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追跡  作者: 青柳寛之
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第八章 それぞれの思惑

 涼葉は驚きと戸惑いを払拭出来ずにいた。入学早々、涼雅が少林寺拳法部に入部したのだ。中学校では二年連続生徒会長を務め、常に学年一位の成績を収めて来た彼が選んだのは“武道”という名の、未知の世界であった。すぐに音を上げなきゃいいけど……。そんな姉の心配もどこ吹く風で、涼雅は部活動に励み、もうすぐ夏休みを迎えようとしている。今のところ、彼が退部する気色はない。

「お前、姉貴のような筋肉バカになりたいの?」

 随分と失礼な言い草だが、こう訊ねたのは航一である。涼雅の変化に驚いたのは、涼葉一人ではなかったようだ。

 涼雅は困惑の笑みを浮かべ返答に窮していたが、やがて、

「僕は、中間も期末も一位でしたけど?」

 と、涼葉にとっては非常に耳の痛い言葉を口にするのであった。

「成績さえ下がらなきゃいいってもんじゃないぞ?」

 航一は諭すように言った。文武両道の美少年なんて、妬まれるだけだろう……?

「そこは上手くやりますよ」

 涼雅は、先程の自信に満ちた表情とは打って変わった、慎み深い笑顔を見せた。誰に対しても“蔑まない、鼻にかけない、友好的に振る舞う”彼らしい笑顔であった。

 僕は今、僕がするべき事をしているだけだしね……。涼葉の言葉で言う所の“超能力まがいの不可解な能力”を持っている涼雅は、確定した未来として知っていたのだ。のちに自分が選ぶことになる、己の身の振り方を。それって、あなたのせいなんですけどね。涼雅はチラリと、さほど遠くない将来、義兄となる人物の方を見た。銀色に染められた長めの髪。浅黒い肌と精悍な横顔には、眉が黒いからか、強烈な違和感がある。いっそ、眉毛も染めたらどうなんだ?涼雅は、そっとため息をついた。

 けど。それを、あなたの“せい”って言うのは合わない気がする。むしろ“お蔭”と言うべきか……。そうだよ。あなたのお蔭で、僕は長い間僕を苦しめて来た、見えない鎖から解放されるんだ。

「どうした。俺の顔に、何か付いてるか?」

 涼雅の視線に気付いた茂が、微笑を浮かべて訊ねた。

「いいえ。そんな事より、お腹空きませんか?」

 涼雅はかぶりを振り、先輩を気遣った。今日は日曜日。彼の部活が終わる時間に、三人は書店で待ち合わせをしていたのだ。

「確かに。学裏……は、人が多そうだな」

 航一が言った。学裏と呼ばれる学生向けの定食屋街は、部活動を終えた高校生で混んでいるであろうことが容易に想像出来る。

「僕、美味しいお好み焼きの店を見つけたんですけど、そこでもいいですか?」

 さすが、涼葉の弟。航一と茂は舌を巻いた。


 来年はまた受験生になるのだから、今年の夏休みは思いっきり楽しまなくちゃ。涼葉は一人、そんなことを考えていた。唯一の懸念は、須賀航一だ。彼の命を、危険に晒すわけにはいかない。美波の笑顔を守るために。

 涼葉は、一年前の出来事を思い出していた。県立美術館の倉庫爆破事件。中層ビルの非常口から出て来た、アロハシャツを着たサングラスの男。彼を乗せて走り去った、グレーのアルト。航一の背後に忍び寄る、目出し帽の男の黒い影。岡本巡査が男を車に乗せようとした瞬間、血で染まった白いTシャツ。視界の端に映った、一台の青い軽自動車。彼らは再び、須賀航一の抹殺を試みるに違いない。あ、でも。私の命も狙われている可能性があるんだっけ?黒死蝶。目的のためなら手段を選ばないカルト教団。だとしたら……。相手にとって不足はない。どこからでも掛かって来なさいよ。死なない程度に、殺してあげるから。腕が鳴る。こういう気持ちは、久しぶりだ。

 黒死蝶がカルト教団だったとしても。事件現場の目撃者を増やすことは、避けたいはずだ。そう。人目の多い場所でなら、彼らが犯行に及ぶ確率は下がるはずなのだ。但し、問題が一つだけあった。須賀航一は、雑踏を嫌う。そんなあいつを、どうやって連れ出すか……。

