その1
「あああぁぁぁぁぁぁ!?」
森を掛ける馬車のキャビンの中で1人の男が叫ぶ。その傍らには2人の人影。
「ヤバいって! あれマジヤバいってえええぇぇぇぇ!!」
「うっさいわ! ちょっと集中してんだから黙んなさい!」
1人は馬を操る少女。彼女は騒ぐ男に怒号を飛ばしながら乱暴に、だが転倒しないよう慎重に手綱を握っていた。
「おやおや、怖いんならお手手を繋いであげようねぇ」
「そうしていただきたいのは山々ですがぁ!ただいま出来る状況ではありませんのでぇ!」
1人はこんな状況でありながら動じず、おっとりとした喋り方な少女。年季の入った口調ではあるがこの中では最も見た目は若い。
「うるせえっつってんだろうがこのボケェ!! この場で強制降車させてやろうか!? あ゛ぁ!!」
「テメーの運転が荒っぽいからだろーがぁ!」
この珍走団が如く走る奇妙な3人組を乗せた馬車は目的地は定まっていない様で、男が言った通りの荒い運転でとにかく前へ前へ進んでいく。
————確かに目的地は定まっていない。
「ねぇ、シオンちゃんにクリスちゃん?」
「何ですかソフィアさん! 今ちょっと忙しいんで後にしてもらえます!?」
男と馬を操る少女——シオンとクリスの言い争いの最中、不意におっとりとした少女——ソフィアの少しばかり焦った様な声が飛んできた。
「あー、うん、そうしたいんだけどねぇ……もう並走してきとるよ? あのお人形さん」
「ふぇっ?」 「はい?」
ソフィアの声で呆然とした2人の喧しい声が止むと、馬の足音に紛れてドスドスという大きな音が右手側から聞こえる。
固まった2人がゆっくりと音の方向に視線を向けると、馬車よりも大きくマッシブな藁製の人形が全力疾走しながら3人に頭だけを向けて見つめていた。人形であるため表情から感情を読み取ることはできないが、シオン達に強いプレッシャーを掛けているのは間違いない。
————確かに目的地『は』定まっていない。しかし目的はある。追って来るこの藁人形からの逃走だ。
「「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!?」」
藁人形を見たクリスは速度を上げるために馬車に強く鞭を入れる。が、どうやら馬は限界らしく嘶くばかりで速度は変わらない。
「オイオイオイ! 追いつかれとるやん!! 追いつかれてますやん!! 」
「ンな事言われんでも分かってるわ! おいおいおいおい喚くな! あと、そのうっざい喋り方も止めろや!」
「仲良しだねぇ〜」
最終的に「死ねッ!」「テメェが死ね!」という非常に低レベルな言い争いに発展するであろう会話を見て、何故かソフィアがほっこりしている。
「元はと言えばアンタが……きゃっ!?」
「うおっ……な、何だ?」
「おっとと……」
このカオスな状況に、そんな場合では無いと言わんばかりと文字通りに一石投じたのはいつの間に拾ったのか大きめの石を複数持った藁人形だった。無視されていたからか、進展しない状況に苛立ったのか、はたまたこの三文芝居に飽きたのかは分からない。ただ1つだけ分かるのは投げ付けられたそれには明確な害意が込められていることだろう。
「クソッ……シオン! ソフィアさん! しっかり掴まってて!」
クリスが叫ぶ。2人の様子を確認することなく、「多分、この先には」と何かのタイミングを測っていた。
「うん、分かったよぉ」
「えっ、ちょっ、ちょっと待って……」
それに答える様にソフィアがまだ壊れてない壁をしっかりと掴む傍らで何を掴む事なくただわたわたとするシオン。その間も投石は終わらない。運良く馬や彼らには当たっていないが、キャビンを覆う幌が穴だらけになっていく。
誰かに当たる、もしくは馬に当たり走行不可能になるのは時間の問題だろう。
「よし今! 行くわよ! せぇのっ!!」「ちょっ————」
だが、そうなる前にクリスは茂みに突っ込み、それと同時に思い切り手綱を引いた。いきなりの減速指示に馬は前足を上げて対応しようとするが、トップスピードからすぐには止まれず、木々をかき分けながら進んでいく。
それは馬車を追っていた藁人形も同じだ。急減速に対応出来ず、更には悪路により足を奪われたのだろう体勢を崩し、大きな音を立てて転がりながら馬車を追い越して茂みの奥に消えていった。
「止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれッ!」
「お願い止まって……」
クリスの必死の停止指示が効いたのか、はたまたソフィアの悲痛な祈りが届いたのか馬車は何とか茂みを抜ける前に止まった。
「ふぅ……2人とも無事?」
「だ、大丈夫……」
クリスの呼び掛けにソフィアは少し安心した様にそう返した後に「ただ」と前置きをしてから続ける。
「このままだとあのお人形さんが追って来ちゃうんじゃないかい?」
「あー、その辺は大丈夫ですよ。だってこの先は……」
詳しく答えるよりも見た方が分かりやすいと言わんばかりに、馬車から降りたクリスは茂みを掻き分けて進んでいく。
「あぁ、なるほど」
茂みを抜けた先にあったのは小さな泉。夕焼けを受けてキラキラと輝く水面は少しだけ揺れているため、姿こそ見えないがあの藁人形はおそらくここに落ちたのだろう。全身を構成する材質は藁であるため、水を吸えばまず浮かばない。
「はぁ……もう日も暮れかけてるし、危ないから作業中断ね。あぁ、もう。ボスにどやされる……」
「どうしてくれんのよ」と言いかけた瞬間にクリスはある事に気付く。振り上げた拳をぶつける相手の不在だ。
「あれ? シオン、どこ行った?」
「ん? おやまあ、そう言えばおらんねぇ」
2人は姿を消したシオンを探すように辺りを見渡すと『それ』を見つけた。
「あ……あ、あ……たす……け……て……」
『それ』——鋭く、太い木の枝に腹部を貫かれ、口から血を吐き出したシオンの無残な姿を。
意識と体温が流れる血に混じり消えていく焦燥感と仲間に助けを求める事しかできない無力感に蝕まれながら、シオンはどうしてこうなってしまったのかを走馬灯のように思い返していた。