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追跡  作者: 青柳寛之
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第五章 それぞれの進捗

 季節は移ろい、晩秋を迎えた。航一はC組の教室で、茂が読んでいた文庫本を閉じる様子をぼんやりと眺めていた。ん?なんだろう。妙に引っ掛かる。

「おい、高木。その本」

「これか?」

 茂は、今しがた表紙を閉じた本を差し出した。航一は黙ってそれを受け取ると、引っ掛かりを覚えた部分を確認した。“カバーイラスト 辻将人”そこには、確かにそう書かれている。これは、あの“辻将人”と同一人物なのか、同姓同名の別人なのか……。調べてみる価値はありそうだ。おっと。こいつが知っているとも思えないが、一応訊いてみるか。

「なあ。この本の表紙のイラストを描いた人って、油絵も描いてたりするかな」

 本を返しながら訊ねると、

「え?知らねえ」

 案の定、茂からは想定された返答が返って来た。しかし、仮に二人の“辻将人”が同一人物であった場合。これまで膠着状態だった事態に、何らかの進展が期待できることは、ほぼ間違いない。アール・ヌーヴォーを代表する画家、アルフォンス・ミュシャ。その人でさえ、初期苦闘時代には雑誌の挿絵によって生計を立てていたという。二人が同一人物である可能性は、否定できない。

 早速航一は、放課後図書館へ向かった。

 該当する資料は、書籍ではなくインターネットで見つかった。辻将人。イラストレーター。本名は“真聖”だが、一般的ではないとしてペンネームでは“将人”としている。趣味で描いていた油絵は、転居を繰り返した際、散失。……。これだけでは同一人物なのかどうかはわからないが、生年が同じだ。趣味で油絵を描いていたという点も、気になる。転居を繰り返した際、散失?引っ越しを機に、処分したとでも言うのだろうか。趣味で描いた物でも、そんなに簡単に捨てたりはしないと思うのだが。それに“描いていた”と過去形になっているけど、今はどうなんだろう。

 気掛かりはもう一つあった。ネット情報なので、やや信憑性に欠けることだ。航一は首を捻った。イラストレーターで、現在も活躍している人だからな。資料が“書籍”という形で存在するはずがない。芸能人に関するゴシップでもあるまいし、この記事が捏造だとも思えない。でもなあ。略年譜くらい、あっても良くないか?それがないという事は、隠しておきたい事実があるということさ……。航一は、寝癖のなおりきっていない頭を掻いた。まだ推測の域を出ないが、恐らく二人は同一人物だ。どうにかして、この人に会うことは可能だろうか。彼が複数人で構成されている「香月稔」の一人だった場合、その事実を必死に隠そうとするはずだ。転居を繰り返した際、散失したという油絵。それらは「香月稔作品」として、世に出回っている可能性がある。一か八かで鎌を掛けてみるくらいなら、許されるだろう。但し、問題が一つあった。生年が同じで、同姓同名。それだけで同一人物とするのは、あまりにも短絡的で都合の良いこじつけだ。何か決定的な証拠があるなら話は別だが。けど。それを確かめるために、会いに行くんだろ?でも。そもそも、接触可能な相手だろうか。……って、そこかよ。そうだよなあ。振り出しに戻ってしまった。

 これまでの調べでわかっている“事実”から導かれる推測について、考えてみる。

 香月稔の作品は、作風によって前期、中期、後期に分けられる。作風ごとに別人によって描かれたものと仮定した場合、三人の「香月稔」が存在することになる。

 怪盗紳士がターゲットにしているのは、香月作品の「左下にサインがあるもの」だ。前期の作品は、サインは右にあったり左にあったりする。中期の作品には、サインは左側にしか書かれていない。後期の作品は、サインは右にあるものばかりだ。けして長いとは言えない生涯でかなり多くの作品を残している香月だが、左側にサインのあるものは、実は思いのほか少ない。そうすると、怪盗紳士は希少価値の高い作品を選んで盗んでいることになる。しかし、彼がそれを転売している形跡はない。それに。“私としたことが、勘違いで盗んでしまいました”として、ご丁寧に返却しているものもあるのだ。返却された作品は、いずれも前期のものであった。つまり、怪盗紳士の狙いは「香月稔の中期の作品」だ。

