遠い背中
優しい風が金木犀の香りを運んでくる季節。彼は私の少し前を歩いている。
手を伸ばせば彼に触れられる距離にいるはずなのに、その背中は遥か遠く彼方にあるように感じられる。
遠い。遠い。
「美香菜」
呼ばれた自分の名前に、目線を影から顔へと移す。
「な、なに?」
「そろそろ帰るか」
「う、うん」
返事を返すと同時に再び目線を影へと戻してしまう。目線を逸らし側に見えた彼の表情は、穏やかに微笑んでいたように見えた。
あぁ、何て優しいんだろう。きっと彼は気づいている。全部。全部。
その優しさにふと、泣いてしまいそうになる。
××××××××
どれくらいの時間歩いたんだろう。お互いの家に着くまでそんなにかからないはず。なのに、1時間も2時間も歩いているような感覚で、彼との距離も一向に縮まらない感覚。
でも。それでも、今日言うって決めたんだ。だから。だから絶対に。
「・・・文也くん」
「ん?なに?」
「あ・・・えっと・・」
『・・・・・』
彼の目を見ると、何も言えなくなる。言いたい言葉が。伝えたい一言が。
「・・・優しくしないで」
ふっと彼には届かない小さく絞りでた言葉が音になる。
「どうしたの?」
彼の優しさに、グッとスカートの裾を強く握りしめた。
一瞬。一秒にも満たない間が、今まで過ごしてきた私たちのどんな時間よりも長く感じた。
その瞬間、ドンッという大きな音と共に、沈黙は引き裂かれた。遠くで光り輝く花火。
2人はその花火に見惚れていた。
初めてだと思う。私たちは、しばらく同じ方向を向いていた。
××××××××
遠く離れて行く彼の背中が見えなくなるまで、私はずっと手を振り続けた。
いつものように家に帰り、いつものように制服から部屋着に着替える。今日は疲れたからすぐに布団に潜り込んだ。
布団にうずくまりながら、ふと気づけば涙が止まらなかった。ひたすらに、無意識にただ、頬をつたう感覚と、気づけば心が苦しくて仕方がなかった。
文也くんは私をみてなんか無い。そのことが、痛いほど、苦しいほど伝わってきた。私よりずっと遠く、もっとずっと遠くの何かを追い続けている。
それでも。それでも私は、明日からも、どんな日だろうと。何をしていようとも、文也くんのことをずっとずっと考え続けるんだと思う。
文也くんのことを強く思いながら、私は眠った。