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追跡  作者: 青柳寛之
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第七章 奇妙な友情

 新学期を間近に控えた、桜の花びらが舞い散る日。これで、タイムリミットはあと四枚……。須賀航一は、茫然自失の体でその場に立ち尽した。「確かに頂いて参ります。怪盗紳士」航一の視線の先には、壁に貼り付けられた一枚のメッセージカードがあった。

「ありませんね。毎度のことですが、見事です」

 顔馴染みの鑑識官が、ため息交じりに呟いた。やはり、現場には個人の特定につながる証拠は残してないか。航一は、寝癖のなおりきっていない頭を掻いた。

 現場に残された証拠品から犯人を割り出すのは、ほぼ不可能。ならば動機を明らかにし、犯人を特定してやろう。そう思っていたし、充分な調査と証拠があれば、可能だ。だが、残された時間は少ない。頑強で、寝ずとも平気な自分がもう一人いたら……。思わず焦燥の吐息が漏れた。あと、あっちも気になるんだよな。“あっち”とは、本仮屋楓恋殺害の件である。

 殺害された後で吊るされたのであれば、当然被害者は抵抗するはずだ。被害者の爪の間から加害者の皮膚が僅かに検出されることがあるが、抵抗する際、無我夢中で引っ掻いてしまうのだろう。その“抵抗の跡”は検出された。しかし、疑わしいとされる人物のDNAとは一致しなかったのだ。婚約者、屋敷の使用人、楓恋とはネットのオカルトフォーラムのオフ会で知り合ったという、ハンドルネーム「まこっち」などだ。つまり、現段階で犯行が可能だと判断された人たちである。まあ一応調べてみて、犯人じゃないってことが証明されれば、本人たちも安心するよな……。活動資金調達のために犯罪を強いられている黒死蝶の信者が犯人であることは、火を見るよりも明らかなのだから。それを裏付けるかのように、前科がないこともわかっている。黒死蝶が資金調達のために犯罪を行う信者を常に十三人控えさせているとしても、ずっと同じメンバーであろうはずがない。個人の特定につながる証拠を現場に残してしまった者は交代させるか、処刑してしまうか……。森龍信の顔が目に浮かんだ。続いて、本仮屋楓恋の顔も。あまり考えたくはないが、後者の可能性が濃厚だ。

 今は、怪盗紳士の犯行現場に来ている。タイムリミットは、あと四枚。あと四枚しか、ないのだ。残りの四枚を盗み終えた時、怪盗紳士の目的は恐らくすべて果たされる。そして。再び彼が姿を現すことは、ない。現実に引き戻された航一の表情が、険しくなった。


 出来の良い弟なんて、持つもんじゃないわね……。涼葉はうんざりした。入学式当日。壇上で新入生代表挨拶をしていたのは、時田涼雅その人だったのである。ということは、入試の成績が一位だったということだ。どうせ私は、不肖の姉ですよ。しばらくは先生たちが煩そうだから、見せしめに一人、痛い目に遭わせておこうかな。物騒なことを考えながら、涼葉は式が終わるのを待った。

 今年もA組か……。入学式が終わり、涼葉は二年A組の教室へと足を踏み入れた。美波と同じクラスだったことが、何より嬉しかった。航一はB組、茂はD組だ。自分の出席番号の札が貼ってある席に着いた。今日から二年生か……。実感、湧かないなあ。涼葉は春の陽の光が降り注ぐ窓の外を見つめた。随分と散ってしまった桜の枝は、それでも残り少なくなった花びらを風に乗せて漂わせる。

 担任の先生、誰だろう。扉の向こうに、よく知っている人物の気配を感じた。まさかね……。その“まさか”であった。異様にテンションの跳ね上がった千穂ちゃんが勢いよくドアを開け、教室に入って来た。美波と同じクラスで、千穂ちゃんが担任か。うん!楽しい一年になりそう。涼葉の顔が、思わずほころんだ。

