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追跡  作者: 青柳寛之
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第三章 熱く長い夏

この作品はフィクションです。作中に登場する団体名は全て架空のものであり、実在するものとは一切関係ありません。……。当然ですね。いや、一度書いてみたかったんです。

 梅雨明けにはまだ早いその日。期末試験の範囲の発表があった。A組の教室の窓際の席で、時田涼葉はため息をついた。これが終わる頃には梅雨も明け、夏休みが始まる。だが、素直に喜べない。今年の夏は、ひと悶着起きそうな気がして……。

 早速その日から、涼葉、美波、航一、茂の四人は図書館で試験に向けて一緒に勉強した。涼葉がわからない所を航一に質問すると、彼は露骨に呆れ顔で、

「お前なあ。こんな簡単な問題がわかんねえの?」

 と言った。

「わからないっていうのは、そういうものなのよ」

 比較的、穏やかに涼葉は答えた。茂がそれに便乗して、

「そこはわかるんだけど、これがわからないんだ。俺」

「ああ、それか……。それの解き方は、ここに書いてあるから読んでみろ」

 航一は持参した参考書を開き、指差した。先ほどの涼葉の質問には、美波が答えている。この奇妙な勉強会は、試験前日まで続いた。

 試験の結果は思いのほか、悪くはなかった。直前まで航一に嫌味を言われながら、勉強した甲斐があったというものだ。窓の外には雲一つない青空が広がっている。昨日の土砂降りが嘘のようだ。しかし、涼葉の胸騒ぎは一向に収まる気配がなかった。それは、かつて須賀航一の身に、命に関わる危険が近付いていた時に感じたものと酷似していた。須賀くんは、何があっても私が守る。美波のために……。


 終業式当日。いつもよりも長い校長の話に、生徒の大半が辟易していた。さらに式が終わった後は、担任によるホームルームが待っている。

教室に戻り、席についた。まずは、宿題が配られた。楽しい夏休みになりそう。涼葉はうんざりした。国語、英語、数学の分厚いワーク。見ているだけで、眩暈がする。地理、歴史。化学、生物。これらはそれぞれ“社会”と“理科”の二冊にまとめられていた。まあ、読書感想文や自由研究がないだけマシね。次に配られたのは「夏休みの心得」と書かれたプリントだった。その他には「インターネット使用上の心得」など。これは、現代では常識だ。また「ベッドの中での民主主義」と書かれた物もあった。要するに、性行為の際にはコンドームの使用を!という趣旨である。私には、関係ないわね……。思わず漏れた冷たい嘲笑が伝わったのだろうか。

「こら、時田。ちゃんと話を聞く!」

 珍しく担任が教師らしい言葉を吐いた。生徒たちから「千穂ちゃん」と呼ばれ、親しまれているこの人物には、少しも教師らしさや偉ぶった所がない。

「はあい」

 涼葉は肩をすくめて見せた。千穂ちゃん。私のこと、正しく認識してる?人呼んで「生きた殺人兵器」だよ?涼葉の顔に、酷く温度の低い感情が張りつく。千穂ちゃんはそれには気付かず、話を続けた。

 やっと解放された生徒たちは皆、どこか浮かれ調子で教室を出て行く。涼葉は自分の方へ向けられている視線に気付き、重い腰をあげた。この気配は、あの二人だ。

「よう。お疲れ」

 航一が言った。茂は無言で微笑んでいる。

「E組がまだ終わらないんだ。四人で何か食べて帰ろうかと思ってさ」

「そうね……」

 最近の涼葉は収まる気配のない胸騒ぎに、鬱屈した日々を送っていた。家に帰って涼雅と二人で遅い昼食を摂るより、気が紛れるかもしれない。三人は、E組のホームルームが終わるのを待った。

「ごめんね。お待たせ」

 三人の姿を見つけた美波が、駆け寄って来た。

「じゃあ、行こうか」

 航一が先頭に立って歩き出そうとするのを、涼葉が引き止める。

「ちょっと待って。今日は学裏は人が多いんじゃない?」

 学裏と呼ばれる学生向けの定食屋街。特に行き先が決まっていない場合、そこへ向かうのが暗黙の了解だった。しかし、今日はどうだ?一学期最後の日の放課後。同じことを考える生徒は、大勢いるのではないだろうか。

「それもそうだな……」

 航一は寝癖のなおりきっていない頭を掻いた。

「今日はどこに行っても、人が多そうね」

 美波が言った。そのアンニュイな口調には、清楚だが上品な色気が漂っている。

 結局茂の提案で、少し遠くにはなるが「マトリョーシカ」へ行くことになった。雰囲気が怪しげな、輸入雑貨と“主に”パスタの店だ。一度行っただけなのに、よく店の名前なんか覚えていたわね……。涼葉は感心した。予想通り、その店は人が少なかった。この場所だけ、時間が止まっているかのような錯覚に陥りそうになる、不思議な空間。そこで涼葉と茂はカレーを、航一と美波はパスタを食べた。食べ終えた四人が「カレーとパスタ、どちらが美味しいか」で言い争っていると、

「私が作ったのだから、どちらも美味しいに決まっている」

 と、店主が厳かに言い切った。その瞬間、レジの横の古ぼけたクッションの上で眠っていたはずの猫の耳が、ぴくりと動いた。普通、自分で言う?涼葉は呆れた。他の三人も同じことを考えたらしく、急にその場が静かになる。

