に入って、2人で会う時はよくこの店を使っている。
「優果の好き嫌いは今に始まったことでもないのに。」
「それはそうだけど、嫌いなものをわざわざ食べてあげる姿勢っていうか、食べてあげる自分はおまえにとって有難いだろう?みたいな、そういうスタンスがね。やっぱしんどいなって思って。」
「ふ。優果らしいね。」
誠二と別れてからまだ1週間ほどしか経っていないが、優果にとってはすでに懐かしい思い出として風化しつつあった。
「桃吾、これもう1個いける?」
箸で皿を指し示しながら、近況報告の相手である男へ首を傾げてみせる。
「じゃ、貰おっかな。」
優果の向かいに座っている男は、取り皿を少し動かして卵焼きを受け取った。
「桃吾はどうなの。あの子と。」
「あの子って、ミキちゃん?マイコ?」
「知らないよ。この前、なんか一緒に熱海行ってくるって言ってた子いたじゃん。」
「あー、あれ結局行かなかったんだよね。」
桃吾はへらりと笑ってジョッキに口をつけた。
「ちなみに、あれはユイちゃんだね。」
「あ、そう。」
優果はどうでも良さそうに相槌を打つ。桃吾はいつも適当なので、今更リアクションすることもない。
「熱海に行く前に別れたってこと?」
「平たく言うと、そういうこと。」
相変わらずヘラヘラしながら、桃吾は枝豆を口に放り込んだ。釣られて優果も枝豆に手を伸ばす。
「彼女のことは、気に入ってるのかと思ってた。」
青々としたサヤを指でなぞりながら、優果が呟く。桃吾はうーん、と微妙な顔をした。
「気に入ってるというか、気が合うなあとは思ってたよ。映画とかの好みも合うし。そういうのって、癒しになるじゃん?」
優果は思わず顔をしかめた。
「なにそれ、私への当てつけ?」
「違う違う。」
桃吾は手を振って楽しそうに笑う。
「優果とはたしかに映画とか全然好み合わないけどさ、それはそれじゃん。」
「癒されなくてもいいと?」
「優果だって、俺に癒しなんか求めてないくせに。」
「まあね。癒されたかったら、家でゴロゴロしながらひとりで呑んでるし。」
なんとなく2人同時にジョッキに口をつける。
「それでも、ちょっともったいなかったんじゃない?」
優果は頬杖をつき、会話を続けてみせる。メニューを開いていた桃吾は、そう?と言って店員呼び出しボタンを押す。
「でも、ユイちゃんと会ってる時からマイコとも遊んでたし。ダメになったらダメになったで仕方ないなあって思ってたよ。」
穏やかな顔で、どうしようもない発言をする。桃吾は本当にこういう男だった。
「いい加減そういうのやめたらいいのに。」
優果は呆れた顔をして、残っていた生ぬるいビールを一気に飲み干した。
静かに戸を引いて店員が現れると、桃吾がサラサラと酒の名前を告げた。その横顔に店員の女が見惚れていることを知ってか知らずか、「優果もおんなじでいい?」と桃吾はこちらへ微笑みかける。
優雅な笑顔をつかの間睨んでから、優果はにっこり微笑み返して「私は梅酒ロックにします」と宣言した。
毎度のことながら、その日も二人でだらだらと食べたり飲んだりしながら話し続けていた。
桃吾はあまり話すことがないので、優果の文句や愚痴に相槌を打ったり、意見を求められたら答えたりして、のんびり酒を飲むだけだ。これも2人にとってはいつもどおりだった。
「最低限許せる相手を選んでるわけよ。いつも。なんならちゃんと素敵だな、かっこいいな、とも思えてるわけ。だから付き合うの。」
優果は若干据わった目をしながら口を尖らせる。
「なのに、付き合いだしたらどんどん嫌なところが見えてくるの。ボロが出てくるのよね、相手も気を抜くから。別に、もっと気を遣えとか言いたいわけじゃない。気を抜いても構わない。ただ、幻滅させないで欲しいっていうか。」
「それ、誰のこと言ってるの?誠二くん?」
「みんなよ。誠二に限らない。ここ最近の男たちに思ってること。」
「ここ最近の、ねえ。」
優果は男と長続きしない。誠二とは1年弱、その前の男も半年程度だった。それより前の男については、桃吾はもう覚えていない。何かあるたびに呼び出されているので、話は聞いていたはずだが。
