第四章 黒死蝶
夏休みも、残すところあと一週間となったその日。時田涼葉が危惧していた“それ”は起こった。須賀航一の背後に忍び寄る、何者かの黒い影を見つけた涼葉は叫んだ。
「須賀くん、逃げて!」
航一は咄嗟に振り向いた。自分を狙う者の姿が目に入る。すぐさま右手で敵の手首を取り、取った手の甲に左手を添え、手首を返しつつ肩関節を……。その様子を見た涼葉は、マズいと思った。航一が今まさに繰り出そうとしているのは、合気道の基本的な技、小手返しだ。その程度で押さえられるような相手じゃないのに!
涼葉は二人を強引に引き離すと、目出し帽を被った男めがけて飛び膝蹴りを放った。
「強いな、嬢ちゃん」
男は下卑た、しかし、どこか余裕のある声でせせら笑う。涼葉は嬉しくなった。そこらにいるヘタレ不良とは違い、そこそこの実力者だ。でもね?残念だけど、実力は私の方が遥かに上よ……。男は隠し持っていた拳銃を取り出した。瞬間、涼葉の手が素早く男の手首を掴んで捻った。男の手から、拳銃が足元に落ちる。涼葉がそれを、足で航一の方に向けて跳ね飛ばした。
「銃があるから勝てるとでも思った?甘いのよ」
そう言って男の胸ぐらを掴むと、下方から顎目がけて拳を繰り出す。男の体は空中で大きく弧を描いて、アスファルトに叩き付けられた。
航一は拾い上げた銃をじっと見つめた。これは、回転式拳銃だ。そう判断すると、彼は涼葉と格闘している男の方へ銃を向け、ためらうことなく引き金を引いた。目出し帽の男は、かなり腕に覚えがあるように見て取れた。堂々と応戦していたが、所詮涼葉の敵ではなかった。そんな二人の乱闘を止める方法を、航一は他に思いつかなかったのだ。
「何だ、今の銃声は!」
今しがた犯行現場を後にし、航一と別れたばかりの勇作が勢いよく振り向く。岡本、山崎の両名も、反射的にそちらへ振り向いている。
「とにかく、行ってみましょう」
走り出した三人の脳裏には“最悪の事態”が浮かび上がっていた。
航一の思惑通り、弾丸は男の足に命中した。男を殴り付けていた涼葉の拳が止まる。丁度そこに駆けつけて来た勇作と二人の部下は、信じ難い光景に息をのんだ。三人は、航一が何者かに銃で撃たれたのだろうと予測していた。しかし、銃を持って立っていたのは航一で、目出し帽を被った男の足から出血……?
「何があったんだ?」
勇作の問いに、航一は、
「暴発したんだよ。その弾が、俺に襲い掛かって来たヤツの足に当たった。それだけだ」
顔色一つ変えずに、答えた。山崎が負傷した男の足に、応急処置を施している。
「その拳銃はどうした」
「涼葉が、その目出し帽の男から取り上げたんだ」
銃を手渡しながら、航一が事の次第を手短に説明すると、勇作の顔色が変わった。
「どうしてお前がここにいるんだ?」
そう言って娘を睨む勇作に、
「心配だから、跡をつけて来たの」
と、悪びれもせず涼葉は答えた。今更何を言っても、聞く耳は持つまい……。でもなあ、お前は女の子なんだぞ?勇作はため息をついた。
「まあ、いい。済んだことだ」
岡本が男から目出し帽を剥ぎとった。30代半ばであろうと思われる顔が現れる。
「いつまでもこんな所にいないの。さっさとその男、連れて帰りましょ?」
山崎が車の中から手招きをしている。応急処置を終えた後、乗って来た車を取りに引き返したのだろう。相変わらず、用意周到だ。
「そうだな。とりあえず、俺たちはこいつを連れて戻る。また何かあったら、連絡するから」
勇作が航一にそう告げて、岡本が男を車に乗せようとした時、
「皆、伏せて!」