 まずはその「三人の香月稔」の正体がわからなければ、進展はないな。三人と決めつけるのは早計だが。特に、中期の香月稔。その人物はきっと、怪盗紳士に繋がっている。……はず。航一は腕組みをして、眉を寄せた。俺はまだ、諦めたくない。


 期末試験が始まった。これが終われば、冬休みだ。結局、大樹は帰って来ないんだな……。茂はそっとため息をつく。まあ、当然だよな。

『弟が、生まれた』

 黎明の空の下、茂の家の近くにあるコンビニエンスストアの電話ボックスからたった一言、低く掠れた声で絞り出すように告げた大樹。まだ残暑の厳しかったあの日。茂の家で少し早い朝食を摂りながら彼が吐き出した、自らの存在そのものを否定する言葉の数々。偽らざる本心であろうその言葉は、茂の心に暗い影を落とした。でも……。それは、お前のせいじゃないよ。どんな慰めの言葉も、大樹の心には響かない。それがわかっていたから、口に出せなかった。こんな時、須賀なら何て言うんだろう……?

 須賀航一。彼は、大樹が中学時代にどうしても成績で勝つことが出来なかった、ただ一人の人物だ。最強の好敵手を“進学”という形で失った大樹は、生きる目的を見失ってしまっていた。そういえば、鈴村さんの双子の兄貴が英徳に進学したはずだ。鈴村海司。しかし、その人では駄目なのだと大樹は言う。

『鈴村くんじゃ、駄目なんだよ。須賀くんでないと』

 自分と互角の力を持つ相手に勝っても、意味が無い。遥かに上を行く者に勝てなければ、無価値なのだ……。そううそぶく大樹は、明らかに苦しんでいた。

 俺には見つけられなかった、慰めと励ましの言葉。それが、須賀航一になら、見つけられたのかもしれない。

 大樹は、しばらくあの家には帰らない方が良い。“あの人”が、早苗さんに買い与えた豪邸には。あそこにはこれまで散々言葉の暴力で大樹を傷つけてきた「達夫さん」と「智子さん」がいるし、何より“顔も見たくない”弟がいるのだから。

 寮に戻る日。駅まで見送りに行った茂に向けられた、大樹の言葉を思い出す。

『来年の夏休みまでには、時田さんを彼女にしときなよ?』

 ハハハ……。難しい宿題を出されたな。来年の夏休みまでに?涼葉を彼女に出来てる自信なんか、ねえよ。


 瞬く間に試験は終わり、二学期終了の日を迎えた。何とか補習授業を免れた涼葉は、胸をなで下ろしていた。各学期の期末試験で一つでも赤点があれば、全教科の補習を受けなければならないのだ。これも、理解に苦しむ変わった通例の一つである。赤点だった教科だけで良くない?他の高校はそうなんじゃないかな……。

 普段よりも少し長めのホームルームの後、教室を出て行く生徒たちの足取りは、夏休み前ほど浮かれ調子ではなかった。しかし、束の間の小休止に誰もが安堵している。学校が休みに入ると途端に、頭が“仕事モード”に切り替わる須賀航一を除いては。

 涼葉は自分の方へ向けられた視線に気付いた。この気配は、美波だ。

「ごめん。待った?」

 教室を出て涼葉が訊ねると、

「ううん。今来たところよ」

 美波はそう答えて笑った。この笑顔を。私は守り抜くことが出来るのか……。いつも自らに問い続けてきたことだ。冬休みの間に、須賀航一の身に命に関わる危険が迫る予感があるわけではない。ただ、漠然と不安なのだ。