『何かあったら、俺を頼れよ』

 涼葉は、恋人の言葉を思い出していた。気持ちは嬉しいけど……。でもね?高木くん。私は、あなたを巻き込みたくないの。夏休みを楽しみつつ、須賀航一を危険から遠ざける方法。簡単なようで、難易度の高い課題であった。


 ふと、目を覚ました。夜明けまではまだ遠く、辺りは闇に包まれている。涼葉は枕元の目覚まし時計に目をやった。時計の針が、日付の変更を告げていた。今日から夏休みなのね。難易度の高い課題が、涼葉の心に重く伸し掛かる。

 須賀くんには、包み隠さず話した方が良い。長考の末、涼葉が出した結論であった。記憶力と洞察力の鬼。そんな彼に、嘘は通じない。カーテンの隙間から朝日が差し込んできた。ため息をつきながら、涼葉は起き上がった。そろそろ朝食の支度をしないと。あと、お父さんとお母さんのお弁当も作らないと。須賀くんに電話を掛けるのは、それが済んでからでも構わないはずだ。そもそもあいつ、まだ寝てるだろうし。

 夏休みになっても、高校生主婦の朝は普段とほぼ変わらない。強いて差異を挙げるなら、両親と弟を送り出し後片付けを済ませると、少しソファーに座るゆとりがあることくらいだ。部屋の隅のケージへ目を向けると、ネザーランドドワーフのショコラが構って欲しそうにこちらを見ていた。

「ごめんね?ショコラ。野暮用が済んだら遊んであげるから」

 そう言うと涼葉は、携帯電話に手を伸ばした。そろそろ須賀航一も、起きていることだろう。嫌でも重い腰を上げなければならない。

「おはよう。お前、相変わらず朝が早いな」

 電話の向こうから、不機嫌そうな幼馴染の声がした。

「おはよう。須賀くんは、今起きたの?」

「今起きたっつうか、朝飯食ったばかりだ。何か用か?」

「これからそっち行ってもいい?電話で済ませて良いような話じゃないし」

 涼葉が訊ねると、航一は、

「いいけどさ……。15分ほど、後に来てくれ。俺、まだ着替えてないんだよ」

 と、白状した。

「わかった……」

 電話を切ると、涼葉はショコラを撫でながら静かに待った。何て切り出そうか……。思案に暮れながら待つ15分は、随分と長く感じられた。秒針の音がやけに耳につく。

 涼葉はショコラをケージへ戻すと、短く息を吐いた。ここで悩んでいても仕方がない。出たとこ勝負だ。力でねじ伏せるのは、容易い。しかし、言葉を尽くし、説得を試みるとなると、これほど手ごわい相手はいない。意を決して、向かいの家の玄関の呼び鈴を押した。

「鍵は閉めてないぞ」

 中から航一の声が聞こえたのを確認して、玄関のドアを開けた。

「俺の知ってる時田涼葉は、もっと図々しい女だったんだけどな」

 航一はシニカルな笑みを浮かべて、言った。

「喧嘩売ってる?」

 涼葉は静かに答えた。今は、それどころじゃないのに。危機感が足りないというか、呑気というか……。

「そんな恐ろしいことをする蛮勇は、俺にはないな」

 その言葉を聞き、涼葉は落胆した。わかってない。これから、何が起ころうとしているのかを。だが、憎らしいことに彼は、

「まあ、上がれ。お前の言いたいことは、わかってるけど」

 と、涼しい顔をして言うのだった。いや、いや。何をおっしゃっているの。わかってないからね?須賀くんは、自分の身にどれほど大きな危険が迫ろうとしているのかを、正しく理解出来ていない。