涼葉が叫んだ。その一声の後、男の体が力なく崩れ落ちた。白いTシャツが血で染まっている。
その後は勇作が救急車を呼んだり、何やらバタバタしていたが……。涼葉は見逃さなかった。視界の端を、一台の軽自動車が走り去って行くのを。
「あの男、生きていてくれれば良いが……」
涼葉と二人でその場に取り残された航一は、寝癖のなおりきっていない頭を掻いた。
「幸運を祈るしかないわね。そう言えば、須賀くん」
「何だ」
「さっきのあれ、狙って撃ったんでしょ?」
「まあな」
航一はあっさりと認めた。それをとやかく言うような涼葉ではないはずだ。そして、勇作も多分気付いている。
「でも、回転式拳銃だったから撃てたんだ。あれが自動式拳銃だったら、撃ってないよ」
「どこがどう違うのよ」
「弾倉と呼ばれる弾丸を収納するスペースが回転式になっているのが、回転式拳銃。装弾数が少ないのと弾薬の再装填に時間が掛かるのが弱点だけど、構造が単純だから不発や弾詰まりが起きにくいのがメリット。一般的な自動式拳銃は、引き金を引く度に一発ずつ弾丸を発射、排莢、再装填を行う半自動式。口径にもよるけど、多い物では15発以上の弾丸を装填出来るし、グリップ内に挿入されている弾倉を交換することで装填が簡単に出来る。体技に自信があるからさほど立派な武器は必要なかったのか、単に射撃の腕に自信がなかっただけなのか……」
「私なら、腕一本で勝負するけどね」
それはお前だけだ。航一はそう言ってやりたかったが、黙っていた。その代わりに、
「お前にもしもの事があったら悲しむ、特殊な趣味の物好きがいるのを忘れんなよ」
とだけ言った。
初秋とは思えないほどの厳しい暑さの中で迎えた始業式では、生徒の大半が夏休みの疲れを残している様子だった。明日からは、通常通り授業が行われる。式が終わり教室に戻ると、気だるい空気が漂う中、ホームルームが始まった。担任の「千穂ちゃん」は、異様に跳ね上がったテンションで教室に現れた。この人、入学式後のホームルームの時も、こんな感じだったっけ。
まず、宿題を提出する。正答率七割未満だと突き返され、再提出しなければならないらしい。面倒臭いことを……。涼葉は思った。私、七割正解している自信、ないんですけど?また、涼葉たちの通う高校には変わった通例があった。それは、文化祭と体育祭を一年交代で実施するというものだ。今年は文化祭である。
かなり揉めたが、文化祭のクラス展示はメイド喫茶に決定した。どうしてもゴスロリメイド服を着たくなかった涼葉は、
「この私に似合うと思うの?そんなもの」
と、凄んで見せた。その一言でA組の生徒たちは水を打ったように静まり、涼葉の調理担当が即決した。恐れられているというのは、こういう時に非常に便利だ。
ホームルームが終わり、涼葉は帰り支度を始めた。教室を出ると、美波と航一が待っていた。あれっ?一人足りない。
「高木くんは?」
涼葉が訊ねると、航一が、
「クラブ展示の話し合いがあるから、先に帰っててくれってさ」
と、答えた。文化祭の展示は、クラス展示よりもクラブ展示の方が優先されるのだ。だが、茂が部活動に所属しているという話は、聞いたことがない。しかも、クラブ展示があるのは文化部のみで、運動部の部員はクラス展示に参加するのだ。あの高木くんが、文化部……。強烈な違和感が拭い去れない。
「クラブ展示?」
「あいつ、美術部のユーレイなんだよ」
恐らく、幽霊部員の意味なのだろう。それにしても、美術部って……。似合わないにもほどがある。
「寂しいの?」
美波が涼葉に訊ねた。
