第二章 暗中模索
中間試験が終わると、期末試験までは少し時間が出来る。寸暇を惜しんで調査を続ける須賀航一と、鈴村美波の間には、ある約束が交わされていた。
『出来るだけ、涼葉を一人にしておくように』
日曜日の朝。そんな事情を知らない時田涼葉は、美波から電話が掛かって来ないかなあ……。などと考えていた。そろそろ一人遊びにも飽きてきた頃だった。たまには私から電話してみようかな?涼葉は、携帯電話に手を伸ばした。
「もしもし……」
電話の向こうから聞こえる美波の声は、まだ少し眠そうだった。
「美波、今起きたの?良かったら、遊びに行かない?」
涼葉の誘いに、美波は、
「ごめん。これから、航一の所に差し入れ持って行くから……」
と、小さな掠れた声で答えた。差し入れって……。あいつ、今までコンビニ弁当で済ませてたじゃないの。不審に思っていると、
「さすがにコンビニ弁当にも飽きてきたから、サンドイッチかおにぎりを作って持って来て欲しいって」
先回りして、答えてくれた。
「そう……」
静かに電話を切った後、涼葉は呟いた。何よ、航一のくせに!航一のくせに!気を取り直して、涼雅を誘って出掛けようとするが、思いとどまる。弟は、受験生なのだ。今日は家でおとなしくしていよう……。ソファーに腰をおろしたその時、着信音が鳴り響いた。見慣れない番号だったが、誰の電話番号なのか、すぐにわかった。一応、彼にも携帯の番号を知らせてあったことを、思い出す。
「もしもし」
どこへ誘われても「そこは、一人で行く」と答えるつもりだった。ボウリング、カラオケ、映画。ショッピングモール内のフードコート。喫茶店、ゲームセンター、流行の雑貨屋。そのどこへでも、涼葉は一人で出掛けた。それで、平気だった。
「時田さん、どこへ誘っても“そこは、一人で行く”って答えるからさ。一人じゃ楽しめないような場所、考えたんだ」
緊張しているのか、普段聞き慣れている茂の声よりも、若干低い。
「どこ?」
「ラブホテル」
確かに。そこは、一人では行かないわね……。今、目の前に彼がいたら、殴り飛ばしていることだろう。涼葉は怒りに震えた。
「ごめん、冗談。遊園地に行こう。さすがに、一人で楽しめるような所じゃないと思うんだけど……」
涼葉はゆっくり息を吐き出しながら、
「高木くんが言うと、冗談に聞こえないんだけど。本当に、行っても大丈夫なの?無理矢理ホテルに連れ込んだりしない?」
精一杯の嫌味と皮肉を込めて、言った。
「しないから……。てか、信用無いなあ。そもそも、時田さんはおとなしく俺に襲われるような女の子じゃ、ないだろ?」
茂は緊張がほぐれたらしく、いつもの声に戻っていた。
「じゃあ、行く」
涼葉は短く答えると、待ち合わせの時間と場所を指定し、電話を切った。あれ?簡単に承諾してしまっても、良かったのかな……。そう思ったが、気にしないことにした。
出掛ける支度をして自室から出ると、リビングから部屋へ戻ろうとしていた涼雅に、
「姉さん、出掛けるの?」
と、訊ねられた。その表情が、苦渋に満ちている。どうしてあんたがそんな顔するのよ。我が弟ながら、時折彼のことがわからなくなる。
「ええ。一緒に来る?」
涼葉は涼雅を誘ってみた。正直なところ、一緒に来て欲しいという気持ちもあった。
「行くわけないよ。お邪魔だろ?」
そんな、にべもない返事が返って来た。そして再び口を開き、
「指輪」
と、暗い声で言った。沈痛な面持ちで、言葉を絞り出すように、
「せっかく貰ったんだから、はめて行ったら?」
そう言い残して、涼雅はドアの向こうに消えた。
今、何て……?涼葉は、驚愕のあまり言葉を失った。“あのこと”は、航一以外の人間には話していない。美波なら、航一から聞かされていても不思議ではないが、涼雅が知っているはずはないのだ。それに。まるで、男友達と遊びに行くことを見抜いていたような口ぶりだった……。誰と出掛けるのかなんて、一言も話していないのに。
釈然としないまま、涼葉は家を出た。
涼雅は自室のドアにもたれ掛かったまま、姉の気配が消えるのを待っていた。涼葉の気配が遠ざかって行くのを感じながら、茫然自失の体でその場にへたり込む。
『行くわけないよ。お邪魔だろ?』
『指輪』
『せっかく貰ったんだから、はめて行ったら?』
つい先ほど、自分が姉に向かって吐いた言葉を、心の中で繰り返してみた。さすがにあの場面では、ああ言うしかなかったんだ……。
涼雅は、声を潜めて泣いた。
美波は、恋人に差し入れるためにサンドイッチを作っていた。最後の一つを弁当箱に詰め、蓋をする。航一は痩せの大食いなので、弁当箱は二段重ねだ。大きめのトートバッグに、弁当と水筒を入れる。これで、よし!身支度を整え、彼の元へと急いだ。
誰もいない図書館の一室。航一は静かに立ち上がると、外へ出た。当然のことながら、館内への飲食物の持ち込みは禁止されていた。美波が待っているであろう、中庭へと向かう。ここなら、弁当持参でも構わない。
美波の姿を探したが、見つからない。まだ来ていないのだろう。航一は、噴水の傍のベンチに座って待つことにした。しばらくすると、
「待った?」
と、聞き慣れた恋人の声がした。
「いや?俺も、今来たところだから」
航一の顔に、笑顔が戻った。美波が航一の隣に腰をおろす。初夏の風が、心地よい。
「今日の弁当は何?」
航一が訊ねると、
「サンドイッチよ」
美波は伏し目がちに答えた。頬が赤く染まっているように見えるのは、気のせいではないだろう。
「おにぎりじゃ、ないんだ」
航一は意地の悪い笑みを浮かべて、言った。強気でクールな彼女が恥ずかしそうに俯いているのを見ると、つい茶化したくなってしまう。
美波は黙って、弁当箱をトートバッグから取り出した。先週の日曜日のことは、なるべく考えないようにする。次いで、水筒と紙コップを取り出す。おしぼりを取り出そうとした時、水筒が倒れた。それを起こそうとすると、今度はおしぼり入れが倒れる。
普段は冷静な彼女が、動揺していることがよくわかる。航一はその様子を見ながら、思った。あの程度でこれなら、“あれ”より先に進もうとしたら、どうなるんだ?
