第十四章 紅水母
涼葉が野菜ジュースを飲み終えるのを待って、航一が口を開く。
「明日も今日と同じ時間に、あまり大きな声では言えないが……“血染めの館”に現地集合だ」
「“血染めの館”ね」
涼葉の声が自然と小さくなる。そりゃまあ、普通はそうなるよな。なぜそう呼ばれているのか、を知っていれば。俺だって、行きたくて行くわけじゃねぇぞ?航一はため息をつく。
“血染めの館”も“人喰い屋敷”同様、市内では有名な心霊スポットの一つだ。小洒落た外観のラブホテルの一室で、経営者が妻子とともに無理心中をした部屋の壁が、雨の降る日の夜には天井から血液が滴り落ちて、赤く染まる。まるで、道連れにされた妻子の涙の如く……。それが“血染めの館”と呼ばれている所以である。
「雨の降る日の夜に行かなくていいの?」
涼葉の問いに、航一は答える。
「いいんだ。ギミックの目星はついてるし、そもそも、それを確かめに行くわけじゃない。あれも“人喰い屋敷”と同じで、建物自体は、黒死蝶の悪事を覆い隠すための蓋でしかないんだろうからな」
そう言って立ち上がると支払いを済ませ、店を出た。涼葉もあとへ続く。
「精々、明日に備えて頭を冷やしておくんだな。いつ、どこで和泉と鉢合わせすることになるかは、前もってはわかんねぇんだ。あんな殺す価値すらないヤツのために、お前が人生を棒に振る必要はない」
殺す価値すらないって……。それを言うなら、殺す価値があるヤツって、一体どんなヤツなのよ。涼葉は思った。しかし、これについても過去に何度も議論を繰り返した。
「わかってるわよ」
あれに、殺す価値すらないってことぐらい。そんなことより。ギミックの目星はついている、ということは……。
「一人で入ってみたのね?」
涼葉の声が微かに低くなる。
「下調べは必要だしな。恐らくあそこはエレベーターが使えるだろうから、今日ほど調査に時間はかからないはずだ」
航一は努めて冷静に答えた。怖っ!……けど、捜査方法は秘匿にしておきたいんだよ。お前に分かれという方が無理なんだろうけどさ。
二人は暫し気まずい沈黙の中で歩き続けた。その時間が、いつにも増して長く感じられる。ようやく家にたどり着いた頃には、航一の疲労は頂点に達していた。これは、彼が時田涼葉という人物を正しく理解している証明であった。別れ際に航一は少し怒気を含んだ声で、
「気遣ってくれるのは嬉しいけど、捜査方法は企業秘密だからな。いくら罵倒されても、連れては行けないぞ」
とだけ言った。明らかに不服そうな顔をした涼葉を残し、無言で玄関のドアの向こうに姿を消す。そんな彼を睨め付けるのは内心に留めつつ、涼葉も自宅の玄関のドアノブに手を伸ばした。
涼葉が目を覚ますと、暁の優しい光が見えた。カーテンを開けると、窓の外に白い月が残っている。昨日は嫌なことを聞いたな。涼葉はそう思った。それはそうだろう。心底憎んでいる人種の名前など、誰が耳にしたいものか。ああいうのは病気だ。死ぬまで治らない。
体を起こし、息を整える。今日の集合場所は“血染めの館”だ。それが涼葉を一層憂鬱にさせた。……冷静にならないと。和泉翔輝。いつどこで鉢合わせするかわからない以上、こちらが平常心を保つしか打つ手はない。
手早く朝食の準備を終えて、一人で食事を摂った。食後のコーヒーを飲み、速やかに片付ける。その頃になって、ようやく涼雅が台所へ入ってきた。
「今日も出掛けるの?」
まだ眠そうな声をして涼雅が訊ねる。
「まあね。須賀くんを一人で行かせるわけにはいかないし」
涼葉は答えた。涼雅は少しだけ考え込む素振りを見せる。そして、
「今日はまだ、姉さんが懸念してることは起こらないと思うけどね」
とだけ言うと、腰をおろし食事を始めた。
「つまりそれは、あの男に出交すことはないってこと?」
涼葉が今一番懸念していることと言えば、それしかない。
「そうだね。でも……。きっとこの次に向かう場所では、会うことになるはずだよ」
「ありがとう。覚えておくわ」
涼葉は答えると、台所をあとにした。