 須賀家のリビングに上がり込み、航一と向かい合わせでソファーに座った。最初に口を開いたのは、航一であった。

「お前ですら危惧していることを、予測出来ない俺だと思うなよ?」

 そう言うと、ソファーの背もたれに寄りかかり腕組みをする彼の表情は、自信に満ち溢れていた。

「去年の夏の、県立美術館の倉庫爆破事件。エサを撒いて警察をおびき寄せ、俺を殺害すること。それがあの事件の犯人の真の目的だ、お前はそう考えているんだろ?半分当たりで、半分は外れだ。あの事件には、二つの目的があったからな。そして、俺を襲った目出し帽の男な。平日に犯行が可能だったのは、恐らくは彼が無職だったからだろう。あの男はすでに失踪宣告が出されていたから、身元の特定に時間が掛かったそうだしな。黒死蝶の信者の中には、活動資金の調達のために犯罪行為を強いられている人間がいる。俺の抹殺を試みるのも、多分そいつらの役目なんだろう。けど、彼らが全員無職だとは限らない。普通に会社員なヤツもいるはずだ。そんな彼らが活動可能なのは、当然休日だ。職種によっては、人が遊んでる時が稼ぎ時っていうヤツもいるかもしれないが。ただ、現段階で俺を消したところで、黒死蝶に特にメリットがあるわけじゃないんだよ。一連の事件はずっと、膠着状態が続いている。この状況は、連中にとっては好都合なんだ。存在と実態を世間に知られたくない組織が、無駄に死人を出したくはないだろうしな。俺には、夏休み中ずっと人目の多い場所で過ごす必要があるってのは、お前の思い過ごしだ。安心しろ。何かありそうな時は、お前か……」

 航一はここで一旦言葉を切り、少し間を置いて、

「お前の彼氏に連絡するから」

「高木くんを巻き込まないで!」

 涼葉が語尾を荒げて航一を睨むと、彼は自信に満ち溢れた表情を崩し、

「高木に言われてるんだよ。“涼葉を危険な目に遭わせたくないから、なるべく俺に連絡しろ”ってな」

 と言って、困惑のため息をついた。

 迂闊だった……。涼葉はほぞを噛んだ。最近、二人は一緒にいることが多い。そんな話になっていても不思議ではなかった。

「なるべく私に連絡してね」

 涼葉が低い声で言うと、航一は、

「それは……、時と場合による」

 と、歯切れの悪い返事をした。怖っ!航一は率直に思った。涼葉の声が低くなるのは、彼女が腹を立てている時だ。俺、乱闘になったらこいつに勝てる自信、ねえぞ?これでは、あちらを立てればこちらが立たずだ。

 ただ。黒死蝶が俺の命を狙おうとするのは、俺が事件の真相に迫りかけた時だ。その時は……。高木には申し訳ないが、涼葉にお出まし願うとするか。残念ながら、俺は高木の立ち回りをこの目で見ていない。人の気配を察したり、その気配との距離を推測することには、涼葉よりも長けているようではある。身体能力も、驚くほど高い。しかし、実戦での立ち回りはどうなんだ?評判や憶測で命を預ける相手を選ぶわけにはいかない。この化け物もどきの女なら、相手にとって不足はない。この「生きた殺人兵器」なら……。

 気まずい沈黙を破ったのは、涼葉の携帯電話の着信音だった。

「もしもし。お母さん?」

 涼葉が驚きの声を上げた。涼葉の携帯に、英琳から電話が掛かってくることは滅多にない。

「そう……。わかった」

 暫時の沈黙ののち、涼葉は静かに電話を切った。

「おばさん、なんて?」

 航一が訊ねると、

「今日は早く帰れるから、夕食の準備はしなくてもいいって」

 うんざりしたように涼葉が答えた。普通なら喜ぶべきところなのだが、素直に喜べない。

「そりゃ、気の毒に」

 英琳の料理の腕前を知っている航一は、にべもない返事をした。身も蓋もない言い方だが、涼葉が作る料理が美味いのは反面教師がすぐ傍にいるからなのだろう。幼少の頃、互いの家の夕食のおかずを見比べては、好きな献立が並んでいる方の家で食事をしていたことを懐かしく思い出す。

「くどいようだけど、なるべく私に連絡してね」

 涼葉は念を押して帰って行った。


 怪盗紳士もそうだが、黒死蝶も、見事なまでに現場に証拠を残していない。県立美術館の倉庫から見つかった、爆弾の破片。本仮屋楓恋の遺体の爪の間から僅かに検出された、加害者の皮膚。だが、これらは決定的な証拠にはならない。

 県立美術館の倉庫爆破事件。見つかった破片からは、犯行に使用されたのは精巧に作られた時限爆弾であるということしか、わからなかった。本仮屋楓恋殺害事件。あの時点で犯行が可能であるとされた人物は、全員シロだった。疑わしきは罰せずが、法律の原則だ。黒死蝶の信者全員から皮膚を採取し、DNAを調べてみれば良さそうなものだが、それは不可能なのである。須賀航一の前に、推定無罪という名の壁が立ちはだかっていた。だからさ、涼葉。お前の心配は、杞憂なんだよ。