 ホームルームが終わると、美波と二人で教室を出た。

「よう。お疲れ」

 二人を見つけた茂が、労いの言葉をかける。

「B組、まだ終わらないのね?」

 涼葉が訊ねると、茂は、

「げんなりして出て来るさ。……多分だけど」

 と、意味深長な返答をした。げんなり?首を捻る涼葉の隣で、美波が愁いを帯びた瞳を伏せた。

 茂の言葉通り、航一は疲れ切った表情でB組の教室から出て来た。

「待たせたな」

 にこりともせず航一は言った。その抑揚のない口調からも、疲労が滲み出ている。

「大迫が担任なんだろ?お前、苦手だもんな。ああいうタイプ」

 茂の問いに、航一は頷いた。大迫?そんな名前の先生、いたっけ……。涼葉が考え込んでいると、美波が、

「選択科目の先生だから、涼葉は知らないはずよ。芸術で書道を選択した生徒の間では、なぜか人気があるの」

 と、先回りして答えてくれた。涼葉は、昨年の今頃のことを思い返していた。『芸術は選択制です。美術部入部予定のある生徒は、音楽か書道を選択して下さい。同様に吹奏楽部ないし合唱部に入部予定のある生徒は、書道か美術を選択すること。人数の調整等で、必ずしも希望に添えるとは限りません』そのような趣旨の文書が配られ、各生徒が希望する科目を記入して提出したはずだ。そして、航一と茂は書道を選択していた。

「今年は、あいつが二年生の現国も教えるらしい」

 航一はそう言うと、辟易したように大きなため息を漏らした。

「てか、よくわかったな。B組の担任が大迫だって」

「知ってる人間の気配が、手前の教室に入って行ったからな。距離からして、B組なんじゃないかな、と思ったんだ」

 茂は涼しい顔をして、さらりと答えた。三人は、驚異を見る眼差しを彼に向けた。その場が水を打ったように静かになる。だが、それはほんの一瞬で、すぐに各クラスの担任の教師の話題で盛り上がった。

 翌日からは、通常通り授業がある。昨年のように、中間地点のB組の教室で弁当を食べることにして、四人は帰路についた。明日からは、お弁当を四つ作らないといけないのか……。涼葉は思った。


 土曜日の午後。航一は、茂と二人で本仮屋邸の前に立っていた。航一の複雑な胸中など、どこ吹く風と言わんばかりに、

「デカい家だなあ。掃除が大変そう」

 と、茂は感嘆の声を上げている。そりゃそうだけどさ。なんでお前がここにいるんだ?航一は、強烈な違和感を抱いていた。

 昨日の昼食時。航一の携帯電話に、城一警部から連絡があったのだ。「頼まれていた本仮屋邸の詳しい間取り図が手に入ったから、今日の夕方までには届けさせます」と。電話を切った後、航一は涼葉に本仮屋邸への同行を求めた。楓恋の死後、解雇されずに残された数名の使用人。彼らが全員黒死蝶の息のかかった者たちだと仮定した場合、一人で本仮屋邸に乗り込み、瑛の閉じ込められている隠し部屋を探すことは非常に危険だ。自殺行為と言っても、過言ではない。しかし、警察が踏み込めない部分にまで踏み込んで行くのが“探偵”なのだ。航一は、安心して自分の命を預けられる人物を選んだだけだ。だが、涼葉が頷いた瞬間、茂が「待て。俺が行く」と言い出したのだ。恋人を危険な目に遭わせたくなかったのだろう。その気持ちはわからないでもないけどさあ……。正直なところ、生きた心地がしない。

「……行くぞ」

 茂の方を振り返りもせず、航一は本仮屋邸の門を開いた。こんなに大きな屋敷なのに、門には鍵がかけられていない。少し歩くと、玄関のドアが見えて来た。呼び鈴を押すと、インターホンの向こうから使用人の声がした。この声には、聞き覚えがあるぞ。航一は思った。

「須賀航一です。少しお訊ねしたいことがありまして、伺いました。お時間、頂けますか?」

 言葉は慇懃だが、透徹した信念を思わせる力強い声に気圧されたのか、あるいは航一の訪問を待っていたのか、

「今、開けます」

 という返事の後、ゆっくりとドアが開いた。観音開きの豪華な扉の向こうから、航一が思い浮かべた女性の顔が、目の前に現れる。この人が、残っていたのか。意外だな。それは、本仮屋楓恋殺害現場の、第一発見者だった。

 客間に通された二人は、促されるままソファーに腰をおろした。やはり、思った通りだ。航一の元に届けられた本仮屋邸の間取り図には、かなり広い空間があった。納戸であれば扉があるはずだ。しかし、図面にも実物にも扉は見当たらない。ただ、壁があるだけなのだ。見過ごしてしまいがちな“それ”は、間違いなくこの部屋にある。そう。あの、壊れているように見える、巨大な柱時計の裏にね……。