案の定、須賀航一は遅れて現れた。涼葉には、約束の場所に五分前までに到着しておく習慣があるため、ほぼ航一が先に来ていることはない。
「待たせたか?」
と訊ねる航一に、涼葉は無言でかぶりを振る。
薫風香る頃は通り過ぎたが、梅雨の足音を聞くにはまだ少し早い日曜日の朝。夏の風が吹く中で改めて見てみると、心霊スポットとは思えないほど、建物の外観は北欧風の洒落た造りになっている。
「随分小綺麗な建物ね……。悪事を覆い隠すための蓋にするには、向いてない気がするんだけど」
「元が何に使われていたかを考えてみろ。相応しいじゃないか」
航一は鼻で嗤う。なるほど。それもそうか。涼葉は納得する。
「中に入ろうか。こっちだ」
航一は建物の裏側へと歩を進める。洒落た外観に似合わず、老朽化した扉が目の前に現れた。
「今日は玄関から侵入しないのね」
涼葉の問いに、航一が答える。
「そもそも、玄関がない。徒歩で入れるのは、従業員専用出入口だけさ」
「玄関がないって、どういうこと?」
涼葉の疑問はもっともだ。もっともなのだが……。説明するのが面倒臭い。
「如何わしい場所だからな。客は車で来るし、駐車場から直接客室に直行できる構造になっている所が大半なんだ。ここの場合、駐車場は屋上にあって、しかも一台ごとに仕切られている。入室するまでに、別の客と顔を合わせることもない。退室する直前に料金を専用の小型エアシュートで支払えばドアの鍵が開く仕掛けになってるから、踏み倒すことは出来ない。呆れるほど考え抜かれて造られているよ」
航一は小さくため息をついた。その頭脳を、もっと有意義なことに使うことが出来なかったのかね……。
「だとしたら、心霊スポットを見物しに来てる連中も車で来るの?」
「多分、違うと思う。その証拠に……」
航一が古めかしい扉のドアノブに手を伸ばすと、いとも簡単に開いた。まるで“どうぞ、お入り下さい”とでも言いたげに。
「開くだろ?」
「そういうことか……」
涼葉はわかったように頷いているが、どこまで理解出来ているのかは甚だ疑問である。
「お前、ちゃんとわかってるのか?」
航一が疑問符付きで訊ねると、
「要するに、地階に入られさえしなければいいんでしょ?」
と、涼葉は答えた。航一は安堵する。
「その解釈で正しいよ」
二人が足を踏み入れると、酷く退廃し淀んだ空気が辺りを支配していた。それは、かつてこの場所で、日暮れとともに始まり夜明けとともに終わりを告げる偽りの恋の花が咲き乱れたことの暗喩のようにも思われる。
「慣れねぇな」
航一が吐き捨てると、涼葉が言った。
「この退廃した空気に慣れるってことは、つまり、君はそこまで堕落してしまったってことになるんだけどね」
当たり前のことのように、誰に聞かせるということもなく。
「なるほど」
そうかもしれない。航一は頷いた。
すぐそこに下駄箱があり、その隣にロッカーが置かれている。やはり、どちらも所々に錆が浮き出ていた。ロッカーの中を覗いてみると、清掃員の制服と思しき上着が、黴の生えたまま吊るされている。それはまるで衰退の象徴のようにひっそりとそこに存在した。花を手向ける人もいないこの場所に、相応しい物として……。
涼葉は無言でロッカーの扉を閉めた。さすがに居た堪れなくなったのかもしれない。
「一応“経営者が妻子とともに無理心中をした”という心霊スポットらしい設定にはなっているが、彼らの遺体は自宅で発見されている」
航一が言うと、涼葉は少し考え込む素振りをして、
「そうね。無理心中ならここまで連れ出すのは不可能だわ。何より、遺体を早く見つけて欲しいのなら自宅で死ぬのが手っ取り早い」
という私見を述べた。
「遺体を早く見つけて欲しかったかどうかは定かではないが、連れ出すのが困難だったのは事実だ。妻は、夫が無理心中を企てるのではないかと日記に書き残していたからな。あるいは、子供が男だったら一人で死んでいたのかもしれないが」
涼葉は眉間に皺を寄せ、
「そんなうちの祖父みたいな父親っているの?」
と、訊ねる。そうだ、こいつは……。航一は時田家の事情を思い出しながら、
