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追跡  作者: 青柳寛之
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第九章 消したかった記憶

 蝉の声が五月蠅い夏の日の早朝。まだ眠い目を冷たい水でこじ開け、柔らかいタオルで顔を拭った。タイムリミットは、あと三枚……。須賀航一はそっと息を吐き出した。残りの三枚のうち、美術館が所有している作品って、あったっけ?

 怪盗紳士がターゲットにしている「中期の香月稔」の作品。否。中期の物に限らず、香月作品の多くは個人が所有している。“美術館が所有している作品が、極めて少ない”怪盗紳士が獲物を確実に、しかも容易く手中に収めることが出来た理由の一つである。個人が所有しているのであれば、当然セキュリティも甘くなりがちだ。また、彼は現場に個人の特定につながる指紋や毛髪などの証拠を一切残していない。怪盗紳士の検挙。あるいは、現行犯逮捕。現段階では、それは不可能に近い。

 “現場百遍”とは、時田勇作が口癖のように使う言葉だ。そうだな……。俺も“唯一の手掛かり”を改めて見直してみるか。唯一の手掛かり。それは美術館が犯行現場となった際、防犯カメラに映っていた怪盗紳士の姿のことだ。

 そして、もう一つ。和泉翔輝と牧野琴子の身辺調査。どちらかと言えば、こちらの方が急ぎだが。意外な事実ではあるが、二人の出会いは合コンやナンパではなく、ネットのオカルトフォーラムだったのだ。牧野琴子は幾つかのハンドルネームを使い分けて、系統の異なる複数のオカルトフォーラムに参加していたらしい。一口にオカルトと言っても、黒魔術系、都市伝説系、心霊現象系などのジャンルが存在する。たかがオカルトに、ジャンルとか……。航一は心底呆れた。翔輝と琴子は、同じ都市伝説系のフォーラムに出入りしていたのである。それぞれの人の顔が、人柄が見えない仮想空間の中での交流。しかも、話題の大半がオカルト。想像しただけで眩暈がしそうな、奇妙な光景だ。

 しかし。今日は怪盗紳士の方を優先するか……。何しろ、昨日報せがあったばかりだからな。かなり夜も更けていて、床に就こうとしていた矢先のことであった。諦観と失望の混ざった勇作の声が、まだ耳に残っている。オッサン、焦ってるんだろうな……。けど。調査も証拠も、まだ不充分なんだよ。怪盗紳士はポリシーを貫き、制作年代順に犯行を重ねている。ということは。最後の標的となるのは、間違いなく「無数の扉」だ。それも含めて、残りの三枚の絵画の所有者を調べておくように、勇作には頼んである。難儀を強いることになるが、やむを得ない。

 黒いタキシードに白い手袋、まるで道化師のようなシュールな仮面。これまでも捜査と推理に行き詰った時、何度も見て来た。強烈なコスプレ感を拭い去れないその出で立ちから、新たな発見はあるのだろうか。


 いつ死んでも後悔しない生き方をしたい。どんな風にして生きて行くのか。自問自答の末、茂が出した答えはこれであった。誰にでも、死は平等に訪れる。だが。多くの人々が、その現実から目を背けて生きている。戦後豊かになり、飢えることがなくなり、生活環境が改善された。また、医療が大きく進歩した今……。自分もいつかは“死”を迎える運命にある存在なのだということを、忘れはじめたのだろう。日常の生活で“死”に触れる機会が極端に少なくなったのだから、当然なのかもしれない。俺は知ってる。死とは、突然訪れるものだ。俺が七歳で交通遺児になった時、親父はまだ三十六歳だった。人生のどの段階においても、人間は常に死と隣り合わせなのだ。それは生まれたての赤ん坊であろうと、白髪の老人であろうと変わらない。だから俺は……。いつ死んでも後悔しない生き方。

 生への執着と、死への諦観。早過ぎる父親の死という憂き目を見た茂の脳裏には、この相反する概念が同居していた。そうさ。いつ死んでも後悔しない生き方とは、換言すれば、いつ死んでも後悔する生き方ってことなんだよ。