「そんなわけ、ないでしょ。これから文化祭が終わるまで、あいつの顔を見ずに済むと思ったら、清々するわ」
涼葉が答えると、
「そう……?さっき私たちを見て“高木くんは?”って訊いたじゃない」
美波は柔らかい微笑みを浮かべて、言った。その隣で航一も、寝癖のなおりきっていない頭をポリポリと掻いている。やっぱり、美波には勝てない。涼葉は素直にそう思った。
「寂しくはないけど……。一人足りないなあ、とは思うかな?」
涼葉が白状すると二人は黙っていたが、穏やかな空気がその場に流れた。
翌日からは通常通り授業が行われ、それと並行して文化祭の準備が進められた。いつものように四人で弁当を食べていると、校内放送が流れた。
“一年A組の時田涼葉さん、一年C組の高木茂くん。放課後、生徒会室まで来て下さい”
それを聞いた二人は、驚いて顔を見合わせた。
「お前ら、何かしたのか?」
航一が呆れ顔で訊ねた。
「何もしてないわよ。高木くんは?」
「俺も、特に覚えはねえな……」
茂は首を捻る。
「あー……。でも俺、悪いけどふける。クラブ展示の準備があるし」
逃げる気ね?涼葉は思った。それを口に出しかけたが、やめた。茂がいつになく真摯な面持ちをしていたからだ。
放課後、涼葉は渋々一人で生徒会室まで赴いた。私、何もしてないわよ!勢いよく生徒会室のドアを開ける。
「校内放送を聞いて、来たんですけど……」
涼葉は、生徒会長を睨みつけた。平常心を装ってはいても、内心では怯えていることが手に取るようにわかる。神経質そうな顔をしたカイチョーのこめかみが、小刻みに震えている。
「高木くんは?」
生徒会長は、恐る恐る訊ねた。
「クラブ展示の準備があるからふけるって言ってました」
込み上げてくる笑いを必死に堪えながら涼葉が答えると、彼は、
「困ったなあ……。二人に頼みたいことがあったのに」
と、呻いた。
「頼みたいこと?」
「文化祭の日には必ず他校の不良生徒が押しかけて来て、本校の生徒と何らかのトラブルを起こす。僕たちが一年生だった一昨年にもあったし、以前から同様の事例はあったそうだ。君たち、強いんだろ?それらしき姿を見かけたら、出来るだけ穏便に追い払って欲しいんだよ」
なるほどねえ……。涼葉はうんざりした。自分たちの手は汚したくないが、生徒会執行部の体面は保ちたい。そんなところか。即答はしない方が良さそうだ。
「引き受けるかどうかはともかく、高木くんには私から伝えておきます。返事は二~三日待って下さい」
涼葉はそう答えると、生徒会室を後にした。
「お待たせ」
そう言って微笑む涼葉の視線の先には、美波がいた。
「どんな用件だったの?」
「文化祭当日に他校の不良生徒を見かけたら、なるべく穏便に追い払って欲しいんですって。返事は保留しておいたけどね」
「それ、本来なら風紀委員の役目でしょう……?」
美波は確認するように疑問形で呟いた。
「わかんない。でも、私たちに振るような仕事じゃないと思う」
涼葉が答えると、美波は妖艶な笑みを浮かべ、
「あのカイチョーの弱みなら、いくつか知ってるわ。要る?」
と言った。
「どうしてそんな情報、素で持ってんの!」
涼葉が驚きを隠せずにいると、
「ごめん……。冗談よ。でも、情報は渡世の命綱でしょ?」
そう言って、笑うのだった。冗談に聞こえないんだけど。涼葉は返答に窮した。隣を歩く美波の、理知的な瞳が輝いている。さすが、探偵の彼女……。勝てないはずだ。