「妻の残した日記に、それを匂わせる記述があったらしい。……どこの家にも化石のような人間はいるさ。大した家柄でもないくせに、跡継ぎ、跡継ぎと騒ぎ立てる輩がな」
とだけ言った。もしかして、涼葉が高木のプロポーズをスルーしている理由はこれか?航一は、自身の生い立ちの記に思いを馳せる。
あれは恐らく、俺が四つか五つの頃のことだったように記憶している。俺たちはまだ無邪気で、無垢な子供であった。子供というものは、純粋無垢であるが故に残酷だ。それは、親の心でさえ平然と引き裂くのである。
「ねえ、ママ。僕も弟か妹が欲しいな」
弟がいる涼葉が、羨ましかったから。仲良く手を繋いで家路につく二人の背中を見送りながら、弟妹が欲しいと心の底から願ったものだ。何も知らない俺の言葉が、お袋の心を深く傷つけた。その時のお袋の哀しそうな顔は、今でも鮮明に思い出せる。俺たちはまだ無邪気で、無垢な子供。でも。だからと言って、人の心を傷付けて良い理由にはならない。
そんなことがあった後、親父が休日に珍しく俺を連れ出してくれた。近くの公園でキャッチボールをしたりして……。俺が幼い頃に見た、親父の数少ない“パパの顔”だ。それから俺と親父は少し散歩をして、川原風の心地よい場所に並んで座る。暫くして親父は俺の目を真っ直ぐに見ると、
「なあ、航一。もう二度とお母さんに“弟か妹が欲しい”と言ってはいけないよ」
と、静かな声で言った。
「どうしていけないの?」
勿論、俺は親父に訊ねた。親父はまだ理解出来ないであろうと思われる子供の俺に、丁寧に答えてくれる。
「お母さんはお前を産んだ後、もう一人子供が欲しいと思っていた。俺もそう思っていたし、当然授かるだろうと簡単に考えていた。けど、なかなか授からなかった」
「授かるってどういうこと?」
無邪気に俺は訊ねる。親父がそれに答える。
「お母さんのお腹に、赤ちゃんが来てくれるってことだよ」
そう言って微笑み、すぐに真顔に戻る。親父はこう続けた。
「お母さんは、赤ちゃんが来てくれるように病院で治療を受けていたんだ。その治療をする姿がとても辛そうだったから、俺は“二人目は諦めよう”と言った。“お前が辛そうにしている姿を見たくない”とも言った。そして、お母さんは病院での治療を止めたんだ。だから、お前には申し訳ないと思うけれど、うちには赤ちゃんは来ない」
あの日の親父の横顔を、俺はけして忘れないだろう。
「パパ、泣いてるの?」
俺は戸惑っていた。少し驚いてもいた。なぜなら、親父は感情の起伏がないのかと心配になるほど物静かな人だったからだ。
「いや、目にゴミが入っただけだよ」
親父はすぐさまそう答えて、立ち上がる。
「そろそろ帰ろうか」
親父はいつもの穏やかな笑顔を浮かべ、俺の方へ手を差し出した。今ではわかる。親父の気持ちが。妻には笑っていて欲しい。穏やかに暮らしていて欲しい。だから“二人目は諦めよう”という言葉が自然に口から出たのだ、と。些かの迷いもなく。躊躇いもせずに。そんな親父を、俺は誇りに思う。
あの頃の俺たちはまだ無邪気で、無垢な子供であった。けど。その日以来、俺は二度とお袋に“弟か妹が欲しい”と駄々をこねたことはない。無論、弟妹が欲しいという気持ちがなくなってしまったわけではないが、それをけして口に出したりはしなかった。涼雅を愛でることで、自分の気持ちに折り合いをつけていたのだ。
それから数年が経ち、俺は時田家の事情を知った。世の中には、人間性を疑いたくなるような輩が一定数はいるものだ。涼葉の頑迷な祖父のような……。時田勇作も、とんでもない毒親を実父に持ったものである。個性的な部下に、毒親な実父。客観的に見ると、オッサンは妻子以外の人間に恵まれているとは言い難い。俺も素直にオッサンの言うことを聞いているわけじゃないし。逆に言うことを聞かせているほどだ。
……。……。……。……。……。……。
航一は我に返った。この間、約五秒程度であったが、ここは敵地のど真ん中なのだということを忘れてはならない。
「どうしたの?」