『明日に延ばしてもいいのは、やり残して死んでも構わないことだけだ』

 これって、ピカソの言葉だったよな。至言だと思う。至言ではあるが、現実的ではない。成し遂げたいと思っていることを、すべてやり終えて死ぬことの出来る幸せな人間など、一人もいないのだから。

 そんなことを考えていると、玄関先から伯母の声がした。

「茂。いるんでしょ?上がるわよー」

 この伯母はいつも突然訪れて来て、ずかずかと家に上がり込んで来る。図々しくもあるが、明け透けで裏表のないこの人が、茂はけして嫌いではなかった。

「おば……、師匠。来る時は連絡を寄越せって、俺、度々言ってますよね?」

 茂は軽くため息をついた。この母の姉には、何を言っても馬耳東風であった。頭に入らず、右から左へと抜けているのだろう。そして“伯母さん” と呼ばれるのを、極端に嫌った。だから“師匠”と呼ぶことにしたのだ。茂に投資や資産運用のノウハウを叩き込んだのはこの人なので、あながち間違った呼称ではない。……はずだ。それが、毀誉褒貶を含むものだったとしても。

「いつ来られるかわからないんだから、仕方ないでしょ」

 そう言うと、彼女は持参した大きな紙袋をテーブルの上に置いた。訪ねて来る時にはいつも“作り過ぎたから”と言って、惣菜や菓子を沢山持って来る。少し褒めると調子に乗るので、味に関するコメントは敢えてしない。

「俺、もうガキじゃないんだからさ、菓子は要らないよ」

 聞く耳を持つ人ではないが、一応釘を刺しておく。これも、何度か言ってますよね?

「真希ちゃんは?」

 案の定、聞いていない。

「部屋にいるはずだよ」

「ちょっと顔、見て来るわね」

 と言い残して、師匠は居間から出て行った。

 それでも……。いないよりは、マシか。師匠がテーブルの上に置いた紙袋の中から、惣菜や菓子が入ったタッパーを取り出しながら茂は苦笑した。“作り過ぎたから”というのは方便で、差し入れをするために多めに作ったことは見え見えだ。

 父が遺した少なからぬ遺産。貯えを切り崩しながら、爪に火を灯すように暮らす母と子を不憫に思ったのか、師匠はまだ幼かった茂に資産運用のイロハを厳しく教えた。素質があったのだろう。茂は乾いた砂に水が滲み込むが如く、彼女の授けた知識を吸収していった。そのお蔭で、高木家は傍から見るよりも遥かに裕福であった。茂の父は勘当されており、父方の親戚とは一切交流がない。茂にとって、この伯母だけが親身になってくれる大人だったのである。けど。俺と師匠が親戚だなんて、涼葉や須賀にバレたら恥ずかしいよな……。


 文化祭と体育祭を一年交代で実施する涼葉たちの通う高校では、今年は体育祭が行われる。二学期が始まると同時に、早速、生徒たちは準備に追われることになった。航一はその合間を縫って、和泉翔輝と牧野琴子の身辺調査をしていた。

「須賀くん。危ないこと、してないよね?」

 いつものように四人で弁当を食べていた時、涼葉が表情を硬くして訊ねた。

「してねえよ。やばいと思った時は、高木かお前を連れて行くから心配するな」

 航一は残りの弁当を掻き込むと、

「あまり眉間に皺を寄せると、取れなくなるぞ」

 と言って、笑って見せた。

 何かがこう、引っ掛かるのよねえ。かつて、須賀航一の身に命に関わる危険が近付いていた時に感じた胸騒ぎ。それとは似て非なる胸のざわめきを、涼葉は感じていた。そこはかとなく不安が漂う。この感覚は、一体……?しかし。この感覚の正体がわからない今は、私は私に出来る事をするしかない。師範は、また稽古をつけてくれるかしら。結局、涼葉が行き着く場所はそこなのだ。温厚な師範の笑顔が目に浮かぶ。

 涼葉は、航一の隣で静かに箸を動かしている親友の顔色を窺った。美波を悲しませることなど、出来ない。清楚で愛くるしいその横顔は、涼葉の決意を新たにさせた。同時に、不思議なものを見たような気がしたのだ。凛呼とした仮面の下に隠された、恐れと不安。思わず漏れてしまった、吐息。一瞬ではあったが、涼葉が初めて目にした美波の弱さだった。強気でクールな美波を思いやり、涼葉はわざと気付かない振りをした。だが、不満でもあった。美波……。もっと私を、頼ってくれていいのよ?


