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追跡  作者: 青柳寛之
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第六章 新たな謎

 短い冬休みが終わり、早いもので一ヶ月が経とうとしていた。航一の元に、待ちわびた知らせが届いた。いつものように、昼食時に電話が掛かって来た。緊迫した空気が流れる。時田勇作からの電話は、それがどのような内容であれ、須賀航一を事件へと巻き込んで行く。

「例のメッセージカードな、確かに本仮屋楓恋本人が書いた物らしいぞ」

「根拠は?」

「筆跡鑑定だ。ただ……」

 電話の向こうで、勇作が言葉を濁した。

「ただ……。何だ」

 航一は先を促した。勇作の言わんとするところは、容易に想像出来る。

「お前も知っての通り、刑事事件においては筆跡鑑定が必要とされることが少ない。だから、民間業者が行う筆跡鑑定よりも、若干正確さや精密さに劣る場合がある」

 勇作は、予想通りの返答をした。

「それでも、格段に劣るというわけではないだろう。話したいことがあるから、定時で上がれそうな日に連絡をくれ。じゃあな」

「おう」

 電話を切ると、航一はため息をついた。警察の技術が、民間業者に劣るはずはないと思う。しかし勇作の言葉の背景には、日本の裁判所が、伝統的筆跡鑑定法に比べて、必ずしも科学的筆跡鑑定法を高く評価しているわけではないという現状がある。

 そうか。あれは“本物”だったか……。航一は、書かれていたメッセージを思い出していた。

 本仮屋楓恋の祖父は、香月稔の弟である。

 「香月稔」は、四人存在する。

 イラストレーター辻将人と、洋画家辻将人は同一人物である。

 黒死蝶とは、目的のためなら手段を選ばないカルト教団である。

 十三人目は、裏切り者のユダ。ここから先は、ノーヒント。

 これらがすべて事実であると仮定した場合、問題になるのはやはり“黒死蝶とは、目的のためなら手段を選ばないカルト教団である”という一文であろう。以前、勇作に聞いた話を思い出す。“黒死蝶”という宗教法人があるらしい、と。だが、目的のためなら手段を選ばないとなると……。それは宗教法人という名の、別の何かだ。ならば、その“目的”とは何だ?それは、今ここで考えてみてもわからないことだ。まずは、わかることから考えてみよう。

 何者かに肩をつつかれ、航一は我に返った。茂だ。

「弁当、残ってるぞ」

「ん?ああ、そうだった」

 航一は、残りの弁当を掻き込んだ。

「食事の時ぐらい、仕事のことは忘れたら?」

 涼葉がたしなめる。そんな幼馴染に、

「そこに謎があるなら……。解きたくなるのが、探偵の性」

 と、いつもの口癖を繰り返す。頭が“仕事モード”に切り替わった時の航一には、何を言っても無駄なのだということをよく知っている美波は、黙っている。涼葉は親友の横顔を一瞥した。その凛呼たる表情からは、本懐を窺い知ることは出来ない。

 放課後。航一は、一人教室で考え込んでいた。但し、例のメッセージカードに書かれていたことがすべて事実であればの話だ。

 一つめ。本仮屋楓恋の祖父は、香月稔の弟である。これは、それを知ったからとて「だから、何?」程度の情報だ。しかし、わざわざ書いて寄越したからには何かあるはずだ。また、なぜ弟の孫が「香月稔の孫」を名乗っているのかという疑問が生じる。香月稔には、弟の子を自分の子として公表せざるを得ない事情があった?航一は、香月が愛娘を三人とも養女に出した理由について考えてみた。諸説ある中に、あまり現実的ではないものがあったことを思い出す。仮にそういう事実があったなら……。なるほど。彼が娘たちを手放したのは、当然だ。香月稔の年譜は、肉親に関する記載が極めて少ない。弟について調べてみたところで、新しい事実が発覚するとも思えないが……。一応、調べてみるか。