 涼葉が帰宅すると、涼雅が一人寂しくカップ麺をすすっていた。

「カップラーメン?珍しいわね。あんたがそんな物を買って来て食べるなんて」

 涼葉が次の言葉を口にしようとすると、

「姉さんが心配しなくても、大丈夫だよ。僕にはちゃんと、嫁、来るから」

 うんざりしたように、涼雅は言った。「今時の男は家事が出来なかったら、お嫁さん、来ないわよ」が、最近の涼葉の口癖になりつつあった。すでに涼雅の耳には、たこが出来ているらしい。自分で作らせたいから、インスタント食品の買い置きはしてないんだけど……。涼葉はため息をついた。その時、ふと卑猥な冗談を思い付いたのだが、果たしてこの堅物な弟に通じるのかどうかが不安になり、黙っておく事にした。それに。自分の値打ちを下げるような事は、したくないし。


 空は青く晴れ渡り、綿雲が広がっている。航一は勇作に連れられて、事件現場に来ていた。場所は、県立美術館。怪盗紳士が、盗んだ絵の「返却」に現れたと言うのだ。

「これって……」

 航一は絶句した。「返却」した場所は県立美術館だが、盗んだ場所は「本仮屋邸」?ちょっと待て。おかしいだろ……。しかし考えてみると、何もおかしなことではない。怪盗紳士の目的は「返却」ではなく「披露」なのだから。少し大きめのメッセージカードには「過日、本仮屋邸より頂いて参りました“愛息”を是非見ていただきたく、お持ちいたしました。しかるべき時に、改めて頂きに参ります。怪盗紳士」と、いつもよりも長文のメッセージが記されている。

 しかるべき時って、いつだよ!それに“愛息”じゃなく“愛嬢”の間違いだろ……。ん?現在「香月稔」として認識されている画家は単数では存在せず、複数の画家を一人の人物であるかのように見せかけている。この推測が正しいものと仮定した場合、“愛息”である可能性も充分にあるのだ。航一は、食い入るようにその絵を見つめた。だが、そこに描かれている人物の性別は特定できなかった。産着にくるまれた、乳児の肖像画だったのである。これでは、本仮屋楓恋を問い詰めてみたところで「それは“愛嬢”の誤りだ」と、一蹴されてしまうだけだ。むしろ丸裸の赤ん坊の絵だったら、どんなに良かったことだろう。航一は舌打ちした。けど。何だろう、この違和感は……。勇作は何がそんなに気になるのか、穴があくほど“愛息”に見入っている。

「何か気になるのか?」

 航一が訊ねると、

「デジャヴを感じる。なぜだろう……」

 という、訳のわからない返答が返って来た。

「気のせいだろ?」

 航一は、鼻で笑って取り合わなかった。勇作の部下の一人も、

「そうですよ、警部」

 と言って、航一に同調する。

 特徴的な困り眉に、アヒル口。この人は確か、岡本さんだ。自衛官に競技人口の多い、銃剣道の段位を持っている。

「そうかしら。勘っていうのは、案外馬鹿に出来ないわよ?」

 オッサンの肩を持つのは、なぜかオネエ言葉で喋る山崎さん。これでも彼女持ちだというから、驚きだ。この人、よく刑事になれたな……。それが、航一の山崎に対する第一印象だった。勇作も、個性的な部下を持ったものである。

 デジャヴ。既視感。オッサンはこの絵を見て、何を感じたのだろう。訊ねてみると、

「いや、涼葉が生まれた頃に着ていたベビーウェアと同じだなあと……」

「ベビーウェア……?」

 航一は、威勢よく寝癖が立っている頭をくしゃっと掻いた。この絵に描かれたベビーウェアが、どこのメーカーでいつ頃作られた物なのか。それを特定することは、可能だろうか?これが、いつ頃流通していた商品なのか。香月稔が父親になったであろうと想定される時期と、絵の中に描かれたベビーウェアが流通していた時期。本来、一致していなければならない“それ”が、もしもずれていたら?この“愛息”は、別人が描いた作品という事になる。否。普通の子供服と違って、ベビーウェアなどはそんなに頻繁にモデルチェンジする商品ではないのかもしれない。何十年にもわたり、同一の商品が販売されていたら?「香月稔」として認識されている画家は、複数の画家を一人の人物であるかのように見せかけているという推測は、単なる推測の域を出ない。

 そういえば、キャンバスの裏側に書かれているサインの確認をしていない。つい、表にばかり気を取られてしまっていた。表には左端に小さく「M.Kaduki」と、描かれている。では、裏はどうだ。航一は傍にいる学芸員に訊ねた。

「キャンバスの裏側を見せていただけますか?」

「構いませんよ。少々お待ちください」

 彼は慣れた手つきで、額縁から丁寧にキャンバスを取り出した。耳障りな静寂が流れ、緊張が高まる。

「これは……」

 そこに書かれていたのは、10文字のアルファベットの無意味な羅列であった。

「シーザー暗号か?」

 勇作が、同意を求めるかのように呟いた。航一はかぶりを振ると、

「いや、違うな。これは多分、ヴィジュネル暗号だろう」

 と答えた。ヴィジュネル暗号。文字一つ一つに、異なるシフト数を用いる換字式暗号である。シーザー暗号をより複雑化したものと解釈してまず間違いないが、平文が短すぎると、ほぼ解読不可能なワンタイムパッドになってしまう。なぜ、こんなことをしたのか。恐らく、手放す気はなかったのだろう。

「香月稔をアルファベットにすると12文字。ここに書かれているのは10文字。ヴィジュネル暗号の弱点の一つは、文字数がわかることだ。つまりこれは、別人が描いた作品なんだよ」

 航一はそう言うと、静かにゆっくりと息を吐いた。ここから導かれる事実は、こんな所であろうか。勇作の話では“あれは、外に出すべきではない物だったのに”と、小声で嘆いた本仮屋楓恋。それならば、なぜさっさと処分してしまわなかったのか、という疑問。この10文字のアルファベットの無意味な羅列がヴィジュネル暗号であると仮定した場合、その謎が解けるのだ。

