約束
あなたにも何処かで感じた事があるような出来事ではありませんか?!何も無い人生など有りませんもの。
長い海岸線を細い道がくねくねと縫うように張り付いていて、私達を悲劇の舞台へと運ぶ車が、砂利を踏む音を立てながら進んでゆく。私を憚って、誰も何も言葉を紡がず、重い沈黙が続いていた。
私はシートに身を預けて、どんよりと垂れ込める雲と、暗い海を眺めていた。
このもの悲しい景色の中で、母様はもう何年も独りで居たのだ。
“父様はやはり母様に腹を立て居たんだろうなぁ”何の前触れもなく、そう思った。私を不義の子と思っているのだ。その前には母の裏切りが有らねばならない。
母に責任が無い事態でも父の感情とはまた別のものだろう。
体調を崩した母を、幾ら空気が澄んだ、開放感のある田舎が適しているとしても、ここでは老婆の隠遁所の様だった。
車がサナトリウムの前に着くと、所員だろう白衣の男と、初老の看護師がまろび出て来た。ケインが先に降り所員と何か話していたが、車に戻ってきて覗き込む。
「アウル様。診療所の方は警察関係者が出入りしており慌ただしゅう御座いますので、マーヴ様がお休みのお部屋においで頂きます。後ほど、事故の報告などご一緒にお聞き頂く事に成るかと存じますが…」
「私1人で良いだろう。マーヴは寝かせて置いてやりたい」
何時もは即座に返る応えが無い。如何したのだろうと思って見ると、ケインが弾かれたように慌てて言う。
「畏まりました。御意のままに」
今度は私が言葉を失った。
たった今、私は父に代わって、第16代オルデンブルク公爵と成ったのだった。事実上はこれまでも変わらなかったのだが、意識の上で代理から昇格したのだった。
でも。
「ケイン。畏まらなくても何も変わらないよ」
「はい」
何故かこの状況で、二人とも笑っていた。肩の力の抜けたケインが、それでも明らかに子供の私にしていた所作を、館の当主に対するものに替え、膝を折って車外へと誘う。
ケインは、父母の存命中から何度かここへ来たことが有るようだった。勝手知った様子で、私をマーヴの居る、元は母の病室へと案内した。
母屋の診療所から白く塗られた渡り廊下を通って、離れに成っているその部屋へ行った。母をこの療養所に入れる際に、父が多額の寄付と共に増設させたもので、ほぼ一軒の家屋の機能を備えた作りで有ることから、父の意志が長期の滞在を前提としていた事を物語っていた。
ここが母の終の棲家であると思えば、感慨もひとしおだった。この回廊を、この窓辺を、この温室を、母は日々見て暮らしていたのだろう。
私達のことがその脳裏を掠めたことが有ったのだろうか?!。兄は母が直前まで使っていたベッドに寝かされていた。
傍の椅子には、背中を丸めた老婆がちんまりと座っていた。私達が入ってきたのにも直ぐには気づく気配もなく、ケインにはそれも判っていた事のようで、躊躇無く彼女に近づいて、トントンと背を軽く叩いた。居眠りをしていたらしく、椅子から落ちかけるほど驚き、ケインに手を取られ支えられた。
耳打ちすると言うより、声をひときわ大きくして、私を連れてきた事を告げた。どうやら耳が遠いようだった。これでは彼女に両親の日々を尋ねても無駄だろう。
明らかにこれは、父の、この離れの中で交わされる会話の内容が、外に漏れないようにとの意図に基づく人選のようだった。果たして彼女は、ほとんど両親の会話の記憶が無いと言った。私達に深々とお辞儀をして、ケインと共に部屋を辞した。
窓から射し込んでいた夕日も、今は陰り、夜の帳が近づいていた。老婆の驚いた声に目を覚ました兄が、マーヴと声をかけた私を認めて返事をしたきり、ぼうっと窓の外を眺めていた。
父に連れられて母を見舞い、2人を見送った直後に事故が起こった。
一報を聞いて倒れたきり、今まで意識が無かった。
「…アウル…父様と母様は死んじゃったんだろうねぇ…」
外を見詰めたままそう言うと、瞳からポロリと涙が零れ落ちた。
「…車ごと崖から落ちてしまった言うから…」
そう言うと、兄の頬を滂沱の涙が伝う。
「私のせいだ…」
堪えきれないように顔を覆って、夜具の上に突っ伏した。
「マーヴ!マーヴ!貴方のせいじゃ無いよ。誰かのせいだと言うなら私だよ」
「違う!父様に、お前はアウルと違うと、特別だと言われて、どうして私だけって思っておいて、何処かで嬉しく思ってしまった。父様に愛されて居るのが誇らしくて…ごめん…思い上がって…だから…罰があたったんだ!!」
激しく泣きじゃくる兄を見ていて、彼もまた深い悩みを抱えて居たのだと知った。
「マーヴは悪くないよ。私だってマーヴの立場なら同じ様に感じてた。もっと得意になってたかも知れないよ。マーヴはちゃんと、父様にどうして私を区別するの?!って、言ってくれたじゃないか」
「どうして知ってるの?!」
「貴方達が出てきた時、ドアの直ぐ傍に居たんだ」
その時父が語った内容は兄も聞いていた。双子で有るにも関わらず、父は私を自分の子供では無いと言った。尋常では考えられないような言い様を、兄はどう理解して居るのだろう。
「父様は何故私だけが父様の子供だなんて言ったんだろう?!…聞いても怒って教えてくれないんだ」
「良いよ、もう。何か訳が有ったんだろうけど、父様も母様も訳を話してくれなくなったんだし…」
「ほんとうは、兄の私がお前を守らなくては成らないのに、病気ばっかりして、泣いてばっかりで…」
「それも良いよ。マーヴはそのままで。私は父様達が亡くなって悲しいより、明日からマーヴを泣かさずにおけるかが気にかかるよ」
「そんなに何時も泣かないよ!」
ぷんとむくれて見せて、照れくささに笑う兄に私も吊られた。
「出来るだけ頑張るから宜しくね」
真顔で言って右手を差し出す兄に、少し後ろめたさを感じながらその手を握った。
「マーヴが良いって言うまで傍に居るよ。約束する」
「ほんとうだよ?!」
「うん」
マーヴごめんね。私が産まれてこなければ父様達は死ななくて済んだかも知れないんだ。罪悪感に押し潰されそうに成りながら、片隅ではとてつもない不条理でやりきれない想いも感じていた。
私には全く訳の分からない事で疎まれ、捨てられ、責任を負わされていたからだったが、世間を知るよしも無いその時は、ただただ事態に戸惑うばかりだった。
読んで頂いて有り難う御座いました。