 航一は以前、素朴な疑問を口にしたことがある。ここまで見事に証拠を残していないということは……。警察の鑑識課の人間が内通している可能性があるのではないか、と。

「それはないだろう」

 時田勇作はあっさり否定した。あまりにも現場に証拠を残していないと、どうしても“それ”を疑う者が出て来る。だから、多少の証拠は残しておくのだ。但し、個人の特定には至らない程度に。勇作の見解は、こうであった。……。つまり、怪盗紳士は警察と内通しておらず、黒死蝶にはその可能性がある、ということにならないか?あり得ない話ではないな。頭の片隅にでも、入れておこう。

 本仮屋瑛が、明らかに怯えた表情で口にした人物の名を思い出していた。母親が楓恋の婚約者に、と目論んだ教団幹部の子息の名前を訊ねた時だ。瑛はためらいながらも、答えてくれた。まずは、その人物の身辺から調べてみるか。和泉翔輝……、ねえ。一体、どんなヤツなんだか。どこまでも、追ってやるさ。航一の脳裏に、本仮屋楓恋の遺書に記されていた一文が浮かぶ。“あなた方に私の希望を託したいのです。あなた、あるいは怪盗紳士。どちらでも構いません。必ず、黒死蝶の正体を暴いてくれることと信じています”俺は、その期待に応えなければならない。警察が踏み込めない部分にまで踏み込んで行くのが、探偵さ。それに……。まだ、諦めたくねえしな。てか、この名前、どっかで聞いたことあるぞ?


 海水浴に行こう。涼葉から、そんな誘いがあった。返事を渋る航一に、

「たまには息抜きしたらどうなの?」

 呆れ果てた声で涼葉は言った。私が言ってみたところで、聞く耳を持つようなあなたでないことは充分過ぎるほど知っているつもりだけど。

「無理にとは言わないわ。気が向いたら来て。日曜日の9時に、森林公園で待ち合わせ。じゃあね」

 一方的にまくし立て、涼葉は電話を切った。航一は、しばらく手のひらの中の携帯電話を見つめていた。息抜き、か……。確かにな。10文字のアルファベットの無意味な羅列。それが解けたのも、涼雅の“発想の転換が必要”という指摘と“根を詰めるな”という助言のお蔭だった。日曜日までに、懸案を解決すれば良いだけの話だ。そして、それはさほど難しくはない。航一は、すぐさま涼葉の恋人の携帯電話を鳴らした。

「おう、高木。暇だよな?ちょっと手ェ貸せ。……急ぎだ。今日の午後1時、駅前広場で。用件?それは後で話す」

 静かに電話を切ると、航一は目を閉じた。和泉翔輝。彼の個人の特定は、至極困難であった。黒死蝶は秘密主義で、内部情報を外部に漏らすことを厳しく禁じている。そのため本仮屋楓恋は、心を開いていた数少ない人物である兄の瑛にでさえ多くを語っていない。

 僅かな情報を頼りに粘り強く探し出した和泉翔輝は、航一が数年前解決した殺人事件の容疑者の一人であった。まさか、再びあなたにお目にかかることになるとはね。驚愕と失望。だが、それ以上に甚だ不愉快であった。

 その頃からチャラ男だったが、不似合いな五芒星のペンダントをしていたのを覚えている。表向きはピタゴラス教団の流れを汲む宗教団体を自称している黒死蝶が、ピタゴラス教団の紋章である五芒星を信奉者向けの装飾品として配布していたとしても、何ら不思議ではない。キリスト教のロザリオと同じだよな。持ち主に「超自然的な力を与える」と信じられているが、もちろんそんな効果があろうはずはない。“鰯の頭も信心から”とは、よく言ったものだ。

 でも、この人って……。北白河さんの再従兄弟なんだよな。瑛と楓恋の父親は、その事実を知らなかったのであろう。大事な娘の、婚約者候補だ。信頼出来る興信所に依頼し、身辺調査はしていただろう。けど。さすがに興信所も、再従兄弟までは調べるわけないよ。彼が娘を守ろうとして探して来た、北白河士元。その人もまた、黒死蝶の魔の手が容易に届く範疇の人だったのである。これが徒労でなくて何であろう。いろいろと、皮肉だよな。航一は、和泉翔輝の写真をつくづくと眺めた。モテそうだが、軽佻浮薄な人柄がよく表れている男の顔が写っていた。