 和泉翔輝が「SYO」というハンドルネームで、都市伝説系のフォーラムに出入りしていた。その事実に、航一は疑問を払拭することが出来ずにいた。妙だな。俺の知っている和泉翔輝は、科学で証明出来ない事象をすべて否定する、医者の卵だったはずだ。僅か数年で、人格がガラリと変わってしまうほどの衝撃的な出来事があったのなら、話は別だが。あの様子では、そんなはずはないか……。航一は、海水浴場で人目を忍んで情事を堪能していた和泉の、満ち足りた表情を思い出していた。とにかく、オカルトフォーラムの過去ログを見てみよう。何か手掛かりが掴めるかもしれない。

 放課後、航一は茂を誘って図書館へ向かった。特に理由などなく、涼葉が茂の誘いを断っている場面を見かけたので、それならば、と声をかけたのである。

 校門を出てしばらく歩くと、繁華街へ出た。背丈がまちまちな雑居ビルが立ち並ぶ。アスファルトの上を陽炎が揺らめいたように見えたのは、錯覚だろうか。その、風情のない渇いた景色の少し先に図書館がある。

「あれっ?」

 二人は、意外な人物に出会った。残暑厳しい折にも、彼は例の頭巾を被っていた。北白河士元だ。大きな包みを脇に抱えている。彼もこちらに気付いたらしく、

「お久しぶりです」

 と、丁寧に頭を下げた。立ち居振る舞いが、優雅で上品だ。この人が、あの和泉翔輝の再従兄弟とはねえ……。士元さんの爪の垢を煎じて、和泉に飲ませたい。航一は思った。

「北白河さんのような良家のご子息でも、こんな繁華街に来られることがあるんですね」

 航一よりも先に率直な感想を述べたのは、茂であった。士元は、当惑を隠せずにいるような声で、

「ええ。ここには、僕が懇意にしている画商の店があるんですよ」

 と、穏やかに答えた。頭巾が邪魔をして、その表情まではわからない。しかしその声は、けして気を悪くしている風には聞こえなかった。

「絵を……、買われたんですか?」

 航一は、士元が脇に抱えている包みを一瞥した。

「部屋に飾る絵が欲しいと思っていたので、一枚買ったんです。僕の好きな画家の作品なので、買えて良かったですよ」

 “好きな画家”という言葉に、引っ掛かりを覚える。確か、北白河士元の好きな画家の中に「香月稔」は入っていなかったはずだ。香月稔について訊ねた時、彼は、話の最後にこう付け足したのだ。“香月の作品は、あまり好きではありませんが”と。だから、ついでに訊いてみたのである。“ちなみに、お好きな画家は?”と。まあ、良い。あとでボイスレコーダーを聴き返してみれば、はっきりするだろう。この引っ掛かりの正体が。

「では、失礼します」

 士元は一礼すると、その場を去って行った。彼の背中を見送った後、航一と茂は再び図書館へと歩き出した。

 受付で、パソコンを借りたい旨を申し出る。

「今時パソコンを持っていない高校生なんて、珍しいわね」

 顔馴染みの司書が、からかうように言った。

「ええ、まあ……」

 航一は、寝癖のなおりきっていない頭を掻いた。隣で茂がため息をついている。受付を済ませ、そそくさとパソコンコーナーへと向かう。多少きまりが悪い思いをしても、ネットカフェを利用するよりは賢明な判断であろう。