先週の日曜日の弁当は、おにぎりだった。二人でおにぎりを食べていると、美波の視線を感じた。顔を上げた航一の目に、自分を優しく見つめている黒目がちな瞳の少女が映る。この人を好きになって、良かった……。次の瞬間。航一の唇が、美波の頬に軽く触れた。
「ご飯粒、付いてた」
航一の口から、言い訳がましい言葉が出た。もちろん、そんな物は付いていなかった。だが、どうしてもそうしたいという衝動を、抑えることが出来なかったのだ。
「お行儀、悪いわよ?」
美波が諭すように言った。お姉さん口調なのが、気に入らない。
「うるさいな。その口、塞いでやる」
航一は美波の唇に、自分のそれをそっと重ねた。ほんの一瞬の口づけだった。
ただ、それだけだ。それだけだったのだが、この慌てぶりは何だ?
「どうぞ、召し上がれ」
促されて、我に返る。航一は差し出されたおしぼりで手を拭くと、サンドイッチを一つ手に取った。
付き合いが長いわりには、ああいうことに慣れてないんだよな。俺たちは。そんな事を考えながら、サンドイッチを食べる。マスタードがよく利いていた。
「お茶、どうぞ」
「うん」
こうして、ランチタイムが何事もなく過ぎて行った。
強烈な違和感を抱きつつ、涼葉はそれなりに楽しんでいた。美波や航一、涼雅以外の人間と二人きりで出掛けるのは、恐らくこれが初めてだろう。空手道場の仲間たちとは、いつも数人で連れ立って出掛けていた。さすがに、遊園地には一人で来ても楽しくないわね。ただ、心置きなく楽しむことが出来るかどうかは、一緒に来ている相手にもよるが。
楽しくない。と言えば、嘘になる。しかし、どうしても違和感を拭い去れない。なぜ私は今ここに、この人と一緒にいるのだろう……。涼葉は茂の横顔を見つめ、ため息をついた。真っ直ぐな好意は、ひねくれ者には眩し過ぎる。
「ん?どうかした?」
茂が涼葉の方を振り向いて、訊ねた。やはり眩し過ぎる、穏やかな笑顔と優しい声。
「お腹、空かない?」
涼葉は遠慮がちに訊いてみる。この遊園地には、飲食店がない。食事をしたければ、一旦外へ出なければならない。入場券にゴム印が押してあり、日付が変わらない限り、閉園まで再入場が可能だ。
「ああ、もうそんな時間か」
「私がおごるから、私の好きな店でいい?」
「え?」
茂は明らかに当惑していた。涼葉は、
「だって……。高木くんの家には、お父さん、いないんでしょ?」
と、腫れ物に触るような気持ちで訊ねた。高木家の経済事情は、涼葉にとって、謎だらけだった。そもそも、茂が高校へ進学できていること自体が、不思議でならない。だが、訳ありに訳を訊くほど、野暮な真似はしたくなかった。
「へえ……。覚えていてくれたんだ」
茂の強張った表情が緩み、その顔に微笑みが戻る。
「勘違いしないでね?変な借りを作りたくないだけだから」
涼葉は、茂を睨んでそっぽを向いた。風に揺れた長く艶のある髪から、シャンプーの良い香りが漂う。清楚な香りが、茂の鼻腔に微かに残った。
「その匂い、好きだな」
はぐらかされた?まあいいか。こちらの意思は、伝えたのだから。もとより、指輪を買って貰ったことに対する、負い目があるのだ。
「行くよ?」
涼葉は踵を返して歩き出した。茂がその後を追う。
遊園地を出てしばらく歩くと、ちょっと洒落た外観の小さな建物が見えた。白い壁と、緑の屋根。ブラインドが掛かっていて、中の様子を覗くことは出来ない。
「一人じゃ、入りにくいんだ。ここ」
そう言うと、涼葉は店のドアを開けた。席はカウンターのみで、奥の方には色鮮やかな雑貨が並んでいる。
「ここ、何屋?」
茂はおずおずと訊ねた。見ての通りのような気もするが、雰囲気が怪しげだ。