 少し早い昼食を済ませ、身支度を整えると、駅前広場へと向かった。和泉には、涼葉の面が割れてるしな。それに、こういうことは高木の方が得意だし。

「何なんだ?急ぎの用って」

 先に待ち合わせ場所に到着していた茂が、浅黒い顔の口元から白い歯を見せて笑った。


 学校が休みに入ると途端に、頭が“仕事モード”に切り替わる須賀くんが。死ななければ治らないほど、重度な“推理バカ”の須賀くんが!どうしてここに?涼葉は、信じ難い光景を目の当たりにしていた。自分で誘っておきながら、こんなことを言うのもどうかと思うのだが。そんな涼葉の胸中を察したのか、

「なんだよ……。“たまには息抜きしたらどうなの?”って言ったのはお前だろ」

 航一は、涼葉を睨んだ。

「ごめん。まさか、本当に来るとは思ってなくて……」

 涼葉は正直な感想を述べた。美波が曇った黒目がちな瞳を航一に向け、訊ねた。

「本当に、良かったの?」

「心配するな。懸案は片付けておいた」

 航一はそう言って、美波の艶のある髪を撫でた。

「じゃあ、行こうか」

 茂が振り返り、声をかけた。四人は自転車のペダルを踏んで、海水浴場へと向かった。通り過ぎる風は、強烈な日差しに晒されたアスファルトの匂いがする。夏だなあ……。涼葉は思った。

「相変わらず、人が多いな」

 航一が呟いた。白い砂浜は、家族連れやカップルで溢れている。涼葉は聞こえなかった振りをして、

「じゃあ、着替えたらここに集合ね?」

 踵を返し美波の手を引くと、男二人をその場に残してさっさと行ってしまった。

「なんか、スマン……」

 茂としてはいたたまれない事この上なく、謝るより他はなかった。

「どうしてお前が謝るんだ?……行くぞ」

 これでも一応、感謝はしてるんだ。ワーカホリックな俺に歯止めをかけ、Wデートのお膳立てまでしてくれて。てなことは、口が裂けても言わねえけどよ……。がさつで強引な気遣いは、いかにも涼葉らしい。

 その後、四人は夏の風物詩を満喫した。否。正確には“三人は”と、訂正すべきなのかもしれない。海の家で軽く食事を済ませた後、ビーチバレーをしたのだが。美波は、

「食べたばかりだから、動くのはちょっと……」

 と言って、サンシェードテントの中に入ってしまったのだ。

「お前たち二人でタッグを組んでも、俺には勝てねえよ」

 茂が豪語したので、二対一での試合となった。結果、涼葉と航一は疲れ果て、茂に惨敗したのである。

「筋肉バカは、涼葉よりもむしろお前だよな」

 航一は、驚嘆の表情で茂を見た。その隣で、涼葉が珍しく萎れている。

「鍛え方が違うんだよ」

 茂はさらりと言った。そんな彼は、息も上がっていない。疲労困憊した航一は、先に美波が入っていたサンシェードテントの中へと入った。

「お疲れさま。三人とも、タフね」

 美波が優しく微笑んだ。航一は無遠慮に、美波の膝を枕にして横になった。美波が愛しそうに、航一の髪を撫でる。

 その様子を見て、涼葉が腹を立てないはずがない。

「私の美波に、何てことすんのよっ!」

「まあまあ。落ち着けよ」

 茂は涼葉を米俵のように肩に担ぎ上げた。

「そのために、誘ったんだろ?……そっとしておいてやろうぜ」

 往生際が悪くじたばたしている涼葉を担いだまま、茂は静かにその場を離れた。サンシェードテントが小さくなって行く。やっと諦めたらしく、涼葉は大人しくなった。

「あの……。降ろして欲しいんだけど」

「だーめ!……もっと人目の少ない場所で」

 いや、いや。ないでしょ?真夏の海水浴場に、人目の少ない場所なんて。すれ違う人々の好奇の視線に耐えながら、涼葉は黙って茂の肩に担がれていた。駐車場の近くまで来ると、急に人の気配がまばらになった。