 ノックの音が、航一の思考を遮断した。

「大したおもてなしも出来ませんが、どうぞ」

 そう言うと、使用人は二人の前にコーヒーを差し出した。航一は、隣に座っている茂を見た。事前に「出された物は、一切口にするな」と言ってあったのだ。茂は紙巻き煙草に使う巻紙に煙草葉を乗せ、慣れた手つきでそれを巻き込んだ。瞬く間に一本巻き上げると、

「吸ってもよろしいですか?」

 と、使用人に訊ねるのだった。

「どうぞ」

 答える彼女は、明らかに戸惑いを隠せない表情をしている。

「では、失礼します」

 茂は内ポケットからライターと携帯灰皿を取り出した。

「俺は“いい”とは言ってないぞ」

 航一が茂を睨むと、彼は、

「そうか」

 と言い、それらを懐にしまい込んだ。さて、本題に移るとするか……。いつもの事だが、戦慄と緊張感が高まる。この瞬間が、航一はけして嫌いではなかった。

 航一は、真っ直ぐに彼女の顔を見つめた。安元珠代と名乗った彼女は、穏やかな微笑みを崩さない。仮に楓恋の死後、解雇されずに残された使用人が皆、黒死蝶の息のかかった人物であるとした場合。辻褄が合わないのだ。俺に楓恋の兄の存在を教えたのは、この人だ。楓恋の葬儀の喪主は、婚約者が務めた。誰の意向なのかはわからないが、瑛の存在は懸命に隠されている。それに。この人には、楓恋の死を他殺だと思っている節があった。珠代が黒死蝶の信者であれば、調査の手が教団に迫るのを危惧し、自殺だと信じて疑わない振りをするはずなのだ。それとも、身内ばかりを揃えるのはマズいと判断した黒死蝶が、何も知らない人間を残しておいたのだろうか。無論、あとで始末することを前提にして。……。いくら目的のためなら手段を選ばないカルト教団だったとしても、死者を増やすことに何のメリットもないはずだ。犯行を重ねることで、その存在を知られてしまう。あるいは、この屋敷で使用人として働くうちに黒死蝶というカルト教団の存在を知ってしまった人間を消す、良い機会だと判断したのか。数々の可能性を考慮しながら、航一は口を開いた。

「過日“本仮屋楓恋の兄”と名乗る男性から、我が家に楓恋さんの遺書が届けられまして。早速警察の方で調べて頂きましたが、楓恋さんが書かれた物に間違いないとか」

「まあ……」

 珠代はそう言ったきり、黙り込んでしまった。航一は、彼女の表情の変化を注意深く観察していた。笑顔が消え去り、瞳の奥に心配の色が浮かんでいる。これは演技なのか、本心なのか。それがわからないうちは、あまり手の内を明かしたくはない。

「彼は、かなり体調が悪そうに見えました。誰か他に頼める人はいなかったんですかね」

 珠代はため息をつき、

「瑛様は、亡くなられたお父様以外の人にはけして甘えようとなさらない方なので。申し付けて頂ければ、私どもがお届けしましたのに」

 と、呟いた。

「ところで、この屋敷には現在あなたを含めて三人の使用人がいるそうですね。普通、全員解雇されてもおかしくはないと思うんですが。当主の楓恋さんが亡くなられたのですから。やはり、瑛さんの身の周りの世話をするために残されているわけですか?」

「そうです」

 “当然”と言わんばかりの顔をして、珠代が答えた。航一は、茂の方を見た。茂は腕組みをして瞼を閉じていたが、航一の視線を感じたのか、ゆっくりと目を開けた。二人の視線が絡み合う。「大丈夫。俺に任せろ」航一は、そんな言葉が聞こえたような気がした。高木……。俺の命、お前に預けたぞ。

「瑛さんにお目にかかりたいんですが、よろしいですか?」

「瑛様は今朝お出掛けになられまして、まだ……」

 珠代が言葉を濁すと、茂が口を挟んだ。

「あの大きな柱時計の向こうから、人の気配がするぜ。人数は……、恐らく一人。この気配は、男だな。瑛様とやらが、そこに居るんじゃないのか?」

 柱時計に歩み寄り、力任せに動かそうとする。

「くそっ。動かねえ」

「……どけ。それは、そういう造りにはなっていない」

 航一は柱時計の蓋を開け、振り子を引っ張った。カチャッという、何かが外れたような音がした。蓋を閉め、柱時計を軽く押した。まるで襖が開くように、時計が軽々と動く。その奥から金属製の扉が現れた。この扉を開くには、四桁の暗証番号の入力が必要なようだ。航一は珠代の方を振り返り、