「輸入雑貨と、主にパスタの店」
涼葉は答えた。そして、
「主にパスタの店なんだけど、私のおススメはカレー」
と、付け加える。席に座ると、店主と思しき中年男性が、
「いらっしゃい。今日は、いつものお友達と一緒じゃないんだね」
無愛想だが上品な声で、そう言った。
「まあね」
涼葉は気のない返事をして、茂の方へ向き直り、
「高木くん、何食べる?」
と、訊いた。差し出されたメニュー表を見ると、当然だが、パスタとカレー以外の選択肢がない。
涼葉がチキンカレーを頼んだので、茂もそれにした。やっと、水とおしぼりが出される。足元に猫がすり寄って来た。どんな店なんだ?茂は思った。
異国情緒が溢れる不思議な空間の中で、涼葉と茂は黙々とチキンカレーを食べた。そこが指定席なのだろう。レジの横の古ぼけたクッションの上で、猫は眠ってしまった。
「ご馳走さま」
支払いを済ませると、涼葉は店主に言った。
「お粗末さまでした。またおいで。お連れさんも、ご一緒にどうぞ」
やはり無愛想な声で、彼は答えた。
店を出ると涼葉は、
「変わった店でしょう?」
と言って、微笑んだ。
「変わった店だったけど、カレーは美味かった」
茂が正直な感想を述べると、涼葉は、
「これで二対三か……」
と、小さな声で呟いた。
やがて、公園通りに出た。二人は、最初の待ち合わせ場所である森林公園まで戻って来てしまっていた。芝生と噴水。その他には時折何かのイベントをする広場があるだけで、これといった遊具すら無い。周囲には主に桜、銀杏、梅などの木々が、フェンスの代わりに植えられている。
涼葉は黙ってベンチに腰をおろした。茂も無言でその隣に座った。
「ここ、好きなのか?」
「うん」
茂の問いに答えながら、思う存分邪推してみる。ここなら、深い繁みの中に滑り込ませて、強引に関係を持つことが可能だ。実際この場所は、毎月第三日曜日にフリーマーケットが開催される時以外は、閑散としていることが多い。フェンスの代替に植木があしらわれているので、通行人の死角にもなりやすい。涼葉が悪質な痴漢行為を繰り返していた犯人を捕まえて、感謝状を貰ったのもこの公園なのだ。もしも、こいつが襲い掛かって来たら……。死なない程度に、殺しちゃっていいよね?
そう考えて、涼葉は隣に座っている茂を見た。何がそんなに沢山落ちているのだろう。鳩が歩き回り、しきりにくちばしで地面をつついている。
「ん?どした」
優しい眼差しを投げ掛けられ、戸惑う。目の前に欲望を押し隠した役者がいるのか、素直になれない自分がいるのか、わからなくなる。今、ここにいるのは……?
「今日の夕食のおかずは何にしようかなあって、考えてたの」
咄嗟にそんな言葉が出た。まさか“あなたの本懐を邪推していたの”とは、口が裂けても言えない。それに、まだ夕食の献立を考えていなかったのも、事実なのだ。
「えっ、なんで?」
怪訝そうな、茂の顔。随分と久しぶりに見る、普通の反応だ。
「今日はお父さんもお母さんも仕事だから、私が食事の支度をするの」
涼葉は、ため息交じりに答えた。
「へえ……。俺も、食べに行っていい?」
茂がそう言うので、涼葉は、
「高木くんは、家でお母さんが食事の用意をして、待っていてくれるでしょ」
と、そっけない返事をした。母子家庭の彼なら、自分が食事の支度をして待っている側なのかもしれないが、そこは気にしないことにした。
「まあ、うん。そうだね」
茂の瞳の奥に、無機的な色が浮かんだ。口元だけが微笑んでいる彼の顔は、酷く寂しそうに見えた。それはほんの一瞬のことだったが、涼葉の胸に強烈な印象を残した。今ここにいるあなたの正体は、何……?