 二つめ。「香月稔」は、四人存在する。やはり、としか言いようがない。けど。四人?作風によって前期、中期、後期に分けられる香月作品。四人存在するのであれば、作風ごとに別人によって描かれた物であろうから、恐らく三人の「香月稔」が存在するであろうという仮定は、誤りだったことになる。まあ、それは想定の範疇だな。三人と決めつけるのは早計だと思っていたし。しかし、中期の「香月稔」は一人であろう。盗まれた美術品は薄汚い裏社会における違法取引の通貨や担保になっているというのが現状だが、香月作品の価値はそこまで高くはない。それでも怪盗紳士は、香月稔の中期の作品しか盗まない。それ以外の作品には、食指が動かないのだろう。中期の「香月稔」に対して、怪盗紳士は異様なまでの執着心を持っている。その執着は、作品にではなく画家に向けられている。……多分。

 三つめ。イラストレーター辻将人と、洋画家辻将人は同一人物である。これが書かれているということは、彼は四人存在するという「香月稔」の一人であろうと思われる。ここから先は、ノーヒントか……。これについては、もう少しヒントが欲しいところだ。航一は、寝癖がなおりきっていない頭を掻いた。だが、一つだけ明らかな事実がある。それは、辻将人は中期の「香月稔」ではないということだ。県立美術館に残された『過日、本仮屋邸より頂いて参りました“愛息”を是非見ていただきたく、お持ちいたしました。しかるべき時に、改めて頂きに参ります。怪盗紳士』というメッセージ。恐らくあれは、フェイクだったのだろうから。そう。改めて頂きに参るつもりなど、毛頭なかったのだ。

 四つめ。黒死蝶とは、目的のためなら手段を選ばないカルト教団である。その“目的”とは何だ?それが何なのかは……。これから解き明かしてやるさ。

 現段階で考えられるのは、ここまでだ。ただ。十三人目は、裏切り者のユダ。というのが気になる。ユダ。イエス・キリストの十二人の使徒の一人で、イエスを裏切った者だ。そのため、この名前は裏切り者の代名詞のように使われるが……。どうして、十三人目なんだろう。そして。そのユダとは、本仮屋楓恋その人であると仮定した場合。彼女も、黒死蝶の信者だということになる。“信者”という言い方が、適切であるかどうかはわからないが。

 また、このメッセージカードが調査を攪乱させるためのトラップである可能性もある。その思惑通りに動いている振りをして、彼女の裏をかく。そのための策も、用意しておくべきであろう。一体、何のためにという疑問は残る。調査の手が黒死蝶に迫るのを危惧して寄越したのであれば、黒死蝶に関わる記述があろうはずがないのだ。根拠が筆跡鑑定だというところも、引っ掛かる。本仮屋楓恋は、指紋が付かないように手袋をして、あのメッセージを書いた?トラップにしてはいちいち妙だが、念には念を入れておこう。

 航一の思考が途絶えた。もうすぐ期末試験の範囲の発表がある。期末が終わるまでは、動けないな……。自分の“学生”という身分が、もどかしかった。


 涼葉と茂。この二人の関係に、劇的な変化があったわけではない。一人遊びが苦にならない涼葉は、相変わらず茂からの誘いを断ることも多かった。変わったことと言えば、涼葉からも時折茂を誘うようになったことくらいだ。

 期末試験が終わったその日。航一の、ややもすると八つ当たりとも取れる痛烈な嫌味から解放された涼葉は、茂に声をかけた。

「ねえ。帰りに寄り道して行かない?」

「いいよ。どこ行くんだ?」

 茂は、愛情たっぷりの視線を涼葉に投げかける。そこだけを見れば、ごく普通のカップルだ。しかし、彼らの関係は傍目で見るよりもクールでストイックなものだった。今はまだ、これでいい……。今は、ね。茂の頭の中にはすでに、涼葉との“将来設計図”が描かれていた。


 想定外の報せが航一の元に届いたのは、春休みに入ってすぐのことだった。報せを受けた航一は、すぐさま現場へ向かう準備をする。身支度を整え、家を出た。愛車のマウンテンバイクにまたがり、早春の空気に触れながら道を急いだ。それは、ある程度予想された出来事ではあった。だが、こんなにも早く現実のものになるとは思ってもみなかった。けして、黒死蝶を甘く見ていたわけではないのだが……。

