前編
シンディ・F・レラジット男爵令嬢は、目の前に置かれたガラスの靴を睨みつけながら、ゆっくりとガラスの靴の中へと足を差し込み・・・・・踵を入れる瞬間。
足を高く持ち上げ思いっきり踏み抜いた。
玄関ホールに甲高い破壊音が響きわたり、ガラスの破片が辺りに飛び散ると、シンディの足には爪先部分だけが残ったガラスの靴が、引っかかっていた。
目の前で堂々と破壊したのだ、どう見ても故意にやったとしか思えない。
しかし、シンディは満面の笑みを浮かべ、目の前の男を見据えていた。
男は怒る素振りも見せず、無表情のまま淡々とシンディに声をかける。
「レラジット様、お怪我はありませんか?」
「大丈夫よ、でも、これでは確かめられませんわね。残念ですわ。」
静かに片付けられるガラスの靴。
しかし、目の前の男性は、後ろに控えている者から何かを受け取り、シンディの足元へ跪く。
そこにあったのは、新たなガラスの靴。
「・・・・」
「・・・・」
静まる、玄関ホール。
隠しきれないほどに顔を引きつらせているシンディと、無表情の男性。
先に言葉を発したのはシンディだった。
「あの、失礼だと思いますが、ガラスの靴はいったい何足ございますの?」
「10足ほどご用意いたしましたが、今1足分が壊れてしまいましたので、残りは9足ですね。あと18回は挑戦できますので、ご安心ください。」
「・・・・」
も一度、静まる玄関ホール。
睨むシンディ
無表情の男性
△ ▼ △
事の始まりは、1ヶ月前。
王都から遠く離れた、男爵家 令嬢であったシンディ・F・レラジットは、今年16歳という事もあり、社交界デビューをする為に、王城で開かれる舞踏会に出席していた。
今年16歳になる貴族の男女は、よっぽどの理由が無い限り、社交界シーズンの始まりを告げる、王城での舞踏会でデビューを果たすのが通例で。今年デビューする者達は、男性は黒のスーツに、若葉を表すライムグリーンのポケットチーフ、女性はライムグリーンのドレスを纏い、高揚感に胸を高鳴らせながら、会場を見回していた。
そんな中ライムグリーンのシンプルなドレスを纏うシンディは、静かに落ち着きを保ったまま、父の隣で会場内を付いて回っていた。
レラジット家は、田舎貴族ではあるものの、葡萄の名産地であり、良質のワインが作られる事で有名で、そのワインは王家の方々にも好んで飲まれるほどだ。その為、田舎貴族でありながらも裕福で、加えて、レラジット家はシンディの弟が継ぐ事が決まっている。
権力欲が無く、領民達と一緒に葡萄畑に出る様な両親は、『シンディの好きな相手と一緒になりなさい。』と、シンディの結婚に口を出す事は無かった。その為、シンディは結婚はまだ早いと思っており、出来るだけ目立たぬ様に父の側に控え、父の知人達に紹介されて挨拶する程度で、誰かに熱い視線を向ける事も無く、田舎の領地に帰る事を考えていた。
だからこそ、社交界にデビューをはたした者達を祝って、王族の方々が現れた時も、自分には関係が無いだろうと、気にしておらず。社交界にデビューする令嬢達のファーストダンスの相手は、王子が務めるのだと言われても、特に思う所は無く、中央で踊る王子と令嬢達の様子をぼんやりと眺めながら、自分の名が呼ばれるのを待っていた。
美しく着飾った令嬢達と踊る王子は、長身で、固そうな黒髪に端正な顔立ちをした方ではあったが、その目は鋭く、苛立っているのか表情は険しい。それでも、令嬢達は王子と踊れるのが嬉しいらしく、どうにか気を引こうと笑顔を王子に向けている。
高位の貴族から順に呼ばれる為、長らく待たされたシンディは、少しくらい笑ってあげれば良いのに、と思いながら、令嬢達と踊る王子の姿をぼんやりと眺めていた。
「シンディ・F・レラジット嬢。」
声高らかに名を呼ばれ、ダンスフロアに進み出ると、ドレスを軽くつまみ、玉座に座る王様に優雅にお辞儀をしてから、王子の前に立つち、今度は王子に向かいお辞儀をする。
『母の教えは、どんな知識も持っていて損は無い』であった為、田舎の男爵家でありながらも、知識やマナーは上流階級の令嬢にも負けないほどに詰め込まれており、歩く姿やお辞儀する姿は、とても美しいものであった。
お辞儀が終わると、王子は険しい顔のまま、そっとシンディの手を取り、ゆっくりと踊り始める。今日、社交界デビューの令嬢は大勢居る。その為、王子が一人の令嬢と踊るのは、とても短い時間のはずだった。
そう、はずだったのだ・・・・