そんな事とはつゆ知らぬ航一は、派手にクシャミをした。特に風邪を貰った覚えはないが。それにしても“あれ”はどういう意味なんだろう。あの日。怪盗紳士は、いつものように犯行現場にメッセージカードを残して行った。ただ、そこには「確かに頂いて参ります」の続きに「追伸 素人探偵くん。黒死蝶に気をつけ給え」と書かれていたのだ。そして、オッサンたちと別れて現場を後にした際、俺はあの目出し帽の男に襲われた。搬送先の病院で彼は亡くなったそうだが、左上腕に黒い蝶のタトゥーが見つかったという。すでに失踪宣告が出されていたため、身元の特定に時間が掛かったとも聞いた。
もう一つ気になるのは、県立美術館の倉庫が爆破された時のことだ。俺たち四人の射殺を試みた犯人と、黒い蝶のタトゥーの彼、森龍信を殺害した犯人は同一人物なのだろうか。中層ビルの非常口から出て来た犯人と思しきアロハシャツの男は、細長い布製の袋を肩に担いでいた。袋の中身は、自動小銃と判断して間違いないだろう。その際使用されたグレーのアルトは、盗難車であったことがわかっている。自動小銃に、盗難車……。まず、小銃自体が軍隊のライフルだ。民間人が猟銃として持つことが出来る代物ではない。その上、現在多くの車は電子制御されている。車の制御機器を自分が用意した別の機器にすり替えなければ、ドアの鍵を開けることすら出来ないだろう。自動車を盗むという事は、けして容易ではないのだ。森龍信が殺害された現場から走り去った、一台の青い軽自動車。遠目だったため、ナンバーが確認出来なかったことが悔やまれる。あれも盗難車だったとしたら……?あのアロハシャツの男は、危険だ。それに“黒死蝶”とは、一体何だ。
黒死蝶とは何なのか。その正体の可能性について、航一の脳裏に幾つもの推測が浮かんでは消えた。一番現実的だが最も信じたくないのが、これか……。
黒死蝶とは、未だその存在を知られていない犯罪組織。または、グループである。
それが、巡る思考の中から航一が選んだ結論であった。ここまで考えてみて、ある疑問が浮かぶ。なぜ、怪盗紳士は彼らの存在を知っていたんだ?怪盗紳士も、黒死蝶の一味だから?いや、それはないな。だったらわざわざ「追伸 素人探偵くん。黒死蝶に気をつけ給え」などと忠告するはずがない。かつては仲間だったが、今は敵対している?それとも……。航一は息をのんだ。怪盗紳士も、奴らに命を狙われている?あり得ない話ではない。仮に怪盗紳士がかつては黒死蝶の一味だったとして、何らかの理由で組織を離脱し今は敵同士ならば……。あるいは、組織と呼べるほど大規模な物ではなかったとしても。裏切り者を生かしておくわけがない。
俺の始末をし損なったから殺されたのであろう、森龍信。県立美術館で俺たちの射殺を試みた、アロハシャツの男とその共犯者。彼らは皆、黒死蝶のメンバーなのだろう。しかも、怪盗紳士も連中に命を狙われている可能性があるのだ。タイムリミットはあと五枚などと、悠長なことを言ってる場合じゃねえ!早く捕まえないと、怪盗紳士が消されちまう。てか、俺も狙われてんのか。……?ちょっと待て。狙われているのは“俺”なのか、それとも“俺たち”なのか。現段階で判断するのは難しい。当然、二度も奴らの犯行を阻止した涼葉の命も危うい。オッサンにも話しておこう。航一は携帯電話に手を伸ばした。
いつもと変わらない食事風景の中で、涼葉は昨日聞かされた生徒会長の用件を茂に伝えた。すると彼は、
「出来るだけ穏便にお引き取り願うってのは、無理だろ。角を立てたくないなら、頼む相手を間違えてる」
と、ふてぶてしく言い放った。それは昨日涼葉も思ったことだ。
「断ろうか?」
涼葉は訊ねた。正直なところ、気の進まない申し出でもあった。しかし茂は、
「どうすっかなあ……」