 美波と二人でC組のホームルームが終わるのを待ち、四人揃って帰路についた。

 涼葉が家に帰ると、涼雅がソファーでうたた寝をしていた。

「こんな所で寝てたら、風邪ひくわよ」

 そう言って、涼雅を揺さぶり起こす。彼はゆっくりと瞼を開き、

「ふあ……。お帰り、姉さん」

 欠伸をしながら、まだ眠そうな声で答えた。

「お昼、まだでしょ?今、作るから」

 と言いつつ台所へ向かう姉の後ろ姿を、悲哀の色を濃く落とした瞳で見つめる涼雅の想いに、涼葉が気付くはずもなかった。

 少し遅い昼食を摂りながら、涼葉は思案していた。日曜日にスキーへ行こうと、茂から誘いがあったのだ。断る理由がなかったのでOKしたのだが……。この緊張感の正体は、何だろう。変なの。やっぱり、断った方が良かったかな?箸が進まない姉の様子を見かねた涼雅が、

「そんなこと……。今ここで考えてみても、どうにもならないよ。行ってみないとね」

 ぼそりと言うのだった。私、何も言ってないのに!涼葉が驚きを隠せずにいると、

「気持ち悪いよね。わかってるんだ」

 苦渋に満ちた表情で呻いた弟は、傷ついているようにしか見えない。暗鬱な沈黙が続く。涼葉は後悔した。たとえ、この子が超能力まがいの不可思議な力を持っていたとしても。大切な弟であることに、変わりはないのだ。

「ご馳走さま。それでも僕は……」

 何を言おうとしていたのだろう。小さく掠れた声は、最後まで聞き取ることが出来なかった。肩を震わせながら、涼雅は静かに自室へ戻って行った。


 日曜日の朝。涼葉は迷っていた。スキーに行くんだから、めかし込んで出掛ける必要はないわね。それでも、茂と出掛ける時にはもう二度とジーンズは穿くまいと心に誓ったことだけは覚えている。偶然同じ銘柄のジーンズが好きなのだから、仕方がない。けど。着てる物が被るのは、嫌なんだよね……。結局、無難なのはタイツとショートパンツであろうと判断し、それを着て行くことにした。

「寒くない?」

 涼葉が待ち合わせ場所に到着すると、茂が訊ねた。彼は、涼葉のショートパンツからすらりと伸びた脚を見ている。タイツ穿いてるから寒くはないわよ?そのように伝えると、

「それならいいけど……」

 と言いながらも、やはり心配そうな顔をしていた。少し過保護なんじゃないかな……。涼葉は思ったが、黙っていた。将来茂の彼女になる、どこかの誰かさんに同情する。きっとこの人は、暑苦しい彼氏になるに違いない。

 吐く息の白さが眩しい。師走の寒空の下のバス停は、ただ静かにそこにあった。他にバスを待つ人もなく、二人の足元を冷たい風が通り過ぎる。やがてやって来たバスに乗り込むと、当然のように茂は涼葉の隣に腰をおろす。これももう、違和感ないけど……。それでも、この人と友達以上の関係になるつもりはない。

 目的地に到着するまでの間、茂は持参した文庫本を読んでいた。高木くんって、この作家の本、読むんだ……。同じ銘柄のジーンズが好きで、同じ作家の作品が好き。もしかして、私とこいつは趣味が似ているの?認めたくない事実であった。

 次に停車するバス停の名を告げる、どこか間の抜けた音声を聞いて我に返る。ここで降りなくちゃ。涼葉は一瞬ためらった後、茂の袖を軽く引っ張った。明らかに“恋人”の仕種である。こんなことをしている自分を恥じた。何だか“普通の女”に成り下がってしまったような気がしてならない。男に縋って生きて行くような。そういう女に、私はなりたくない。冷たく暗い光が、涼葉の瞳の奥に宿る。