 まず、一つめ。明らかに別人の手になる作品であるという事がわかるサインが、キャンバスの裏側に書かれていたことを彼女は知っていた。だから“外に出すべきではない物”だったのだ。

 そして、二つめ。なぜさっさと処分してしまわなかったのか。それは、サインが解読不可能な暗号で書かれていたから。平文と暗号文で文字数が異なるのは、そういう暗号を使用して書かれているのだと、ごり押しすることも出来る。

 航一が要約して説明するのを、勇作と二人の部下は黙って聞いていた。

「この絵に描かれたベビーウェアが流通していた時期と、香月稔が父親になったであろうと想定される時期が一致していなかった場合、もっとはっきりするけどな……」

 そう付け加えると山崎が、

「それって難しくない?だってこれ、絵なのよ?写真じゃないもの」

 と言った。岡本も彼に同意する。

「あのぅ……」

額縁からキャンバスを取り出してくれた学芸員が、申し訳なさそうに、

「絵を額縁に収めてもよろしいですか?」

 と訊ねるので、到底解読可能であるとも思えない、そのアルファベットの無意味な羅列を手帳に書き写した後、キャンバスを額に収めるよう促した。

「ありがとうございました」

 航一は彼に頭を下げた。それから山崎と岡本の方へ向き直り、おもむろに口を開いた。

「そんなに難しいことじゃないですよ。オッサンがデジャヴを感じた理由は、多分“あれ”なんでしょうから」

 勇作が注目したのは、ベビーウェアの柄だ。そう指摘すると、

「ああ。涼葉が生まれた時、出産祝いで貰ったんだよ。女房の友達から。ナントカいうメーカーの、しかもキャラクター商品でさ。こんな高価な物を……、と恐縮だったな」

 案の定な答えを、勇作は返した。やはり、違和感の正体はこれか。航一は納得した。

「時期として、微妙ですよね。ベビー服そのものはあったとしても、キャラクター商品があったかどうか……」

 岡本は唸った。彼は特徴的なその困り眉を鋭角にして、考え込んだ。

 ここで考え込んでいても、埒が明かない。四人は県立美術館を後にした。勇作と二人の部下は職場へ、航一は自宅へと戻ることにする。

「何かわかったら、知らせてくれ」

「航ちゃんも。暗号の解読、頑張ってね」

 そう言うと、山崎はウインクをした。航一の背筋が凍る。あんた、まさか二刀流なのかよ。俺にそっち方面の趣味はないですから!


 涼葉は嫌な予感を払拭しようとするかのように、空手道場に足を運んだ。

「もう、私がお前に教えてやれることなど、何もないんだがな」

 柔和な顔で笑う師範は、それでも涼葉に稽古をつけてくれた。道場で稽古をし、帰宅してからは、渋る勇作と柔道の乱取りをしたりもした。勇作も、柔道の有段者であった。そして、夜が更けてから宿題に取り掛かる。夏休みに入って一週間。涼葉は“その時”に向けて、着実に己の力を備蓄しつつあった。

 勇作は、そんな我が子が時折恐ろしくなる。それと同時に、悲しくなるのだ。そんなに俺は、頼りないか?頼りないのだろう。不甲斐ないのだろう。三歳の時、父親を投げ飛ばした涼葉にしてみれば。当時の記憶が、鮮やかに甦る。一瞬、相手が幼い子供であることを忘れてしまうほど、涼葉は強かった。つい本気を出してしまってさえ、その体たらくだったのだ。実際、数年前須賀航一が命の危機に直面した時、勇作は彼を救うことが出来なかった。代わりに航一を助け出したのは、涼葉だったのである。「美波にだけは、悲しい思いをさせたくない」そんな言葉を吐いて頭から水をかぶり、燃え盛る高層ビルの中へと消えて行った涼葉の後ろ姿を。瓦礫の下敷きになり足を負傷した航一を両手で抱えて、泰然と戻って来た時の横顔を。勇作はけして忘れないであろう。涼葉は強い。仲間を“守りたい”という想いが。何事もなければ良いが……。勇作は、自分の心配が杞憂に終わることを祈った。


 その日。茂は書店で人を待っていた。他校へ進学した親友である。彼の高校は全寮制であるため、日頃は会う機会すらないのだ。生徒は全員、夏休み、冬休み、春休みなどの長期休暇の時にのみ、帰宅を許される。ゴールデンウイークにでさえ、帰って来ることはなかった。待ち合わせ場所が書店であるという所が、いかにも彼らしい。

「やあ。久しぶりだね」

 背後から、懐かしい声がした。茂が振り向くと、目の前には誰もいなかった。ああ、そうだったな……。高すぎる自分の身長を恨めしく思いながら、やや目線をおろす。そこには、線の細い美少年が立っていた。日本人の肌色には馴染まない銀縁の眼鏡が、良く似合っている。