と、唸っている。
「体よく断るにはどうすればいいか。難しいよな」
航一がそう言うと、茂は無言で頷いた。航一は言葉を続けた。
「こう言うんだ。“例の件、お引き受けしますが、万が一乱闘になった時には、生徒会長に全責任を負って頂きたいと思います。本来なら、俺たちがしゃしゃり出るような事ではありません”とな。この条件を出して、カイチョーに蹴らせる。そうすればこちらから断ったことにはならないし、仮にカイチョーがこの申し出を受けて文化祭当日お前たちが警察沙汰に巻き込まれたとしても、ボイスレコーダーか何かにその会話を録音しておけば“生徒会長命令”だったと言い逃れが出来る。まあ、あのカイチョーのことだ。こんな分の悪い交換条件を呑むわけないよ。けど、一応録音はしとけよ?念のためだ」
「なるほどな。その手で行くか」
茂の顔に、安堵の微笑が浮かんだ。
「涼葉。放課後、一緒にカイチョーに会いに行こう。野暮用は早く済ませたい」
「わかった」
涼葉は頷いた。やはり、即答は避けて正解だったわね……。
「ボイスレコーダーが必要なら、貸すぞ?」
「おう、サンキュー。てか、そんな物持ち歩いてんのか?お前」
茂が呆れ顔で訊ねると、
「探偵の七つ道具だからな」
航一は平然と答えた。
その後は、各々のクラス展示の話題で盛り上がった。C組はお化け屋敷、E組はディスコだと言う。航一は冷やした蒟蒻を糸で垂らして客を脅かす役目だった。美波は客引きだ。
「A組のクラス展示は何なんだ?」
茂の問いに、涼葉は渋々答えた。
「メイド喫茶……」
「へえ。ゴスロリメイド服、着るのか?見たいなあ」
「私は調理担当」
涼葉の返答に、茂は明らかに落胆していた。涼葉の悪戯心が疼く。
「高木くんのためだけになら、着てあげてもいい……」
恥じらいを装い、首を傾げて消え入りそうな声で言うと、
「ホントに?」
嬉しそうな顔をする茂に、涼葉は戸惑った。え……。そんなに喜ぶようなことなの?しかし、そこはにべもなく言い切る。
「そんなわけ、ないでしょ」
「残念だったな、高木。まあ、次に期待しようぜ」
航一が茂を慰めている。その光景を、終始無言で見守っていた美波は思った。高木くん、頑張って。多分、あともう少し……。
航一にはもう一つ、頭の痛い課題があった。例の暗号だ。10文字のアルファベットの無意味な羅列は、すっかり解読不可能なワンタイムパッドと化してしまっていた。それがヴィジュネル暗号という物ではあるのだが。自室に籠もり、あらん限りの知恵を絞って解読を試みる。これが解けさえすれば、あるいは……。航一はいつものように、寝癖のなおりきっていない頭をポリポリと掻いた。その時、誰かがドアをノックする音がした。この遠慮がちな叩き方は、涼雅だ。
「鍵は閉めてないぞ」
中へ入るように促す。申し訳なさそうな顔をして、涼雅が部屋へ入って来た。スーパーのレジ袋を片手に提げている。
「どうした?」
航一が訊ねると、涼雅は、
「いえ、特に何も。ちょっと息抜きをしようと思って」
と言って、慎ましい笑顔を浮かべる。そうだ。こいつの意見も訊いてみるか……。涼雅の指摘は、どんな場合でも非常に的確だ。航一は、例の暗号が書かれた紙を涼雅に見せた。
「何ですか?これ」
「平文が短すぎてワンタイムパッドと化してしまった、ヴィジュネル暗号だ。これが解けなくて、困ってる」
航一は要約して事情を説明した。怪盗紳士が本仮屋邸から盗み出し、わざわざ披露するために県立美術館へ持ち込んだ絵画のキャンバスの裏側に書かれたサイン。それが、この10文字のアルファベットの無意味な羅列なのだと。涼雅は黙って考え込んでいたが、