涼葉は何かを感じ取ったようだ。この疑問は後で確認してみるか……。人情の機微を推測で窺い知ることは至難の業である。特に涼葉は、効果的に怒りを露わにして見せはするが、その他の本心を悟らせはしない。高木のこととなると、それはより顕著になる。
「少し気になることがあっただけだ」
とだけ言うと、航一はロッカーの傍にある事務机の椅子を引き、下へ潜り込む。奥の方に黒いレバーがあり、それを手前に引く。当然のことではあるが、軍手は忘れない。
「これでエレベーターが動く」
航一が机の下から這い出て来ると、涼葉が率直な疑問を口にする。
「へえ。それはどういう仕掛けになってるの?」
「エレベーターだけは、回路遮断器を別に作ってあるのさ」
航一の返答に、
「ブレーカーって言ったら?」
と、涼葉は呆れて突っ込みを入れる。
「そうとも言う」
航一は真面目な顔をして答えた。涼葉は軽くため息をつき、
「くだらない漫才みたいな会話は止めてくれる?」
と、力なく呟いた。
「お前がいちいち突っ込むからだろ。……行くぞ」
航一はエレベーターの扉を開くボタンを押した。二人で電動の箱に乗り、停止するのを待つ。やがて、ゆっくりと下降が終わり箱の動きは止まる。扉が開くと、長く先の見えない一本道が目の前で口を開けていた。
「これ、昨日と同じだよね」
涼葉がため息をつく。このエレベーターは、一階と地下一階を昇降することしか出来ない仕様になっているようだ。
「ここも“人喰い屋敷”と同じ造りになってるの?」
「それはわからないな」
航一は答える。
「けど、少なくとも地下五階まではあるはずだ」
俺の推測が誤りでなければの話だが。そして、その地下五階のどこかにはトロッコがあるはずで……。
気を引き締めて足を踏み入れる。少し歩を進めると奥の方からほのかに灯りが見えた。これは、もしかすると……。やはりね。灯りの前で立ち止まった二人の眼前には、水槽がある。
「今度は何だ」
「水母?」
涼葉が答えると、航一は、
「紅水母だな」
と、訂正する。涼葉は反論する気にもなれなかった。水母であることには間違いないでしょ!とは、内心に留めておく。
紅水母。有性生殖が可能な個体が、ポリプ期へ退行可能という特徴的な生活環を持つことで“不老不死の水母”として知られているが。食物連鎖において捕食される可能性があり、全ての個体が死を免れているというわけではない。それに、老化現象が起こらないわけではなく未成熟な状態に戻るだけなので、厳密に言えば“若返り”である。その上、若返りが可能な回数は限られているらしく、けして“不老不死”なわけではないようだ。
けど。これで、黒死蝶の目的の推測は出来るような気がする。昨日“人喰い屋敷”の最下層で会った少女。彼女の兄の“大石渉”が、あの“大石渉”である可能性は非常に高い。黒死蝶の捨て駒の一人の大石渉に妹がいるという事実は、城一警部に確認済みである。安元珠希がすべて自供した今となっては、大石渉には本仮屋楓恋殺害の共犯者として逮捕状が出ている。しかし、彼の足取りはつかめていない。とはいえ、捨て駒が黒死蝶の目的を知っているはずがない。……和泉翔輝なら知っているとは思うのだが。航一はため息をつく。
「これも水母なの?」
隣の水槽を指し示し、涼葉が訊ねた。
「成長段階で水槽を別にしてあるんだろうな」
水母が成熟に要する期間は水温に依存すると聞く。水温を一定に保つことはさほど難しいことではないのであろう。
「っと。こんな所で水母観察をしている場合じゃないな」
航一が実にいつも通りに寝癖のなおりきっていない頭を掻くと、
「そうね。見ていて気持ちの良い物でもないし」
と、涼葉は同意する。
「先を急ごうか」
二人は黙って歩き出す。まるで水母のみが展示されている水族館のような景色の中を進んで行くと、突き当りにエレベーターの扉が現れる。
「結局、梯子じゃないだけで昨日と同じじゃない」
涼葉は不満とも思われる言葉を吐いた。
「エレベーターがあるってことは、地下二階は地下一階の真下にあるという証明でもあるぜ」
梯子だからこそ角度を変えることが出来た。エレベーターではそれは不可能なのである。角度を変えることは階段でも可能だが、場所を取り過ぎる。