「ああ……。もう着いたんだ」

 茂は本を閉じて立ち上がり、ジーンズのポケットにそれをねじ込んだ。

 バスを降りると、そこは登山口だった。スキー場は山の中腹にある。夏はキャンプ客で賑わい、冬はスキー客が多く訪れるこの場所は、今日に限ってなぜか人が少なかった。

 二人は無言で山を登って行く。途中で茂が、

「雪の質が、スキー向きじゃないな」

 と呟いた。昨日降ったぼた雪が、表面を覆っているのだ。そんなことより、涼葉には気掛かりがあった。レンタルのスキーウェアに、サイズが合う物があるかどうか……。それは、茂にも同じことが言えるのではないだろうか。涼葉は隣を歩く彼を一瞥すると、ため息をついた。結局、その心配は杞憂に終わった。

 天気予報では、一日中晴れる予定であった。軽い昼食を済ませ、午後からも冬ならではのスポーツを満喫していた矢先である。急に空が暗くなり、雪が激しく降り始めたのだ。他の客が慌てて帰り支度を始めた。駐車場から次々と自家用車が走り去って行く。もちろん涼葉と茂も予定を変更し、帰ることにしたのだが……。すでに、バスも電車も運転休止が決定した後だった。二人は途方に暮れた。その間にも、雪は容赦なく降り積もってゆく。

 茂は涼葉の顔色を窺った。キャンプ場のロッジを、急な大雪で帰れなくなったスキー客のために格安で提供すると言うのだ。泊まり掛けで来ている客の手前、無料というわけにはいかないらしい。それでも、ありがたい申し出には違いなかった。しかし。涼葉が承知するだろうか。俺と二人で、けして広いとは言えないロッジに一泊することを。気の強い彼女のことだ。「歩いて帰る」とでも言い出しかねない。バスで40分もかかるこの場所から?徒歩でなら、6~7時間はかかるはずだ。こんな吹雪の中を?そんな無茶な!

 ありったけの勇気を振り絞って、茂は口を開いた。

「今日はここに泊って行かないか?」

「え……?嫌。歩いて帰る」

 涼葉からは、予想通りの返答が返って来た。

「嫌なのはわかるけどさ、仕方ないだろう」

 聞き分けのない子供をなだめるような口調で、茂は言った。涼葉の口から、想定外の言葉が飛び出した。

「嫌。須賀くんのことは信用出来るけど、高木くんのことはそこまで信用してないよ?なす術もなく、犯されてしまう以外の結末が見えない……」

「嫌われたくない相手に、そんなことはしない!」

 思わず語尾が荒くなる。当然だ。最も比較されたくない相手と、比べられたのだから。生後三ヶ月健診の時からの付き合いの幼馴染に、俺が勝てるはずがないだろう。

「だったら、どう思われても構わない相手になら、するの?最低ね」

 涼葉は、嘲笑するような言い方をした。きつい口調ではあったが、恐怖心を押し殺しているような表情に見える。お前は、俺が怖いのか?茂は急に悲しくなった。思わず、

「わかったよ……」

 と、力なく答えた。なあ、涼葉。お前の頭の中で、俺はどういう男になってんだ?

 とぼとぼと歩き出した茂の後ろを、涼葉がついて行く。気まずい沈黙の中で、二人はひたすら歩き続けた。

 似たようなビルが立ち並ぶ街並み。どこまでも続く真っ白な風景。そのせいか、時間の感覚が麻痺してしまっていた。歩き始めた頃は、まだ夕暮れ前だった。最早それしか覚えていない。いつの間にか雪が止んで、辺りを暗闇と静寂が支配する頃、

「こっちにおいで」

 茂が振り向いて、涼葉を呼んだ。涼葉が顔を上げると、いつもと変わらない愛情たっぷりの眼差しが目に映る。これだけは、未だに慣れない。私はあなたを傷つけたのに……。まだそんな目で、私を見るの?涼葉が黙っていると、