 航一の元へ届けられた、想定外の報せ。それは、本仮屋楓恋の自殺だった。現場を見てみないとわからないが、恐らくは、自殺に見せかけて殺害されたのだろう。そうなると、一課の出番だ。時田勇作は刑事部捜査第二課の警部なので、この事件の捜査に直接関わることはないだろう。捜査第一課の警部……。城一さんか。航一も、顔馴染みの警部ではある。しかし現場叩き上げの勇作とは違い、キャリア独特の頭でっかち感は否めない。知識は豊富だが、経験が浅いのだ。まあ、若いから仕方ないか……。

 刑事ドラマでは、現場の刑事は出世には興味のない人情派、これに対して、キャリア組は冷たく出世しか頭にないという対立構図が多くある。城一警部は、そんな人ではない。と、思う。ただ。どうしても彼と行動を共にしていると、時折自分が城一の教育係的な役割を担わされているような気分になる。こんな体たらくで、大丈夫なのか?県警は。航一の中に僅かに残っている“民間人”の感覚が、警鐘を鳴らす。マウンテンバイクのペダルを踏む足が、重くなった。

 現場に到着すると勇作が、

「悪いな。わざわざ来て貰って」

 と、少しも悪びれた様子もなく言った。無言で頷くと、それには取り合わず、

「第一発見者は?」

 航一は訊ねた。

「私です」

 おずおずと若い使用人が申し出た。彼女は確か、怪盗紳士が本仮屋邸に犯行予告状を寄越した際、警察に通報してきた人だ。

「お嬢様は、どんなに帰りが遅くなっても、いつも決まった時間には起きて来られる方なので。朝食の時間になっても食卓においでにならないので、不審に思って様子を見に来てみたら……」

 震えた声で話す彼女の顔が、恐怖で引きつっている。

「お嬢様は首を吊っていた、というわけですね」

 航一は、非人情とも冷徹とも取れる口調で言った。そして無慈悲にも、矢継ぎ早に質問を繰り出すのであった。

「どんなに帰りが遅くなっても、と言われましたね。楓恋さんは、昨日の夜は帰りが遅かったんですか?」

「はい。昨日は、お嬢様は婚約者の方と出掛けられたので……。帰りは……。そうですね、午後11時過ぎ頃だったと思います」

「婚約者と出掛けたのなら、そのまま泊まって翌朝帰る、ということになってもおかしくはないですよね?それは、されなかったんですか?」

「はい。お相手はとても紳士的な方です。外泊なんて、そんな大それたことは……。それに、お嬢様はどんなに遅い時間になっても帰宅してご自分の部屋でお休みになります」

 ここで使用人は一旦言葉を切り、部屋の中にある大きな水槽を指差した。

「お嬢様は、あの水槽があるこの部屋でしか眠れないのだと仰っていました」

「なぜですか?」

「それは、私にはわかりません。理由を訊ねてみましたけれど、お嬢様は答えては下さらなかったので」

 大きな水槽の中に、何種類もの水草が植えられている。観賞魚はいなかった。

「質問を変えましょう。楓恋さんと婚約者の仲は、上手く行っていたのですか?」

「さあ、そこまでは……。お嬢様は、ご自分のことをあまりお話しにならない方でしたから。……。でも、あの方になら」

「あの方とは?」

「それは……」

 彼女は明らかに狼狽していた。うっかり口が滑ってしまった、といった所か。今は、あまり深く追求しない方が良さそうだ。

「質問を変えましょう。楓恋さんの婚約者って、どんな人なんですか?」

「それが……。私どもも、よくは知らないのです」

 屋敷の当主の婚約者のことを、使用人が“よくは知らない”だと?そんなことって、あるのだろうか。

「お二人の結婚は、先代がお決めになったのだとか。お相手は幼い頃に顔に酷い火傷を負われたとかで、頭からすっぽりと頭巾を被っておられました。ですから、表情からはその胸中を窺い知ることが出来ず……。お二人の仲が上手く行っていたのかどうかなんて、私どもには推し量る術がなかったんです」