 都市伝説サイトを回り、やっとそれらしきフォーラムを見つけた。地元のオカルト好きが集まる所で、過去ログを見る限りでは、深夜でも絶えず人がいて盛況なようだった。

「和泉翔輝が出入りしている都市伝説系オカルトフォーラムってのは、ここで間違いなさそうだな」

 返事をする代わりに、茂は無言で頷いた。

「牧野琴子がここで使ってるハンドルは“シロフォン”だったっけ?」

「そうだ」

 航一は短く答えた。パソコンの画面には、シロフォンの他に名無し、いちごミルク、くうま、みかぴー、JellyCoffee、稲葉、ぴょん吉などの、常連であろうと思われるハンドルネームが並び、その中に時折「SYO」という名が見られた。暇を持て余した連中が日ごと夜ごと集まり、怪談じみた信憑性のない噂話を繰り返す……。航一の目には、どうしてもそれは“盛大な時間の浪費”としか映らなかった。

「都市伝説というのは、新しく作り出されることが少ない。実際に起こった事件などが、伝わって行くうちに変形したり、尾ひれがついたりするのがほとんどだ。和泉は、その原型となった話の方に関心があったのかもしれないな。なぜ、という疑問が残るが」

 過去ログを見ていると、そんな印象を受ける。

「でもこれは、単に現象に名前を付けただけだろ。設定はあるけど、オチがない。原型になった話なんて、ないんじゃね?」

 茂の言う通りだ。だが、明らかに「SYO」はその現象にしか興味がないようで、他の噂話には一切口を挟んでいない。てか、医者の卵ならわかりそうなものなのだが。二回も留年しているようなヤツだ。成績は芳しくないのだろう。……。本当に“事実”はそれか?

 逆行性健忘。記憶の保持障害の一つだ。脳外傷を受けた場合に、それ以前に経験した数日間から数年間の過去の記憶を失うことがある。脳外傷が、記憶を破壊してしまうのだ。恐らくこれは、その障害に都市伝説っぽい呼び名を付けたものなのだろう。または、全生活史健忘。出生以来、自分に関するすべての記憶が思い出せなくなってしまう解離症状の一つで、一般的に記憶喪失と言われているものだ。フィクションの世界にしばしば登場する「私は誰?ここはどこ?」という、あれである。本人に耐え難いストレスなどがあった場合に、突然生じる。多くは心因性だが、時に外傷が誘因となることもある。記憶は脳に保存されてはいるが、それを再生する際の障害だ。部分的な記憶喪失はさほど珍しくはないが、全生活史健忘は稀にしか見られないという。

 過去ログを見る限りでは、それらしい呼び名を与えられたのは後者であろう。故意に部分的な記憶喪失を起こす……。こんな馬鹿げた噂に興味を持つということは、和泉には忘れてしまいたい過去でもあるのだろうか。本仮屋楓恋と同様に。楓恋が水槽のある自室でしか眠れない理由。牧野琴子の口から語られたその理由は、到底信じられるような内容ではなかったし、信じてはいない。悪魔を呼び出すなどという与太話を。少なくとも楓恋や琴子は、信じていてその“儀式”を行ったわけだが、失敗に終わっている。当たり前だ。所詮悪魔など、空想の産物にすぎない。けど。百歩……、否。千歩譲って儀式が成功していた場合。そこまでして消してしまいたい記憶とは、一体何だ?

 楓恋の方は、容易に想像出来る。“黒死蝶の信者の中には、資金調達のために犯罪行為を強いられている人間が十三人います。かつては、私もその中の一人でした”航一は、本仮屋楓恋の遺書の中に記されていた一文を思い出していた。もちろん、記憶を消してしまったとしても、その罪までもが消えてしまうわけではない。要するに、大多数の信者は資金調達のための捨て駒なのだろう。教団の恩恵に浴することが出来るのは、一握りの幹部とその家族だけだ。だから、楓恋の母親は娘を教団幹部の子息と結婚させたかったのだ。娘だけでも、守るために。推測の域を出ないが、恐らくそんなところだろう。しかし、教団幹部を父に持つ和泉翔輝に、そんな後ろ暗い過去があるとは思えない。