「こうすると、寒くないよ……」

 茂はそう言うと涼葉の方へ歩み寄り、冷え切った体を抱きすくめた。

「少し過保護だよ?」

 涼葉が正直な感想を述べると、

「そんなことはない。これくらい、当たり前だろ」

 さらりと返された。いや、いや。何をおっしゃっているの。充分、過保護でしょう……。涼葉は思ったが、反論する気力もなかった。やがて茂は涼葉を包んでいた腕を離すと、

「よく歩いたな。もう少しで、着くよ」

 と言った。

 そこからは二人並んで、手を繋いで歩いた。これって“恋人繋ぎ”だよね?色恋沙汰に関心がない涼葉でも、それぐらいわかった。暖を取るため、手を繋ぐのだ。わざわざ恋人繋ぎにする理由などないはずだが。もういいよ、なんでも。涼葉は諦めた。

 時田家の玄関が見えて来た。ああ、やっと帰って来たのね。長かった……。思わず安堵の吐息が漏れる。

「じゃあ、またね」

 そう言うと繋いでいた手を離し、立ち去ろうとして踵を返した茂がふらついて倒れた。

「高木くん?」

 咄嗟に駆け寄り、彼の額に手のひらを当てた。異常に熱い。

 急いで玄関の鍵を取り出し、ドアを開けた。目の前に、パジャマ姿の涼雅が立っている。

「お帰り、姉さん。茂さんには、泊って行って貰ったら?」

「そうね……」

 涼葉は茂を両手で抱えると、彼を家に連れて入った。涼雅に布団を敷いて貰い、その上に茂を寝かせる。毛布を掛けながら、

「お父さんとお母さん、まだ帰って来てないの?」

 気になったので訊ねてみた。二人とも、朝起きて見知らぬ男が家にいたら、大層驚くに違いない。……。別の意味で。

「父さんは“熱があるから”って定時に帰って来て、ご飯も食べないでそのまま寝たよ。母さんは“雪で帰れないから、ビジネスホテルに泊まる”って電話があった」

 涼雅はそう答えた後、

「ちゃんと介抱してあげなよ?」

 と言い残して、滅多に使われることのなくなった和室から出て行った。言われなくたって、わかってるわよ……。涼葉は水枕と氷嚢を用意するため、台所へ向かった。そこへ、何事かを思い出したように涼雅が顔を出し、

「水枕は父さんが使ってるから、氷嚢しかないよ」

 と言うのだった。

「あら、そうなの」

 さすが超能力者と言うべきか……。涼葉は苦笑した。


 目を覚ますと、そこには見慣れない天井があった。ここは、どこだろう。高木茂は、まだ少し朦朧としている頭で、懸命に思い出そうとしていた。……。そうだよ。涼葉を家まで送り届けた後、帰ろうとした時、倒れたんだっけ。そうすると、ここは涼葉の家か。うわあ、何やってんだ?俺。起き上がった拍子に、額から氷嚢が落ちた。その時、襖の向こうに人の気配がした。その気配が誰の物なのかを理解した茂は、恥ずかしさのあまり、思わず寝たふりを決め込んだ。氷嚢を額に乗せることも、忘れない。

「高木くん、起きてる?」

 涼葉は、襖の向こうの茂に声をかけた。返事がない。襖を開けて覗いてみると、寝かせた時のままの姿勢で茂は眠っていた。音を立てないように気をつけながらそっと中に入り、襖を閉めた。氷嚢を傍らに置くと、持って来た蒸しタオルを広げて顔を拭いた。額に手のひらを当ててみると、まだ少し熱い。

 涼葉は茂の寝顔をじっと見つめた。私、絶対この人に惚れない自信、あったんだけどな……。過保護だし、暑苦しい彼氏になるんだろうけど。それでも、高木くんが好き。悔しいから、起きてる時にはしてあげない!涼葉は自分の唇を、茂のそれに押し当てた。やがて唇を離すと、愛しそうに彼の寝顔を見つめた。思わず、恥じらいを隠すような吐息が漏れる。涼葉の“敗北宣言”であった。