「大樹。お前、少し見ないうちに縦に伸びたな」

「君ほどじゃないけどね」

 久住大樹は、妖しげな微笑を浮かべて茂を見上げた。それは、彼が照れた時に見せる顔だった。

「買いたい参考書があるんだ。少し、いいかな」

 大樹は言った。その大人びた声音と、表情の変化に乏しく暗い影の漂う顔つきは、彼の人柄を充分過ぎるほどに表している。

「いいよ。探すの、手伝う」

 茂は快く承諾した。大樹の顔が、僅かに明るくなった。あらかじめ作っておいたのであろう。欲しい参考書のリストを、茂に手渡す。

 書店で参考書を購入し満足そうな大樹を、茂は「マトリョーシカ」へ連れて行った。

「ここのカレー、美味いんだ」

「カレーね……。そういえば、しばらく食べてないな」

 大樹はそう言うと、押し黙ってしまった。そうか。あの親父さんにとっては、カレーなんて、蛮族の口にする物なのだろう。茂は急に大樹との距離を感じて、寂しくなった。

 しかし、大樹は実に美味しそうにそれを食するのであった。

「こんな所、あの人には見せられないな」

 と言いながら。“あの人”とは、大樹の父親だ。

「寮の食事は?」

 茂が訊ねると、

「生徒の大半が、金満家の子女だからね。僕の好きな、素朴な家庭料理は出ないんだ」

 ため息交じりに大樹が答える。

 大樹の進学した、英徳学院大学付属高等部。そこには、エスカレーター組と受験組が存在し、互いに反目し合っているという。幼稚舎から入試があり、エスカレーター組の大部分が“幼稚舎お受験組”なのだそうだ。初等部の入試を受けて入って来るのは“滑り込み組”と呼ばれ、ここまでがエスカレーター組枠になる。彼らは皆、無試験で大学まで進学できるので、成績は芳しくない者ばかりだ。これに対して、中等部、高等部を受験して入学して来る者が受験組枠となる。中等部を受験した者は高等部の入試は免除されるが、大学に進学したければどうしても大学受験は免れない。英徳学院大学のレベルを押し上げているのは、受験組の血の滲むような努力に他ならないのだ。だが、エスカレーター組は進学時に多額の入学金を払わされる。学校の経営を担うのは、エスカレーター組なのである。この構造が、両者の反目を生んでいた。

「へえ……。それは、凄いな」

 茂は半ば呆れ、半ば感嘆した。目の前で美味しそうにビーフカレーを食べている、あえかな美少年。彼のことだ。そんな対立を尻目に、黙々と勉学に勤しんでいるに違いない。それしか出来ないのだ。小学生の頃からそうだった。

「君はどうなの?高校生活。さっきから、僕ばかり喋ってるような気がするんだけど」

 大樹に訊ねられ、茂は唸った。

「普通だよ、普通」

 それ以外に答えようがない。

「昼飯を一緒に食べる顔ぶれが変わったくらいで、他に大きな変化はないな」

「そうなんだ」

 大樹はそう言って、微かに口元を歪めた。非常にわかりにくいのだが、これが彼の笑顔だった。そして、心なしか残念そうな様子で、

「君はもっと、学校生活を楽しんでいると思ってたんだけどな……」

 などと言うのだ。その言外の意味を、理解出来ない茂ではなかった。

「そんなに劇的な変化があるわけないだろ。クラスの半分が、中学時代の同級生だ」

 ぶっきらぼうに答えながら、茂は悲しくなった。

 親友の表情が変化に乏しいのも、どこか暗い影の差す顔も。大人びた声音までも。それらはすべて、彼自身の持つ存在意義の否定と、自己肯定感の欠如から来ている。

 茂と大樹。二人の共通点は“母子家庭の子”である。しかし、その家庭環境には大きな隔たりがあった。茂は嫡出子、大樹は婚外子だったのである。世間の冷たい風に晒されて育った大樹は、幼い頃からエキセントリックで扱いにくかった。

 茂が七歳の時、父親は交通事故でこの世を去った。思いがけず“母子家庭の子”となってしまった高木茂に「友達になってよ」と声をかけたのが、久住大樹だったのである。

 一年前の今頃“あの人”が大樹の目の前に現れるまでは、二人は普通の親友だった。中学三年生の夏休みに入る直前。突然現れた“あの人”が、大樹と母親の貧しいながらも幸せな暮らしを踏みにじったのだ。

 そもそも、大樹の姓は“岩切”であった。“久住”というのは“あの人”の姓だ。岩切早苗。大樹の母親の名前である。当時23歳だった早苗には、すでに婚約者がいた。幸せの絶頂だったと言えるだろう。だが、その若さと美貌が災いした。秘書課勤務だった早苗が、女癖の悪い“あの人”の目に留まらないはずがなかった。彼は親から財産を受け継いで社長の座についた、苦労知らずの御曹司であった。若くして財力と権力を手に入れた彼は、欲望を押さえる事を知らなかったのである。

 社長に犯された早苗の元から、婚約者は去って行った。たった一度の過ちで授かってしまった子供を産む決意をした早苗は、退職して県外の実家へと戻ることにしたのだ。その決断が、良くなかった。彼女の両親は、孫の大樹を露骨に厄介者扱いした。「達夫さん」と「智子さん」は、事あるごとに大樹に「お前なんか、生まれて来なければ良かったのに」とか「お前のせいで、早苗は幸せになれなかった」という言葉を投げつけた。とても、祖父母が孫に向けて吐く言葉だとは思えない。大樹が心の奥に隠し持っている、存在意義の否定と、自己肯定感の欠如。それらはすべて、祖父母の手によって植え付けられたものだと言っても過言ではないだろう。両親が我が子に向けて暴言を吐いていることを知った早苗は、すぐさまアパートを借り、実家を出た。

 ところがどうだ。妻はもとより、他の愛人たちとの間にでさえ男の子を授かることはなかった“あの人”。ある意味、当然の報いであると言えるだろう。それなのに、彼は風の噂に早苗が男の子を産んだと聞きつけ、探し出してしまった。早苗と、彼女の最愛の息子である大樹を。我が子が成績優秀であったことが、彼を一層喜ばせた。そして、二人の貧しいながらも幸せな暮らしに土足で踏み込んで来たのである。