結局、スーパーで食材を調達する涼葉を茂が家まで送り届け、二人の初めてのデート(?)は無事に幕を閉じた。
もっとも、別れ際に涼葉の長い髪を手に取りキスをした茂の頬に、涼葉の拳が繰り出された展開を、“無事に”と言えるのであればの話だが。茂はそれを手のひらで受け止め、
「こんなの、当たらねえよ」
と言って、微笑んだ。涼葉の顔に、驚倒と焦燥が浮かぶ。
「じゃあ、また明日」
そう言い残して、茂は立ち去った。お前は、俺には勝てないよ。だからさ、諦めて俺の女になれ……。心の中で、そっと呟いてみる。うわあ、これは……。絶対に口にするべきではないな。
茂は無言で帰宅すると、沈んだ気持ちで玄関を開けた。無駄に広く、古い日本家屋は、母親と息子二人で暮らすには不向きであった。広過ぎるのだ。
居間へ続く障子を開けると、母親の真希子が、畳の部屋には似合わないロッキングチェアに座っていた。膝の上に、壊れたオルゴールの小箱を大切そうに抱えている。彼女は夫亡き後、鬱病に悩まされ続けていた。
「ただいま」
茂が声をかけると、虚ろな目をした顔をこちらへ向け、
「お帰りなさい」
と、蚊の鳴くような声で答えるばかりだ。
茂は少し早い夕食の支度に取り掛かるため、居間を出て行った。
「涼葉……。大丈夫か?」
翌朝。思わず航一がそう訊ねずにはいられないほど、涼葉は落胆していた。涼葉は重い口を開き、昨日起こった、驚倒と焦燥の出来事をぽつりぽつりと話した。
航一は黙ってそれを聞いていた。茂が、涼葉の繰り出した拳を手のひらで軽く受け止め、かわした。それはある程度、予測された出来事だった。
「そうか。てか、お前。高木と一緒に出掛けたんだな。涼雅が荒れたりしなかったか?」
「少し様子が変だったけど、荒れたりはしなかったわよ?てか、心配する所がそこなのね?私のことより」
涼葉が航一を睨んだ。航一は慌てて付け加える。
「いや、お前のことも心配だけどさ。涼雅は気合の入ったシスコンだから“姉さんを他の男に取られた!”とか言って、荒れてなけりゃいいなと……」
二人の間に、沈黙が流れた。わかってる。航一は、茂の味方だ。男には、男の世界がある。女には、女の世界があるように。男と女は、同じ星に生まれた異星人なのだと思う。見えない壁に隔てられ、航一が急に遠くなって行くような気がした。
「航一は、あいつの味方なのよね。わかってる」
涼葉は事実を確認するように、航一の顔を覗き込んだ。悲哀に満ちたその瞳の奥には、同時に激しい憤りが渦巻いている。航一は、恐る恐る口を開いた。
「でも、それは……。あり得ないことじゃ、なかっただろう?」
その身体能力の高さと、喧嘩の強さと。辺りに静寂が訪れた時には、茂の足元に不良たちが折り重なって倒れていたという、あの噂。多分、あれは真実だろう。どこの誰が、どのくらい強いのか。不良連中にとっては、貴重な情報だ。時田涼葉と高木茂。この二人は彼らにとって、願わくは遭遇したくない強敵なのだ。
そのようなことを話す航一の言葉を、涼葉は終始無言で聞いていた。悔しいが、納得せざるを得ない。
『こんなの、当たらねえよ』
そう言って微笑んだ彼の顔を、私はきっと忘れないだろう。あの、憎らしいほどに爽やかな笑顔と優しい眼差しを。そしてこれを契機に、航一は私から少しずつ遠のいて行くのだろう。もう少し、幼馴染でいたかったけど。
「航ちゃん」
涼葉は、幼い頃そうしていたように、航一のことをちゃん付けで呼んでみた。
「何だよ、気持ち悪いな」
航一は怪訝な顔つきで、涼葉を見た。懐かしい響きではあるが、もうそんな歳ではないのだ。俺たちは、適度な距離を保たなければならない年齢に、なってしまったのだから。
涼葉は、昨日答えを出せないままだった疑問を、そのまま口にしてみた。
「私、あいつといると、わからなくなるんだよね。目の前に欲望を押し隠した役者がいるのか、素直になれない自分がいるのか。それに……。真っ直ぐな好意はひねくれ者には眩し過ぎる。高木茂とは、何者なのかがわからなくなる。航ちゃんには、わかる?」
「ちゃん付けはやめろって。ガキじゃねえんだからよ。それは……。素直になれないお前がいるんだろ」
航一は、きっぱりと言い放った。ああ。やっぱり、そういう返答になるのか……。涼葉は思った。さよなら、航ちゃん。
香月稔の生涯。それを調べるより他に、怪盗紳士の正体に近付く道はない。航一はそう信じて、調査を続けて来た。根拠などない。強いて言うなら“探偵の勘”である。
だが、調べてみると資料によって異なる記述がされていたり、ある時期の資料が残っていなかったりしたのだ。香月稔の人生が、何枚もの端切れを使って作られたパッチワークであった。少なくとも、航一にはそのように感じられた。まるで、事実を覆い隠そうとするかのように。
そして、それは航一の“勘”を“確信”へと変えた。彼女は、香月稔の孫なんかじゃ、ない。ならば、本仮屋楓恋と名乗った彼女の正体は、何者なのか……。
香月稔は妻との間に、三人の娘をもうけている。だが、彼は愛娘を全員大富豪のもとへ養女に出していた。その娘たちが、その後どのような人生を送ったのか。次女は若くして病死、三女はなぜか自殺。この二人には子供はいなかった。つまり、香月稔の孫とは、長女の子供ということになる。長女の養父母の姓が、本仮屋だったのだ。その長女が婿を取り、一男一女をもうけるのだが……。もし生きていれば、香月は今年で92歳なのだ。彼はごく一般的な年齢で結婚しており、そのまま一般的な年齢で父親になったであろうと思われる。その孫ともなれば、40代半ばくらいか。しかし、航一が見た本仮屋楓恋は、どう見ても30歳前後にしか見えなかった。整形でもして若作りをしているのか、とも考えた。だとしたら、何のために?いや……。特に理由などなく、金持ちの有閑マダムの遊興なのかもしれない。ん?マダムではないな。彼女は独身だ。また、そんな彼女が本仮屋家の当主というのも不自然だった。彼女には兄か弟がいるはず。本来なら、そっちが跡継ぎだろう?