地下二階へ降りてみると、またもや長く先の見えない一本道が目の前にある。
「ねえ。ここには“あれ”はないの?」
涼葉が率直な疑問を口にする。
「“あれ”とは?」
「ほら。昨日は縦に三つ、横に三つ並んだ九枚のパネルがあったでしょ」
「ああ、あれか」
航一はお行儀良く並んだ正方形のパネルを思い出していた。そう言えば、あの仕掛けがなかったな。あれは壁がないと造れない仕掛けだから、ないのは当然だが。……壁か。航一はエレベーターの横の壁を隈なく探してみる。すると……。
「あるぜ。ここに」
とだけ言い、口角を片方だけ上げて不敵な笑みを浮かべると、それを指し示した。壁と同じ色をした物が暗い場所にあるので、わかりづらい。航一の指し示すパネルを見つけると、涼葉が訊ねる。
「これは何のためにある物なの?」
「何のためにあるのかはわからない。けど、どういう仕掛けなのかはわかるぜ」
とだけ言うと、航一は九枚のパネルの前に立ち、一番上の列の真ん中にあるパネルを押した。すると、航一の姿が涼葉の目の前から消える。どうやらパネルを押すと壁と床が回転する仕組みになっているようだ。
航一はすぐさま戻って来る。
「だから言ったんだ。“少なくとも、前進出来なくはない”って」
「ああ、そういうこと」
涼葉は答えたが、納得はしていない。どうしてこんな物があるんだろう……?だが、それを言い始めると切りがないことも知っている。取り敢えず今の“これ”は“何のためにあるのかはわからない”代物だ。
「今ここで考えてみてもわからない物のことを考えるな」
航一は涼葉の胸中を察したかのように言った。
「そうね。気にはなるんだけど」
「まあな。理由もなくこんな仕掛けを造るはずはないし」
二人は暫く無言でそのパネルを見つめる。
「行くぞ」
先に歩き出したのは航一であった。
地下二階では奇妙なものを見た。恐らく何かの病気であろうと思われる犬猫が、憐れみを誘う姿を曝している。治療もされず、放置されているようだ。
「酷い……」
涼葉は思わず呟いた。航一はわからなくなる。紅水母を飼育しているのは、若返りの薬を作る研究をしているためであろうと思ったのだが。……今は先へ進む他はない。
よく観察してみると、収容されている犬猫の症状は同じものだ。同じ病気の動物を集め、若返りの薬を開発しようとする目的は何だ?そして、それを人間に置き換えるとどんなメリットがあると言うのだろう。紅水母は哺乳類とはかけ離れているから、人間に応用することは不可能かもしれないが。不老不死は人類の悲願であろう。だが、それが必ずしも幸福だとは限らない。むしろ、不幸なことだと思う。人生には終わりがあるからこそ、人は一生懸命生きるのだから。もし、黒死蝶が不老不死の研究をしているのだとしたら……。俺が全力で潰してみせる。涼葉と二人でなら、それは可能だ。
目を覆いたくなるような光景の中を進んで行くと、再び突き当りにエレベーターの扉が現れる。
扉を開ける前にエレベーターの横の壁を調べると、例の仕掛けが造られていた。ここにもあるのか、これが。お行儀良く並んだ正方形のパネル。これは、中央のパネルが現在地を示している。つまり、真上……。一番上の列の真ん中にあるパネルを押すと、前進する。回転した先は狭い箱状の空間になっており、すぐ目の前にも同じパネルがあった。背後にも同じ物があり、三列目の真ん中のパネルを押すと元の場所へ戻ることが出来る。移動手段としては甚だ効率が悪い。
地下三階へ降りると、そこは病棟らしき内装になっていた。目の前のトイレが男女兼用なのも昨日と同じである。このエレベーターは、地下二階と地下三階の間を昇降することしか出来ない仕様には造られていない。地下五階まで降りることが出来る。そこが最下層なのかはわからないが。
「俺の推測が誤りでなければ、ここには壮年期、中年期の人間が収容されているはずだ。恐らく内部の構造は昨日と同じだと思う。職員詰め所みたいな部屋があっただろ。あそこに黒死蝶の幹部連中がいるはずだから、見つかるわけにはいかないぜ」
