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追跡  作者: 青柳寛之
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第十三・五章 純情粘着質男

 春の香りを残した初夏の風が吹く日曜日の朝。高木茂は「歩く校則違反」と呼ばれるに相応しく、見事なまでに着崩した制服姿で登校した。美術部の幽霊部員である彼は、別に真面目に部の活動をするために顔を出したわけではない。必要な画材を持ち帰るのを忘れていたので、それを取りに来ただけだ。

 美術室のドアを開けると、真面目に活動をしている部員たちの姿があった。部の性質上、圧倒的に女子が多い。そのため、男子生徒は肩身が狭そうに部屋の隅で細々と活動している。吹奏楽部や合唱部も部員は女子の方が多いが、これほどはっきりと分裂はしていない。女子は大勢で固まり、男子はさらに学年別に分かれている。ただでさえ男は少ないのに、学年で分かれる必要ってあるのかよ。茂は思った。

 そんな光景の中、茂の目に留まったのは、手を止めて何事かを話している二名の一年生の男子部員であった。話の内容までは聞き取れなかったが、馴染みのある人物の名前が聞こえてくる。

「何の話をしてるんだ?」

 気になったので、訊ねてみる。茂に勝るとも劣らぬほど制服を着崩した明るめの茶髪の方が、

「来年度の担任の話をしてたんですよ」

 と、答えてくれた。

「今の三年の担任の誰かに当たったら、嫌だなぁって」

 そう続ける茶髪。もう一人の、見た目だけなら真面目そうに見える黒髪の方は黙っている。

 なるほど。そういうことか。茂は理解した。一年生は進級時にクラス替えがあり、新しい担任と副担任になる。三年進級時にはクラス替えは無く、担任は持ち上がりだ。二年生の時の担任が、そのまま三年の担任になる。その教師が異動でもしない限りは。今の三年の担任って、癖の強いヤツばかりだからな。気持ちはわかるぜ……。理解はしたが、恥ずかしくもある。三年A組の担任は、茂の伯母なのだ。それは、誰にも知られてはならない秘密であった。

「こればかりは運だから、仕方ないだろ……」

 茂がそう言うと、

「ですよねぇ」

 と、笑う茶髪。対照的に、貝のように口を閉ざしたままの黒髪。

「お前ら、名前は?」

 茂は訊ねた。茶髪の方は“楢崎健児”といい、黒髪の方は“鬼池貴志”という名であった。

「先輩の担任って、誰なんですか?」

 楢崎が訊ねた。

「氷上」

 茂が短く答える。氷上京介。三年D組の担任であり、学年主任を兼務している数学の教師だ。楢崎が、露骨に嫌そうな顔をする。

「でもさ、氷上は他の先生よりマシだろ?一番当たりたくないのは、河合じゃないか」

 鬼池がそう言うと、楢崎も頷く。

「お前たちの幸運を祈るよ」

 茂としては、そう言うことしか出来なかった。


 それにしても。ある程度、想像はしていたが……。酷い言われようだな、あの連中。茂は内心ため息をつく。教師の私生活プライベートに対する、生徒の妄想は恐ろしい。だが、そのように噂されるのも致し方ないのが、今の三年生の担任たちであった。茂としては、その中に自分の身内が含まれているので、いたたまれない。

 無言で帰宅すると、茂は持ち帰った画材をリビングのソファーに投げ出した。取り敢えず着替えると、庭の見える縁側に出て、座布団の上で胡坐をかく。

 三年A組担任、津山千穂子。飄々としていて、摑みどころがない。不労所得を多く持っており、働かずとも食って行けるが、働いているのは氷上に惚れているため。若く見えるのは、バレないように少しずつ整形しているから。

 三年B組担任、大迫俊哉。妙なところで熱血なくせに、妙なところで冷めたヤツ。数年前に、卒業式が終わった後で告白してきた卒業生を振ったことがある。振られた女子生徒は、自殺した。

 三年C組担任、河合淳平。経験人数が多いことだけが自慢の、淫乱男。それ以上でも、それ以下でもない。女性の好みは特になく、抱ければどんな女でも構わない。所謂、セックス依存症。

 三年D組担任、氷上京介。若かりし頃の美貌を彷彿させる容姿だが、童貞。自分の容姿に自信を持っており、引き止めておきたい人材には色目を使う。千穂ちゃんもその一人。キレるとすぐにチョークを投げて、確実に生徒の額に命中させる。しかも、かなり痛い。

 三年E組担任、南野歌織。可愛らしい見た目に反して、中身はゲスサイコパス。実は、人を殺したことがある。その際、人肉を食べたらしい。

 と、要約すればこのようになる。やれやれ。妄想、激しすぎるだろ……。

 師匠が株の配当金だけで生活出来るというのは事実だが、アパートや借家なんて持ってはいない。よって、家賃収入などは一切ない。氷上に惚れているはずはないし、若く見えるけど、整形なんかしていない。大迫は確かに妙なところで熱血なくせに、妙なところで冷めている。その感性のズレのようなものが、女性の好みに影響を与えているのかどうかはわからないが、少なくとも振られた女子生徒は、自殺なんかしていない。河合は実際、下ネタが多い。しかし、経験人数が多ければ下ネタが多くなるというわけでもないだろう。むしろ、逆なのではなかろうかと思う。下ネタは、手っ取り早く場を盛り上げるためには有効な話題だ。だが、多用するのはいかがなものか。いかに彼に語彙力と品格がないか、ということの証明である。氷上が童貞なはずはない。昔、妻子に逃げられたという話を、師匠から聞いた覚えがある。どうして師匠がそんなことを知っているのかは、謎だけど。キレるとチョークを投げるというのは、あながち間違いではない。滅多に外すことは、ないはずだ。それを確実に避けられるのは、俺と涼葉だけなのだから。そして、氷上がチョークを投げることも、滅多にない。数学教師はキレやすいという説があるが、氷上には当てはまらない。南野は……。言うほど可愛いか?但し、誰もが振り向くほどの美貌の恋人を持つ俺の“美”の基準が、他人より高い可能性は否定できない。また、南野の中身がゲスサイコパスであるというのも事実だ。可愛らしい見た目に反して、中身はゲスサイコパス。その認識は、正しいのだろう。けど。前科者は教壇には立てないんだぜ?知らねぇのかよ。だから、人を殺して人肉を食べた云々は、明らかに捏造だ。最近結婚したばかりの新婚さんなので、妬まれているのかもしれない。非モテ女子から。

 それにしても。あいつの話って、本当だったんだな。意外なところで確証が取れた。でもさぁ、楢崎も悪いヤツだよ。事実を知ってるんなら、訂正してやればいいのに。他人事なので、どうでも良いが。さて、どうするかねぇ。茂は、レモンドロップを口の中で転がした。


 同じ日の早朝。初夏の潮風が千穂子のスカートを揺らす。誰もいない海を一人で眺める、優雅なひと時だ。何も考えずにぼんやりと過ごす時間は、非常に貴重で、贅沢だ。学校という場所は、かなりブラックな職場なのだ。こうして時折心の洗濯をしてやらないと、精神を病んでしまう。けして大袈裟ではなく、本当のことだ。

 なぜか、昔のことを思い出す。私、あんな人のどこが良かったんだろう?後悔しているわけではない。ただ、もっとマシな人がいたであろうにというだけの話だ。それを除けば、誰に恥じることもない、堂々と胸を張れる人生であったと思う。

「ああ、やっぱりここにいたんですね」

 癪に障る、聞き慣れた声がした。大迫俊哉だ。

「なんだ、キミか……」

 千穂子は諦めたように呟いた。どうしてこの若造は、私を放っておいてくれないんだ?

「高木の家に車がなかったんで、ここかなと」

 そう言うと、俊哉は千穂子の隣に座る。だから、近過ぎるんだってば。千穂子は少し彼から離れる。

「私だって、毎週茂の家に行ってるわけじゃない。てか、キミはそんなにしょっちゅう茂の家に私の車があるかどうか、確認に行ってるの?」

 千穂子は呆れた。これじゃ、まるでストーカーじゃないか。思わずため息が出る。

「いえ、行ってるんじゃないんです。あの辺は俺のランニングコースなので、嫌でも目に入るんですよ」

「ランニングコースね」

 どうせ吐くなら、もう少し巧みな嘘を吐いたら?千穂子は思ったが、俊哉は白いジャージを着ていた。微かに汗の臭いもする。どうやら嘘ではないらしい。

 しばし、沈黙が続いた。気まずい。帰りたい。でも、もう少し海を見ていたい。人間とは、なんと我が儘で矛盾した生き物であろうか、と思う。

「……海が、好きなんだ。誰もいない海を、一人で眺めるのが好きなんだ」

 ゆっくりと、単語の一つ一つを確認するように千穂子は言った。

「初めての男ってのは、女にとっては忘れ難いものだな。たとえ、相手がどんなにクズ野郎だったとしても」

 あれ?こんなこと、此奴に話すようなことでもないのに。そう思ったが、続けることにした。これで私のことを嫌いになってくれれば、それでいいさ……。

「どんな人だったんですか?」

 俊哉が訊ねる。千穂子は静かに話し始めた。自分の人生で、唯一の汚点であるとの認識しかない男のことを。

「全てにおいて平均レベルの、普通の人さ。もっとも、中身は普通ではなかったけれど。あるいは、彼をそんな風にしてしまったのは、私なのかもしれないが」

 俊哉は黙って聞いている。千穂子は続けた。

「彼と同棲を始めたのは、二十七歳の時だった。私もまだ若かったから、結婚に対して夢も希望もあった。けど、それが良くなかった」

「どうして?その年頃の女性なら、結婚願望はあって当然だと思うんですが」

 俊哉は訊ねた。千穂子が答える。

「彼は、私に結婚願望があるのを見抜いて近づいて来たんだ。その頃の私が、かなりお金を貯めていたことも承知の上で。そして、同棲に漕ぎ着けた。結婚を前提にしての同棲だったから、私はそのつもりだったけど、彼にとっての私は、財布であると同時に性欲のはけ口でしかなかったんだ。彼は別の女性とも付き合っていたし、そもそも、その女性と婚約していた。そして、その女性は銀行の頭取の娘だった。彼女の父親は、全てにおいて平均レベルの男と娘の婚約を、内心快く思っていなかったんだ。だからなんだろう。彼は私の通帳から無断でお金を引き出して、身の丈に合わない高価な婚約指輪を彼女に贈った。……自分にはこれだけの貯金がある、貴方の娘に釣り合わない男じゃないって、そう言いたかったんだろう。でも、実際にはそれは彼の貯金じゃない。私のだ」

