その1
足を一歩前に出す度に、水を大量に含んだ腐葉土がびしゃりと音を立て、靴が濡れた時特有の嫌な感覚をシオンの足に伝える。これは、ここ連日降り続いた雨の……というよりもはるか頭上で鬱蒼と生い茂る青々とした木々の葉のせいだろう。年がら年中、日中夜問わず日光を遮断する葉の屋根は土の乾燥を防いでいた。更に漂う空気は、顔に付けた防塵防毒ガスマスク越しにでも分かるくらい湿り切っていて、この森の不快指数を高めるのに一役買っている。何という名脇役だろう。許されるならば助演男優賞をくれてやりたいほどだ。
「ぐえぇ……カビそう……」
とはいえそれはそれ、これはこれ。纏わりつく湿った空気の不快な感覚に彼の口からそんな文句が誰に言う訳でもなく吐き出された。だが返ってきたのはコー、ホーというガスマスク越しの呼吸音だけ。そんな分かり切った事をほざくな黙れという無言の意思表示。
こういう時のクリスは大体機嫌が悪い。特に呼吸が制限され、大荷物を背負っているのであれば尚更。次に同じような事を言えば言葉の代わりに拳か蹴りが飛んでくるのは過去の経験から分かる。ともあれクリスが不機嫌なのは良い、いつものことで片付く。問題なのはソフィアだ。こういう場合は慰めてくれるものなのだが……
「じめぇ……じめじめぇ……」
先程からずっとこれ。ずっとじめじめ。
ボリュームがある髪は湿気を吸ってボサボサ。いつもニコニコしている顔は、2人と同じく付けたガスマスクで見えないが確実にそうではない事を全身で表していた。漂う哀愁は散歩中に不意の大雨に打たれた犬そのもの。
「あー……ソフィアさん、大丈夫っすか?」
返事はない。ただじめじめとだけ。
コー、ホー。じめじめ。まさかの意味のある言葉を吐いているのがシオンだけという異常事態。とはいえ話す(話せる)相手が居なくなった事で1人で延々と喋り続ける訳にもいかず口を閉じた事で画一化される。つまりガスマスクを付けた怪しげな3人組にランクアップ。不審者もいいところだ。
通報されれば職質待ったなしの行列は、運良く誰に見つかることなく、これ以上事態をややこしくするような事は何も起こらず目的地に辿り着いた。そこには今回の依頼対象である3メートルほどの牛頭人身の怪物であるミノタウロスの死骸が地面に横たわっている。だが、普通の状態ではない。それは今回、掃除屋の面々がわざわざガスマスクを着けて、馬車で2日もかかる隣国の森にいる理由でもあった。
「う、うわぁ……」
かろうじて残る皮膚にはカビのような白いふわふわとした綿状のもので覆われ、手足には菌糸を纏っていた。これだけでもだいぶショッキングだが、まだマシな方。顔面の肉と共に両目は腐り落ち、本来右目が有るべき眼窩からは毒々しい色のキノコが数本生えていた。その姿は言われなければ元がミノタウロスであったとは想像もできないだろう。
「……酷いわね」
それを見たクリスが久々に口を開く。
彼女がイライラを忘れてしまうくらいに死骸の状態は酷い。カビに蝕まれ、通常よりも更にグロテスクな姿に。少なくともシオンの脳裏にしばらくキノコと牛肉は食べたくないな。そうぼんやり浮かぶ程度には。
「シオン、触ってみ」
「このグロいのを? それともお前のその平たい乳か? 両方いや——いだだだだだだだだだだだ!!」
言い切る前にクリスはシオンの腕を背中側に引っ張り、捻りあげて肩関節と腕を極めた。それはハンマーロックと呼ばれるサブミッション・ホールド。タップは許可されていない。今はタオルを投げてくれるセコンドもいない。じめじめしてる。あと少し引っ張れば折れるだろうギリギリの加減なのは最後に残っているであろう彼女の理性のおかげだろうか。
「あだだだだだだだだ!? お、折れるゥ!!」
「シオン、触ってみ」
先程と同じセリフを、先程と違い無感情で機械的にもう一度告げられた。これは次にふざければ機械的に、流れるようにお前の腕を折るという事実上の宣言でもある。
「わか、分かったァ! 分かりましたァァァ!」
シオンが悲鳴にも絶叫にも似た声でそう吐き出すと同時に解放され、そのまま尻を蹴飛ばされた。なら早くしろとのことらしい。痛む尻と肩を交互に摩り、ポケットに入れていた使い捨ての手袋を着けてから渋々カビだらけの死骸に手を伸ばす。
ぶわり、と手袋越しに嫌な柔らかい感覚が伝わる。かつて筋骨隆々でガチガチだったであろう肉体は見る影も……いや、触る影もない。
「状態はどーよ?」
「ぶよぶよで、やわくて、気持ち悪い……」
「骨はー?」
骨の状態をチェックしろという命令を含んだ言葉に従い、腐った肉を適当に剥がして露出した骨を軽く叩くが、肉体とは違いとても堅い。
「骨密度が高く、とっても健康そうな骨ぇ……」
「あぁ……ノコギリ使わないとバラバラに出来なそうね……」
こんな状態ではいつも使う業者ですら買取拒否される事は目に見えている。肉体は。
なので骨だけを分離しなければならないが正直触りたくない。なら、残されている焼却……なのだが、このサイズでしかもカビだらけ。バラバラにして何かで覆わなければ運搬も難しい。恐らく関所で引っかかるだろう。
「そういや、前に使ってたアレ……ほら、あの古井戸にいたバカでかいラミアぶった斬ったアレ。えー、なんだっけ……春場所? みてーな名前のヤツ使えば良くね?」
「春場所? ラミア……あぁ、ハルバードね。無理よ。つーか、それ以前に持って来てないわ」
シオンが発した意見はかつて半人半蛇から半人と半蛇に分たれた魔物が如く、思考の余地などなくほぼノータイムでバッサリと切り捨てられる。
ハルバード。長さ2メートル、重さ3メートル。先端に槍は斧を合わせたような形状をしており、斧頭の反対には鉤爪にも似た突起がついている巨大な武器だ。その形状を活かして斬る事はもちろん、突く、突起で引っ掛ける、鎧や武器など硬いものを重量に任せて砕くといったことも可能だ。だからこそ、この骨もノコギリで地道に斬るより一気に肉体ごと砕いてしまえば早いのではないかと思ったのだが。
「えー、なんでー?」
魔の抜けた問いかけに思わずクリスは溜息を吐く。お前はこんな事にも気付けないのか、とでもいいたげだ。
「だって、その骨があんたの頭蓋骨の中身みたいにスッカスカなら良いけど、見た感じ……まぁ、せいぜい砕けて1、2本が良いところ。それ以上はハルバードが使い物にならなくなるわ」
理解できた?このノータリン。と、いつものように余計な一言を付け加えられたがとりあえず春場所……もといハルバードが使えない事は空っぽの頭でも難なく理解できた。ついでに、このじめじめした空気の悪い空間に長時間滞在しなければならない事も。
「うへぇ、地道に砕いて斬ってかぁ……めんどくせーなぁ……」
そんな苛立ちと共に死骸を軽く引っ叩いた瞬間、ぼふんと何かが爆ぜる音と共に胞子らしきものがシオンに浴びせられた。
「うおっ!?」
とはいえガスマスクを着けているおかげでそれを吸い込んだ訳ではない。が、服や髪に纏わりついたような気がして気持ちが悪い。
「何バカなことしてんの?」