 朝。航一は、郵便受けの中に自分宛ての封筒を見つけた。女性らしい繊細な文字で“須賀航一様”と書かれている。郵便番号や住所は、書かれていなかった。差出人の名前は……。“本仮屋楓恋”となっている。これは一体、どういうことだ。

 早速開けて中を見てみる。綺麗な絵柄のグリーティングカードに、箇条書きでこう書かれていた。

 本仮屋楓恋の祖父は、香月稔の弟である。

 「香月稔」は、四人存在する。

 イラストレーター辻将人と、洋画家辻将人は同一人物である。

 黒死蝶とは、目的のためなら手段を選ばないカルト教団である。

 十三人目は、裏切り者のユダ。ここから先は、ノーヒント。

 高そうな封筒に、綺麗な絵柄のグリーティングカード。その上、封蝋などという凝ったやり方で封がしてある割には、あまりにも……。そんなことより、本当にこれは本仮屋楓恋の手によって書かれたものなのだろうか。まずは、オッサンに頼んでそれを確認して貰わないと。航一は急いで身支度を整え、時田家へと出向いた。ただ、向かいの家に行くだけなのだが。

 玄関の呼び鈴を押すと、出て来たのは涼雅であった。

「おはようございます。何かあったんですか?」

 驚いて訊ねる彼に、航一は、

「動くぞ。オッサンはいるか?」

 とだけ、答えた。

「父さんは、熱を出して臥せっています」

 涼雅は困ったような笑顔を浮かべた。そうか。だったら、起きて来るまでここで待とう。そういえば、強烈な違和感があった。なぜ、これがここにあるんだ?航一は、その疑問を率直に口にする。

「高木が来てるのか?」

「はい。来てるというか、あの人も熱を出して臥せってます。昨日、少し無理をしたみたいで」

 涼雅が簡潔に事情を説明すると、航一は、

「それ“少し”じゃなくて、“かなり”の間違いだろ……」

 と呆れたように呟いた。そして、こう続けた。

「見覚えがある靴だと思ったんだよな」

「あの人、学校にあんな靴履いて行くんですか?」

 涼雅が眉を寄せる。

「違うよ。一緒にボウリングに行った時、履いていたのがあの靴だったんだ」

 航一がソファーに腰をおろすと、涼葉がリビングに入って来た。

「おはよう。お父さんに用事?」

 それには答えず、航一は怒涛のように、非難の言葉を涼葉に浴びせた。部屋の隅のケージ内で飼われているウサギが怯える。

「だって、身の危険を感じたんだもの。当然でしょ?」

「嫌われたくない相手に、そんなことはしない!」

 航一は、昨日の茂と同じ言葉を投げつけた。

「お前はそこまで俺を信用していない。俺となら平気で泊まれるのは、俺なら簡単に力でねじ伏せられる自信があるからだ。違うか?」

 そう言って、涼葉を睨むのだった。

「そうかもしれないわね」

 鈍く鋭い光を放つ視線が絡み合う。険悪な雰囲気は、あわや乱闘かと思われた。航一が、腕力で涼葉に敵うはずはないのだが。そこへ急にドアが開き、

「おはよう。トイレ、借りたいんだけど……」

 と、茂が恐る恐る顔を出した。話は全部、聞こえていたのだろう。

「涼雅。案内してあげて」

 涼葉が言うと、涼雅は怯えたウサギを抱きかかえたまま、

「どうぞ。こちらです」

 と言いながら、リビングを出てトイレへ向かった。茂がその後について行く。二人の気配が遠ざかるのを待ち、航一は子供に言い聞かせるような口ぶりで言った。彼自身の弁解も交えながら。涼葉が航一を信用していないはずなど、ないのだ。

「この言い方は、何か違うな。少なくとも、お前の判断は間違ってはいなかったわけだし。けどさ。物心つく前からの付き合いの俺と、すぐには思い出してさえ貰えなかった高木を比べるのは、間違ってるだろ?そこは、謝っとけ。あいつ、口には出さないだろうけど、落ち込んでるぞ?もの凄く」