 俊哉が口を挟む。

「財布にされていた、というのはわかりました。でも、性欲のはけ口にされていた、というのがわからないんですが。だって、婚約者がいたなら……」

 千穂子はかぶりを振ると、

「彼に言わせれば、“結婚するまでは処女でいたい”という彼女の意思を尊重してのことだそうだ。“だから、お前の体で我慢していた”と、うそぶいていたよ。無理もないな。彼女は、短大卒の二十二歳だったんだから」

 と答えた。そりゃ、若い女の方がいいに決まってるし。と、付け加える。額面どおりに受け止めれば言外に俊哉への嫌味が込められているのは明白なのだが、千穂子は当時の“彼”への考察を述べているに過ぎない。

「勝手な男ですね」

 俊哉は率直な感想を述べた。千穂子が続ける。

「結局は彼女と父親にバレて、彼は婚約破棄された。それから程なく、彼女は父親の勤める銀行の若い出世頭と結婚した。彼が使い込んだ私のお金は、彼女の父親が全額返してくれた。あるいは、謝礼の意味もあったのかもしれないね。“娘とあの男を、別れさせてくれてありがとう”と。恐らく、そんなところだ。確かにお金は戻って来たけど……。失われた私の純潔は、戻っては来ないんだ」

 失ったものへの感傷が、涙になって音もなく零れ落ちる。この涙が硝子細工か何かで、涼やかな音を立てて砕け散ってしまえばいいのに。千穂子は思った。その音が消えてしまうと同時に、この私という罪深い存在も、消えてしまえばいいのに。俊哉が慌てて、

「千穂子さん。涙、拭いて」

 と、自分が首から提げていたタオルを差し出した。

「いいよ。それ、汗臭いし」

 そう言うと、千穂子は指先で涙を拭った。だが、不思議なことに俊哉の汗の臭いは、千穂子にとって不快なものではなかった。

「そんなことは、どうでもいい。でも。彼は私に出会わなかったら、もっとマシな男になっていたかもしれない。頑張って自分でお金を貯めて、彼女に婚約指輪を贈っていたかもしれない。彼女と結婚して、幸せに暮らしていたかもしれない。そう思うと……。心苦しいんだ。たらればの話をしてみても、仕方がない。もう、済んでしまったことだ。それでも、私にお金があったばかりに、彼をクズ野郎にしてしまったのではないかって思ってしまう。誰かの幸せを奪ったり、壊したりしてはいけないのに。そんなこと、わかっているのに」

 俊哉は黙って聞いていたが、

「それは、千穂子さんのせいじゃないですよ。悪いのはその男だし、結局はその彼女さんの一人勝ちのような気がしますね。……運命の人は二人いるって、ご存じですか?」

 と言った。

「何よ、それ。どういうことかな?」

 千穂子は訊ねた。キミの言ってること、意味がわからないよ。と、思いながら。

「運命の人は二人いる。一人は、愛することと別れを教えてくれる人。もう一人は、永遠の愛を教えてくれる人です」

「それは無理だな。人間は、誰でもいつかは絶対に死ぬんだから」

 即座に千穂子は答えた。

「キミは、自分が私の二人目だって言いたいの?」

 千穂子の問いに、俊哉が答える。

「いけませんか?」

 千穂子はため息をついて、

「一体、どこからそういう乙女チック情報を仕入れて来るの。妹さん?」

 と、半ば嘲笑うように訊いた。

「ええ、まあ。今の話を聞いていて、思い出したんです。昔、妹がそんなこと話していたなぁって」

「思い出さなくてもいいよ、そんなの」

 うんざりしながら千穂子は言った。この程度では、嫌いになってはくれないか……。非常に残念だ。

「千穂子さんが自分のことを俺に話してくれるのって、初めてですね」

 俊哉は言った。彼は心なしか嬉しそうだ。

「キミが他人だからさ。こんなことは、友人や身内には話せないよ」

 にべもなく、千穂子は言い放つ。そう。キミが他人だから。千穂子は自分に言い聞かせる。

「ついでと言っては何ですが、俺の恥ずかしい話を聞いて貰ってもいいですか?」

「それは、わざわざ私が聞かなければならないような話なのかな?」

 千穂子が訊ねる。

「少なくとも、俺は今まで誰にもこの話をしたことはありません」

 俊哉は答える。貴女の甥には、一部話しましたが。というのは、黙っておく。

「私が聞きたくないと答えても、キミは話すつもりなんだろう?言ってみれば?」

 千穂子は俊哉の話を聞くことにした。まだ時間はあるし。ほんの気まぐれだったのだ。それが、すべての過ちの始まりになるとは、この時の千穂子には知る由もなかった。運命とは、皮肉なものである。

「俺はそもそも、幼い頃から好きになる女性は年上ばかりでした」

 俊哉が話し始める。千穂子は黙って聞いている。運命の歯車が、動き出す。

「幼稚園の頃は、幼稚園の先生が好きでした。まあ、これはね。男子あるあるなんですよ、割と。ですが……。それ以降が、普通じゃなかった。小学生の頃は、近所に住んでいた女子大生のことが好きでしたし、中学、高校の頃は友達のお袋さんのことが好きでしたから。今では、その頃好きだった女性ひとが妹の姑なので、世の中は何が起こるかわからないもんです」

「へえ、そうなんだ……」

 千穂子は内心ドン引きした。この前、“年増好き宣言”をした際、お袋さんは泣き、妹夫婦は引いていたとは聞いたが。彼らの気持ちが、痛いほどよくわかる。中学生で熟女の魅力に目覚めるって……。どれだけ特殊趣味なんだよ。そんな千穂子の胸中にはお構いなしに、俊哉は続ける。

「そんな俺も、大学生になったわけです。最初はサークルに入ろうと思ったんですが、そのサークルの歓迎会で先輩に連れて行かれたのが風俗だったんですよね。慌てて逃げ帰りました。だって、嫌じゃないですか。風俗嬢なんて、どんな病気持ってるかわからないですし」

「風俗を利用しない理由が、消極的だな」

 千穂子が正直な感想を伝えると、

「いけませんか?」

 と、俊哉が真剣な顔で訊ねた。

「いけなくはないけど……。男にしては、珍しいな」

 千穂子の返答には言葉を返さず、俊哉は続けた。

「だから、なんとなくサークルに入るのは止めて、バイトを始めたんですよ。いろんな仕事をしましたね。バイトは楽しかったですよ。でも、なかなか“これ”という仕事はなくて。それで、なんとなく教職を取って、今に至ります。なんとなくで始めたので、三十までに正規雇用されなかったら、辞めようと思っていました。学校って、なかなかのブラック職場ですし」

 ここで言葉を切ると、俊哉は真っ直ぐに千穂子の目を見つめた。一点の曇りもない澄んだ瞳を向けたまま、彼は話し続ける。

「……何年か前の卒業式が終わった後、卒業生から告白されました。当然、断りましたよ。“女は四十以上。お前、まだ十八だろ”ってね」

「自分はモテるって言いたいのかな?それにしても、随分な断り方ね」

 千穂子は苦笑した。四十以上って……。特殊趣味を通り越して、立派な変態だ。そして、現在進行形でこの変態野郎の劣情は私に向けられているのだ。身の毛がよだち、吐き気がする。綺麗な瞳に騙されてはいけない。事実、彼はこう言ったではないか。“俺と一線を越えてくれませんか”と。

「それが、その年の三月一日のことです。年度が替わって四月一日。異動して来た教員の一人が貴女だったんですよ、千穂子さん。一目惚れって、本当にあるんですね。俺は初めて、まともに受験勉強をしました。貴女は正規雇用、俺は非正規雇用。このままじゃ、相手にして貰えない。告白も出来ないって思ったので。でも、その年は……。残念な結果に終わりました。落ち込んでいた俺を居酒屋に連れて行って、貴女はこう言ったんです。“また来年頑張ればいいんだから、元気出して”ってね。皆そう言うんですけど、貴女の口からは聞きたくありませんでした」