 大樹の進学の費用を出してやるから、私の愛人になれ。大樹を私と妻の養子にしろ。そうすれば、お前には専用の豪邸を与えてやろう。つまりは、そういう話だった。この申し出を知った早苗の両親は狂喜した。早苗に与えられる専用の豪邸に、自分たちも移り住もうという魂胆であった。

「君は相変わらず綺麗だね」

 歯が浮くような偽りの甘い囁きに、早苗は吐き気がした。

「大人しく私に囲われていれば良かったんだ。そうすれば、君も大樹も苦労することはなかっただろう?」

 早苗は、黙って彼を睨みつけることしか出来なかった。その視線の先にある顔は若々しく、とても齢54には見えない。運動の習慣を持たない割に、体は筋肉質。夜の営みの方は未だにお盛んなのであろう。絶望と諦めが、早苗の心を支配する。

 彼はたっぷりと時間をかけて、早苗の体を凌辱した。十六年前のあの日を思い出す。あの頃と全く変わらない、執拗な愛撫。悪夢のような時間が過ぎる。耐えるしかなかった。大樹に、より良い教育を受けさせるために……。

 契約の儀式が終わった。若く美しい愛人と、頭脳明晰な我が子を得た彼は、上機嫌で母子の住む安普請を後にした。その後ろ姿を、早苗は軽蔑の眼差しで見送る。あなたはその歳になってもまだ、こんなくだらない事がそんなに楽しいのですか……?

 その数日後。大樹と母親が暮らすアパートに、茂が訪ねて行った時だ。ノックをしても、返事がない。ドアノブに手を伸ばすと、鍵は開いていた。何かがおかしい……。嫌な予感がして、茂は恐る恐るその狭い部屋に足を踏み入れた。眩暈のするような静けさ。微かに聞こえる水の音。水の音は、浴室の方から聞こえて来る。茂が浴室のドアを開けると、そこには湯の張られた浴槽の中に腕を突っ込んで、意識を失くした大樹がいた。浴槽には蛇口から湯が注がれており、赤く染まった湯が浴槽から溢れ、排水溝へと流れ込んでいる。これは、やばい。そう思った茂は、救急車を呼んだ。

 多量の輸血を受け、大樹は一命を取り留めた。何度も茂に礼を言って、早苗は病室を出て行った。医師や看護師にも、礼を言いに行くのだろう。「なぜ、死なせてくれなかった」と言って責め立てる大樹の頬を、茂は精一杯手加減して平手で打った。それでも、大樹の頬には茂の手形がくっきりと残る。手加減しても、これかよ……。茂は内心ため息をつく。だが、これだけは伝えておかなければならない。茂は真っ直ぐに大樹の瞳を見つめた。

「いいか?よく聞け。たとえ世界中の人間がお前の敵に回っても、俺だけはお前の味方だ。それだけは、忘れるな」

「僕が生きていたら……、母さんは自由になれない」

 大樹が低い声で呻く。左手首に巻かれた包帯の白さが眩しい。彼が本心を語る時の声は、いつも低く掠れていた。昔、絞り出すように「友達になってよ」と声をかけて来た大樹の顔を、茂は思い出していた。大樹は、何があっても俺が守る。誰かのためにではなく、俺のために。「親友」を喪いたくないから……。大樹は知らないんだ。遺された者の悲しみを。

「今は生きることを考えろ。生きてさえいれば、いずれは復讐の機会も訪れるさ」

 その後大樹は“あの人”の希望通り志望校を英徳学院大学付属高等部に変更し、当然のように合格した。

「冬休みにも、帰って来るだろ?」

 茂は随分気の早い質問をした。大樹は、

「わかんない」

 と、かぶりを振った。続けてこう言うのだ。

「冬休みは短いからね。寮に残るか家に帰るかは、生徒の自由なんだ。強制的に寮から追い出されるのは、夏休みと春休みだけだよ。家に帰ると、どうしても週に二~三日はあの人の屋敷にご機嫌伺に行かなきゃならないから、寮に残ってもいいかなと思ってね」

「そうか」

 大樹の精神衛生上、その方が良いのかもしれない。さらに、彼はこう続けた。

「夏休み中に……、生まれるんだよ。僕の弟か妹が。その子の顔も、見たくないしね」

 二人の間に、酷く暗鬱な沈黙が流れる。筆舌に尽くしがたい閉塞感。息苦しい。金魚鉢の中で酸素が不足し、水面で口を開閉している金魚のような……って、それはどんな気分なんだ!とにかく、この沈黙を破らないと。

「飯も食ったし、次はどこ行く?」

 茂は努めて陽気に訊ねた。


 少し五月蠅い蝉の声。空に高く盛り上がる入道雲。今日は八月一日。二日間続く夏祭りの初日で、花火大会が開催される。突然、涼葉の携帯電話が鳴り響いた。見覚えのない番号だったので放置していたが、なかなか鳴り止まないので仕方なく出てみた。

「もしもし」

「時田先輩ですか?お久しぶりです。早瀬です」

 空手道場の後輩からだ。道場の緊急連絡網ででも、調べたのだろう。

「あの。今日って、何か予定がありますか?もしよろしければ、花火大会に行ってみませんか?……涼雅くんも一緒に」

 涼葉は苦笑した。この子、涼雅にほの字だったっけ。特に親しくしているわけでもなかった後輩からの急な連絡に、合点がいった。

「いいわよ?特に誰とも約束してないし。涼雅にも、一応声はかけてみるわね」

 必死に笑いを堪えながら、涼葉は答えた。

「わあ!ありがとうございます」

 早瀬と名乗った少女は、こちらの都合の確認もせず、一方的に待ち合わせの場所と時間を指定すると、電話を切った。

 早瀬静香。涼雅に想いを寄せている女の子たちの中でも、非常に押しの強い子だ。押しが強く、蓮っ葉。涼雅が一番嫌うタイプでもある。そう言えば、涼雅は誰に対しても友好的に振る舞う割には、自分に好意を抱く女子に対する態度はそっけない。筋金入りのシスコンによるものなのか、他に好きな人がいるからなのか……。その真否を確かめる術を、涼葉は持たない。しかし、涼雅と静香のコンビの面白さは実感していたので、どうにかして二人セットで来させたい。これは実に簡単で、涼雅には姉弟二人きりでの外出だと思わせれば良いのだ。当然バレるが、待ち合わせ場所に着いてしまえば、どうとでもなる。