 なるほどねえ……。納得はしたが、ここで引き下がる航一ではなかった。

「顔がわからなかったのなら、どんな小さなことでも構いません。その人に、明らかに他人とは異なる身体的特徴とかは、ありませんでしたか?」

 あるわけないか、そんなもの。航一は思った。我ながら、愚問であった。使用人は首を捻っていたが、やがて口を開いた。

「右手の親指の付け根に、ホクロがありました。初めてお会いした時、こんな所にホクロがあるなんて珍しいな、と思った記憶があります。それから……。これは身体的特徴ではありませんが、コーヒーに必ず角砂糖を三つ入れておられました」

「三つも、ですか?」

「はい。そのコーヒーを頭巾の裾をめくって飲まれる際、僅かに見えた首筋にも火傷の痕がありましたね」

「そうですか。貴重な情報を、ありがとうございます」

 そう言うと、航一は頭を下げた。一旦聞き込みを打ち切り、現場へと目を移した。

 先に現場検証を行っていた勇作が、

「これは、自殺に見せかけて殺されたんだろうけど……。昨夜11時過ぎ頃から今朝7時半頃までの間にそれが可能で、動機がある人間っているのか?」

 と、呻いた。がしがしと頭を掻いている。それは、これから調べてみればわかることさ。

「他殺であると推定する根拠は?」

 航一が訊ねると、勇作は、

「結び目だ」

 と、答えた。航一は、勇作が指し示した結び目を見た。二重8字結びか。確かに登山家や船員でもない限り、知らないであろうと思われる結び目だ。しかし、これだけでは決定的な根拠にはならない。今は、インターネットで調べれば、欲しい情報はすぐに手に入る時代なのだ。航一は目を皿のようにして、本仮屋楓恋の遺体を見つめた。彼女の首に食い込んでいるロープ。その少し下に、明らかに別の、もっとしなやかな物で首を絞められたような跡がある。それが、彼女が殺害された後に吊るされた事実の“証明”であった。

「オッサン、これを見ろよ」

「ん?」

 勇作は、航一が指差した位置をじっと見つめた。

「根拠は、むしろこっちさ」

「確かに。早速、一課に連絡するか」

 勇作が城一警部に電話を掛けている間に、航一は打ち切った聞き込みを再開した。先ほどの使用人を捕まえて、

「もう少し、いいですか?」

 有無を言わさぬ航一の様子に、

「はい、なんでしょうか」

 と、彼女は返事をした。心なしか、怯えているように見える。

「あなたは“お嬢様は、ご自分のことをあまりお話しにならない方でした”と言われましたね。楓恋さんに、特に親しくしている友人などは、おられませんでしたか?その人になら、自殺を仄めかすようなことを話しておられた可能性もありますが」

 “あの方”とは?などと、単刀直入な質問は避けた。それに、本仮屋楓恋にだって、友人の一人や二人、いてもおかしくはない。とはいえ、社交的な女性には見えなかったのも事実だが。

「お嬢様は自殺なんですか?」

 逆に、使用人に訊ねられた。航一は、

「自殺か他殺かは、調べてみないとわかりません」

 苦笑を作って見せた。こう訊ねてくるということは、他殺だと思ってるってことか。なぜだ?

「そうですよね」

 彼女は力なく微笑んだ。

「私の知る限り、お嬢様と親しくしておられた方は二人おられます。ただ……。その方との関係を“友人”と言えるのかどうか」

 語尾の声が掠れた。これ以上の情報を、彼女から訊き出すのは難しいかもしれない。オッサン、じゃないな。城一警部に、本仮屋楓恋の交友関係を調べて貰えばわかることだ。

「まあ、女性ですからね。男には理解出来ない事情がおありでしょう。ありがとうございました」

 そう言って航一が踵を返そうとすると、意外にも、彼女は航一を呼び止めた。

「まだ何か?」

「お二人はお嬢様にとって“友人”であるとは言えないでしょう。お一人の方は、お嬢様のお兄様なので……。もう一人の方については、警察の方で調べて頂ければすぐにわかるかと思います。それでは、私はこれで失礼します」