「暗証番号を教えて頂けますか?」

 酷く渇いた声で訊ねた。彼女は観念したように、

「瑛様が憎いけど憎み切れなかった方の誕生日が、暗証番号になっています」

 と言った。憎いけど憎み切れなかった?ということは……。航一は静かに、しかし、迷うことなく1・0・2・3の順番にパネルの数字を押した。本仮屋瑛が、憎いけど憎み切れなかった人物。それが、妹であろうことは想像に難くない。ガチャン!鈍い音がして、鍵が開いた。再び航一は茂を見た。「お前は常に、俺から少し離れた所に居ろ」とも、事前に話してあった。茂が微かに頷くのが見える。

「瑛さん?そこに居ますね」

 そう言うと、航一は金属製の扉を開けた。昼間から蛍光灯の灯りを点けた、窓一つ無い狭く殺風景な部屋。そこに、本仮屋瑛は確かに居た。つまらなそうに、ペグ・ソリティアをしている。彼は、怪訝そうに航一と茂を見た。主に不審に思われているのは、高校生らしからぬ風体の茂であろう。

「申し訳ありませんが、珠代さんは席を外して頂けますか?」

「わかりました」

 珠代はいかにも使用人らしく、引き下がった。なるほど。けして、瑛の監視役として残されているわけではなさそうだ。

 航一は扉を閉めると、瑛の方へ向き直り、

「驚かせてしまったようで、すみませんね。少しお訊ねしたいことがありまして、伺いました。幸い、この部屋には盗聴器は仕掛けられていないようですし」

 と言って、微笑んだ。

「はあ……。僕があなたに教えて差し上げられる事なんて、ないと思いますよ?」

「あるんですよ。それが」

 航一は穏やかな口調とは裏腹に、鋭利な刃物のような眼差しを瑛に向けた。

 茂とともに追い払われた珠代は、訊ねた。

「まさか、瑛様が疑われているわけではないですよね?」

「それはないと思いますよ?」

 茂は答えながら、周囲の気配を探っていた。随分離れた所に、二人。殺気はしないな。須賀が言ってた、使用人の気配っぽい。二人とも、屋敷の中に居るようだ。あ。今、一人出て行った。……女だな。もう一人は男だ。こちらは動く様子がない。茂は再び、意識を柱時計の奥に隠されていた金属製の扉の向こうへと集中させた。須賀の身に何かあったら、涼葉にどやされる。確実に。

「あなたと須賀さんは、どういう関係なんですか?」

 訊ねる珠代に、茂は内心苦笑した。やっぱ、そうくるんだ。事前の打ち合わせ通りに答える。

「俺ですか?助手みたいなもんです」

 探偵と助手。ヘタな推理小説にありがちな設定だが、そうしておくのが無難だ。俺の服装や髪色じゃ、かなり無理があるとは思うけど。

 須賀航一の後ろ姿が扉の向こうへ消えてから、随分と時間が経つ。初めは緊迫していた空気が次第に悪意へと変わり、今は穏やかさを取り戻している。どんな話をしてたんだよ。茂は思った。航一の、けして崩れることのないポーカーフェイス。その後から出て来た瑛は、沈痛な面持ちをしていた。

「ご協力、ありがとうございました」

 航一は瑛に向かって丁寧に頭を下げ、

「……行くぞ」

 と、茂には無愛想に吐き捨てた。助手らしく見せかける演出なのだ。珠代に見送られながら、二人は本仮屋邸を後にした。

「あの柱時計の仕掛け、よくわかったな」

 茂が素朴な疑問を口にすると、航一は、

「振り子は止まってたけど、針は動いてただろ?時計の針を合わせるとロックが外れる仕組みになっていたら、針は止まっているはずなんだ。時計の動力は恐らく電池で、振り子は奥の扉を隠すための鍵になってた。凝った装飾を施されていたのは、インテリアとして部屋に馴染ませるためだろう」