 早速、涼葉は涼雅を誘ってみた。

「ねえ。今日は花火大会だよ?たまには息抜きに、出掛けてみない?」

 涼雅からは、予想外の返答が返って来た。

「姉さん。他に誘う人、いないの?ほら。こう言っちゃ何だけど、あのイカレた感じの髪の色の人とかさあ」

「身も蓋もない言い方ね……」

 恐らく、茂のことを指しているのだろう。銀色に染められた、長めの頭髪。確かにイカレた髪の色ではあるが、もう少しマシな言い方は出来ないの?……って、どうしてあんたがそんな事を知っているのよ!初めて涼雅のことを恐ろしいと思った日を、振り返ってみる。詳細は一切明かしていない。それなのに、男友達と遊びに行くことを見抜いていたような口ぶり。状況を全て把握しているかのような発言。この子が、超能力の類の不思議な力を持っているのだと仮定したら。茂の人相風体を知っていたとしても、何らおかしくはない。

「だってさ。あの人“歩く校則違反”だよね?」

 そのワード!制服をだらしなく着込んだ、ひょろ長い男子生徒。彼は確かにこう言ったのだ。『一年C組の高木茂……。陰では、歩く校則違反とか呼んでいる生徒もいます』と。あまり考えたくない事実だが、涼雅は何某かの不可解な能力を持っていると判断して、まず間違いないだろう。敢えてそれには触れず、

「別に私とあいつは、付き合ってるわけじゃないからね?」

 と、涼葉は答えた。ええ、そうですとも。私とあいつは、付き合ってなんかいませんよ?

「それで、どうするの。一緒に来る?」

 涼雅は少し考え込んでいたが、

「行く」

 と、短く返事をした。これで今夜は、涼雅と静香の珍妙な漫才を楽しめそうだ。

 涼葉の言葉でいう所の“何某かの不可解な能力”を持っている涼雅は、姉の胸中などお見通しであった。しかし、今回はついて行った方が良さそうだ。運命を変えてしまわないために、である。茂さんたちと鉢合わせした後は、姉さんを彼らに引き渡し、さっさと帰ってしまえば良い。有り体に申せば、早瀬静香は“嫌い”だ。茂さんは、いいなあ。好きな人に、真っ直ぐに向かって行ける……。涼雅は羨望を払拭しようとするかのように、激しく首を横に振った。でも。茂さんと一緒にいる、あの人は誰だろう。見覚えのある顔なのに、名前が思い出せない。

 涼葉は出掛ける前、今日も帰りが遅くなるであろう両親のために夕食を準備した。一人分ずつ皿に盛り、ラップで包んで冷蔵庫に入れる。そして“涼雅と二人で夏祭りに行って来ます。冷蔵庫におかずが用意してあるので、温めて食べて下さい”という書き置きを残し、身支度を整えると、姉弟揃って家を出た。早々と、涼雅が涼葉の服装に駄目出しをする。

「姉さん。どうして、浴衣着ないの?」

「夏に着る浴衣って、暑いでしょ?逆に」

 外見よりも機能性を重視する涼葉の答えに、涼雅はため息をついた。相変わらず、色気ないなあ。スカート穿いてるだけ、良しとするか……。

 約束の時間よりも早めに家を出たのは、理由があった。静香との待ち合わせ場所に向かう前に、神社にお参りをしたかったのだ。

「お参り、して行くでしょ?」

 当然のように訊ねられ、涼雅は困惑した。姉が神社に参拝したがる理由がわからない。ただ、それは“そういうもの”として存在する。夏祭り自体がイベント化してしまっている昨今、廃れつつはあるが、習俗という形で残っている。

 涼葉は強引に弟の服の袖を引っ張り、拝殿の前まで連れて行った。二人は通常の儀礼通りの参拝をし、神社を後にした。一瞬、強い風が吹き抜ける。涼葉の長い髪とスカートの裾が揺れた。清楚な香りが、涼雅の鼻腔に微かに残った。涼葉の髪の匂い。好きだよ。姉さん。でも、僕の胸だけにしまっておく……。

 待ち合わせの場所に着いた。浴衣に身を包んだ早瀬静香が、

「涼雅く~ん」

 と言って、こちらへ向けて手を振っている。途端に、涼雅の顔に不快の色が浮かぶ。

「あ、先輩も。コンバンハ」

 取って付けたように、涼葉に挨拶をする。涼雅の表情が、一段と険しくなった。

「今晩は。早瀬さん」

 涼葉は微笑んだ。これほど露骨に嫌がられているのに、彼女はそれを“好き避け”だと思い込んでいるらしいのだ。勘違いも甚だしいが、二人の温度差から生じる奇妙な会話は、聞いていて飽きない。

 異様にテンションの高い静香。時折沈黙を破り、痛烈な皮肉を吐く涼雅。ああ。やっぱり、最高に面白い。不謹慎だが、二人をセットにした甲斐があったというものだ。ふと、鯛焼き屋の屋台が涼葉の目に留まる。そう言えば、何も食べていない。