「ああ、そう」

 千穂子はどう反応するのが最適解なのかがわからず、取り敢えず答えた。大根役者の拙い台詞回しのような棒読みになっていたのではないか、と思う。俊哉は続ける。

「翌年、正規雇用試験に合格して、清水の舞台から飛び下りる思いで告白した時の貴女の返事は、“年寄りをからかわないで”でした。こっちの方が、随分な断り方だと思いませんか?」

「誰だってそう言うさ。常識人なら」

 千穂子は指先で砂を掬いながらため息をついた。砂が、静か且つ不規則に零れ落ちる。歳の差を考えてみろ。千穂子は力なく抗弁する。

「わざわざ歳の差を強調するような言い方をする必要はありませんよね?一年無駄にした俺に非がないとは言いませんけど、俺も同じように歳を取るんです。貴女と俺の歳の差が開くわけではありません。あと、訂正しておきますが、俺はモテていたわけじゃありません。弄ばれていたんですよ」

 俊哉の黒水晶のような瞳に、悲しげな光が宿る。

「そもそも年上が好きなので、いいな、と思う女性の大半は既婚者でした。だから、諦めていたんです。恋人って。でも……。バイト先で知り合った女性を好きになってしまって、不倫していたことがあります。その時の俺は、まだ十九歳でした。貴女に俺の初めてを貰っていただけないのは残念ですが、若気の至りで、如何わしい関係を続けていました」

 この若造に、そんな過去があったなんてな。千穂子は驚いたが、

「男性の性欲のピークは十八、九歳頃だと言われているからな。ちょうど盛りじゃないか。仕方ないよ。人間にとって、本能に抗うというのは苦痛なものさ」

 と、静かに答えた。それにしても。初めてを貰っていただくってのは、普通は女が考えることじゃないのか?男なら当然、“初めてが欲しかった”となるはずで……。呆れて返す言葉もない。最近の若者って、皆こんな感じなのか?風が潮の香りを運んでくる。

「彼女は結婚して十五年の四十二歳で、二人の子供がいました。夫が不倫していたので、腹いせに俺と関係を持ったというわけです。なので、夫が愛人と別れたら、当然俺はお払い箱になるんですよ。突然パートを辞めて、それっきり。連絡も、取れなくなってしまいました。彼女にとって、俺は報復と暇つぶしの道具でしかなかった。それが、俺にはわからなかったんです。まだ若くて、人生経験が浅かったから。……本気だったから。本当に好きだったから。恋は盲目とは、真に言い得て妙な言葉です。貴女だって、そうですよね?好きだったんでしょう?そのクズ野郎のこと」

「好きだったよ」

 千穂子は答えた。そして、こう続ける。

「だけど、もう済んでしまったことだ。大切なのは、同じ過ちを繰り返さないことさ」

 それだけ言って立ち上がると、

「キミのなんて、私のに比べたら恥ずかしくもなんともないじゃないか。私にとって、あの男は人生の中の唯一の汚点だぞ」

 かなり無理をして笑顔を作り、スカートの砂を払い、愛車に乗って帰ろうとすると、俊哉が助手席に座っていた。

「連れて帰ってください」

 悪びれもせず、彼は言った。千穂子が顔をしかめて、

「私にキミをお持ち帰りするような趣味はないぞ」

 と言うと、

「そうじゃなくて。俺の家まで、連れて帰ってください」

 真面目な顔をして、俊哉は言う。さらりと、しかも嫌味なく。

「走って来たんなら、走って帰ればいいだろう。私はキミの家なんて、知らないし」

「それは、何のために付いてるんですか?」

 俊哉はため息をつくと、カーナビゲーションを指し示して言った。

「ええと……。バックする時、後ろが画面に映るから便利なんだ」

 これについては、茂にも宝の持ち腐れだと散々笑われた。きっと、此奴も腹が捩れるほど笑い転げるに違いない。と思ったのだが。

「これはこうやって使う物ですよ」

 そう言って俊哉が数ヶ所ボタンを押すと、目的地を設定された地図が画面上に映し出された。

「貴女が案内に従って運転していけば、俺の家に着くように設定しました。連れて帰ってくれますよね?」

「わかったよ……」

 千穂子は、渋々案内に従って車を走らせ始めた。と言うより、そうせざるを得なかった。

 図々しいヤツだな、此奴。と思いながら案内に従って車を走らせていると、あることに気付く。あれ?ここって、見慣れた風景だよね……。目的地に到着して、車から降りる。

「着いたよ。ここでいいのかな?」

 メゾン・エイト。まんまだな……。千穂子は思った。一階に四つ、二階に四つ。その名の通り八つの部屋を持つ、築何年目になるのかと呆れるほど古い独身者用のアパートが、目の前にひっそりと建っている。

「ありがとうございます」

 俊哉は助手席から降りると、ほんの少し頭を下げた。

「キミは、随分と学校の近くに住んでいるんだな。わざわざ遠くから通勤してくる教師も多いのに」

 千穂子は言った。公立高校の教師の転勤の範囲なんて、たかが知れている。県内なら別に居を構えるよりも、マイカー通勤の方が経済的だ。

「ええ。お袋は、実家から車で通勤しろって煩かったんですけどね。俺、昔からお袋は苦手で……。だから敢えて車は持たずに、徒歩で通勤できる場所にアパートを借りて住んでるんです」

「ふぅん、そう」

 お袋さんは苦手、か。縁談を無理強いするような母親と一つ屋根の下で暮らすことは、息子にとって苦痛以外の何物でもなかろう。と思いながら、千穂子は答える。

「車が必要な時は、どうするんだ?」

 ついでに、素朴な疑問を口にする。サーフボードは、持ち歩くには大きすぎるような気がするのだが。

「そういう時は、レンタカーを借ります」

「ふぅん」

 若いくせに、地味な暮らしぶりだな。千穂子は思った。そういうのは、……嫌いじゃない。

「じゃ、私はこれで」

 とだけ言って車に乗り込もうとすると、俊哉は千穂子の腕を摑んで引き止めた。

「お茶でも飲んでいきませんか?」

「お茶なら、家に帰ってから飲むよ。ここじゃ、飲みたくない」

 千穂子の返答に、俊哉は想定外の言葉を返す。

「千穂子さん。この前俺が言ったこと、覚えてますか?」

 澄みきった綺麗な瞳を向けて、俊哉は訊ねた。

「“俺と一線を越えてくれませんか”だっけ?忘れるはずはないだろう。あんなに怖いことを言われたら、覚えていない方がおかしいよ」

 千穂子は反射的に、一歩後ろへ下がる。

「あれは冗談です。忘れてください」

 俊哉は優しく微笑んで、千穂子の腕を摑んだままこう続けた。

「例えば、デートに誘いたい女性がいるとします。その女性に“今度、一緒にグアムに旅行に行こうよ”と持ち掛けます。当然、相手は断りますよね?その代替案として、“グアムが無理なら、ディズニーランドに行こうよ”と言えば、OKして貰える確率が高くなる。わざとNOを言わせることで、次の要求を断りにくくする、と。ドア・イン・ザ・フェイス・テクニックですね」

「知ってる」

 と、千穂子は言った。そんなことも知らない女だと思われていたのだろうか。腹立つなぁ。千穂子は思った。そもそもそれは、一般常識の範疇であってだな。千穂子の心中にはお構いなしに、俊哉はさらに続ける。

「俺はそれを使ったんです。貴女には通じませんでしたが。俺は好きな人と、普通にデートしたかっただけですよ。……デートにも誘えない、お茶に誘っても断られる。さて、俺はどうしたらいいんだろう」

 俊哉は、捨てられた仔犬のような眼をして寂しそうに言うと、こう続けた。まるで、宣誓のように。あるいは、宣戦布告のように。

「俺は貴女を妻にします」

 千穂子は反駁しようとしたが、俊哉の唇で口を塞がれてしまった。長く、官能的な接吻のあと、

「じゃあ、また明日」

 とだけ言い、掴んでいた千穂子の腕をそっと離すと、俊哉は帰って行った。その後ろ姿を見送りながら、千穂子は唇を手の甲で拭うと、

「さすが」

 と、呟いた。人妻と不倫していただけのことはある。これは、手練れの技だ。彼と不倫していた女は、かなりの床上手だったのだろう。恐らく私など、到底足元にも及ばないはずだ。そんな女の手ほどきを受けた、彼の房事の技術テクニック。想像するだけで、背筋が寒くなる。それなのに。色事の真髄を究めたようなヤツなのに。どうして彼は、あんなに綺麗な目をしているんだろう……。


 次の日を一日無事にやり過ごすことは、千穂子にとっては困難であった。俊哉は何事もなかったかのように接してきたが、それは、彼が男だからであろう。千穂子は女だ。なるべく彼を視界に入れないように気を付ける。しかし、彼は意識して千穂子の目に触れようとするのだ。キミは私をからかっているの?千穂子は辟易した。

 そのせいか、時が経つのがやけに長く感じられた。逃げ場を変えよう。こういう時の避難場所は、幾つか持っている。土、日は出勤している職員も少ないだろうから、迷惑をかけることになるだろうが。彼女なら、許してくれるだろう。あの若造も、あそこには絶対に入れないはずさ。場所が場所だからな。


 前日、レモンドロップを口の中で転がしながら考えた末の次の行動を開始しようとした高木茂は、友人たちから盛大に責められていた。何がどうしてこうなった?茂は自問する。

 月曜日の放課後。茂が美術室に行こうとすると、背後から呼び止める者がいた。

「どこ行くんだよ?帰ろうぜ」

 須賀航一だ。彼は短いホームルームを終えて、B組の教室から出て来たところだった。なヤツに見つかってしまったな。茂は思った。

「悪い。ちょっと美術室に用事があるから、先に帰ってくんねぇか」

 用事があるというのは事実だ。ただ、どんな用事なのかを知られたくないだけで。俺は、嘘は言ってないぞ!