 結局、その日は大した収穫は得られなかった。航一が帰宅し、北白河士元との会話をボイスレコーダーで再生するまでは。

 夕食を終え自室に戻ると、航一は椅子に腰をおろした。どの質問にも嫌な顔一つせず丁寧に答えてくれた、北白河士元。収録された彼の声が、ボイスレコーダーから流れて来る。

『僕の好きな画家ですか?赤城幸雄……、ですかね。香月の作風に少し似ているんですが、なんて言うか、赤城の絵の方が色遣いが鮮やかで、それでいて、繊細で上品なんですよ。他には……』

 引っ掛かりの正体は、これか。香月稔の作風に似た絵を描く画家、赤城幸雄。調べてみる価値はありそうだ。


 体育祭が終わると、早速中間試験の範囲の発表があった。その日から、涼葉、美波、航一、茂の四人は図書館で試験に向けて一緒に勉強した。恒例となった勉強会は、試験直前まで続く。涼葉にとっては、地獄の始まりであった。須賀くんって、嗜虐性が強いんだと思うわ。幼馴染の、けして褒められたものではない性癖を再認識する瞬間である。但し、彼のそれは涼葉限定だ。幼馴染。一番身近な他人。そして、異性。力でねじ伏せられない相手だからこそ、歴然とした頭脳の差を見せつけ、当てこするのだ。子供みたいね。涼葉は航一に悟られないように、そっとため息をついた。

 無事に中間試験を終えた涼葉と美波は、放課後、無難にファミリーレストランでドリンクバーと季節のパフェを注文していた。航一と茂は図書館へ。そんな男二人を尻目に、ひとまず“お疲れ様会”だ。

「はあ……。やっと終わった」

 涼葉が憔悴した表情を見せると、美波は、

「涼葉。日頃から普通に勉強していれば、直前になって焦らなくて済むわよ?」

 と、静かに言った。ゴモットモ……。返す言葉が見つからない。暫時の沈黙の後、涼葉は訊ねた。

「美波は進路、どうするの?」

 少し気の早い質問に、美波はゆっくりと口を開いた。

「お父さんは“女子大に行きなさい”って。反対する理由、ないけど……。大学に行って、勉強したいことがないのよ」

「そっか……」

 涼葉は、美波の双子の兄のことを思い出していた。鈴村海司。彼は茂の親友、久住大樹と同じ英徳学院大学付属高等部の二年生だ。海司は当然、英徳学院大学を受験するのだろう。涼葉が涼雅と比較されるように、美波もまた、何かにつけ海司と比べられて来たことは想像に難くない。

「出来の良い兄弟なんて、持つもんじゃないわよね……」

 涼葉が呻くと、

「あら。海司は、中学の頃の成績は私より下だったのよ?」

 想定外の返答に、驚く。

「う、そっ!」

「本当。私が英徳を受験しなかったのは、進路の選択肢が限られるのが嫌だったから」

 そう言って微笑む美波のアンニュイな口調には、そこはかとなく色香が漂う。

「涼葉は?」

 急に水を向けられ、涼葉は閉口した。三学期の懇談会で、第一回進路希望調査が行われるのだ。そっか。すっかり忘れてたわ……。

「私は……、ぎりぎりまで悩むかも」

 そう言うと、グラスの中のアイスコーヒーを一気に飲み干した。特に理由はない。そんな気がしただけだ。私はきっと、最終決定の時まで悩むことになるのだろう。一瞬、よく見知った誰かの顔が脳裏に浮かんだ。なぜか、無性に喉が渇く。