「ここでいいか」

 茂は涼葉を肩から降ろすと、砂の上に腰をおろした。その隣に涼葉も座る。突然二の腕を掴まれ、唇を重ねられた。ほんの一瞬触れ合うだけの、短い口づけであった。

「鈴村さんは、俺がこんなことをしても“私の涼葉に、何てことすんのよっ!”とは、言わねえだろ?」

 真っ直ぐに涼葉を見つめ、茂が訊ねる。確かに……。悔しいが、反論出来ない。茂は柔らかい微笑みを浮かべ、

「一度だけじゃ……、足りない」

 と言って、涼葉の唇を舌でなぞった。そして、再び唇を重ねた。酸素が足りなくなるのでは、と懸念されるほどの長い口づけ。はっ、恥ずかしいよ。高木くん……。二人が初めて交わした、濃密でエロティックな大人のキスであった。

「折角だから、少し泳ぐか」

「え?高木くん、それ以上焼いたら……」

「うるせえ。海に来たんだから、それは気にしない!」

「日焼け止め、塗ってあげようか?」

 茂はため息をつくと、

「なんか、もの凄く今更感がするな……」

 と呟いた。

 しばらく泳いだ後、二人がサンシェードテントまで戻ってみると、航一と美波がタオルで髪を拭いていた。すでに陽は西に傾きかけており、徐々に人影も少なくなり始めている。

「俺たちも、そろそろ帰るか」

 航一が言った。

「そうね。じゃあ、着替えたら駐輪場で待ってる。ついでにこれ、返却しておくわ」

 涼葉はサンシェードテントを畳み、小脇に抱えた。

「俺が持って行こうか?」

 と訊ねる茂に、

「これぐらい、平気よ」

 涼葉は笑顔で答えると、美波と並んで歩き出した。

「相変わらず、可愛くねえなあ」

 苦笑する航一に、茂が顔を強張らせて言った。

「和泉翔輝の気配がする……」

 なんだと?航一の顔つきが、一気に“仕事モード”に逆戻りした。先ほどまでは、いい感じに“学生モード”だったのだが。

 航一が“今日までに片付けておいた懸案”とは、和泉翔輝の気配を高木茂に覚えさせることであった。過日茂を呼び出し、二人で和泉の尾行を敢行したのだ。茂は航一の期待に応え、翔輝の気配を覚えてくれた。続いて茂の口から飛び出した言葉が、航一をさらに驚かせた。

「一緒にいるのは……、牧野琴子」

「二人はどこにいるんだ」

 航一が訊ねると、茂は、

「あの、向こうの岩場の方だ」

 と言って“遊泳禁止”の立て札が立ててある辺りを指差した。

「行こう。気になる。てか、嫌な予感がする」

 和泉翔輝と牧野琴子。意外な組み合わせだが、和泉の女癖の悪さを考慮すると、あり得なくはない。いつ、どこで、どのようにして知り合ったのか、という疑問は残るが。

 航一と茂は、息を殺してごつごつした岩場へ足を踏み入れた。白い砂が、足音を消してくれた。

「あの辺りから、和泉と牧野の気配がする」

 航一は、茂が指し示した方を見た。四本の足が、空を蹴って踊っている。そして、艶めかしい女の喘ぎ声。本当にあんたって人は、あの頃から少しも変わっていないな。

「ヤるなとは言わんが、場所を選べよ……」

 茂が不快を露わにし、眉を寄せた。

 他国の事情は、俺は知らない。しかし、現代の日本社会においては、公然わいせつ罪に相当する立派な犯罪だ。あんたがどうなろうが、俺には直接関係のないことだけどさ……。こんなくだらない事で、逮捕されたりしないでくれよ?あんたは一応、一連の事件の重要参考人なんだから。

 航一は自分の携帯電話を茂に差し出し、

「済まないが、この様子を写真に撮って来てくれ。二人の顔が見えるようにして」

「ええ?」

「お前、気配を消すの、得意だろ?」

 茂は渋々航一の携帯電話を受け取り、

「わかったよ……」

 と、力なく答えた。気配を消し去りゆっくりと、近くへ歩み寄る。二人が愛を確かめ合っている、その場所の近くへ。愛……。は、一方通行なんだろうけど。てか、さあ……。このままの体勢では、二人の顔なんて見えないんだけど。辛抱強く好機を窺っていると、幸運の女神が茂に微笑んだ。今だ!茂は、その瞬間を写真に収めた。よし。これで、二人の顔がしっかり写った写真を撮ることが出来た。用が済んだので、茂は足早にその場を離れた。どうして俺がこんなことを……。情けなくて、思わず涙が出る。