「画材は、昨日取りに来たんだろ?」

 航一が疑問をぶつける。一応、茂にも予定を訊いておいたのだ。土曜日は芸術で美術を選択した生徒の中で進捗のない者が遅れを取り戻すために美術室を使うので、美術部の活動は日曜日にしか行われない。文化祭の準備などの例外はあるが、原則、授業の方が部活動よりも優先される。その事実を、航一は初めて知った。

「そうなんだけど……。取り忘れたものがあってさ」

 茂は苦しい言い訳をした。この記憶力と洞察力の鬼を相手に、通用する手ではないな。と思いながら。

「ユーレイのお前が、美術室にそんなに沢山の荷物を置いているとは考え難い。それに、今朝会った時のお前は、少しやつれた顔をしていた。徹夜で絵を描いていたんじゃないのか?“画材が全部揃っていないと、描き始められない”お前が以前、俺に言ったことだぜ。取り忘れたものがあれば、それに気付いた時点で、お前は諦めて寝てしまうはずだ」

 航一は穏やかに言った。その話をしたのは確か、一昨年の文化祭の準備を進めていた最中のはずである。そんなに前のことではないが、つい最近のことでもない。まいったなぁ。茂は思った。その時、A組の教室から涼葉と美波が出て来る姿が見えた。

「ごめん。取り忘れたものがあるっていうのは嘘。けど、用事があるってのは本当」

 茂はあっさりと白状する。だって、仕方ないじゃないか。他にどうしろと?

「別に、責めてるわけじゃない。どんな用事なんだ?……俺たちには、言えないことか?」

 すでに、涼葉と美波も傍に来ている。航一は続けた。

「お前は、けして嘘はつかない。けど。絶対に本当のことも言わない。……なぜだ?」

「そんなつもりは……」

 茂はうろたえる。航一は畳みかける。

「お前にそのつもりがなくても、少なくとも俺にはそう見える」

 航一の強固な意志が込められた視線にぶつかり、茂は諦める。

「話すよ。話すけど、……ここじゃ言いたくない」

 学裏と呼ばれる学生向けの定食屋街は避け、敢えて“モグラの根城”まで足を運ぶ。しかし、ここでも会いたくない人物の姿を見かけた。茂と航一の顔が、同時に曇る。どうしてアンタがここにいるんだ?茂は閉口する。

「そんなに露骨に嫌そうな顔することないだろ。さすがに俺も傷つく」

 大迫俊哉は苦笑した。航一が親指で茂を指し示し、

「今からこいつ締め上げるんで、どっか行ってくんねぇかな」

 と、真顔で言った。その眼光の鋭さは、けして茂に引けを取らない。教師に対して、その口の利き方はどうなの?涼葉は思った。すっかり自分のことは棚に上げている。

「おっかねぇなあ。……程々にしてやれよ」

 とだけ言うと、俊哉は支払いを済ませ、店を出た。空になったコーヒーカップだけを残して。この店を知っている生徒がいたとは驚きであったが、口には出さない。子供ガキのくせに通だな、と思うだけだ。それにしても、締め上げるって……。高木の奴、何をやらかしたんだろう。気にはなったが、仕事が残っているので学校へ戻る。

「邪魔者はいなくなったな」

 航一は呟くと、騒がしい看板娘から離れた席に着いた。美波、涼葉がそれに従う。暇な客から教えられた妙な言葉を繰り返し喋る鸚鵡は、今日も元気で姦しい。時折、店主の叱責する声が聞こえる。

「ありがとう。助かったよ」

 そう言って、茂が席に着くと、

「なんだよ。お前の用事って、大迫に関係あんのか?」

 と、航一が訊ねた。

「大ありだ」

 茂はそう答えると、話し始めた。千穂ちゃんが自分の伯母であること、伯母には過去に苦い恋愛経験があるらしいこと。そんな彼女に、どうやら大迫が劣情を抱いているということ。そして、真偽のほどが定かではない大迫にまつわる噂の裏が、思いがけず取れたこと。そう。本当に、思いがけず。

「あの噂は、本当だったんだ。昨日画材を取りに行った時、楢崎って後輩から聞いた。“あの噂の女子生徒って、俺の姉貴なんですよ”って。もちろん、そいつのお姉さんはちゃんと生きているが」

「まあ、そうだろうな。振られたぐらいで自殺してちゃ、命が幾つあっても足りねぇよ」

 航一は沈着だ。

「それで?お前は今日、何の用事があって美術室に行こうとしてたんだ?」

 静かに訊ねる。

「それは……。てか、お前たちは驚かないのか?その……」

 茂は慄き、口を濁す。

「驚かねぇよ。なあ?」

 航一は、傍で聞いていた美波と涼葉に同意を求めた。

「まあ、なんとなく気付いてた」

 と涼葉が答え、美波は頷く。茂は、そこはかとない脱力感を感じた。

「気付いてたのかよ」

 何のために、必死で隠してきたのやら。……ということは、他の連中も?茂の心中を察したのか、

「大丈夫よ。他の生徒は気付いていないわ。私たちの中に、高木くんのセンシティブな個人情報を暴露して得をする人間はいないから、安心して」

 美波が、蠱惑的な微笑を浮かべて言った。涼雅くんも含めて。と、付け加える。航一と涼葉が頷く。涼雅くんも?茂は思った。

「それはそうだけど……」

「論点をずらそうとするな。お前は今日、美術室に何の用があったんだ?」

 航一が話を元に戻す。観念した茂は白状する。

「楢崎に、お姉さんの勤務表を調べてくれるよう頼みに行こうと……。夜勤明けの土曜日を狙って、会いに行こうと思って」

 その計画を話してしまったため、今こうして盛大に責められているのである。

「過保護すぎるんじゃない?千穂ちゃんはいい大人なんだから、そっとしておいてあげたら?それに、他人ひとの恋路を邪魔するなんて、悪趣味にも程があるわよ」

 涼葉がため息をつく。

「“他人ひとの恋路を邪魔するヤツは、馬に蹴られて死んじまえ”だったかしら?涼葉の曾祖母ひいおばあさんが、子守歌代わりに歌っていたのよね」

 美波が悪戯っぽい目をして笑い、涼葉の方を見る。涼葉が頷く。それ、子供を寝かし付ける時に歌うような歌じゃないだろ。なんて曾祖母ババアだ。茂は内心呆れたが、黙っている。笑顔が怖いよ、鈴村さん。怒らせるとソフトに怖いのが、鈴村美波なのだ。

「そもそも、その楢崎って後輩にどう説明するつもりだったんだ?どんな言い訳したって、不自然すぎるだろ。お前がひた隠しにしてきた秘密がバレるぞ」

 航一が腕組みをして言った。そして、こう続ける。

「あの歳まで生きてきて、苦い恋愛経験の一つや二つ程度、あって当然だ。折角の千穂ちゃんのモテ期を、お前は潰すつもりなのか?」

「あの歳でモテ期とか、あり得ねぇだろ。……たった一人の大切な身内が、変態の餌食になるのを黙って見てはいられないよ」

 茂は反論した。しかし、航一は静かに答えた。

「確かに、大迫が変態であることは認めるさ。でも、悪いヤツじゃねぇよ。千穂ちゃんは偶然、モテ期が来るのが遅かっただけだ。こういうことに、歳は関係ないんだよ。大迫が千穂ちゃんを見る目。あれは、間違いなく恋する少年の目だ。だから、大丈夫。お前が心配しているようなことには、絶対にならない」

「そうなの?私、全然気付かなかった」

 涼葉が言うと、航一は、

「お前は元来、色恋沙汰には疎いだろ」

 と答えながら、美波に訊ねた。

「美波。お前は気付いていたな?」

「ええ」

 美波は短く答える。涼葉、航一、美波。三人の非難の眼差しが、茂に向けられた。

「わかったよ……」

 茂は力なく項垂れる。

「とはいえ、暫くはお目付け役が必要だな」

 航一はそう言うと、思案する。

「信用ないなぁ」

 茂はため息をついた。

「そうじゃない。過保護なお前は、俺たちの目を盗んで何を仕出かすかわからん」

 と、釘を刺す航一。頷く涼葉。やれやれ。それって結局、信用されてないってことだろ?茂は思った。そんな茂の胸中にはお構いなしに、航一は続ける。

「涼雅……。には、頼めないな。あいつも部活があるし。かと言って、美波じゃ心もとない」

 涼葉が、突然思い出したかのように口を開く。

「涼雅に頼める日があるはずよ。今年から、男子バレー部とフットサル部ができたでしょ?室内競技の部が増えたから体育館は交代でしか使えなくなって、これまでのように、土、日が部活で潰れることはなくなったの。少林寺拳法部が土曜日に体育館を使う週には、涼雅に高木くんのお目付け役を頼めるわ」