航一の頭の中に浮かんだ、香月稔の孫の「正体」にまつわる仮説。それは、替え玉説だった。いつ、どのようにして入れ替わったのか、という疑問は残るが。そして、これは現段階ではまだ推測の域を出ない。
もう一つ気になるのは、香月の中年期にまつわる記述が所々抜けていることと、晩年の記録が残されていないということだ。はっきりわかっているのは、享年48ということくらいで。死因すら不明なのである。
何だか、作り上げられたキャラクターみたいな感じだな。航一は思った。ん?作られたキャラ……。そうか。だから、人生が継ぎはぎだらけのパッチワークなんだ。嫌な胸騒ぎがした。全ての謎を解き明かした時、見える風景。その景色に、少しも希望的観測が持てないのだ。なぜかピカソの「ゲルニカ」が頭に浮かぶ。そう。あんな感じ。
その胸騒ぎを打ち消すかのように、航一はかぶりを振った。杞憂だよ、杞憂。そう自分に言い聞かせた。
何者かに肩をつつかれ、航一は我に返った。
「理科室、行かねえの?」
茂だった。
「ああ、そうだな」
航一は急いで教科書とノートを準備すると、茂と二人で教室を出た。
『航一は、あいつの味方なのよね。わかってる』
今朝通学路で見た、悲哀と憤りの混ざった涼葉の視線が忘れられない。この授業が終われば、弁当か……。航一の心は、長雨が止んだ梅雨空のように、暗雲が立ち込めていた。
授業はあっという間に終わり、恐れていた昼食の時間が来た。しかし、航一が想像していたほど涼葉は荒れてはいなかった。
ただ。これ以降、涼葉は航一のことを「須賀くん」と呼ぶようになった。幼馴染から友達へ。もう二度と離れる必要のない距離に身を置くことが最善策であると判断した涼葉の出した、結論であった。
放課後。急に降り出した激しい雨に、大半の者が、鞄の中に忍ばせていた折り畳み傘を広げて帰路についた。色とりどりの傘が散らばって歩いている。図書室の窓からその様子を見ていた涼葉に、背後から声をかける者がいた。
「傘、持って来てないのね」
美波だった。涼葉は振り向いた。今この時に声をかけてくれた人が、航一でも茂でもなく美波であったことが、心の底から嬉しかった。だが。須賀航一には、折り畳み傘を持ち歩く習慣がない。だったら、どうして美波がここにいるの?
「航一なら、高木くんと一緒に先に帰ったわよ」
どんな疑問にも、先回りして答えてくれる。察しがいいわね……。涼葉は、さぞかし珍妙であろうその相合傘を、見てみたいと思った。親友の不謹慎な好奇心に気付いているのかいないのか、美波は、
「一緒に帰ろ?」
優しい声で、言うのだった。涼葉は笑顔で頷いた。二人並んで図書室を出る。
「ねえ」
校門を出た所で、美波が訊ねた。
「どうして急に航一のことを“須賀くん”なんて呼ぶようになったの?」
黒目がちな瞳を曇らせ、涼葉を見ている。
「須賀くんが急に遠くなって行くような気がしたから、二度と離れる必要のない距離に……。 “友達”の立ち位置に、身を置くことがいいのかなあ、と思って。須賀くんは、基本的にあいつの味方だし。男と女は、いつまでも“幼馴染”ではいられない。そろそろ、けじめをつけなきゃいけない時が来た。それだけよ」
涼葉は、強い意志を込めた口調で答えた。迷いはなかった。小学一年生の時の記憶が甦る。あの頃の私は、須賀くんと同じクラスになれなくて、泣いて駄々をこねたんだっけ。あの時の私も、大好きだった航ちゃんも、今はもう、どこにもいない。
梅雨が近付いているようだった。長雨の季節が終わる少し前、期末試験が始まる。それまでに、どうしても確かめておきたいことがあった。航一は、時田勇作の携帯電話の呼び出し音を鳴らした。
「もしもし。珍しいな。お前が俺に電話を寄越すなんて」
挨拶もそこそこに、航一は用件を切り出した。
「絵画の真贋鑑定でのパターン分析に使われるフラクタル解析って、あるだろ?」
「ん?ああ、あるな。それがどうかしたのか?」
「あれで、香月稔の作品の右下にサインがある絵と左下にサインがある絵が、同一人物の手になる作品かどうかを調べることって、出来るか?」
「はあ?」
勇作が頓狂な声を上げた。当然だ。
「変な声出すなよ。無理に決まってるだろう、そんなの」
航一は言った。現時点では、それは不可能だ。証拠がない。本来の用件を話す。
「絵のサインってのはさ、普通は表に目が行きがちだ。けど、キャンバスの裏側にも書くものなんだそうだ。表に描くのは、完成品の証。確かに自分が描いた絵ですよ、とな。香月作品のキャンバスの裏にサインがあるかどうか、確認して欲しい。多分、サインはあると思う。でも、どこかに消したような痕が残ってるはずだ。手間をかけてすまないが、何枚か確認しておいてくれ」
「まあ、それぐらいなら、何とか」
電話の向こうで、勇作が安堵している様子が手に取るようにわかる。