 図書館の中庭で、航一と茂は自動販売機で買った缶コーヒーを片手に、ベンチに座っていた。

「ある程度、予想はしていたが……」

 航一が重い口を開いた。

「案外、残ってないんだな。詳しい資料なんて」

 茂が航一の胸中を代弁し、ため息をついた。

「そうだな」

 二人は「赤城幸雄」の資料を探していたのだ。そして得られた手掛かりは、今回もけして多くはなかった。

 赤城幸雄。日本の洋画家。早熟の天才と呼ばれ、初期作品のほとんどが海外にある。年譜から、十年前に亡くなったことが知れる。だが、はっきりわかるのはそれだけだ。音楽、文学、思想、彫刻、絵画。多くの場合、それらには作り手の魂が込められている。作者が亡くなった後、長い年月を経て価値ある物だけが残る。だから、芸術家の生涯が資料として残る確率は、作品の価値の高さと正比例する。けど。亡くなってまだ十年程度の画家であれば、もっと多くの資料が残っていても良さそうなものだが。って、違うな。偉業を成し遂げた者が、どのような生涯を送ったのか。それが研究され、資料として残るのだ。

「まあ、良い。気になったから、調べてみただけだ」

 そう言うと航一は、空き缶を手に立ち上がった。この程度のことで落胆していては、探偵稼業は務まらない。けして引っ掛かるところがなかったと言えば、嘘になるが。

 探偵に必要なのは、根気と推理力だ。勇作の言葉を借りるなら、“ゴキブリ並みのしぶとさ”であろうか。ゴキブリって……。そりゃないぜ、オッサン……。

「今は、和泉翔輝に忘れてしまいたい過去があるのかどうかを確認することの方を、優先しよう」

「そっちの方が難しくないか?」

 茂は苦笑した。

「そうだろうな。ヤツに忘れてしまいたい過去があると仮定した場合、それは黒死蝶絡みでしかないだろうし、簡単に口を割ったりはしないだろう」

 その言葉を聞いた茂の全身に、戦慄がはしる。

「須賀。お前……」

 この男を。茂は思った。止めても、無駄だ。『そこに謎があるなら……。解きたくなるのが、探偵の性』その一言で片付けられてしまう。俺は、最後まで付き合おう。“助手”として。支えよう。“友人”として……。

「何か具体的に良い案があるのか?」

 茂の質問に、航一は腕組みをしながら、

「ないな。これから考える」

 と返答をして、瞼を閉じた。そもそも、和泉翔輝に忘れてしまいたい過去なんてあるのだろうか。まず、和泉が都市伝説系オカルトフォーラムに出入りし始めた動機について、考えてみよう。……で、……とか、……だったら、腑に落ちる。だから……。

 茂は黙って航一の横顔を見ていた。何を考えているのか、さっぱりわからない。けど。どうにかするだろ、こいつなら。

「何か思いついたか?」

 随分時間が経ってしまったかのように思われたが、時計を見ると実際はまだ30分しか経っていなかった。茂は冷めきった缶コーヒーの中身を飲み干し、航一に訊ねた。

「荒削りではあるが……」

 航一は、寝癖のなおりきっていない頭を掻いた。そして申し訳なさそうに、

「悪いが、しばらく付き合ってくれ。人手が要る」

 と言った。茂は頷いた。だが、その“荒削りな”作戦については、詳しく話してはくれなかった。

「どう動くかは、状況を見て随時判断する」

 茂は、その言葉を信じることしか出来なかった。

「和泉翔輝は二回、留年している。しかも、その留年していた二年間、彼がどこで何をしていたのかは不明なんだ。もしも、ヤツに忘れてしまいたい過去があったなら、それはその“空白の二年間”で起こった可能性が高い。多分黒死蝶絡みなんだろうから、口を割らせるのは相当骨が折れるはずだ。臨機応変に対応出来るよう、作戦に幅を持たせたい。だから、敢えてこの方法で。事件性がなければ、即、調査は打ち切りだ」