「そうだったな。……二つできたってことは、二つ消えたってことか。何が消えた?」

 涼葉たちの通う高校には変わった通例が幾つかある。部活動の数を制限していることも、その一つだ。昨年からは、部活動の顧問を地域ボランティアの方々に委託するようにもなった。地域ボランティアと言えば聞こえは良いが、退職した“元教師”たちにお願いしているというのが実情だ。これらは皆、教師の負担を少しでも軽くするための涙ぐましい努力なのである。

「消えたのは三つよ。ラグビー部と、サッカー部。あとは手芸部ね」

 航一の問いに、涼葉が答えた。

「ふぅん」

 航一は、関心なさそうな返事をする。

「そうなると、涼雅に頼める日以外は、俺が高木を連れ歩くしかないか……。お前と和泉翔輝が鉢合わせしてしまうのは、なるべく避けたいし」

「どうしてそうなるのよ」

 涼葉が航一を睨む。

「高木くんを巻き込まないで!」

 航一はため息をついた。そうは言ってもなぁ。あれほど、殺したい、殺したいと騒がれてはなぁ。航一は頭を抱える。

「涼葉と和泉翔輝を会わせたくない理由でもあるのか?」

 茂が訊ねると、

「まあな。ちっと、面識があるから……」

 今度は航一の歯切れが悪くなる。

「互いに嫌な記憶しかない上、最悪な印象しかないはずだ。顔も見たくないというのが本音だろう。けど……。鉢合わせさせてみたくもある」

「なんだよ、それ」

 茂は苦笑したが、航一は本心を述べたまでだ。涼葉は殺したい、殺したいと騒ぎはするが、実行に移しはしないだろう。でも。向こうはどうだろうな。かつて、自分に瀕死の深手を負わせた女。強姦未遂犯という不名誉な烙印を押した女。そんな人物と鉢合わせしたら……。多分、生きた心地はしないはずだ。口から心臓が転げ落ちるほど、驚倒することだろう。

 和泉のことだから、きっと余罪はある。というか、和泉翔輝について調べた時に判明したのだが、実はあるのだ。父親に金で揉み消させた罪が。

 少し拷問すれば、これに関しては口を割るだろう。拷問は、涼葉にさせればよい。殺したいと言っているのだから。“余罪がある”と耳に入れておけば、女性優先主義フェミニストの涼葉は、嬉々として彼を痛めつけるはずだ。死なない程度に。その場は、瞬時に阿鼻叫喚の巷と化すことだろう。想像するだけで、胸のすくような思いだ。

 和泉が何人の女を泣かせてきたかは知らないが。精々、己の罪深さを思い知ればいいさ……。クックッと笑う航一の顔は、充分過ぎるほど恐ろしかった。


 やけに長い一週間だったな。千穂子はため息をついた。金曜日の夜。夕食を済ませた後、千穂子は逃げ場の主に電話を掛けた。気の置けない仲とはいえ、さすがにアポイント無しで訪ねて行って良い相手ではない。なにしろ相手は、市内でも人気の高い“中原レディースクリニック”の院長なのだ。つまり、一国一城の主なのである。父親から譲り受けた“城”を、彼女はしっかり守っている。

「もしもし。千穂か?」

 彼女は、比較的早く電話に出た。

「リンコ?元気そうで何より」

 千穂子の声が弾む。中原倫子なかはらのりこ。千穂子とは、高校時代からの友人である。他の友人たちは次々と結婚していき、子供ができると疎遠になり、いつしか連絡も途絶えた。ほんの僅かな寂しさの中で、仕方のないことだと割り切っていたつもりだ。ライフステージの変化に伴い、人もまた変わって行くのだと。しかし、倫子だけは、結婚しても昔と変わらず友人であり続けていてくれたのだ。あるいは、千穂子と倫子の知的レベルが他より高かったため、そもそも周囲とは合わなかったのかもしれない。

「お蔭様で、なんとか生きているよ」

 電話の向こうの倫子の穏やかな顔が、目に浮かぶようだ。

「急で申し訳ないんだけど、明日、クリニックの方に訪ねて行ってもいい?」

 千穂子が訊ねると、

「構わないよ。超少子高齢化とやらで、産婦人科は暇だから。……父は、婿が産婦人科医ではなかったことを嘆いていたけど、誠くんは脳外科医で正解だったよ」

 倫子は落ち着いた声で答えた。

「このままじゃ、日本民族が絶滅する日もそう遠くないな」

 笑えない冗談だな。千穂子は思った。その刹那。倫子は、千穂子の周りの空気が揺らぐのを敏感に感じ取っていた。何かマズいことでも言ったか?倫子は戸惑う。

「何かあったのか?」

「特殊趣味なストーカーに追いかけられて、困ってるの」

 そう言うと、千穂子は笑顔を作る。

「だから、避難させて」

 涙が頬を伝う。……どうして?千穂子はその涙の理由がわからず、困惑する。もしかして、あの坊やが怖いとか?自分の感情に蓋をする千穂子。電話越しにそれを察する倫子。

「そうか。じゃ、明日。待ってるから」

 倫子はそう告げると電話を切った。千穂の様子がおかしい。一体、何があったんだ?


 東の空が白くなる頃、千穂子は目を覚ました。やはり、あの若造には是が非でも生産性のある生き方をして貰わないと困る。本人の意思など、どうでも良い。母親の押し付ける縁談でも、何でも構わない。幸いなことに、男という生き物は下半身の欲望に忠実に行動するように作られている。不本意な結婚であっても、目の前の餌に喰いつかぬはずはない。早く若い女と結婚させて、速やかに子供を作らせるべきなのだ。昨夜倫子と電話で話した後、心底そう思った。

 朝食を済ませ、食器を洗ってしまうと、身支度を整えて出掛ける準備をする。少し早めに家を出て、小麦アレルギー持ちの倫子への手土産にするため、米粉パンを買いに“白い花”へ寄る。千穂子のお気に入りの店で、米粉パン専門店だ。

「千穂ちゃん?」

 声を掛けてきたのは、時田涼葉であった。

「なんだ、お前か」

 千穂子は安堵した。またあの特殊趣味なストーカーじゃなくて、良かったよ。

「なんだとは何よ。失礼だなぁ」

 そう言うと、涼葉は千穂子をまじまじと見た。特徴はないが、端麗な顔貌。適度に鍛えられた身体に、程よくついた筋肉。知的な瞳と、仄かに香る色気。学校で見慣れたパンツスーツとは打って変わった、女性らしい私服姿。うん!大迫チャンの女の趣味は、悪くない。

 高木くんは“たった一人の大切な身内が、変態の餌食になるのを黙って見てはいられない”と言い、須賀くんは“大迫が変態であることは認めるさ”と言っていた。どうして世の男どもは、馬鹿の一つ覚えのように、挙って若い女のケツを追い回すのかねぇ。変態呼ばわりされる少数派が、気の毒である。

「ハハッ、スマンね。こんなところで会うとは、思ってもみなかったからさ」

 千穂子は率直な感想を述べると、支払いを済ませ、店を出た。それから、あることに気付く。“白い花”は、開店時間が遅い。だが、前日に電話予約しておけば、開店前に商品を受け取ることが可能だ。但し、それを知っているのは一部の常連客のみである。つまり、時田は常連なのか。“白い花”もそうだが、“マトリョーシカ”もそうだ。あいつは、なかなか舌が肥えているな。甥の恋人の、意外な一面を知ることとなった。

 倫子への手土産を手に入れたので、そのまま中原レディースクリニックへと向かう。職員専用駐車場に車をとめると、真っ直ぐ職員専用出入口へ向かい、ドアを開けて中へ入る。下駄箱の一番下の左端は、千穂子のために空けてある。院長の友人ならではの待遇だ。

 院長室へ向かう途中、数名の見知った職員の中に、一人だけ見覚えのない顔がいた。珍しいことではないので、普通に挨拶を交わす。名札を見ると、“楢崎”となっていた。若い娘だったので、今年入職したのかもしれない。

「リンコ!会いたかった」

 院長室へ入るや否や、開口一番、出た言葉はそれであった。

「“特殊趣味なストーカーに追いかけられて、困ってる”って言ってたな。何があったんだ?」

 千穂子が差し出した手土産を受け取りながら、倫子は訊ねた。

「うん。正確に言えば、ストーカーとはちょっと違うんだけどね」

 千穂子が苦笑して答えると、倫子は掛け時計の方をチラッと見て、

「おっと、朝礼の時間だ。戻って来るまで待ってて。ほら。そこ、座って」

 そう言うとパイプ椅子を指し示し、無造作に白衣を羽織ると、足早に出て行った。遠慮なくパイプ椅子に座った千穂子は、考えた。あの若造とのいきさつを、どう話せば良いのだろう。勢いだけで来てしまったが、マズかっただろうか。しかし、来てしまったものは仕方がない。誤解を招くことの無いよう、細心の注意を払おう。