「ヴィジュネル暗号ですか……。ただ手放す気がなかっただけなら、何もそこまで凝ったことはしないと思いますよ?パズルか何かを解くつもりで、気軽に考えてみたらどうでしょうか。多分、解くための法則があるはずです。それさえ見つけてしまえば、簡単に解けると思います」
と、答えた。解いてはくれねえんだな。航一は少し気落ちしたが、それでも前途に光明が見えて来たのは事実だった。そうか、パズル……。発想の転換が必要だ。そう自分に言い聞かせ、再び机に向かう。だが、肝心な“法則”が見えて来ない。
「あまり根を詰めない方が良いと思いますよ?気分転換に、お茶でも淹れて来ます」
涼雅は、勝手知ったる我が家同然の須賀家の台所へと向かった。航一は、涼雅が出て行ったドアの方を振り返った。“根を詰めるな”か……。それは無理な相談だな。そこに謎があるなら……。解きたくなるのが、探偵の性。
しばらくすると、涼雅がお茶を淹れて戻って来た。
「どうぞ」
差し出されたカップから立つ湯気は、微かに林檎のような香りがした。カモミールティーだ。無風流なお袋が、こんな高尚な物を買い置きしているわけがない。これは明らかに涼雅が買って来た物だ。
「いろいろ気遣い、ありがとな」
「いえ……。僕はこのお茶が好きなんです」
涼雅は取って付けたような言い訳をして、一口お茶を飲んだ。折角なので、航一もくつろぐことにした。涼雅の淹れてくれたお茶を、ありがたく頂く。緊張がほぐれてきた時、一瞬の閃きが航一の頭をよぎる。なるほど。解いてみれば確かに、これは暗号と呼べるような物ではない。発想の転換が必要だったのだ。
「解けたぞ。多分、これが答えだ」
航一はそう言うと、鉛筆で紙に書いて見せた。涼雅がその手元を覗き込む。
TUJI MASATO
校内が緊張と活気に満ちている。文化祭当日。涼葉は慌ただしく、メイド服を着たウエイトレスに、軽食やドリンクを手渡していた。
「三番テーブルにサンドイッチとコーラが二つ。これで良かったよね?」
注文の品を間違えないように、復唱する。そこへ、
「交代の時間だ。お疲れさん」
と言って、男子生徒が三~四人やって来た。
「はあ……。やっと解放される」
疲れ切った顔で一人の男子が呟く。ハイハイ。疲れさせたのは、私ですよねえ……。涼葉は思った。そっか。私も交代の時間なのよね。
「じゃあ、あとはよろしくね」
一応声をかけてから、その場を離れる。背後から胸をなで下ろす気配がした。真面目な子には、何もしないんだけどな……。そっとため息をついていると、
「姉さん」
涼雅の声が聞こえた。相変わらず男同士でつるんでいる。人当たりの良い弟は、友人も多かった。
「あら。来てたのね」
「そりゃ、来るよ。僕、ここ受けるし」
当然のことのように涼雅は答えた。まるで、一年前の自分を見ているようだ。受験か。思い出したくもないなあ。
「じゃあね」
そう告げて立ち去る弟の後ろ姿を見送った後、涼葉は美波の姿を探した。E組の教室の前で客引きをしているはずだ。
「涼葉。来てくれたの」
美波の方が、先に涼葉を見つけてくれた。なぜか、紙コップを二つ載せた小さなトレーを持って立っている。
「これ、お客さんに配るドリンクなの」
と、先回りして答えてくれる。やはり、美波には勝てる気がしない。
美波の交代の時間が来るまで、涼葉は美術部のクラブ展示を見ながら待つことにした。高木くん、どんな絵を描いたんだろう。気のせいだろうか。すれ違う人たちが、皆、こちらを見ながら通り過ぎて行くような……?