 二人は沈む夕日に背を向け、図書館を後にした。


 静かな昼食であった。一人だけ早く弁当を食べ終わった航一が、

「涼葉。悪いけど、しばらく彼氏、借りるぞ。人手が要るんだ」

 と言った。涼葉の顔に、困惑の表情が浮かぶ。

「どうした。何か都合が悪いのか?」

「私も……。高木くんに、頼みたいことがあって……。しばらくって、いつまで?」

「わからん。でも、そういうことなら、今日はいいよ」

 航一は微笑んだ。あまり高木を独り占めしては、涼葉が可哀想だ。てか、頼みたいことって……。嫌な予感しか、しない。航一の胸中など知る由もない涼葉は、安堵した。

 涼葉が茂に頼みたいこと。それは、手合わせであった。涼葉が道場に顔を出すと、師範は「私がお前に教えてやれることなど、もう何もない。天下に目を広げよ。お前が教えを乞うべき者は、必ずいるはずだ」と、静かに言った。茂に武術の心得がないことは明らかだ。しかし、涼葉は“自分より強い者”を他に知らない。航一の嫌な予感は、見事に的中していたのである。

 その時。航一の携帯電話の着信音が、静寂を破った。

「もしもし。ああ、オッサンか」

 短い会話が交わされ、電話は切られた。航一がため息をつく。

「美術館が所有している作品はなし、か……」

 茂は、航一が小声で呟く横顔を見つめていた。友人は時折そうするように、寝癖のなおりきっていない頭を掻きむしっている。えーと……、俺はいつ話しかけたらいいんだ?

「いいのか?俺が一緒に行かなくても」

 茂が思い切って口を開くと、航一は我に返り、

「ああ。今日は外してもらって構わない」

 とだけ言い、黙り込んでしまった。何事か思案している。こういう時の航一に話しかけても無駄であることを知っている三人は、自分の教室へと戻ることにした。

 涼葉が俺に頼みたいことって、何だろう。普段は、あまり俺に頼ろうとしない彼女なのに……。茂は気になったが、放課後を待つことにした。

 午後の授業は、長く感じられた。待つ時間は、思いのほか過ぎるのが遅い。茂はのろまな秒針を睨みつけた。窓の外に目をやると、天高く馬肥ゆる秋とはよく言ったもので、澄み渡る空は高い。

 ホームルームが終わると、涼葉と美波はA組の教室を出た。

「涼葉は高木くんと帰るでしょ?」

 美波は理知的な瞳で涼葉の顔を見上げ、諭すように、

「あまり高木くんを困らせないのよ。わかった?」

 と言った。愁いを帯びた黒目がちな瞳に、涼葉の視線がぶつかる。見透かされているわね……。涼葉は思った。“今日はいいよ”と、須賀くんは言っていたっけ。“しばらく借りるぞ”とも。火急の用向きで、人手が必要なのだろう。けど。こんなことを頼める人って、他にいないのよ。

 涼葉は一人、D組の教室の前で茂を待った。どんな風に切り出したらいいんだろ。まさか、こんなことを“お願い”されるとは露程も思っていないであろう茂の驚く顔が、容易に想像出来た。

「は?」

 帰宅途中に寄った公園で、茂の口から間抜けな声が漏れた。その手の中には、キムチ味の鯛焼きがある。驚いているようには見えなかった。彼は呆れているのだ。~~っ!人が真剣に頼んでるのに……。

「お前の“頼みたいこと”って、それか?」

 茂は、確認するように訊ねた。笑いを必死に堪えているのがわかる。

「そうよ」

 涼葉はふて腐れて答えた。

「いくらお前の頼みでも、それだけは絶対に駄目だ」

 どうして……?というのは、訊くだけ野暮だ。そんなの、わかりきっている。

「お前は……。強がることの弱さを知るべきだな。一人で背負うことはない。お前にとって大切な人は、俺にとっても同じように大事なんだから」

 須賀も、鈴村さんも。もちろん、涼雅くんもね。そう言って微笑む茂を、涼葉はぼんやり見つめていた。違う。私は……。あなたを巻き込みたくないだけよ。ふと、師範の言葉を思い出していた。『お前が教えを乞うべき者は、必ずいるはずだ』師範は、本当はこう言いたかったのだろうか。『強がることの弱さを知るべきだ』と。わからない。師範の心の中なんて。