 と、種明かしをしてくれた。

「今日は一緒に来てくれて、ありがとな。また今度、ボウリングにでも行こうぜ」

「鈴村さんとは行かねえの?」

 茂が訊くと、

「美波とじゃ、勝負にならないしな」

 そう言って、航一は笑った。


 本仮屋瑛が何かに怯えるように語った、その言葉。それらがすべて事実であると仮定した場合。一連の事件に関する秘密の一部を知る人物である彼が、近い将来、天に召されるという心配は無用だ。瑛は、器用に嘘をつけるタイプの人間ではないだろう。年相応の社交性を身に付けていないのは、彼が長年闘病生活を余儀なくされた証だ。幼い頃から入退院を繰り返してきた瑛には、渡世に必要な狡猾さを学ぶ暇などなかったのである。

 僅か5歳で生涯にわたる病を得た我が子に向かって、母が投げつけたのは「この、役立たず」という言葉だったそうだ。それは、幼い瑛の心に暗い影を落とした。この日を境に、母親は3歳年下の妹の楓恋ばかりを可愛がるようになった。

「その頃母は、すでに黒死蝶の洗礼を受けていました。自分の子を、教団幹部の子供と結婚させたがっていた母にしてみれば、僕は役立たずなんですよ」

 ぼそりとそう言った瑛の横顔には、酷く温度の低い感情が張りついていた。父は瑛に優しかったが、やはり幼子は母親が恋しかったのだ。

「楓恋が羨ましかったし、憎かった。殺してやりたいと思ったこともあります」

 と、当時の真情を吐露した。

 ネフローゼ症候群。高度な蛋白尿により、低蛋白血症を来す腎臓疾患群の総称だ。明らかな原因がない一次性と、原因となる全身性疾患がある二次性に分類される。小児の場合、九割以上が一次性で、寛解と再発を繰り返しながら5年ないし10年で治癒することもあるという。但し、根気よく治療を続け、正しい生活管理をして行くことが出来ればの話だ。安静または運動制限。塩分と蛋白質を制限された食事。そんな生活に、幼い子供が耐えられるはずがないのだ。管理を充分に行うことによって社会生活は可能であるとされているが、この病気のため、就労や結婚を断念する人は多いという。それが“宿痾と共に生きる”という現実なのだ。

 二人の父親は、瑛ばかりが可愛かったわけではない。妻が娘を教団幹部の子息と婚約させると言い出した時、彼は本仮屋家に引けを取らない家柄で、黒死蝶の信者ではない北白河士元を探して来たのだ。“家柄”を持ち出されると、さすがに母親も反論出来なかったようである。しかし、北白河士元には幼い頃に顔に負った火傷があった。

「僕の病気は、治ったわけではありませんよ?」

 管理が充分に行われているため、寛解状態が得られているだけなのだという。父親は瑛に「わざと体調が悪い振りをしていなさい。そうしないと、母さんはお前まで黒死蝶の教団幹部の子女と結婚させようとするかもしれない」と言ったのだそうだ。そう。楓恋が士元と婚約した今となっては、手持ちの駒は瑛しか残ってはいない。黒死蝶に対して、邪教という印象を持っていた瑛は、父の言いつけを守った。洗礼を受けた楓恋から教団の様子を話に聞いて、何となくそんな風に感じたのだ。黒死蝶は、ピタゴラス教団の流れを汲む宗教団体だという。確かピタゴラス教団は、地域の有力者の保護を得て大きな力を持つようになり繁栄したが、後援者が政争に巻き込まれて失脚すると、暴徒と化した市民に焼き打ちされ、壊滅したはずだ。つまり、その流れを汲む教団など存在しないのである。

「それでも楓恋は、士元のことが好きだったんだと思います」

 たとえ顔に酷い火傷があったとしても。楓恋は士元に出会い、初めて本物の優しさに触れた。母親の打算にまみれた優しさではなく。だから、彼のことが大好きだったし、巻き込みたくなかったのだ。ついでに、ハンドルネーム「まこっち」について何か知っていることはないかと訊ねてみたが、

「僕はオカルトには興味がありません。なので、知らないです」

 と、にべもない返事が返って来た。

「楓恋が自室でしか眠れない理由ですか?楓恋の部屋には、大きな水槽があったでしょ?水の音が聞こえない場所では眠れないんだそうです」

 なんだ、そんなことか。てっきり宗教上の理由だとばかり思っていた。……。水の流れる音?ミュージックセラピーとかのCDに、ありそうだけどな。川のせせらぎや、波の音などを収録した物が。それで代用出来るんじゃないかな。航一が考えていると、