警察の動きに神経をとがらせている黒死蝶の幹部連中は、俺たちの顔を知っているはずだ。面会に来た家族を装うことは、出来ないものと考えた方が良い。
「では、どうしろと?」
涼葉の問いに、航一は答える。
「取り敢えず、収容されている人間の年齢層だけ確認できればそれでいい。今は俺たちが侵入したことがバレないことの方が大事だからな」
「ああ、そうなの?」
その程度なら、赤子の手をひねるより容易いことだ。
「少しここで待っててくれる?確かめて来るから」
「頼んだ」
航一が目くばせをすると、涼葉はそれに応えるように微かに頷いた。
「すぐ戻るから」
幸いなことに、廊下には人は出ていない。背が高く、髪の長い後ろ姿は、猫のようなしなやかさで遠くなっていく。涼葉は驚くほど足音をたてない。悔しいけど、あれだけは俺には真似できないな。航一は素直に認める。彼の鼻腔が、敏感に知らない薬物の臭いを捉える。昨日と同じ臭いだ。ここまで臭いが漂ってくるということは、それだけ多く投与されていると考える方が自然であろう。
「須賀くん、大当たり」
戻って来た涼葉が満面の笑みで告げる。本当に“すぐ”戻って来たな……。航一は驚くとともに呆れたが、時田涼葉という生き物は“そういう者”だ。
「やはり、そうか。……他に何か気になることはなかったか?」
「四人部屋で監視カメラが仕掛けてあるのは昨日と同じだったんだけど、筋トレのための小道具が置いてあったの。気になったことと言えば、それぐらい。ここにいたのは、壮年期」
涼葉はなるべく手短に答える。ということは……。
「地下四階には中年期が収容されているかもしれない、ということか。かなり細かく分けてあるんだな」
黒死蝶が何らかの薬物の研究と開発を目指しているのは、火を見るよりも明らかだ。しかも、人間を被験者にして。時期尚早であるにも関わらず。そうであるなら、年齢層を細かく分けて収容しているのは当然のことだ。捨て駒の家族もまた、捨て駒ということか……。航一は怒りに震えた。
「行くぞ。考えただけでも気分が悪くなる」
吐き捨てるように言うと踵を返し、エレベーターに乗る。涼葉は黙ってあとへ続く。
電動の箱はゆっくりと下降し、地下四階へ到着した。エレベーターの扉が開く。
「須賀くんの推測では、ここに収容されている年齢層は中年期なのよね。ここでもそれを確認するだけでいいんでしょ?」
涼葉が訊ねると、航一は無言で頷いた。涼葉の後ろ姿が音もなく遠ざかる。期待を裏切らない良い相棒だよ、お前って奴は。かなり小さくなった涼葉の姿に、航一は畏怖の念すら抱く。敬意にも似たその想いに名前を付けるのは、何かが違うような気がした。
「任務完了」
戻って来た涼葉は、そんな言葉を吐く。
「どうだった?」
「ここにいたのは、中年期」
他に何も言わないので、それ以外の違いは見られなかったのであろう。不要な情報を持ち帰らないのも、この相棒が須賀航一の人となりを充分過ぎるほど理解している証明である。
盛大に文句を言いつつも、結局は須賀くんの思い通りに動いてる私って一体……。涼葉は些か落胆する。この男が美波の彼氏じゃなかったら、すぐさま見捨ててやるんだけど。幼馴染などという者に、特別な感情を抱いてはいない。それこそ“腐れ縁”程度の認識しか持たない相手のことを恋人よりも理解しているなんて、どうかしてるよね。涼葉は高木茂を想い、ほんの一瞬だけ“女”に戻る。その一瞬を、航一はけして見逃しはしなかった。
「下に降りようか」
とだけ言うと、航一はエレベーターの扉を開くボタンを押した。
地下五階にたどり着いた。ゆっくりとエレベーターの扉が開く。眼前には暗闇が広がり、足元にはトロッコの線路がある。
「いきなりかよ」
航一は拍子抜けした。どうやらここが最下層のようである。
「トロッコがない……」
「当たり前だ。昨日見ただろ?“人喰い屋敷”の地下五階からトロッコで直進すると、突き当りで左右に分かれていた。恐らく、そこから右のトロッコに乗るとここに着く」
航一が何かを探しているように見えたので、涼葉はそのまま黙って待つ。
「これだな」