「ご苦労さん」

 航一は労いの言葉をかけると、茂から携帯電話を受け取った。快楽に耽る琴子と、彼女を見つめる優越感に満ちた翔輝の眼差し。これだけ大きく顔が写っていれば、言い逃れは出来ないだろう。

「今日のところは、これで充分だ。帰るぞ」

「こんなもの、一体何に使うんだ?」

「どちらかに、相手の存在を知っているかと訊ねることがあるかもしれないからな。その時白を切るようなら、この写真を見せればいい」

「なるほどね」

 その後二人は着替えを済ませ、何事もなかったかのように涼葉たちの待つ駐輪場へと向かった。

 帰宅した須賀航一の頭は、すっかり“仕事モード”に戻ってしまっていた。おいおい……。息抜きに出掛けたんじゃなかったっけ?航一の顔に、自嘲が混ざった苦笑が浮かぶ。和泉翔輝と牧野琴子、か。和泉は本仮屋楓恋の“婚約者になりかけた”人物であり、牧野は楓恋がネットのオカルトフォーラムのオフ会で知り合った、ハンドルネーム「まこっち」だ。二人が、本仮屋楓恋殺害事件の共犯者だったとしたら?という仮定は、現実的ではないな。調べてみても、合コンか何かで偶然知り合ったという事実が明らかになるだけのような気もする。けど。可能性がゼロではない限り、調べてみる必要はある。たとえ、無駄骨に終わってしまったとしても、だ。


 灼熱の太陽が沈み、空には月が浮かんでいた。彼は一人、自室の窓際に立ち紫煙を燻らせていた。カーテンの隙間から差し込む月の光に照らされて後ろに伸びた長い影が、彼の長身を思わせる。

 これで、残すところあと三枚だ。残りの絵画を回収し終わった時、俺は“怪盗紳士”ではなくなる。肩の荷が下りる。とは、こういう気持ちのことを指すのだろう。俺はやっと……に、戻ることが出来る。

 あの高校生探偵須賀航一が、事件の真相にたどり着けるなどということは、まずないだろう。中期の香月稔の正体は、赤城幸雄という洋画家である。この事実が判明しない限り、怪盗紳士の正体が……であるという真実は、見えて来ない。そして、その事実は黒死蝶が過去を改竄し、資料を書き換えてしまっている。多少辻褄が合わない記述があったとしても、タイムマシンでも発明されない限り、真実は闇の中だ。

 俺は、けして忘れない。自分の亡き父親の作品が、別人の作品として世に出ているという事実を知った時の衝撃を。黒死蝶は、赤城幸雄の初期作品を所有者から買い取り、「中期の香月稔作品」として世に送り出した。“死人に口無し”を良いことに……。けど。親父が“物言わぬ人”になってしまったとしても。俺は真相を知っている。あれは、物心つく前から俺が肌で直に知っていた、父の筆遣いだ。

 これまでに盗み出した「中期の香月稔作品」。そのすべてに「M.Kaduki」というサインが左端に小さく描かれており、それを丁寧に剥がすと「S.Akagi」というサインが現れるのである。但し、キャンバスの裏には当然のことながら、香月稔と書かれている。恐らくサンドペーパーか何かで消して、書き換えたのであろう。実際、そんな痕が残っている。だが、裏に書かれているサインがそうである以上、どうすることも出来ないのだ……!「赤城幸雄作品」として、後世に伝えられないのであれば。せめて回収し、焼却処分してやろう。別人の作品として世に出回っていても、絵も親父も悲しむだけだ。

 そして、最大の謎が残っている。黒死蝶は、なぜこんな面倒臭いことをしたのか。活動資金の調達なら、もっと手っ取り早い方法があったはずなんだ。

 彼は灰皿に煙草を押し当て、火を消した。須賀航一は「前期の香月稔」が辻将人であるということと、「後期の香月稔」が本人と弟の瑛だという事実は、把握しているらしい。「中期の香月稔」の作品が、「赤城幸雄」の作風に酷似しているなどということは、素人目にはわからないだろうよ。


本章で一番気の毒だったのは、茂くんです……。航一くん、自分で撮りに行かないの?

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