「まあ“赤ちゃんが欲しいの。……抱いて”とかいうお願いなら、二つ返事で引き受けるけど」

 その言葉を聞いた次の瞬間、涼葉は目の前の男に肘鉄砲を噛ませた。しかし、応えた様子はなく笑顔を崩さない。いつものように、愛情たっぷりの眼差しを涼葉に向けて投げかけてくる。そんな彼だから、本気が出せるのだが。

「それ、あり得ないから!」

 涼葉は、あっかんべーをして見せた。茂は肩をすくめると、

「やっぱ、手間を省くのは良くないよな」

 と、意味不明なことを口走った。手間を省くって、なんだろ。涼葉は訝しく思ったが、敢えて追及はしなかった。明瞭な回答を得られないことがわかっていたからだ。


 和泉翔輝の、空白の二年間。その間に、何があった?航一は考えていた。故意に部分的な記憶喪失を起こす。怪談じみた信憑性のない噂だ。あの和泉が、そんな夢物語を信じているとは到底思えない。そもそも、口裂け女や人面犬、トイレの花子さんだって都市伝説じゃないか。

 もう一度、よく考えてみよう。現段階で俺は“和泉翔輝には、忘れてしまいたい過去がある”という前提で推理して、調査を進めようとしている。もし仮に、教団の恩恵に浴することが出来るのは一握りの幹部とその家族のみだという推測が誤りで、幹部はよりハイリスク、かつハイリターンな立場にあるのだとしたら?あり得ない話ではない。

 大多数の信者は資金調達のための捨て駒だというのは、恐らく間違ってはいないだろう。黒死蝶とは、宗教法人という名の“別の何か”なのだから。そうでなければ、本仮屋楓恋の母親が娘を教団幹部の子息と結婚させたがる理由がない。ハイリスクだがハイリターンな立場であれば、捨て駒よりもずっと良いだろうし。

 父親が製薬会社の研究員で、和泉が臨床研修医であるという事実から導き出される、黒死蝶の正体。それが一体何なのか。……は、ひとまず置いておこう。

 和泉には、消してしまいたい記憶がある。または、リスクに備えて都市伝説を作り上げる。彼が都市伝説サイトに出入りし始めた動機は、多分そのどちらかだ。可能性が高いのは、後者の方か。だとしたら、策を練り直さなければならない。涼葉に助けられたな。今日、高木を借りられなかったから、この“仮説”にたどり着くことが出来たのだ。……絶ッ対、言わねえけどよ。

 そして、もう一つ。香月稔の中期の作品は、あと三枚。その中に、美術館が所有している作品は、ない。この事実は航一にとって、想定の範疇であった。タイムリミットは、あと三枚……。怪盗紳士がそれらを手中に収める前に、動機を明らかにし、犯人を特定することは可能なのだろうか?充分な調査と証拠があれば、可能だ。けど。調査も証拠も、不充分なのだ。情けなくて、涙が出るほどに。怪盗紳士が目的を果たし終えて、二度と人前に姿を現すことなく、世間から忘れ去られて行ったとしても。俺は追い続ける。時効が成立するまでは。そこに謎があるなら……。解きたくなるのが、探偵の性。オッサンは警部だ。検挙出来なければ、無意味だと考えるだろう。でも俺は、探偵なんだぜ。

 気になることは、もう一つある。「赤城幸雄」だ。早熟の天才と呼ばれ、初期作品のほとんどが海外にあるという。だが……。その“初期作品”の所在が不明なのだ。海外にあるという話は捏造で、この人物の初期作品が「中期の香月稔」の作品として世に出回っているのだとしたら?しかし、それは推測の域を出ない。

 航一は、北白河士元の言葉を思い出していた。『香月の作風に少し似ているんですが、なんて言うか、赤城の絵の方が色遣いが鮮やかで、それでいて、繊細で上品なんですよ。』似てるっつってもなあ……。それだけじゃ、決定的な証拠にならねえよ。

 とにかく。和泉には、忘れてしまいたい過去がある、もしくは、リスクに備えて都市伝説を作っておきたい理由がある。その二つの線で、捜査を進めよう。


これで、推敲分の再投稿が終わりました。多少は改善された気はしますが、自分ではわかりません……。

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