航一は壁にある黒いボタンを押してみる。暫くするとトロッコが二人の目の前に姿を現し、停止した。かなり待ったような気がした。
「行ってみるの?」
「もちろんさ。たてた仮説は証明する」
航一が先に乗り、涼葉があとへ続く。一定の重さを超えると自動的に走り出す仕組みは同じであるようだ。トロッコが走り出すと、航一はブレーキを探した。昨日探した辺りではなく、他の場所を探す。それらしき物を見つけると、妙に安堵した。これで今日は、女にお姫様抱っこをされるという屈辱を味わわずにすむ。
「これを」
航一が懐中電灯を差し出すと、涼葉は無言で受け取り前方を照らす。景色の変わらない退屈な風景が続く。光は暗闇に吸い込まれては消え続けた。歩いて測れる距離ではない。暫しの沈黙の後、前方に丁字が見える。但しそれは左と前方に分かれていた。前方にはもう一台トロッコが放置されている。
「思った通りだ。……止めるぞ」
そう言うと、航一はブレーキを引く。
「ブレーキあったのね」
涼葉が訊ねると、
「ああ。意外なところに」
と、ため息交じりに航一は答えた。左側をのぞき込むと、暗闇の下に線路がある。
「戻ろうか」
航一は向きを変えて座る。
「戻る時は歩いて戻らないといけないんじゃないの?」
涼葉の問いに、
「歩いて戻れる距離じゃないし、あのボタンで元の位置に戻せるはずさ。そんなに不便に作られている理由がないだろう」
馬鹿か、お前は。と言わんばかりに航一は答える。暫くするとエレベーターの扉が見えた。ブレーキを引くとゆっくりとトロッコが停まる。
二人がトロッコから降りると、意外なことに“それ”は自動的に元の場所へ戻って行った。
「自動で返るのか。……まあ、便利ではあるな」
航一は率直な感想を述べる。涼葉は、
「ご都合主義すぎない?」
と、否定的な意見を口にする。
「ここまで便利にする必要があったとは思えないが」
確かに、何故という疑問は残る。しかし“血染めの館”の構造や、そこに収容されている人間の年齢層、さらに“人喰い屋敷”との位置関係については調べることが出来た。
「長居は無用だ。一刻も早くここを出るぞ」
とだけ言うと、航一はエレベーターの扉を開くボタンを押す。地下二階まで電動の箱で戻り、天才力が尽きた芸術家のような顔つきの犬猫が寄せ集められた牢獄を通り抜け、神秘的ではあるがけして見目が良いとは言えない水母の群れの中を通り過ぎて白い扉を目の前にすると、涼葉の口から思わず安堵の息が漏れる。
「長かったわね」
「取り敢えず外へ出て食事にしよう。新しく見つけた店とかはないのか?」
航一の問いに、涼葉は呆れた。須賀くん、私のことを何だと思ってるんだろう……。さすが、底なし胃袋なだけはある。
「ない」
涼葉はにべもなく答えた。本当はあるんだけどね。癪だから、連れて行くのはやめておく。
エレベーターが一階に到着すると、航一はブレーカーの位置を元に戻した。古めかしい扉を開けて外へ出ると、二人は少しホッとして互いの顔を見合わせる。
「娑婆の空気は美味しいわぁ」
涼葉はそう言うと大きな伸びをした。
「モグラの根城にでも行ってみるか。あそこのオムライス、美味いしな。それに、お前に訊きたいことがある」
「えっ?いいけど……」
そんなに改まって何を訊きたいと言うのだろう。思い当たる節がない。急に真顔になった航一の言葉に涼葉は困惑する。夏の風に吹かれながら、二人は“モグラの根城”まで自転車を走らせた。
平日よりも客が多い“モグラの根城”を訪れると、洒落たジャズのメロディーが流れる中で実にいつも通りに騒がしい看板娘が一人(?)で喋っていた。暇な客たちに囲まれて、恐らく理解出来ていないであろうと思われる言葉を話す鸚鵡の姿は、どこか滑稽に見えなくもない。しかし、時折口を挟む客に返す言葉が会話として成立しているのが不思議な気がした。
「あれ、わかって喋ってるんじゃないんでしょ?」
「さあな。ヨウムという大型の鸚哥がいるが、そいつは理解して喋っていると言われているし。案外、あいつもわかってんじゃねぇ?」