 20分ほど経過した後、倫子が戻って来た。事務机の椅子に座り、机を挟んで千穂子と向かい合う。

「“正確に言えば、ストーカーとはちょっと違う”けど、“特殊趣味なストーカーに追いかけられて、困ってる”それは一体、どういう状況なんだ?」

 意味不明だな。と付け加えると、倫子は息を吐いた。千穂子が口を開きかけると、

「長い付き合いだからな。お前のことは、ある程度わかってるつもりだ。昨夜のお前は、明らかに普通じゃなかった」

 と、倫子が言った。……だから、話してみなよ。なんだって、どんなお前だって、私は受け止めるさ。

「そうね。ごめん」

 千穂子の目から、涙が溢れた。倫子は煙草の箱から一本を振り出して口にくわえ、ライターで火をつけた。紫煙を燻らす。今時では、あまり見られない光景だ。千穂子は微かに肩を震わせ、泣いている。倫子は瞼を閉じて、ゆっくりと煙を吐き出す。

 しばらくして落ち着きを取り戻した千穂子は、ハンカチを取り出し、涙を拭いた。倫子が灰皿で煙草の火を揉み消すのを待ってから、堰を切ったようにこれまでのいきさつを話し始める。この旧友に、隠さなければならないことなど、何一つなかったのだ……。

「確かにそれは、“正確に言えば、ストーカーとはちょっと違う”けど、“特殊趣味なストーカーに追いかけられて、困ってる”としか表現できない状態だな」

 千穂子が話し終えると、倫子は言った。

「だがな。今の話の中に、私としては、プチキレ案件があったぞ?わかるよな」

 千穂子は小さく頷く。

「どうして、その時に話してくれなかったんだよ。二十七歳の時って言ったな?その頃なら、私が次男を産んだ頃だ」

「樹くんは、まだお腹の中にいたじゃない」

 千穂子は力なく抗弁した。

「その程度、誤差の範疇だ。お前が辛い思いをしている時に、私は幸せそうにヘラヘラ笑っていたってことか?私、ただの馬鹿じゃないか。そんなのじゃ、お前の友達を名乗る資格はない。それを。そんな、大事なことを。そいつには話したんだな。ええと……。名前、なんだっけ?」

 倫子は、憤懣やるかたなしといった様子で訊ねた。

「大迫俊哉」

 千穂子が答える。倫子は続けた。

「そうだ。その、大迫とかいう特殊趣味野郎には話した。“こんなことは、友人や身内には話せない”って、そんなのはただの奇麗事だ。私は、お前が悲しんでいる時には、一緒に悲しみたかった。苦しみを、分かち合いたかった。いつでも、どんな時にでも、お前に寄り添っていたかったのに」

「ごめん。でも、どうしても話せなかったの。もっと正確に言えば、どういう風に切り出したら良いのかが、わからなかった……」

 千穂子は正直な気持ちを伝える。

「もういい。済んでしまったことだ。時を巻いて戻す術はない。大切なのは、同じ過ちを繰り返さないことさ。……これからは、何かあったら、真っ先に私に話すこと。わかったな?」

 倫子はいつもの倫子に戻って、そう言った。その時、遠慮がちなノックの音がした。

「どうぞ」

 倫子が言うと、院長室のドアがゆっくりと開いた。

「院長。山本さんの赤ちゃん、ちょっと黄色いんです。診ていただけますか?」

 見知った職員の中に、一人だけ見覚えのない顔の若い娘がいたが、その看護師であった。もっとも、彼女が看護師なのか助産師なのかは、見ただけではわからないのだが。

「わかった。すぐ行く」

 そう言うと倫子は立ち上がり、本当に“すぐ”出て行った。相変わらず、機動性抜群というか、身軽というか……。千穂子は感心して倫子の後ろ姿を見ていたが、自分に向けられている視線を感じて、そちらを向いた。若い看護師と目が合う。彼女は、瞬時に営業用の笑顔スマイルを自身の面皮に貼り付ける。

「あの、……どこかでお会いしたことがありましたか?」

 千穂子が声を掛けると、彼女は慌てて、

「いいえ。お話し中、失礼しました」

 とだけ言い、院長室から出て行った。一人、その場に残された千穂子は思った。羨望と憧憬。そして、ほんの僅かな嫉妬。一瞬だけ見た彼女の瞳の奥には、そんな物が複雑に絡み合い、渦巻いていた。あれは、明らかに初対面の相手に対して向ける視線ではない。けど。どこで会ったのかが、思い出せないな。

 ……。……。……。……。……。……。

 駄目だ。どうしても思い出せない。千穂子が諦めた頃、パタパタと足音を立てて、倫子が戻って来た。

「本当、楢崎は筋がいいな。雇用して正解だったよ」

 椅子に座ると、倫子は呟いた。

「今の若い人?」

 千穂子は訊ねた。どこで会ったのかが思い出せない、しかし、確実にどこかでは会っているはずの娘のことを。

「ああ。去年二人、助産師が退職したからな。今年は看護師を一人だけ、雇用することにした」

 看護師さんなんだ。千穂子は思った。倫子が続ける。

「一年間ウチで看護師として臨床経験を積んだ後、助産師養成機関に通う。そして、助産師国家試験に合格したら、最低五年はウチで働いて貰う。そういう条件で、雇用している」

 条件、厳しすぎ!今の若い子に耐えられるかしら……。千穂子は心配になる。そんな千穂子の胸中にはお構いなしに、倫子はさらに続ける。

「恩着せがましく言いたくはないけど、助産師養成機関に通っている間は休職扱いで、学費の三分の一はウチが出すんだ。なるべく長く働いて貰いたいんだよ。もちろん、この条件でいいと言ってくれる人は滅多にいない。看護師国家試験受験資格があれば、助産師養成機関に通うことが出来るからな。ただ、臨床経験があった方が良いと、私が個人的に思っているだけで。厳しい条件だとは思うけど、来てくれる人がいたから。……運が良かったよ」

 へえ。それは、知らなかった。正看護師免許がないと、助産師養成機関には通えないものとばかり思っていたのに。倫子の思惑が、なんとなく読めた。

「助産師国家試験に落ちた時はどうするの?」

「もし仮に落ちたとしても、受験資格がなくなるわけじゃない。受かるまで、受け続ければいいのさ。その間は、看護師としてウチで働いてくれればいいし。だから、産休や育休もちゃんとしてる。他所の診療所に比べればな」

 千穂子は、苦笑して言った。

「一国一城の主は大変ね。雇われている方が楽だわ」

「そうかもしれないな」

 倫子は同意する。

「息子は二人とも医学部に入ったけど、正直、このクリニックを継いで欲しいとは思ってないよ。……この建物も、父娘おやこ二代に亘って使ってもらえたら、本望だろう」

 暫時、沈黙が続いた。倫子の表情は清々しく、些かも迷いはなかった。

「もうじき昼だな。少し待っててくれ。疲れたなら、横になっててもいいぞ」

 とだけ言うと、倫子は部屋から出て行った。土、日曜日は院長回診がない。そのため、職員の詰め所で助産師や看護師と一緒に昼食を摂るのだ。食事は、入院している妊産婦と同じ物が職員にも出される。倫子が戻って来るまで、一時間程度はかかるはずだ。

 千穂子は、持参した弁当と水筒を取り出した。その時、ドアをノックする音がした。千穂子が院長室のドアを開けると、どれだけ記憶を辿ってみても、どこで会ったのかを思い出せない娘が、湯呑みを乗せた盆を持って立っていた。

「お茶をお持ちしました」

 彼女は営業用の笑顔スマイルを貼り付けたままそう言うと、茶托を手に取り、事務机の上に湯呑みを置いた。

「どうぞ、お構いなく」

 千穂子は恐縮した。ここで、このような持て成しを受けたことはない。古参の職員は皆、千穂子が弁当と水筒を持って来ていることを知っているのだ。

「失礼しました」

 と言って会釈をし、彼女は出て行った。

 千穂子は弁当箱の蓋を開ける。少しだけ、普段より気合を入れて作った弁当が顔を出す。学校に持って行くのに、こんなのは作れないからね。

「いただきます」

 千穂子が嬉しそうに食べ始めたのは、『夏目友人帳』のマスコット的存在を描いた、キャラクター弁当であった。食事を済ませた後、いつも学校でしているように、携帯用の歯ブラシセットで歯を磨く。院長室には事務机の他に、洗面台と仮眠用のソファーベッドがある。本当、便利だよね。千穂子は思った。例の彼女が湯呑みを下げに来た後、静寂が訪れる。

 パイプ椅子に座ると、持参していた英語版『BANANA FISH』を読んだ。主人公の幸せそうな死に顔を見ていると、腹立たしくなった。不幸なことの方が多かった人生の最後が幸せだったなら、キミはそれでいい。いつだって辛い思いをするのは、おいて逝かれた者の方さ……。千穂子の中で、彼らが妹夫婦に重なる。ブロマンス物の傑作と聞いて、読んでみたのだが。結末がこれでは、読後の感想は甲論乙駁であろう。確かに芸術的な鬱漫画であることは、否定はしない。

 一時間ほどして、倫子が戻って来た。

「なあ、千穂。赤い糸三本、黒い糸三本って知ってるか?」

 椅子に座ると、唐突に倫子は訊ねた。

「初めて聞いたよ、そんなの」

「運命の赤い糸は、一本じゃなくて三本あるんだそうだ。あと、赤い糸だけじゃなく、黒い糸というのもあるそうだ。黒い糸は三本とも結婚相手で、結婚したら不幸になる相手のことを言うんだ。赤い糸は一本だけが結婚相手で、他の二本は友人とか、良きライバルなどを示しているんだと」