 航一に背中を向け、使用人は歩き出す。あの蒼白な顔面が演技によるものなら、大した役者だ。それにしても。兄貴がいるなら、そっちが当主だろう。てっきり夭折したものと思っていたのだが……。

 本仮屋楓恋の婚約者。兄。そして、友人……。随分と、謎が増えたな。航一はため息をついた。それにしても、あの遺体の手のひら。道理で、例のメッセージカードからは、指紋も手袋痕も検出されなかったわけだ。


 久住大樹が強制的に寮から追い出されるのを待ちわびていた茂は、書店で親友と待ち合わせをしていた。夏休みには一人で大樹を待っていたのだが、今、茂の隣には涼葉がいる。

『来年の夏休みまでには、時田さんを彼女にしときなよ?』

 大樹の言葉を思い出す。絶対に無理だと思ってたんだけど。吹雪の中、わざわざ長時間かけて歩いて帰った甲斐があったというものだ。

「やあ。久しぶりだね」

 ずっと電話でしか聞くことの出来なかった声が、背後から聞こえて来る。

「今日は、時田さんも一緒なんだね」

 大樹の表情が、僅かに明るい。茂にしかわからないその細微な違いに、涼葉が気付くはずもなかった。相変わらず無表情な人だなあ。“能面”以外に適切な表現を思いつけないほどだ。この人は、絶対これで損してるよね……。涼葉は思った。

『全寮制の高校に進学した友達が庶民の味に飢えてるから、いい店を知っていたら教えて欲しい』

 茂に訊ねられ、一緒に来ることにしたのだが……。高木くんの“他校に進学した友達”って、この人だったのよね。別の、わかりやすい場所にある店を教えてあげた方が良かったかな?けして嫌いというわけではないが、正直なところ、涼葉は大樹が苦手だった。大人びた声音と、表情の変化に乏しく暗い影の漂う横顔。時折作ったような明るい口調で話しはするが、その顔は少しも笑ってなどいなかった。端整な顔をしているだけに、より一層不気味さが際立つ。久住くんって、顔の筋肉を怠けさせ過ぎなんじゃないかな……。

 大樹が書店で参考書を購入した後、三人は昼食を摂りに移動した。本日の、メインイベントだ。

「確かに、ここはわかりにくいな」

 茂が苦笑した。涼葉としては、

「ごめん」

 としか言いようがなかった。細い裏通りに身を潜めるようにして立っている、古い雑居ビルの中にある喫茶店。ここをどう説明しろと言うのだろう。

「でも、ここのオムライス、美味しいんだよ?」

 涼葉がそう言って笑うと、彼女の味覚を信頼している茂は、

「そっか。お前が言うなら、美味いんだろうな」

 と言って、ためらいもなく店に入った。普通、知らない店に入る時は、もっと緊張するものなのだが。モグラの根城などという、わけのわからない店名であれば尚更だ。

 店に入ると、遊び心の多い内装が目に映る。空いている席に座ると、オムライスを三つ注文した。大樹が不審そうに店内を見ているので、茂が、

「珍しいのか?」

 と訊ねた。

「まあね。こういう趣向の店に来るのは初めてだから」

 そう答えると、大樹は妖しげな微笑を浮かべて茂を見た。茂はつくづくと店内を眺めた。店には店主が趣味で買い集めたフィギュアやミニカー、漫画本などがずらりと並んでいる。営業中に地震が来たら大変だろうな、などと無粋なことは敢えて考えないようにした。大樹がやや躊躇しながら、