航一が何気なく答えた言葉に、涼葉は背筋が寒くなる。以前この店に美波と二人でコーヒーを飲みに来た時のことを思い出す。涼葉は特に状況を説明したわけではない。それなのに、突然“ホレラレテンノヨ”と抑揚のない声で鸚鵡は言ったのだ。さらに、店主が罰として『お前、今夜は飯抜きな』と叱ったのに対する返しが“イケズ~!”だったのである。あの日は気まずくなって、そそくさと店を出たんだっけ……。
ため息をついている涼葉を見た航一は、俺、何かマズいこと言ったか?と不安になる。
「けど、ヨウムの商業取引の輸出入は全面的に禁止されている。繁殖された個体で、国に登録された登録証を持つ個体のみが取引可能な贅沢品なんだ。一応国内にブリーダーはいるが、無駄に寿命が長いからペットとしてはお薦めできねぇな。精々動物園で鑑賞するくらいのものさ」
涼葉の顔色を窺いながら、言葉を選んで説明する。
「動物園では見られるの?」
「学術研究目的での取引は禁止されていない」
なるべく“知識のひけらかし”などと揶揄されることのないように気を配る。ここで機嫌を損ねてしまうと、気難しいこの相棒は貝のように口を閉じてしまう。その口から本心を訊き出したい航一としては、それだけは避けたい。
……もしかして。須賀くん、私の顔色を窺ってるの?面白い。思わず涼葉の頬がゆるむ。それを見た航一は安堵する。
なるべく周囲に客がまばらな席を探して座る。幸いなことに、客の大半が騒がしい看板娘を囲んでいるか、店主が趣味で買い集めた漫画本に読み耽っている。蔵書の数は増えつつあるようだ。そうして客足が落ちないような工夫をしていることも、この店がそこそこ繁盛している理由であろう。趣味と実益を兼ねた良い例である。
オムライスと食後のコーヒーを注文した後、航一は口を開く。
「単刀直入に訊くが……。お前が高木のプロポーズをスルーしている理由って、涼雅を伯父さん夫妻の養子にする祖父さんとの約束があるからなのか?そんな約束、反故にしちまえよ。お前の祖父さんは“うちは代々教育者の家系”って偉そうに言ってるらしいけどさ、たった四代しか続いてないんだろ?“家系”ってのはな、先祖から始まって現在の子孫に至るその家の系譜のことを言うんだ。十代とか、なんなら五十代、百代続いていても“家系”とは言えないんだぜ。初代から続いていることを証明する物がない限り。教育者のくせにそんなことも知らないヤツが、偉そうな口利くんじゃねぇよ。そもそも、祖父ごときが孫の人生に口出ししていいはずはない。それでも涼雅を長男夫婦の養子にして教師にするつもりなら、お前が祖父さんをぶん殴ってやれ。……手加減は必要だが」
「訊きたいことって、それだったの?」
涼葉は一口水を飲むと、ため息をついた。その時、店主が自らの手で出来立てのオムライスを運んでくる。
「まあな。高木は一人っ子だし、オッサンたちが許すはずがねえ」
「高木くんは次男だけど?それに、私は迷ってるだけで、スルーしてるわけじゃないの」
そう言うと、涼葉はオムライスを口に運ぶ。高木茂が次男。航一にとっては初めて知る意外な事実であった。
「……え。あいつ、一人っ子じゃねえの?」
航一はオムライスを一口だけ食べた後、訊ねる。
「うん。高木くんが赤ちゃんの頃、病気でお兄さんが亡くなったんだって。だから、高木くんは戸籍上は次男。所謂、繰り上げ長男なのよ」
「初めて聞いたな。そんな話」
航一の頭の中で何かが動き始める。それは静かに、しかし、確実に透明な壁を突き破っていく。
「わざわざ人に話すようなことじゃないしね」
「ああ。そうだな」
繰り上げ長男。その発想はなかった。赤城幸雄展で見た一枚の絵を思い出す。“愛しき吾子”と名付けられたその絵の色遣い。漠然とそれに似た色遣いを見たことがあると思ったのは、一昨年の文化祭で高木が描いた“僕はグラスになりたい”に酷似していたからだ。なぜ、それに気付かなかったのだろう。思い込みとはつくづく恐ろしい。仮に“愛しき吾子”が高木の兄が亡くなる前に描かれたものだとしたら?
……。……。……。……。……。……。
航一は考えるのを止めた。
なんだか胸糞が悪くなる祖父さんですね……。