「姉さん、お腹空いた?」

 涼雅が訊ねた。彼は、涼葉の挙動には敏感だった。

「私もお腹空いたなあ」

 すかさず口を挟んだ静香に、

「君には訊いてないから」

 と、涼雅は即答した。その怒気を含んだ口調にでさえ、彼女はたじろぐ様子はない。ここまで鈍いと、犯罪レベルかもしれない。

 その時、涼葉は人混みの中にイカレた髪の色の人物を見つけた。

「あっ、友達発見。ちょっと行って来るね?」

 涼葉はそう言うと、二人をその場に残して立ち去った。涼雅は超能力まがいの不可解な能力を持っている。その恐らくは事実であろう“仮定”から、涼葉は逃げ出したのであった。面識がないはずのその人を、もし涼雅が知っていたら……?そう思うと、怖かった。

「高木くん」

 涼葉が声をかけると、その人は驚いた顔をして振り向いた。同時に、傍にいた色白で銀縁眼鏡の少年も、こちらを見る。その顔に見覚えはあったが、名前までは覚えていない。

「涼葉ちゃん。一人で来てたのか?」

 茂は困惑したような微笑を浮かべて、そう言った。涼葉ちゃんって……。馴れ馴れしいわね。先ほどまでの恐怖心も、雑踏の中に友人を見つけた喜びも、腹立たしさで吹き飛んでしまった。

「もしかして、僕はお邪魔かな?」

 銀縁眼鏡が、能面のような顔をして言った。綺麗な顔をしているだけに、不気味さが際立つ。この人は、人間ではない。まるで傀儡だ。

「ううん、全然。いてくれた方が好都合だから、気にしないで?」

 涼葉が答えると、彼は能面を崩さず、

「ふうん……」

 と言った。涼葉は気付かなかったが、茂にはわかった。大樹は意外にも、残念がっていたのである。

「ああ、えーと……。名前、何だったかしら?ごめんなさい。顔は覚えてるんだけど、名前が思い出せないの」

 涼葉は正直に訊ねた。すると、能面は少し嫌そうな顔をして、

「久住大樹です」

 と、短く答えた。久住……。久住?その名前には、聞き覚えがある。『ああ。それ多分、久住のことだろう』涼葉が以前、茂の他校に進学した友人について何か知っているかと訊ねた時、航一の口から出た名前が確か“久住”だったはずだ。

「久住くんね?私は……」

 涼葉が自分の名を告げようとすると、

「知っていますよ。時田涼葉さん。僕はてっきり、茂の想いは届いたのだと……。勘違いだったんですね。残念です」

 顔色一つ変えず、言うのだった。そんな無表情な顔で言われてもねえ……。本心からの言葉なのかどうか、非常に疑わしい。

 三人は大樹の希望でたこ焼きを買って、芝生の上に腰をおろした。その時、一台の高級車がそっと近寄って来て、停まった。

「西田さん……」

 車から降りて来た運転手を見た大樹は、やや強張った声で呻いた。その細微な変化に気付いたのは、茂だけだったのだが。

「坊っちゃん。お探しいたしました」

 西田と呼ばれた黒いスーツの男は、慇懃に頭を下げる。しかし、大樹の手の中のたこ焼きを見ると、彼の表情は一変した。

「またそのような貧民の食べ物をお召し上がりになって。どういうおつもりなのですか!」

「僕は、これが食べたかったんだよ」

 大樹は飄々と答えた。おっ?“人形”が、反論してる。涼葉は思った。

「今日はお父様が屋敷にお帰りになる日です。坊っちゃんも至急、お戻りください」

「わかったよ。これ、食べてからね」

 優雅な仕種でたこ焼きを口に運ぶ大樹を、西田が睨む。

「美味しかった。こんなに美味しい物を“貧民の食べ物”と呼んで食べないなんて、絶対人生、損してると思うな」

 西田はそれには答えず大樹を車に乗せると、現れた時と同様、静かに去って行った。

「久住くんって、何者なの?」

 涼葉の問いに、茂は、

「久住財閥の御曹司」

 としか、答えなかった。こんなに険しい茂の顔を見るのは初めてだ。何も、驚くようなことではない。男には、男の世界がある。そして、訳ありに訳を訊くほど私は野暮じゃない……。

 二人は黙ったまま、夜空に咲く鮮やかな大輪の花を見つめていた。

「涼葉ちゃん」

 茂が涼葉の名前を呼んだ。急に愛情たっぷりの眼差しを向けられ、

「ちゃんって、呼ばないで」

 そう言い返すのが、精一杯だった。だから……。そんな目で見ないで?

「嫌なのか?だったら……。涼葉」

 ある程度予想はしていたが、けしていい気はしない。はずだった。だが、自分でも驚いたことに、穏やかな声でこう答えていた。

「なあに?」

 私は逃げて来た。怖かったから。彼だけが、私が安心して避難できる唯一の“場所”なのだと知っていたから……。

「さっき俺に声をかけて来た時、怯えた顔してただろ。何かあったの?」

「さあ。何だっけ」

 弟が怖かった。などとは口が裂けても言えないので、涼葉は首を傾げて見せた。

「何かあったら、俺を頼れよ」

「なるべく頼らないで済むように、頑張るね」

 涼葉はにべもない返事をした。

「無理はするなよ」

 二人は夜が更けるまで花火を見ていた。夜空に一瞬咲いては散る、大輪の花を。


 県立美術館の倉庫が爆破された。報せを受けた勇作と航一は、現場へ急いだ。それは、あの“愛息”が保管されていた倉庫だった。幻の香月作品は、展示されることはなかった。本物なのか贋作なのかが不明な上、盗品だったからだ。結果、絵は倉庫もろとも消え失せてしまったのである。