「やっぱり私が望みすぎてるってことなのかなあ。」
「望みすぎってことはないんじゃない?まあ、俺から見たら、よくそんなに期待と幻滅を繰り返せるなあとは思うけどさ。」
「好きで繰り返してるわけじゃないですー。というか、桃吾は期待しなさすぎ。女なら何でもいいと思ってるんだから。」
「え、俺?」
突然話を向けられて、桃吾は面食らった。
「そう。あんた。顔がいいから女はいくらでも寄ってくるものねえ。来るもの拒まず去るもの追わず。始めから関係性を維持する気がないんだから。」
優果は軽く睨みながら、グラスに口をつける。
「珍しいね。優果が俺に説教するなんて。とっくに呆れて、諦めてるかと思ってた。」
「呆れてるし諦めてるわよ。これは説教じゃなくて、ただの愚痴。」
「俺の愚痴まで俺に話す気?」
桃吾は鯖の塩焼きをつつきながら笑う。今日の優果はいつもよりタチが悪い。
「桃吾以外に誰が聞くの、こんな愚痴。」
拗ねたように優果は呟く。目を伏せていると、まつげの長さが強調される。少し乾燥した指で、グラスの水滴をスルスルとなぞっていた。
こういうときの優果は可愛いんだよな、とぼんやり思いながら、桃吾は鯖の塩味を噛み締めた。
結局その日は3時間ほど店に居座った。個室だったので分からなかったが、他の客はほぼいなくなっている。
「お会計お願いします。」
レジで声をかけると、厨房から女の店員が出てきた。注文を取っていたのと同じ、若い女だ。アルバイトを示すバッジを着けている。大学生だろうか。つるんとしたおでこが初々しい。『酔いどれ小町』は頻繁に利用しているが、今まで見たことの無い店員だった。
席で優果から事前にお金は預かっているので、桃吾はさっさと2人分の金額を出す。なんとなく面倒くさそうな予感がして、早く立ち去ろうとしたのだが、案の定、店員に声をかけられた。
「あの、ご一緒に来ていた方、カノジョさんですか?」
こちらの顔を窺いながら、少し作ったような声で訊ねる。
桃吾は内心舌打ちをしたが、キュッと口角を上げて微笑む。
「いえいえ。昔馴染みで。」
「そうなんですね。」
この事実を伝えると、いつも女は顔を輝かせる。それが嫌で、一時は勝手に恋人だと答えていたこともあるのだが、ある時優果にバレた。「要らない恨みを買いたくないからやめて」と睨まれては、もうこの手は使えなかった。
その後、店員は小さく畳んだメモを手渡して、連絡を待っているとの旨を囁くと、恥ずかしそうに奥へ引っ込んでいった。お決まりの流れである。
外へ出ると、夏の終わりの心地よい風が吹いていた。優果は髪を風に流しながら、ペットボトルの茶を飲んでいる。自販機で購入したらしい。
飲む?と目顔で聞かれ、桃吾はペットボトルを受け取った。冷たくてほの甘い烏龍茶に、体の内側から洗われた心地になる。
「電車だよね?」
駅に向かって歩きながら、優果が訊ねる。
「いや、今日は歩く。」
桃吾が答えると、優果はあれ、と首を傾げた。
「この辺に会ってる子いるっけ?」
「隣の駅前のバーにいるって連絡あってさ。そこで合流してくる。」
「ふうん。まあ、ここの店がバレないならそれでいいんだけどさ。」
『酔いどれ小町』は優果が定期的に桃吾を呼び出す店だ。他の女と鉢合わせることがないよう、お互いに細心の注意を払っている。
優果はあの店を料理や価格帯で気に入っているようだが、桃吾は店員が中年ばかりで、さらに女性が少ない点を気に入っていた。知っている女であろうが、知らない女であろうが、ゆっくり話しながら酒を飲むときには避けたい存在だ。端的に言えば、邪魔なのだ。
それなのに。
その矢先にあのアルバイトの娘である。
桃吾は小さく溜息をついた。こちらから連絡するつもりはないが、これだけ通っている店だ。避け続けることは不可能だろう。
優果に言ったら確実に機嫌が悪くなるし、しばらく連絡もくれないかもしれない。どうしたものかと思いながら、桃吾は優果と別れ、馴染みの女の待つバーへ向かった。