ある貴族の朝
ニートを目指す者の朝は早い。
俺、前世名、田中翔太こと、現レオナール・エルダードは今年13歳になった。
一般的な貴族の子息であれば、そろそろ将来のための準備を始める時期だ。
長男であれば、父の添え物ではなく、一人の男としての社交界デビュー。
次男も似たようなものだろうか。
三男以降だと、王宮や他の貴族に仕えるために貴族の子息が通う、王国幼年学校へ入学するのが一般的か。
国境付近の貴族だと騎士学校へ行くかもしれないな。
俺? 俺はまだそんな話は出てない。
これまで通りに本を読み、適当に日々を過ごしている。
もう既にほぼニートみたいなもので、人生の目標達成にリーチがかかっているような状態だ。
とは言え、まだ将来が決定していない以上、ここで油断する訳にはいかない。
俺は朝早くに起きて、軽く体操したのち、屋敷の周りをランニングし始めた。
ラジオ体操って生まれ変わっても覚えてるもんだな。
貴族には最低限の戦闘能力が求められるらしいので、俺も幼少から剣と槍の訓練を受けさせられていた。
この世界の訓練は素振りを除けば、基本的には実戦あるのみ。
勿論模造刀に模造槍なのだけれど、金属の刃でないってだけで、普通に痛い。
そんな訓練についていくためにも、俺は体力を強化するべく、数年前からランニングを始めているんだ。
というか、ランニングが訓練って概念が無かったんだよな。
ただ走るだけなんだから、地球でも昔からあったと思うんだけどどうだろう?
この世界が特別なのか、それとも地球でもそうなのか。
残念ながら今の俺にはもう調べる術は無い。
さておき、訓練についていくための体力強化の他に、体型維持も考えてのランニングだ。
この世界、というかこの国、別に太っている方が魅力的、みたいな文化がある訳じゃない。
モテる男の体型は所謂細マッチョだ。
まぁ、貴族の子女向けのお伽噺や英雄譚に登場する、王子様や勇者様は、基本的にスリムな体型のすっきり爽やかなキャラクターが多い。
そんな環境で育てば、当然年頃の女性が好む体型も自然とそうなって当然だった。
他に娯楽も少なく、情報のやり取りもしにくい文明なら尚更だな。
俺は一応貴族なので、そのうち政略結婚で嫁が貰えるだろう。
だから、殊更モテようとする必要は無いんだけど。
まぁ、ね。
仮面夫婦ってやっぱり想像だけでも嫌じゃない。
側室を持つにしても、それこそモテる必要がある訳だしな。
側室も政略結婚? 三男坊にそんな話来るわけないじゃん。
いや、まぁ来ないとも限らないけどさ。
正室も側室も愛の無い生活とか悲し過ぎるわ。
武術の訓練に関しても、ここ二十年近く戦争が起きていないから、ほぼ嗜みみたいなもんだからな。
受けたくないなら受けなくても問題無い感じなんだよな。
一応、毎日少しくらいは訓練を受けるけどさ。
痛みを伴う武術訓練よりは、ランニングや筋トレで体型維持した方が楽だよね。
本当は屋敷の外を走りたいけど、流石に許可が出なかったので、屋敷内をグルグル回るだけ。
怪我をしたスポーツ選手が、復帰に向けてひたすらランニングを続けた結果、球場の芝生がその部分だけ剥げてしまって道ができた、という話を聞いた事があるけれど、うちの屋敷も似たような事になってるんだよな。
庭師に文句を言われたのもいい思い出だ。
屋敷の周りを十周して、敷地内にある井戸へと向かう。
そこには一人の侍女がタオルを持って待機していた。
俺の『側付き』である、アリーシャという女性だ。
『側付き』とは、貴族の屋敷で働く使用人の中でも、特定の個人の世話を専門に行う役職だ。
基本的には歳の近い侍女が選ばれ、男性貴族につく場合、そのまま側室になる事が多い。
若い頃から行動を共にさせる事で信頼関係を築かせる事が狙いだ。
そして彼女達は、様々な思惑で集まった側室達のまとめ役を担う事となる。
だから、そもそもが『側付き』ってのは、側室を何人も持てるような大貴族の跡取りにつけられるものだった。
けれど、その習慣は時代と共に変化し、今だと多くの貴族が、長男や次男以外にもつけるようになっていた。
まぁ、今の『側付き』は見栄に近いものがあるな。
貴族の家の使用人は、基本的に格下の貴族の子息であるから、『側付き』を持たせられるという事で、それだけの権力と財力があると示している訳だ。
「失礼します」
俺が服を脱ぎ、汗をかいた肌を晒すと、アリーシャが一言断ってから、濡れたタオルを俺の体に当てた。
火照った体に冷たいタオルの感触が気持ち良い。
俺が走り終えるタイミングに合わせて井戸水を汲み、ヌルくならないよう気を使ってくれたんだろう。
そういう心配りが素直に嬉しい。
アリーシャは気の強そうな釣り目が特徴的な俺より二つ年上の女性だ。
年齢的にはそろそろ縁談でも、と言われる頃だけど、俺の『側付き』であるという事は、そういう事だと思われているから、彼女にも特にそんな動きは見られない。
俺も将来的にはそうなるつもりで接しているし、彼女からも特に嫌われてはないと思う。
真面目で献身的、俺に盲目的に従うんじゃなくて、時に鋭いツッコミも入れてくれる。
貴族の三男に宛がわれた相手としては、文句のつけようのない程良い女性だ。
もう正室とか側室とか関係無く、奥さんは彼女だけでいいんじゃないかと思っていたりする。
こういう事思っても気にされないのが、三男の気楽なところだよね。
「失礼します」
俺の肌を冷ますように、ゆっくりと、丁寧に汗を拭きとっていたアリーシャは、それに気付くと、一瞬こちらを睨んだのち、その肉厚で色っぽい唇で、優しく包んでくれた。