「オッサン。何でこいつが、ここにいるんだ?」

 “こいつ”とは、涼葉のことだ。

「どうしても“ついてく”って言い張るんだ。一度言い出したら、俺の言うことなんか聞くもんじゃねえよ」

 勇作はそう言うと、ため息をついた。

「子供ってホント、親の言うことは聞かないですよねえ」

 只今三歳、反抗期真っ盛りの子供を持つ岡本は相槌を打った。山崎は涼葉を恐れているせいか、黙っている。

 学芸員に案内され、爆破された倉庫の前に着いた。美術館の中の一部屋で、そこだけが黒焦げになってしまっている。

「倉庫は三部屋あるんですが、爆破されたのはここだけです。普段は備品が置いてあるだけで、職員もほとんど出入りすることはありません」

「そうですか」

 航一は涼葉の方をチラリと見た。涼葉は少し離れた所で腕組みをして壁にもたれ、鋭い眼光を放ちながらこちらの様子を窺っている。どうだろ、あの態度。山崎さんが恐れるはずだよ……。

 四人が爆破された倉庫を調べている間、涼葉は敵に悟られないように、周辺の気配を探っていた。犯人の真の目的は恐らく、エサを撒いて警察をおびき寄せ、須賀航一を抹殺することだ。そう仮定すると、彼らはまんまと犯人の思惑通りに動いてくれたことになる。一瞬、微かな殺気を感じた。涼葉がその方向を見上げると、近くの中層ビルが目に映る。どうやら敵は飛び道具の使い手らしい。

「四人とも、伏せて!」

 反射的に四人が伏せると、派手に硝子の割れる音がした後、焼けただれた倉庫の壁に弾丸がめり込んだ。

「犯人を追うよ!」

 涼葉が外へ飛び出すと、航一と岡本がその後に続いて走り出す。勇作と山崎は現場に残った。

「凄いわねえ。涼葉ちゃんは」

 山崎が感服したように呟いた。

「感心している場合じゃないだろう。にしても、遅いな。鑑識課……」

 勇作は慎重に、壁にめり込んだ弾丸をつまみ出した。

 目指す中層ビルの非常口から、アロハシャツを着た黒いサングラスの男が出て来るのが見えた。やたら細長い布製の袋を肩に担いでいる。まず、犯人であると断定して良いだろう。近くに停めてあった軽自動車の助手席に乗り込む。助手席に乗ったってことは、共犯者がいるってことか。逃がさない!無謀にも、走り出した車を追い掛けようとする涼葉を、航一が止めた。

「ヤツの持っている銃に、弾が残ってるかもしれないだろ?死にたいのか、お前は」

 走り去って行く車のナンバーを手帳にメモすると、ひとまず美術館に戻る。顔見知りの鑑識官の姿が見えた。

「ごめん、お父さん。捕まえられなかった」

 涼葉が謝ると、勇作は、

「いや、いいんだ。三人とも、無事で良かった」

 と言って労った。航一が手帳のページを破り、勇作に渡す。

「車のナンバーをメモしておいた。多分盗難車だろうから、犯人の特定は出来ないかもしれないが、一応渡しとく」

「車種は?」

「グレーのアルトです。年式はかなり古そうでした」

 岡本が答えた。

「涼葉。お前は帰りなさい。さすがに犯人も、今日はもう俺らの命を狙ったりはしないだろうよ。よほどの馬鹿でない限りはな」

「わかった……」

 勇作の言葉に、涼葉は頷いた。黙って美術館を後にする。

 しかし、勇作の言葉に素直に従う涼葉ではなかった。気配を殺し、やや離れた場所から彼らを見張っていた。ごめん、お父さん。やっぱり心配よ……。勇作と航一は、随分長い間話していたが、距離があるので会話の内容は聞き取れなかった。

 その日は、涼葉の心配は杞憂に終わった。


 夜明け前。茂の携帯電話の着信音が鳴った。こんな時間に、誰だろう……。見ると、公衆電話からだった。茂の携帯に公衆電話から電話を掛けて来る人物といえば、たった一人しか思い当たらない。大樹だ。

「もしもし」

「ああ、ごめん。寝てたよね」

 酷く渇いた、無機質な声。嫌な予感がした。

「どうした。何があった」

 茂は訊ねた。大樹は一言、

「弟が、生まれた」

 とだけ告げると、電話を切った。急いで大樹を捜さないと。茂は着替えると黎明の空の下、心当たりを捜し歩いた。変わり者で、扱いづらくて、謎めいてて。それでもあいつは、俺の大切な親友なんだ!

 大樹は存外近くで見つかった。茂の家の近くにある、コンビニエンスストアの電話ボックス。そこから電話を掛けて来たのだろう。

「大樹」

 茂が声をかけると、驚いたような口ぶりで、

「よくここがわかったね」

 などと言う。

「そりゃあな」

 茂が笑うと、彼は例の非常にわかりにくい笑顔を見せた。

「飯、食ってないだろ。俺の家、来るか?」

 大樹は嬉しそうに頷いた。そこなら、探し出される可能性は低いだろう。二人は並んで歩き出した。

「此岸の闇は底なしだ。生きていること自体が、僕らの原罪なんだ」

 大樹の声が掠れる。

「僕ら?」

「僕と、弟」

 また、難しいことを考えてやがる……。こういう時の大樹への対処法は心得ている。

「大樹。まずは沢山飯食って、休憩しよう」

 そう言うと、茂は大樹の肩を叩いた。残暑厳しい折の、ある日の出来事だった。


強い女の子って、好きです。

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