「レラジット嬢、私と踊れて嬉しくは無いのか?」
踊りが始まって直ぐに、王子がシンディに話かけてきた。
踊りの最中に話をするのは、よくある事だが、初対面でしかも不機嫌である事を隠しもしない王子が、話しかけてくるとは思わず、驚いて顔を上げると、やはり不機嫌そうな王子の顔がこちらを向いている。
確かに、王子を前にしても、他の令嬢の様に頬を染める事は無かったため、淡々として見えたのだろうが、それを不機嫌そうな王子に指摘されるとは、思わなかったし、されたくも無かった。
だからシンディは、ほんの悪戯心が出てしまったのだ。
「難しいご質問ですね。本音と建て前、どちらをお聞きになりたいですか?」
その言葉を聞いた瞬間、王子の目が一瞬輝き、口元が微かに緩んだ。
「そうだな、ならば先に建て前を聞こう。」
先に、と言うことは、本音の方も聞く気なのだろう。一瞬、不敬だと罰せられないかとも考えたが、目の前の王子の雰囲気から、それは無いだろうと判断し、シンディは全力で建て前を言う事にした。
「殿下と踊れるなんて夢のようで、あまりの嬉しさに、どの様な顔をして良いのか分からなくなってしまいました。」
目を潤ませ、戸惑い、落ち着かないかの様に、視線をチラチラと王子へと向ける。
その姿は、とても偽りを言っている様には見えない。
王子は、そんなシンディを見下ろしながら、先を促した。
「で、本音は?」
シンディの顔から戸惑いが消え、目を潤ませていた涙も引っ込み、スッと無表情な顔へと変わる。
「不機嫌な相手とダンスをして、楽しい訳がないでしょう。せっかくの社交界デビューで、皆様 殿下と踊られるのを楽しみにしてらしたのに、それを無下にする様な振る舞いは、お止めになった方がよろしいかと。王子という立場なのですから、感情を隠す努力をなさってはいかがですか?」
先に本音を求めたのは王子なのだからと、飾ること無く言い切ると、王子の顔が一瞬、不敵な笑みへと変わった。それは本当に一瞬で、周りで見ている人には分からなかっただろう。
「そうか、ならば私の妻にならないか?」
「は?」
先程の話のどこに求婚される要素があったのか分からない。
「では、この返事も、本音と建て前を聞かせてもらおう。」
その言葉に、動揺したシンディの心が落ち着きを取り戻す。
要は、もしもの話がしたいのだと、シンディはそう受け取った。
「では、先程同様建て前から。」
落ち着きを取り戻したシンディは、楽しくなってきていた。普通であれば、王子に思った事をはっきりと言う事は、男爵令嬢という立場では許されない事だろう。しかし、今は言っても良いと言われているのだ。他の人々がこうべを垂れる人物相手に、思いっきり本音を言える。そう思うと、何故か闘争心が沸き起こった。
シンディは目を伏せ深呼吸をすると、顔を高揚させ、目を潤ませ、花が咲き誇るかの様に美しい笑みを浮かべる。
「そんなお言葉がいただけるなんて、私はなんと幸運な女性なのでしょう。ですが、私の家はしがない田舎の男爵家、自分の立場は重々理解しておりますわ。ですから、ご冗談で女心を弄ぶのお止め下さいませ。それに、この様な話を他の令嬢に聞かれては、殿下の格が下がってしまいますわ。」
「で、本音は?」
シンディは、無表情に戻さず美しい笑顔のまま本音を漏らす。
「女性が皆、殿下に惚れると思ってらっしゃるの?なんて恥ずかしい方なのかしら。」
王子はシンディの言葉に、途端に足を止め唖然と立ち尽くした。
それを良い事にシンディは、ダンスが終わり、交代だと示すために王子にお辞儀をし、向きを変えて国王陛下にお辞儀をしてダンスフロアを抜け、人混みに紛れた。
直ぐにフロアの方から、次の令嬢の名前が呼ばれる声が聞こえてくる。
王子が高位の貴族令嬢とダンスを始めた最初の頃であれば、皆が注目し、フロアに響くのはダンスのために奏でられる音楽だけだったのだが、令嬢達の位が下がっていくうちに、人々の興味は薄れ、話し声が徐々に聞こえ始める。お陰で、シンディが王子と踊っていた間、王子とシンディの話に耳を傾ける者はいなかった。しかし、ダンスの時間が他の令嬢より長ければ、話は別だ。
人々は談笑を止め、徐々に二人のダンスに注目し始めてしまった。その為シンディの最後の言葉はかなり小声になってしまったが、王子の耳にはしっかりと届いた事だろう。
シンディは、最後に見た王子の唖然とした顔を思い出し、上機嫌で父の元へ戻って行った。