その理由は、美術室に入るとすぐにわかった。この絵は、私?キャンバスの中に、清楚で愛らしい服を着こなし、ワイングラスに口を付けようとしている涼葉がいた。作品名は“僕はグラスになりたい”そして、作者名は“高木茂”であった。これを記憶と想像力だけで描き上げたのなら、大したものだ。
「一ヶ月クオリティーだから、雑だけど」
いつの間にか傍に来ていた茂が言った。相変わらず、気配を消すのが上手い。
「道理で、ここに来るまでにすれ違う人の視線を集めたわけね」
涼葉が睨むと、茂は悪戯がバレた時の子供のような顔をした。けして腹が立ったわけではない。だが、恥ずかしいことに変わりはなかった。
その後やって来た美波と三人で、校内の展示を見て歩いた。文化祭が終われば、中間試験だ。否。正確には、中間試験の範囲の発表がある。頭を“学生モード”へ切り替えた航一が、涼葉に向かって散々な嫌味を言い放つことだろう。
中間試験が終わるのを待ちかねたように、航一は図書館へ出向いた。TUJI MASATOについて、調べるためだ。それに該当する画家の資料は、残っているのだろうか。もし、TUJI MASATOが複数人で構成される“香月稔”の一人なら……。都合良く過去を改竄するために、資料が残されていない可能性すらある。あるいは、ごく僅かしか残されていないか。そのどちらかであろう。
TUJI MASATO個人の特定は、思いのほか容易であった。だが、やはり残された資料はごく僅かだった。ある程度予想していたものの、航一は愕然とした。いくらなんでも、少な過ぎるだろ……。
辻将人。日本の洋画家。はっきりわかるのは、これだけだった。生年の記述はあるが没年が記されておらず、年譜が存在しない。知名度のわりに、かなり詳しい年譜が残っている香月稔とは雲泥の差である。没年の記載がないという事は、まだ生きていると解釈して良いのだろうか。それとも、森龍信のように失踪宣告が出ており、正確な没年が不明なのか。但し、これで明らかになった事実がある。やはり“香月稔”は単数では存在していない。しかし、フラクタル解析の依頼をしたくても、問題の“愛息”は焼失してしまっている。万策尽きたか。航一は失意のため息をついた。けど。ここで諦めたら、俺は怪盗紳士に負けたことになる。まだ、諦めたくはない……。
本仮屋楓恋の正体。県立美術館の倉庫を爆破した犯人。犯罪組織黒死蝶の目的。怪盗紳士とは何者なのか。俺は、その謎の一つも解けていない。そこに謎があるなら……。解きたくなるのが、探偵の性。
時田勇作が“ゴキブリ並みのしぶとさ”と称賛する須賀航一が、その真価を発揮しようとしていた。これまでの調べでわかっている“事実”について、考えてみる。
一つめ。本仮屋楓恋とは、自称“香月稔の孫”である。だが、航一の見た彼女は明らかに香月稔の孫にしては若かった。そして、怪盗紳士の犯行予告状に臆することなく警察の介入を拒んだ結果、まんまと“愛息”を盗み出されたのだ。予告状には「お孫様の所有しておられる作品の、いずれかを頂きに参ります」としか書かれていなかった。しかし、勇作の地獄耳が捉えた“あれは、外に出すべきではない物だったのに”という言葉は、まるでどの作品が狙われているのかを知っていたかのようだ。
二つめ。県立美術館の倉庫を爆破した犯人。爆破されたのは、三つある倉庫の一つ。普段は備品が置いてあるだけだが、爆破された時には、本物なのか贋作なのかが不明な上、盗品だった為に展示されなかった“愛息”が保管されていた。そして、のちに勇作に聞いた話では、爆破に使用されたのは精巧に作られた時限爆弾だったという。状況からは内部に詳しい者の犯行としか思えない。だが、そこまでしてあの絵の存在を隠し通したい理由が、美術館の職員にあろうはずがないのだ。
三つめ。犯罪組織黒死蝶の目的。これも勇作に聞いた話だ。“黒死蝶”という宗教法人があるらしい。現段階では、それ以上のことはわからない。
四つめ。怪盗紳士とは何者なのか。端的に言えば、彼は絵画を専門に盗みを働く美術品窃盗犯だ。これまでに、香月稔作品を左下にサインがあるものに限って、制作年代順に盗んでいる。香月稔。日本の洋画家。その年譜は中年期にまつわる記述が所々抜けており、晩年の記録が残されていない。わかっているのは享年48ということくらいで、死因は不明。そんな彼は、生きていれば今年で92歳になる。香月の生涯については自分で調べた。
こうして考えてみると……。解き甲斐があり過ぎる謎だな。航一は、ゆっくりと長く息を吐いた。この四つの謎は、多分それぞれどこかで繋がっている。一つが解ければ、他は芋づる式に解けるはずだ。
文化祭と体育祭を一年交代で実施する高校なんて、あるのかなあ……。