「頼んだ」
それだけ言うと、航一は電話を切った。
香月稔の生涯。それはまるで、何枚もの端切れを使って縫い合わされたパッチワークだ。同姓同名の別人がいる?画家の中に。その数人が混同された?そんな、出来過ぎた偶然があるだろうか。中年期にまつわる記述が所々抜けているのも、晩年の記録が残されていないのも、都合良く過去が改竄されているからなのだろう。資料によって異なる記述がされているのは、消し忘れなのかもしれない。
恐らく、現在「香月稔」として認識されている画家は、単数では存在しない。複数の画家を、あたかも一人の人物であるかのように見せかけているのだろう。表のサインは絵の具で塗りつぶし、その上から描き換えることが可能だ。しかし、裏のサインはどうだ?サンドペーパーか何かで消して書き換えないと、無理なんじゃないかな……。誰が何のために、そこまでしてという疑問は残るが。その謎を解く鍵の一つを握っているのが、本仮屋楓恋であることは間違いない。
常に雨雲が空に広がる季節になった。今年の梅雨から、ついに時田家の家電製品に乾燥機が仲間入りした。去年までは、須賀家に洗濯した衣類を持ち込んでいたのだ。ただ、ほとんどの衣類が乾燥機を使用出来ず、持ち込める物は少なかったのだが。いくら幼馴染とはいえ、図々しいことをしていたものだ。
他に変わったことといえば、茂が時折涼葉に休日の予定を訊ねるようになったことだ。さすがに、当日の朝電話をするのはいかがなものかと思ったのだろう。ま、私は基本、一人遊びが苦にならないから、お断りすることが多いんですけどね……。
特に茂のことが嫌いというわけではない。弁当を一緒に食べるのも、二人で下校するのも、今では全く抵抗が無い。高木茂は、ちゃっかりしっかり涼葉の狭い交友関係の中に割り込んで、馴染んでいる。だが、どうしても傍にいて欲しい人物かと問われれば、答えは明らかにNOなのである。涼葉は彼に“友達”以上の何物も望んではいない。それに対して、彼が欲しているのは“恋人”関係なのだ。だから、むしろ傍にいて欲しくなかった。しかし、どうしても優劣をはっきりさせたい人物ではあった。でもねえ……。喧嘩を吹っ掛けるきっかけが、ないのよねえ……。
今日も、空は今にも泣き出しそうな顔をしていた。涼葉、航一、美波。そして、茂。いつもと変わらない昼食の風景。その平和な光景の中で、涼葉は思案していた。茂に喧嘩を吹っ掛ける口実と、確実に勝つための手段を。喧嘩を吹っ掛ける口実は、何だっていいのだ。だが、確実に勝つための手段となると、どうしても卑劣なやり方以外の手を思いつかない。それでは、意味がない……。
そんな涼葉の胸裏を知らない茂は、
「今度の日曜日、プラネタリウムに行かない?急に星、見たくなった。俺」
などと誘って来る。星、ねえ。こんなに雨が続けば、夜空を見上げても星なんて見えないわね。プラネタリウム。いいかもしれない。
「そこは、一人で行く」
いつもと変わらない返事をする涼葉に、美波が、
「たまには二人で行ったら?」
と、静かな微笑を浮かべて言った。
「美波は星、好きよね」
涼葉が強引に話題を変えようとすると、
「はぐらかさないで」
と、容赦なく返された。うう……。美波め。
「わかったわよ。じゃあ、今度の日曜日。9時に森林公園に集合でいい?」
「いいよ?」
美波は、心の中でガッツポーズをした。頑張って、高木くん。
あるいは、この非常に勘の鋭い少女には、視えていたのかもしれない。優劣がはっきりした時、二人の関係が徐々に変わって行くことが……。
涼葉にとっては、気の重い日曜日の朝が来た。身支度を整え自室から出ると、またしても、リビングから部屋へ戻ろうとしていた涼雅に出くわした。彼は涼葉を一瞥すると、
「さすがに、スカートは穿いて行かない方がいいんじゃない?暗闇だしね」
とだけ言い残して、自室に戻った。
涼葉の背筋に戦慄がはしる。何なの、この子は。前回と同様に、詳細は一切明かしていないのだ。この時初めて、涼雅のことを恐ろしいと思った。超能力の類の不思議な力を持っていて、こちらの全てを見透かされているような気がしてならない。とはいえ、彼の言っていることは客観的に正しかったので、涼葉は急いで部屋に戻り、着替えた。
涼雅は、ジーンズで家を出て行く姉の姿を、二階の自室の窓から見ていた。そう。それでいいんだよ……。彼の瞳の奥には、諦観が色濃く漂っていた。涼葉が航一と距離を置くことを決意したように、涼雅も“シスコン”から卒業しようとしていたのかもしれない。
そんな事とはつゆ知らず、涼葉は弟に怯えながら森林公園へと向かった。
「それで?」
翌日、涼葉から一部始終話を聞いていた美波は訊ねた。その声は、穏やかだった。
「それだけよ」