 千穂子は思わずため息をついた。

「大迫チャンじゃあるまいし。その乙女チック情報の出所ソースはどこ?」

「ウチには、若い助産師や看護師がいるからな。件の“運命の人は二人いる”ってのも、知ってるのがいたぞ」

 倫子はニヤリと笑って答えた。悪い顔しちゃって……。千穂子は思った。倫子は真顔に戻ると、言った。

「私は、本当に運が良かったよ。二本の赤い糸に出会えた。一人はお前、もう一人は誠くんだ。お前の金を使い込んだ挙句カラダを穢した初めての男は、黒い糸だったんだよ。……これから、赤い糸を探せばいいさ」

「今更遅いって。幾つになったと思ってるのよ」

 そう言うと、千穂子はかぶりを振った。

「覚えてるか?千穂。高校三年生の時の、世界史の先生。あの先生がさ、言ってただろ?“上下も横も、限りなく広い。アンタたちの相手が必ずしも日本人とは限らないし、同世代だとも限らない。だから、一度や二度の失恋で諦めるな。アンタたちの相手は、まだ産まれてないかもしれないよ”って。聞いた時はさ、あり得ねぇって思ったんだけど。……千穂。お前の相手は、もしかしたらその特殊趣味野郎かもしれないぞ?」

 千穂子は、ますます深くため息をつく。

「その希望的観測は、どこから出て来るんだろう?」

 その問いには答えず、倫子は続ける。

「思ったんだけど、お前はけしてそいつのことを嫌ってはいない。だって、そうだろう?私にでさえ打ち明けてくれなかった重要なことを、そいつには話してるんだし。それに、そいつの恥ずかしい話も、わざわざ聞いてるんだよ。私の知ってるお前は、無駄なことには一切時間を割かない。一分、一秒たりとも。“時間は、お金では買えない”ってな。いつもお前が言ってることじゃないか」

「それは、時間があったから。まだ海を見ていたかったし」

 けして、嫌いではない。だからと言って、好きなわけではないのだ。……好きになりかけ、みたいな。今ならまだ、私の心は傷つかずに済む。物理的な過ちよりも、気持ちが動くことの方が、厄介だ。

「大迫チャンは、もっと生産的な生き方をするべきなのよ。“このままじゃ、日本民族が絶滅する日もそう遠くない”そう言ったのは、リンコだよ?折角お袋さんが縁談を持って来てくれてるのに。今時そんな親、いないわよ?勿体無いじゃない」

 千穂子は精一杯の反論をする。

「確かに、子供を増やすためには、男女を一つ部屋の中に入れて灯りを消させるしかない。けど、たなかったら意味がないんだ。正真正銘の特殊趣味野郎なら、若い女にはたない可能性もあり得る。それに、男は子供を作らせるための道具じゃない。女が子供を産ませるための道具じゃないのと同じだよ」

 産婦人科医だからなのか、倫子の言葉には説得力があった。

「自分の気持ちに、ちゃんと向き合うことさ。逃げ回っていても、埒が明かないだろ?」

 倫子が励ますように、千穂子の肩を軽く叩いた。

「怖いんだ」

 千穂子は呻く。

「女にとって、零を一にすることは非常に困難なことだ。一を十に、十を百にするのは簡単だけど。……私が零を一にしたのは、二十年も前のことなの。それだけ間が空いていたら、今更一を二にするのは零を一にするのと同じほど難しいし、怖いことなんだ。でもね。自分の気持ちに向き合った時、結局、行きつく先はそこなのよ。“キミには想い出をあげるから、私のことは忘れて、他の女性ひとと幸せになってね”って」

 倫子の二本の腕が真っ直ぐに伸びて、千穂子の身体を包み込んだ。

「落ち着け、千穂。お前は優しすぎる。お前をボロ雑巾のように捨てたクズ野郎のことを気に掛けてやる必要はないし、嫌ならその……大迫とかいう若造に、想い出なんてくれてやらなくてもいいんだ。もっと自分を大切にしろ。それにな。その特殊趣味野郎は、想い出なんか欲しがってないと思うぞ?」

 そいつが本当に欲しがっている物。それは、お前との暮らしだよ。倫子は思った。

「私には、守るべき純潔なんてものは残ってはいない。あとは、私が恐怖を乗り越えられるかどうか。それだけだ」

 千穂子は倫子の身体をそっと離すと、真剣な表情で言った。

「やめろ。私はこれ以上、お前が傷つくのを見たくない。……お願いだ」

 倫子は寂しそうに笑った。それは、泣き笑いのようにも見える。

「努力はする」

 千穂子は短く答えた。私が、彼を本当に好きになってしまう前に。そうなる前に想い出をあげて、きれいさっぱり忘れることが出来たら。多分、それが一番マシな解決策なんだ。


 楢崎康子は、勢いよく弟の部屋のドアを開けた。

「うわっ!開ける時は、ノックぐらいしろよ。いつも言ってるだろ?」

 健児はそう言うと、後ろに何かを隠した。どうせ、水着姿のグラビアとか、ヌード写真集の類なのだろう。康子はわざと大袈裟にため息をついて見せた。

「別に隠すことはないでしょ?あんたくらいの年頃の健康なヘテロ・セクシュアルなら、むしろ健全な欲望よ」

 今度は健児がため息をつく。

「逆に、隠さない方がどうかしてると思うけどな」

「平気よ。産婦人科に勤務している看護師なんですもの」

 絶対に、就職先を間違えたよなぁ。それ以前に、進学先を間違えたと言うべきか。健児は思った。腹を立てるから、口が裂けても言えないけどさ。

「それで。何の用?」

「あんたの学校に、津山千穂子っていう先生、いる?」

 康子は、思い出したように訊ねた。

「いるけど。それが何?」

「いるならいいの」

 それだけ言うと、康子は健児の部屋を後にした。大迫先生、あの女性ひとのことが好きなんだ……。

 今日の午前中。新生児室で赤ちゃんのオムツ替えをしていると、一人だけ、やけに黄色い赤ちゃんが目についた。これは、黄疸っぽいな。血液ビリルビン値の測定と光線療法が必要かどうか、院長に診てもらう必要がある。康子が院長室の前まで来ると、中から“大迫チャンが”とか、“プロポーズなのか、挑発なのかわからない”とか。それだけなら、まだいい。はっきりと、“迷惑だ”と言う声が聞こえてきたのだ。待って。嫌わないであげて。確かに特殊趣味ではあるけど、悪い人じゃないんだから!そう叫びたいのを必死に堪え、ドアの外でノックのタイミングを窺っていた。その後、院長が憤懣やるかたなしと言わんばかりの声で話していた内容から、院長が彼女のことをどれほど大切に思っているのかが伝わってくる。一先ず会話が途切れたところで、ようやく康子はノックをした。

 昼食時。もう一度その女性を見たいと思った康子がお茶を淹れていると、先輩職員が、

「津山さん、弁当と水筒を持って来てるから。そういうお持て成しは、必要ないの」

 と言った。

「いえ。私は、初めてお目にかかるので……」

 そんな言い訳をして、もう一度見たその女性ひとの微笑には、深みがあった。あれは、若い女にはないものだ。大迫先生、理想の女性に出会えたのね。

 振られても、好きなままでいたっていい。遠くから、彼の幸せを願っていたい。彼が幸せになるのを見届けたら、そのあとは、前へ進めるだろう。私も、新しい恋を見つけるのだ。そう思っていたんだけど。……あの様子では、前途多難かも。康子は自室に戻るとドアにもたれかかり、ため息をついた。どうにかしてあげたい。しかし、今のところ私にできることは何もない。康子は、千穂子の微笑みを思い出していた。彼女は、酸いも甘いも噛み分けた大人の女だ。つまり私は子供だし、邪魔なのだ。だから、私は自分自身のことをしよう。あの女性ひとは、最適解を知っている。あるいは、最適解を模索している。


 薫風香る頃は通り過ぎたが、梅雨の足音を聞くにはまだ少し早い日曜日の早朝であった。千穂子は、甥の自宅で目を覚ました。昨日、中原レディースクリニックを出ると、真っ直ぐ自宅へ戻った。空になった弁当箱と水筒を洗った後、洗濯をして、掃除をした。洗濯物を室内に干すと、甥の自宅へと向かったのだ。

 朝食には些か早すぎる気がしなくもないが、食事の支度をする。

「おはよう……」

 茂が、欠伸を噛み殺しながら台所へ入って来た。二人は黙って朝食を食べる。こんな風に、誰かと一緒に朝食を摂るなんて、何年振りのことだろう。千穂子は思った。

「ごちそうさま」

 そう言って茂が台所から出て行くと、千穂子は食器を洗って片付ける。

 千穂子がリビングに入ると、キャンバスに向かう茂の後ろ姿が見えた。この子は、だんだん父親に似てくる。あの、勲くんに。移動して横顔を見てみる。刹那、時間が巻き戻ったかのような錯覚に陥る。そこにいるのは、若き日の高木勲であるかのような。しかし、今千穂子の目の前にいるのは、彼の忘れ形見の茂なのだ。