「オカルトなんかに興味を持つからさ。僕は止めたのに」

 と、瑛の呻く声が聞こえた。ハンドルネーム「まこっち」さんにも、会って話を聞いてみるか。ネットのオカルトフォーラムに出入りしているような人なので、あまりお目にかかりたくはなかったのだが。

「絵画のことなら、僕よりも士元に訊いてみて下さい。詳しいですよ?」

 中期の香月稔について訊ねてみると、返って来た答えだ。近々、北白河士元には会いに行く予定だったのだ。恐らく警察は伝えていないであろうと思われる真実を、彼に伝えるために。

 航一は、手のひらの中にあるボイスレコーダーを見つめた。これで一つ、明らかになった事実がある。やはり香月稔には、弟の子供を自分の子として公表せざるを得ない事情があったのだ。そういう事情であれば、香月瑛が「後期の香月稔」に成り済まさなければならなかったのも頷ける。


 後日、航一はハンドルネーム「まこっち」こと牧野琴子に話を聞くため、会いに行った。事前に電話で連絡を取り、喫茶店で会う約束をして。ネットのオカルトフォーラムに出入りしている人だ。さぞかし根の暗いヤツだろうと思っていたのだが、意外にもさばさばした性格の女性であった。本仮屋楓恋が、水槽のある自室でしか眠れない理由について訊ねてみた。話してはくれた。しかし、到底信じられるような内容ではなかった。さすがオカルトマニア。病んでるな。

「なあ。今の話、信じられるか?」

 店を出た後、航一は訊ねた。

「まあ“鰯の頭も信心から”って言うからな。信じるか信じないかは、人それぞれさ。俺には信じられないけど」

 隣を歩いていた茂は、肩をすくめて答えた。

 そして。日を改めて予定通り北白河士元にも、今、会いに来ている。同行しているのは、またもや茂であった。

「悪いな、涼葉。彼氏、連れ回して」

 前日。からかいの笑みを向けると、涼葉は、

「どうして私を連れてってくれないのよ!」

 と言って、航一を睨んだ。一人遊びが苦にならない涼葉のことだ。茂を連れ回したところで、腹を立てたりはしないだろうと思ってはいた。だが、この反応は想定外であった。怒るとこ、そこなんだ……。航一は呆れた。

「便宜上“探偵と助手”ってことになってるから、お前じゃ不自然なんだよ。やっぱ、探偵の助手は男でないとな」

 寝癖のなおりきっていない頭を掻きながら説明すると、

「あっそ。それじゃあ私は美波と遊んでるから、そっちは精々、男同士で仲良くしてね」

 と、涼葉はふて腐れてしまった。

 北白河邸も豪邸ではあったが、本仮屋邸のような洋館ではなかった。

「庭木の剪定代だけでも、随分掛かりそうだな」

 と、茂はため息をついた。掃除が大変そうとか、剪定代が掛かりそうとか。まるで主夫の発想だな。航一は思った。その感想をそのまま告げると、茂からは、

「仕方ないだろう。主夫なんだから」

 との返事が返って来た。ソウデシタ。スミマセン……。

「じゃ、行くか」

 航一は、門の傍らの呼び鈴を押した。

 その面会には、さして時間はかからなかった。出て来た使用人に客間に通されると、すぐさま北白河士元が現れた。

「初めまして。須賀航一です。今日はわざわざ時間を割いて下さって、ありがとうございます」

「いいえ」

 頭巾を被っているため、その表情から真意を窺い知ることは出来ない。航一は、素早く彼の右手の親指の付け根にホクロがあることを確認した。なるほど。安元珠代は、嘘をついていたわけではないようだ。

「誠に恐縮なのですが、頭巾を取って頂けませんか」

「ご存知とは思いますが、僕の顔には酷い火傷がありまして。けして見よいものではないのでね。それでも構わないとおっしゃるのなら、取りますが……」

 当然ながら、歯切れが悪い。

「構いません。これまで、多くの凄惨な殺害現場を見て来ましたから」

 静かに答える航一に、士元は、

「それなら取りますが……。あの、驚かないで下さいね」

 と、念を押した。ゆっくりと、頭巾が取られる。これは酷いな。航一は思ったが、ふと気になることがあった。待て。本当に顔だけか?