涼葉は答えた。つまり、要約すると……。
森林公園で待ち合わせて、二人はプラネタリウムへ向かった。道すがら、涼葉の穿いているジーンズの話になった。どうやら、茂も同じ銘柄の物が好きらしい。この日の彼はカーゴパンツを穿いて来ており、
「残念だったな。ペアルックになれなくて」
などと呟いていた。涼葉は、茂と出掛ける時にはもう二度とジーンズは穿くまいと心に誓った。
プラネタリウムの中に入ると、客はまばらだった。ただでさえ、入場料安いのに……。これで採算が取れているのかどうかが、心配になる。
「今日は人が少ないな……」
そう言って辺りを見回した茂の表情を、この目で確かめたわけではない。だが、のちの行動から推し量るに、この時の彼は企んでいたはずなのだ。
「この辺でいいかな」
茂が腰をおろす。彼はただのトモダチ。そう自分に言い聞かせ、少し躊躇しながら、その隣の席に涼葉も座る。
暗がりの中、投影機から映し出される季節の星座。流れて来るクラシック音楽。解説される星にまつわる切ない物語。椅子の傾き具合。それらすべてが、昨晩遅く就寝した涼葉にとって絶好の子守唄だった。瞼が重い。しかし、ここで眠るわけにはいかない。必死に目を開けようとするのだが、結局は睡魔に勝てず、瞳を閉じた。意識が薄れて行く中で、涼葉の唇に柔らかい物が触れた。何だろう……?
それが何なのかを理解出来た時、涼葉の眠気が吹き飛んだ。勢い良く目を開けると、茂は重ねていた唇を離した。
「もう少し、このままでいたかったのに」
彼の顔は、暗くてよく見えなかった。だが、満足そうな声が、涼葉を苛立たせた。早くここから出たい。ここから出たら……。こいつに喧嘩を吹っ掛けよう。
やっと投影が終わり、他の客と一緒に外に出た。人目につかない所まで来ると、涼葉は茂に殴り掛かった。その拳をひらりとかわし、
「だからさ、当たらないって言ったろ?」
余裕たっぷりの笑顔が、憎らしい。涼葉は次々と技を繰り出していった。上段突き、脾臓打ち、関節蹴り、回し蹴り……。そのどれもが、簡単にかわされてしまう。涼葉は心が折れていくのを感じた。そして、攻撃をやめた。
「腹減ったな。何か食うか?」
茂の眼差しは、相変わらず愛情に溢れている。涼葉はかぶりを振った。
「悪いけど、今日はもう帰る」
道場には、涼葉より強い兄弟子はいない。屈強な男たちを相手に、負け知らずだった涼葉にとって、この敗北は非常に大きな痛手であった。
「そうか。じゃあ俺、送ってく」
帰り道。二人は終始無言だった。茂は、どんな言葉をかけたら良いのかわからずにいたし、涼葉は、喋る気力も無かった。長い沈黙を破ったのは、茂だった。
「何か買って帰る物はない?」
「特に何も……。冷蔵庫にある物で作るから、いい」
再び沈黙が訪れた。ようやく涼葉の家にたどり着く。
「じゃあ、また明日」
別れ際にはいつもと変わらない笑顔を見せて、茂はその場を後にした。
かいつまんで話せば、それだけだ。
「腹が立つのは……」
涼葉は静かに言った。
「これがファーストキスだったって事と、かわしてばかりで、まともに応戦しようとしなかった事!」
語尾が少し荒くなる。そんな涼葉に、美波は意地の悪い質問をした。
「そう……?だったら、涼葉はどんなシチュエーションでのファーストキスが理想だったの?」
悪戯に成功した時の子供のような表情をしている美波を、涼葉は睨んだ。
「美波こそ、どうなのよ。どんなシチュエーションでのファーストキスが理想なの?それとも、すでに済ませてるのかしら。須賀くんも、隅に置けないわね」
「質問に質問で返すなんて、狡いわよ」
美波は涼しい顔をして言った。答えになっていない。だが、それを言ってしまえば、涼葉の返答も質問の答えになってはいない。美波には、勝てないなあ……。涼葉は思った。
「理想のシチュエーションとかはないけど、せめて人目のない所で……」
渋々、最初の質問に答える。本当はそんな事を考えてみたことなど、ないのだ。こういうのは、適当でいいのよ。適当で。
「ふうん……。じゃあ、高木くんにそう伝えておくわ」
極上の笑顔を浮かべて、美波は言った。涼葉は思わず眉を寄せる。不快を露わにし、
「やめてよ。次に私とキスをするのは、あいつじゃないから。絶対に」
一応、釘は刺しておいたが……。どれほど効果があるかは、わからない。
ちょっと可哀想だったかな?茂は少し後悔していた。あんな事をせずにいたら、あの後楽しい時間を過ごせていたはずで……。“あんな事”とは、もちろん、涼葉の唇を奪ってしまったことだ。でもさ、あれは反則だぜ?寝顔、可愛過ぎ。