 真希子の顔を少しだけ見て、千穂子は逃げ場へと向かうため、高木家を辞した。

 玄関の戸を閉める音で、茂は我に返った。そうだ。お袋に朝飯用意してやらないと。台所へ行き、冷蔵庫を開ける。先程伯母が作った残り物が、タッパーの中に入っていた。これでいいか。お袋も、変わった物が食べたいだろうし。……俺が作るのって、基本的には豪快男飯だからな。人並みに料理はするが、けして得意なわけではない。

 結局、お目付け役が来ることはなかった。事情を聞いた涼雅が、辞退したからである。曰く、僕は構わないけど、それって、茂さんを信用してないってことだよね?と返したそうだ。これには涼葉と航一も閉口したようで、お目付け役云々の話は白紙に戻った。グッジョブ、涼雅!茂は内心、ガッツポーズをした。

 涼雅は、時折予知夢を見る。だから、結末を知っていたに過ぎない。今のところ涼雅が見た夢の記録、古賀谷律人の『備忘録』の存在を知っているのは、航一だけだ。それを書いている、涼雅本人以外では。茂がその存在を知るのは、もう少し先の事になるはずなのである。しかし、それはまた別の話だ。

 だが。一応、茂は反省していた。確かに、他人ひとの恋路を邪魔するなんて、悪趣味だ。その上、大人気ない。だから、邪魔はしないが応援もしないことにしたのだ。つまり、俺は何もせずに見ているだけだ。さすがに、師匠も弁えていることだろうから。

 母親に朝食を摂らせた後、片付けを済ませ、一息ついた。またかよ、勘弁してくれ。茂の鋭い感覚が、その人の気配を捉えた。呼び鈴の音がする。……やれやれ。茂は重い腰を上げて玄関まで出ると解錠し、戸を開けた。向こうから来たなら、仕方がない。不可抗力だ。

「またアンタか」

 そう言うと、茂は露骨に嫌そうな顔をして見せた。

「まあ、そう言うなよ。今、いいか?」

 その人、即ち大迫俊哉は訊ねた。

「……いいですよ」

 庭の見える縁側へ案内すると、座布団を差し出し、

「少しそこで待っててください。お茶、淹れて来ます」

 と、前回と同じことを繰り返す。ハーブティーを淹れて縁側へ運ぶと、自分も座布団を持って来て座った。

「それで?今日は何」

 茂は、うんざりしたように言い放つ。俊哉は黒水晶のような瞳を茂に向けて、訊ねた。

「お前、千穂子さんが一人になりたい時に行く場所を知らないか?昨日は会えなかったんだ。いつもの場所で」

 だからさぁ、そんな目で見るなよ。決意が鈍るだろ……。つい今しがた、決心したばかりなのに。邪魔はしないが応援もしないと。

「そんな目で見るなよ」

 茂は言った。肩入れしたくなるから、止めろ。とは、内心に留めておく。そして、こう続けた。

「俺は、伯母の行動範囲をすべて把握してるわけじゃない」

「そこまでは期待してないよ。知ってる範囲でいい。教えてくれないか」

 二人の視線が絡み合う。しばしの沈黙が網のように、しなやかに舞い降りた。硬い網を破り、茂が口を開く。

「俺の知ってる範囲では、中原レディースクリニックと……」

 俊哉が慌てて口を挟む。

「そこは、絶対に俺が入れない場所じゃないか」

「だな。だから、昨日は会えなかったんだよ。今日はそこには行ってないんじゃないかな」

 茂は心当たりのある場所を数ヶ所、俊哉に教えた。

「ありがとう。でも、どうして中原レディースクリニックなんだ?」

「あそこの院長が、伯母の友達なんだよ。伯母は基本的には一人で過ごすのが苦にならないひとだけど、誰かに話を聞いて欲しい時だってあるはずだ。そういう時に行くのは、あそこしかない」

 茂はハーブティーを飲むと、ゆっくり息を吐いた。俊哉が訊ねる。

「お前は知ってたのか?昨日、千穂子さんが中原レディースクリニックに行ってたってこと」

「他に行ける場所がない。他に頼れる人がいない」

 再び、沈黙が舞い降りて来る。茂は一人、打ちひしがれていた。あれほど親身になってくれた、たった一人の身内。それなのに、自分は彼女のためにしてやれることが、何一つないのだ。今だって、月に一度は“作りすぎたから”と言って、総菜や菓子を沢山持って来てくれる。もう、充分だから。充分過ぎるほどだから。これからは、自分のために生きて欲しい。そう思う俺は、身勝手なのだろうか。

 あるいは、“これからは、自分のために生きて欲しい”は奇麗事で、本音はして貰うだけして貰って、要らなくなったから捨ててしまいたいだけなのではないか。もしくは、俺は伯母から生きがいを奪おうとしてるのかもしれないし、そうではないのかもしれない。茂はわからなくなる。何が。どうすることが。津山千穂子の本当の意味での幸せなのか、が。結局、それを知っているのは、中原倫子だけだ。その事実を思い知るたび、茂は完膚無き程に叩きのめされた、悲しい気持ちになる。

「アンタはさ、伯母とどういう感じになりたいんだ?公衆便所セフレとか、本命ができるまでの仮のカノジョとか、いろいろあるだろ?」

 半ば自暴自棄になって、茂は訊ねた。

「それは、ほぼ同義語だろ……」

 俊哉は呆れたように言った。

「俺は、あの女性ひとを妻にしたい」

 改まって居住まいを正し、澄みきった漆黒の瞳ではっきりと俊哉は告げる。本気マジか!茂は思った。しかし、それは概ね予想された返答であった。

「好きにしなよ。もう邪魔はしないから。でも、応援もしない。できないんだ。つまり、最後に決めるのはあの女性ひとだから」

「ありがとう。認めてくれて、嬉しいよ」

 俊哉は胸をなで下ろした。

「殴り飛ばされるんじゃないかと、ひやひやしたよ。てか、お前。邪魔しようとしてたのか?」

「そのつもりだったんだけどさ。さすがに、あの連中に締め上げられたら、断念せざるを得ないよ」

 茂は正直に白状した。

「締め上げ……。月曜日に“モグラの根城”で会った、あの時だな。あの連中に締め上げられたら、ひとたまりもないか。お前でも」

 俊哉は苦笑する。茂は、

「あの連中と言うより、須賀航一に、だがな」

 と、吐き捨てた。


 時田涼雅は、古賀谷律人という偽名を使って書いている『備忘録』をそっと閉じた。僕は、自分に与えられた使命を果たさなければならない。どこの国のどんな家に生まれて、どんな親に育てられるのか。あるいは、男に生まれるのか、女に生まれるのか。それは自分の意思で決めることは出来ないし、選べない。それを宿命と人は呼ぶ。

 しかし。運命は、その時々のその人の選択によって決まるのだ。だから、簡単に変えることが出来る。ほとんどの場合、変えてしまっても構わないものなのだが、中には変えてはならない運命も存在する。その変えてはならない運命が、変わってしまわないように。誰かの手で、変えられてしまわないように。監視するのが、僕に与えられた使命の一つだ。必要であれば、調整もする。僕の使命は、僕の宿命なのだ。

 情けは人の為ならず、というのは真実である。稀に、人に親切にして甘やかすのはその人のためにならない、の意で誤って使われているのを見かけるが、思い違いも甚だしい。津山先生は、あの二人のどちらと結婚しても幸せになれる。それは、これまで自分以外の誰かのために生きてきた彼女への天からの贈り物のようなものなのだ。だから、本当のところ、調整なんかする必要はない。けど。茂さんにとって、もう一人の彼は、大迫先生よりも遥かに疎ましい人物だ。それよりも、もっと過酷な確定された未来がある。津山先生に選ばれなかった場合、大迫先生のその後の人生は薄幸なものになってしまう。そして、あまり考えたくない事実だが、茂さんの母親はけして先が長くはない。もう一人の彼が選ばれてしまうと、茂さんの母親は、姉の結婚を知らずに死出の旅へと旅立たなければならないのだ。心残りを胸に抱えたままでの永眠は、辛かろう。なので、今回は例外的に大迫先生に有利になるように調整してみた。それだけだ。もう一人の彼は、鋼のメンタルの持ち主だ。静かに、強く生きて行くだろう。心と身体で、失恋の痛みに耐えながら。

 涼雅は、自身の哀しい宿命について思いを馳せた。僕は何度生まれ変わっても、同じ使命を背負うことになる。


『夏目友人帳』緑川ゆき氏による漫画作品。

『BANANA FISH』吉田秋生氏による漫画作品。

アニメ化されたことがあるので、ご存じの方も多いと思います。どちらも素敵な作品です。


【参考文献】

『「ことば」の心理テクニック』 富田隆(監修) 永岡書店


僕に心理学の知識がないため、参考にさせていただきました。


なお、”他人ひとの恋路を邪魔するヤツは、馬に蹴られて死んじまえ”についてですが、これは昔、三十年ほど前に僕が勤めていた老人ホームに入居しておられた方が歌っておられた歌です。なにぶん昔の事なので、その曲名などの詳細は不明です。前後の歌詞がわかれば調べることもできたのでしょうが、僕が聞いて知っているのはこの部分のみです。もしかしたらその方の自作かもしれません。至らなくて、申し訳ありません。

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