「これ、面白そうだね」

 と、少年誌で連載中の人気漫画のコミックを一冊手に取って読み始めた。茂は嬉しく思った。大樹が少しだけ“普通の高校生”に近付いてくれたような気がして。

 やがて、オムライスが運ばれて来た。玩具箱をひっくり返したような店内で食べるそれは、喫茶店の軽食にありがちな濃い味付けではなく、あっさりしていて美味であった。

 食後、涼葉と茂はコーヒーを追加で注文した。大樹は一人、漫画に読み耽っていた。但し、その平和な時間も長くは続かなかった。一体、どうやって探し出すのだろう。黒いスーツ姿の男が現れ、

「坊っちゃん。お探しいたしました」

 と、静かに言った。西田であった。

「残念。もう見つかっちゃったんだ」

 観念したように大樹は言うと、茂と涼葉の方を向き、

「今日は楽しかったよ。またね」

 とだけ言い残し、西田に連れられ店を出て行った。しっかり自分の食べたオムライスの料金を置いて行くことだけは忘れない。涼葉は、見てはいけないものを見てしまったような気がして目を伏せた。

「せっかく連れて来て貰ったのに、ごめんな。嫌な気分にさせて」

 茂は涼葉を気遣った。

「私は構わないけど……。あれじゃ、久住くんが気の毒ね」

 友人と会う時間すら満足に取れないほど、久住財閥の御曹司とやらは、過密スケジュールなのだろうか。

「大樹の親父さんは、大樹が俺と仲が良いのを快く思っていないみたいだしな。仕方がないんだよ」

 茂はため息をついた。そう。久住財閥の御曹司ともあろう者が、俺のような“貧民”と親しくするのをね……。

「ねえ。二人はどうして仲が良いの?」

 涼葉は、以前からの疑問を口にした。茂が素直に答えてくれるとは思っていない。だが、訊かずにはいられなかった。

「同病相哀れむってやつさ」

 案の定、茂からは意味不明な回答しか得られなかった。

「てか、お前は俺の誘いを断って、こんな店に来てるのか?鈴村さんからの誘いは、絶対断らないくせに」

 茂に拗ねられ、涼葉は困惑した。ここは、開き直ってしまおう。

「いつもじゃないわよ?私だって一人で出掛けたい時もあるし、女の子同士で遊びたい時もあるの」

「お前は、一人の時間を満喫し過ぎてる気がするけどな」

 そう言うと、茂は寂しさを押し隠すような吐息を漏らした。


 航一は、母親が自分の名を呼ぶ声を聞いて我に返った。“ちゃん”はやめろって言ってるのに……。母親の無神経さに苛立ちながら、

「それ、やめろ!ガキじゃねえんだから」

 勢いよく自室のドアを開け、階下へ向かって声をとがらせた。高校二年生にもなろうかという息子に向かって、“航ちゃん”は、どうかと思う。

「お客さんが来てるわよ」

 客?誰だろう。そんなことを考えながら、階段を下りる。なぜか嫌な胸騒ぎがする。恐らく、その客は意外な人物だ。そして……。

「客って、誰」

 航一が訊ねると、母は困った様子で、

「知らない男の人なのよ。名前を訊いても“本仮屋楓恋の兄と伝えて貰えれば、それでわかるはずです”って言って、教えてくれないの」

 と答えた。

「お袋は、涼葉の家にでも行っといてくれ。何かあったら、涼葉の携帯を鳴らすから。くどいようだけど、お袋は来るなよ?」

 そっと耳打ちして、航一は客人の待つ玄関へと向かった。母親を時田家へ避難させ、彼を招き入れる。一瞬心配そうに振り向いた母をスルーして、

「初めまして。須賀航一です」

 軽く会釈をすると、航一は彼の人相風体を観察した。まず、見た目からは年齢がわからない。本仮屋楓恋が28歳だというから、その兄であれば30は過ぎていてもおかしくはないはずだ。しかし、目の前にいるこの男は強いて言うなら20代半ばほどか。失礼な言い方になってしまうが、こんなちんちくりんが本仮屋楓恋のお兄さんなのか?俄かには信じ難い。体型は、けして肥満体とは言えないだろう。それでも、色白な顔だけがむくんでいる。満月様顔貌という単語が頭をよぎった。ステロイド剤の長期投与を受けた患者に見られる特有の丸顔だ。この顔は、それなのだろうか。一般的には美人の範疇に入るであろう妹に似ているとは言い難いが、目元に楓恋の面影がある。