 それを聞いた涼葉は、

「間違ってはいなかったけど、正しくもなかったわね……」

 意味深長な言葉を吐いて、後悔のため息をつくのであった。

「惚れたのか?」

 航一の問いに、涼葉は黙って頷いた。そうか。お前、ついに俺から離れて行くんだな。嬉しくもあり、寂しくもあった。ずっと、それを望んでいたはずなのに。娘を嫁にやる父親の気持ちって、こんな風なのだろうか。少し大袈裟かもしれないが、素直に感慨深い。

 涼葉は茂のために粥を作り、航一は勇作の目覚めを待った。まるで何事もなかったかのように、穏やかな空気に包まれている。涼雅は内心安堵していた。茂さんのせいで、二人が険悪になったら……。それはそれで、どうかと思う。航一さんの命を救えるのは、姉さんだけなのだから。彼は姉が“ショコラ”と名付けて可愛がっているウサギをケージに戻す。

 粥が出来ると、涼葉は和室へとそれを運んで行った。

「高木くん。何してるの?」

 涼葉は呆れた。茂は敷き布団の上で掛け布団を体に巻き付けて、す巻きになっていた。顔すら見えない。す巻きが、

「カッコ悪い。恥ずかしい」

 と、不機嫌な声で言った。

「あら、そう。お粥作って来たんだけど、食べないのね?」

 涼葉がそう言うと、

「俺、お前には勝てる気がしない……」

 茂は、ゆっくりと起き上がった。差し出された粥を食べながら、

「とても幸せな夢を、見ていたような気がする」

 とだけ、言った。

「どんな?」

 涼葉が訊くので、ためらいながら答える。怒るんだろうな、と思いながら。

「朝、目が覚めたら、見慣れない天井が目の前にあるんだ。ぼんやりと、ここはどこだろうなんて、考えていたのさ。思い出したら、恥ずかしくなって。寝たふりをしている俺の所にお前が来て……。キス、してくれたんだ」

「それ、夢じゃないし。てか、狸寝入りだったの?」

 その声に、怒気は含まれていない。すっかり呆れ果て、怒る気力も失せたようだ。

「ごめん」

 茂は残りの粥を掻き込んだ。

「幸せな夢だと思ったんだ。でも、夢じゃないんだろ?」

 疑問形で確認する。見慣れない天井。鼻腔が捉えた、清楚な香り。唇に触れた、柔らかく温かな感触。そうだ。あれは、夢ではなかった。それでも確かめずにはいられない。

「夢じゃ、ないよ……?」

 涼葉が静かに答える。

「目が覚めた夢を見ていた、なんて洒落にならないオチは……」

「つかないよ?」

「お前、呆れてるだろ」

「少しね」

 そんなやり取りの後、心地よい沈黙が流れた。


 茂が帰ってからしばらくすると、勇作が起きて来た。病み上がりの蒼白な顔をしていたが、航一の姿を見ると、

「何かあったのか?」

 と、表情を豹変させた。

「これさ」

 航一は、今朝届いたばかりの封筒を取り出した。

「何だ、これは」

「とにかく、中を見てくれ」

 促されるままに、勇作は封筒の中からカードを取り出し、意味不明な例のメッセージを読んだ。

「これが本当に本仮屋楓恋が書いた物なのかどうかを、調べて欲しいんだ」

「わかった。どうにかしてみよう」

 そう言って頷く勇作の顔色が冴えない。久しぶりの発熱が、身に応えたようだ。

「熱出して臥せってたんだって?あまり、無理はするなよ。もう、若くはないんだから」

 航一がそう言ってやると、

「一言余計だ」

 勇作の顔に、いつもの笑みが戻った。

 その日は涼葉の作った昼食をご馳走になり、時田家を辞した。


茂くん、よく頑張りました。

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