「申し訳ないのですが、上半身だけで構いません。裸になってみて下さい」

「え……?」

「確認のためです。こんなに酷い火傷が顔だけにあるなんて、普通は考えられませんから」

「顔だけですよ?」

 困惑しながら答える士元に、航一は、

「実際に自分で見聞きしたことだけを信じる。それが、探偵です」

 と、言い切った。有無を言わさぬ迫力に、

「仕方ありませんね」

 不本意ながら、士元は応じた。やがて、彼の華奢な上半身が剥き出しになった。良家の子息にしては、筋肉質だな。って、そんな事はどうでもいい!本当に、顔だけだ。肩や背中、腕などには火傷の痕は見当たらない。これじゃあ、まるで……。

「ありがとうございました」

 航一は頭を下げた。士元が服装を整えるのを待って、航一は口を開いた。

「あなたに少し、お訊ねしたいことがあります」

 香月稔という洋画家について。亡くなった婚約者、本仮屋楓恋について。士元の兄、北白河孔明について。士元はどの質問にも嫌な顔一つせず、丁寧に答えてくれた。

 最後に航一は、警察が伝えていないであろうと思われる真実を、彼に告げた。士元はしばらく黙っていたが、やがて、

「そうですか。教えて下さって、ありがとうございました」

 と、目を潤ませた。

「やはり、ご存知ではなかったんですね」

「はい」

 そっと目元を指先で拭い、士元は答えた。士元と使用人に見送られながら、二人は複雑な気持ちで北白河邸を辞した。

「なあ、須賀」

 重い沈黙を破ったのは、茂だった。

「なんだ」

「あれは、北白河さんには教えてやらない方が良かったんじゃないか?」

 知らない方が、幸せなこともある。茂はうそぶいた。

「俺も迷ったけど、知らせておいた方が良いと思ったんだ。彼が、幸せな日々を過ごした証だからな」

「幸せな日々を過ごした証……」

「そうだ」

 自信に満ちた航一の微笑みを見ていると、茂は無性に腹が立った。腹は立ったが、航一に反論出来るだけのものを茂は何一つ持っていなかった。幸せな日々を過ごした証。確かにその真実は、そう呼べるものなのかもしれない。けど。その思い出が心の奥底に澱のように溜まって、渦巻いてしまったら?茂は、北白河士元のこれからの人生が幸多いものになりますようにと、祈ることしか出来なかった。

 いつの間にか、航一の背中が遠のいていた。茂は彼の後を追った。

『実際に自分で見聞きしたことだけを信じる。それが、探偵です』

 きっぱり言い切った横顔と、この歩き方。そうか。お前は、迷いない生き方をしてきたヤツなんだな。茂の中に、航一に対する憧れと尊敬が入り混じった、説明し難い感情が芽生えた。

「お前はどう思う。あの火傷の痕」

 急に訊ねられ、我に返った。

「どうって言われても……。どうなんだろうな」

 これでは、質問に対する返答になってないな。茂は思ったが、士元の火傷の痕について語るべき言葉をすぐさま思いつかないのだから、仕方がない。

「あれは恐らく、何者かが顔だけを狙って負わせた火傷だろう」

 航一は断言した。

「それ自体は一連の事件とは関係ないだろうから、深く追及はしないが。もうすぐ中間の範囲の発表があるから、頭を“学生モード”に切り替えないとな……」

 寝癖のなおりきっていない頭をポリポリと掻きながら呻く姿が可笑しくて、茂は思わず笑ってしまった。


 航一と別れた後、茂は思案していた。俺も、どんな風に生きて行くのかを決めないとな。須賀は迷いない生き方をしてきたヤツだし、恐らくはこれからもそうして生きて行くのだろう。

『俺も迷ったけど、知らせておいた方が良いと思ったんだ。彼が、幸せな日々を過ごした証だからな』

 そう言い切った航一に腹立たしさを覚えながらも、結局は何一つ反論出来るだけのものを持っていなかった自分。それは、俺の生き方が定まっていないからだ。『迷ったけど』とは言っていたが、けして彼は迷ってはいなかったはずなのだ。俺は、決めなければならない。どんな風にして、生きて行くのかを。


今回は、航一くんの独り舞台でしたね。涼葉ちゃん、出番が少なくてごめんなさい。

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