「あの、これを。妹の遺品を整理していたら、この手紙が出て来たんです」

 男はおずおずと封筒を差し出した。その封筒と、封蝋の印璽に見覚えがあった。表には“須賀航一様”と書かれている。差出人の名前はもちろん、本仮屋楓恋となっていた。

「お兄さんが、自らこれを届けに来られたんですか?ご苦労なことですね」

 そのむくんだ顔が薬の副作用によるものであれば、彼の健康状態はけして良いとは言えないはずなのだ。楓恋が死んだ今となっては、本仮屋家を継ぐ者はこの人しか残っていないのに。誰か他に頼める相手はいなかったのだろうか。但し、この人物が本当に本仮屋楓恋の兄であればの話だが。

「それでは、僕はこれで失礼します」

 そう言って帰ろうとする風采の上がらない男を引き留め、航一は訊ねた。

「待って下さい。せめてお名前だけでも、教えて頂けませんか」

 男は明らかに迷っていたが、やがて、

「本仮屋瑛……」

 とだけ答えた。その横顔が苦渋に満ちていたのを、航一は見逃さなかった。

「もう一つだけ、質問させて下さい。あなたには、何らかの持病がありますね?」

 男は微かにだが、首を縦に振った。やはり、そうか。いつまで生きられるかわからないから、この人は本仮屋家の当主にはなれなかったのであろう。

 本仮屋瑛は航一に背を向け、歩き出した。彼は重い体を引きずるようにして、去って行った。あれは、やばい。航一は思った。彼に死なれたら、また一人、一連の事件に関する秘密の根幹とも言うべき暗部を知る人物を喪うことになる。そして、その日はそう遠くはない気がするのだ。嫌な胸騒ぎの正体は、悪報の訪れの暗示だったか……。航一は、寝癖のなおりきっていない頭を掻いた。

 母親を時田家に迎えに行き、そのまま自分は涼雅の部屋へ留まった。物心つく前から兄弟同然に育った、一つ年下の幼馴染。「歩く百科事典」と呼ばれている彼なら、知っているかもしれない。

「なあ。ステロイド剤を長期に亘って投与せざるを得ない病気って、何があるんだ?」

 涼雅は慎み深く、

「寡聞にして僕もよくは知らないのですが、腎臓病、膠原病、アレルギー疾患などでしょうね」

 と、答えた。

「副作用は?」

「よく知られているものに、満月様顔貌、中心性肥満があります。あとは、副腎不全や骨粗鬆症、精神障害や易感染性などがありますよ」

「なるほどね……」

 航一は腕組みをして、天井を睨んだ。涼雅は、

「お茶でも淹れて来ます」

 と言って、自室を出た。

 天井を睨みつけたまま、航一は考えていた。本仮屋楓恋の葬儀の喪主は、身内でもない彼女の婚約者が務めたという。楓恋の兄、本仮屋瑛は蚊帳の外なのだ。その存在は無いものとして、すべてが進められている。なぜだ?楓恋の死後、使用人は数名を除いて解雇されたそうだ。残された数名は、どのように選ばれたのだろう。普通、全員解雇されてもおかしくはない状況なのだが。瑛の世話をするため?それはないな。あの屋敷には、彼の居室はなかったはずだ。どこかに隔離されていると考えて、まず間違いない。あれだけの屋敷に住んでいる人間なら、別荘を持っていても不思議ではないが……。遠く離れた別荘から、妹の遺品を整理するために訪れた兄が手紙を見つけ、わざわざ俺の家まで持参した?それも違うな。航一は、重い体を引きずるようにして去って行った彼の後ろ姿を思い出していた。あんな体では、ここまで来られないだろう。瑛は、普段は本仮屋邸の隠し部屋かどこかに閉じ込められているのだろう。……多分。それに。日頃あの屋敷に住んでいないのなら、俺の顔を知っているはずはないのだ。『初めまして。須賀航一です』俺が名乗った時、瑛は顔色一つ変えなかった。まるで“存じ上げております”と言わんばかりに。