ただ。彼は気付いていた。涼葉が、自分と優劣をはっきりさせたがっていることに。だから、どうにかして喧嘩を吹っ掛けさせる口実を作らねばならなかった。その意味では、充分正しい行動だったわけで。まあ……。良かったのかな?多分、これでわかったはずだ。気の毒なほど落胆していた、涼葉の顔を思い出す。なあ。これで、気が済んだだろ?もう、俺と張り合おうとするな。今すぐ俺の女になれとは、言わねえよ。時間が掛かっても構わないから、俺のこと、好きになってよ……。
茂は祈るような気持ちで、瞼を閉じた。昨日プラネタリウムで見た、星空が鮮やかに甦る。
六月ともなると冬の星座は西空から影をひそめ、春の星座も西の空へと傾いて行く。南の空には春と夏の星座が同居しており、東の空には夏の星座が続々と登場して来る。
星にまつわる話は、切ない話が多い。けど。俺は、この恋をハッピーエンドにしてみせる。
期末試験が間近に迫ったある日。航一の元に、待ちわびていた知らせが届いた。そう。キャンバスの裏側に書いてあるサインのことだ。
いつもそうしているように、勇作は昼食の時間帯を選んで電話を掛けて来た。
「それで?どうだった」
航一は先を促した。勇作が勿体ぶって喋ろうとしないのは、大抵予想以上の収穫があった時だ。
裏側のサインは、もちろんあった。お世辞にも達筆とは言いかねる字で、香月稔と丁寧に書かれている。しかし、消して書き直したような痕がある物が、数枚あったと言うのだ。さらに、その中の何枚かに、表の端の方に絵の具で塗りつぶしたような痕跡があったそうだ。
それ、大した収穫じゃないだろ……。航一はがっかりした。
「気に入るまで、サインを描き直す画家はいるらしいぞ。剥がしてみれば、わかるがな」
少し考えてみれば、わかりそうなものだ。問題なのは、裏側がどうなっているかなのである。勇作の馬鹿さ加減に呆れていると、
「香月稔程度の知名度の画家が、そんな事をすると思うか?」
へっぽこ警部は、落ち着き払って言った。そうだろうか。確かに彼は、そこそこ名の通った画家に過ぎない。知っている人は知っているが、知らない人は知らない程度の。さほど知名度の高くない彼にとって、サインは少しでも絵を高く売る手段だったはずである。表にサインのない絵は、値段がかなり落ちるという。だが、彼も芸術家の端くれだ。作品に対するこだわりはあったはず。人手に渡す際、画竜点睛を欠くような事をするだろうか。
航一は、それをそっくりそのまま勇作に伝えた。すると勇作は、
「だからこそ絵の価値を落とさないために、香月は入念にサインを入れる場所を選んでいたんじゃないかな。有名な画家の絵なら、何度もサインを描き直した痕跡が残っていても、その画家の作品というだけで価値があるからな。恐らく知名度の低い彼にとって、表にサインを描くのは命懸けの作業だったんだよ。食って行くための」
それを聞いた航一は、ハッとした。
「なるほどね。オッサン、たまにはいいこと言うな」
香月稔の知名度。そう言われてみれば、そうだ。だからこそ、可能だったのだ。複数の画家を、あたかも一人の人物であるかのように見せかけることが。
「手間をかけさせて、すまなかった。ありがとな」
「おう。期末試験、頑張れよ」
そう言うと、勇作は電話を切った。一言余計なんだよ、オッサン……。試験直前になって焦る涼葉じゃあるまいし。俺は、日頃から少しずつ勉強はしてるんだ!
複数の画家を、あたかも一人の人物であるかのように見せかける。それは彼が、そこそこ名の通った画家だったからこそ可能だった。知名度。知名度……。航一の頭の中を、その単語はしばし駆け巡った。そうすると「香月稔」を作り上げている複数の画家たちの知名度も、さほど変わらないのだろう。あるいは、香月よりも無名である可能性も無きにしもあらず、といった所か。
現在「香月稔」として認識されている画家は、単数では存在しない。航一の“推測”は、“確信”へと変わった。キャンバスの裏側に書かれているサイン。消して書き直したような痕。さらに、表の端の方にあった、絵の具で塗りつぶしたような痕跡……。表にサインのない絵は、値段がかなり落ちる。そんな時、誰の手になる作品かを示す手掛かりは、裏に書かれたサインのみだ。それが消して書き換えられているということは、その絵が別人によって描かれた物であるということに他ならない。ただ、これだけでは揺るぎない証拠とは言えない。もっと決定的な証拠があれば、フラクタル解析の依頼も可能だが……。
期末、早く終わってくんねえかなあ……。航一は、寝癖のなおりきっていない頭をくしゃくしゃと掻きながら、そんなことを思った。まだ、始まってさえいないのに。仕方がないので、一旦頭を“学生モード”に切り替えることにした。
タイトルの由来
「追跡」などと推理小説みたいなタイトルになっちゃってますが、本作は推理小説ではありません。狭い人間関係の中に追う者と追われる者がひしめき合っている様子を表したくて、このタイトルにしました。