「航一さん、お茶を淹れて来ました。どうぞ」

 こいつは……。いつもの事だが、実に良いタイミングで現れる。優しくて、気が利く弟を持つ涼葉が羨ましかった。

「涼雅、お前……。いい嫁さんになれそうだな」

 航一が率直な感想を述べると、

「残念ですが、相手がいないので」

 そんな冗談を返すのであった。

 さて。問題は、これにどんなことが書かれているかだな。航一は、本仮屋楓恋の“遺書”と言っても差し支えないであろう封筒を、手に取って見つめた。さすがにこれをここで読むのはマズいよな……。航一は、涼雅が淹れてくれたカモミールティーを一口飲んだ。


 須賀航一様

 あなたがこの手紙を読んでいるということは、私はもうこの世にはいないのでしょう。私は死を覚悟して、例のメッセージカードを書きました。細心の注意を払い、暗号のようにして。もちろん、指紋も残さずに。以前お伝えしたとおり、私は香月稔の孫ではありません。私の祖父は香月稔の弟、香月瑛です。瑛。今この手紙を読んでいるあなたには、この名前に聞き覚えがあるはずです。本仮屋瑛。私の兄です。兄にとって、この手紙をあなたの家まで届けることがどれほど困難なことであるか。容易に想像出来るのですが、私には他に頼める人がいません。聡明なあなたはもうお気づきのことと思います。兄は、いつまで生きられるか、わからない体なのです。

 四人の画家の作品を集め「香月稔」という一人の画家の作品であるかのように見せかけたのは、黒死蝶です。宗教活動の資金集めのために、それをしたわけです。前期の香月稔は、辻将人です。彼も、黒死蝶の信者です。組織のためなら、否と言うはずがありません。後期の香月稔は、本人と弟の瑛です。怪盗紳士は、中期の香月稔が誰なのかを知ってしまいました。そのため、彼は中期の香月作品ばかりを狙うのです。

 黒死蝶は、目的のためなら手段を選ばないカルト教団です。もちろん、犯罪に手を染めることも厭いません。黒死蝶の信者の中には、資金調達のために犯罪行為を強いられている人間が十三人います。かつては、私もその中の一人でした。ですが、その活動内容と目的については答えてはくれないのです。ただ「そういうもの」なのだ、と。

 母が黒死蝶の信者だったので、私も洗礼を受けました。黒死蝶の信者は、洗礼の時に左上腕に黒い蝶のタトゥーを入れます。あなたの殺害を試みた森龍信の左腕にも、黒い蝶のタトゥーはあったはずです。

 母の影響で入信したものの、教団の実態を知るにつれて、私の中の信仰心は薄れて行きました。いえ。元々、信仰心なんてなかったのかもしれません。

 私には、どうしても巻き込みたくない人がいます。兄と婚約者です。ですから、あなた方に私の希望を託したいのです。あなた、あるいは怪盗紳士。どちらでも構いません。必ず、黒死蝶の正体を暴いてくれることと信じています。

 本仮屋楓恋

 夕方。自宅に戻り、手紙を読んだ航一は言葉を失った。便箋に綴られた文字は、以前届けられたメッセージカードに書かれていたものと酷似している。しかし、この手紙が本仮屋楓恋の手によって書かれた物なのかどうかを、早急に調べて貰う必要はある。航一は携帯電話に手を伸ばした。城一警部に手短に用件を伝えると、

「わかりました。明日、部下にその手紙を取りに行かせます」

 落ち着いた声で、彼は答えた。

「お願いします」

 とだけ言うと、航一は電話を切った。

 けどさあ……。俺か、怪盗紳士。黒死蝶の正体を暴いてくれさえすればどっちでもいいってのが、気に入らないな。そんなの、俺に決まってるだろ。


普通、かまってくれないと言って拗ねるのは彼女の方だと思うのですが……。このカップルの場合は、逆のようですね。

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