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追跡  作者: 青柳寛之
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第十三章 人喰い屋敷

 須賀航一は、迷った末に一つの結論を出した。中間試験が終わって、安堵していた日曜日の朝だ。これはやはり、涼葉に声をかけるべきだ。高木と二人で潜入するには、あまりにも危険すぎる。それに。高木は、けして嘘はつかない。けど。絶対に本当のことも言わない。……ような気がする。信用していないわけではないのだが、何かが引っ掛かるのだ。

 学校では話せないので、電話を掛ける。向かいの家だ。出向いて行き、会って話せば良いのかもしれなかった。しかし、これが涼雅に知れると……。マズいことになるかもな。

『涼葉を危険な目に遭わせたくないから、なるべく俺に連絡しろ』

 と、高木は言う。

『高木くんを巻き込まないで!』

 と、涼葉は言う。あちらを立てればこちらが立たずで、困ってしまうが……。気合の入ったシスコンの涼雅は、俺が涼葉に声をかけたことを知ったら、高木に知らせる可能性がある。それだけは、避けたい。いよいよ、黒死蝶の拠点の一つに潜入するのだから。

「須賀くん?やっと私の出番なのね」

 涼葉の緊張した声が聞こえてくる。

「ああ、そうだ。次の土曜日に、巷では“人喰い屋敷”と呼ばれている病院の廃墟に潜入する。午前9時に現地集合だ」

「……土曜日ね?わかったわ」

 涼葉は手短に答えると、電話を切った。


 晩春が過ぎ、初夏を迎えようとしていた。涼葉は航一の指示に従い、“人喰い屋敷”へと向かった。春の香りを残した初夏の風が吹く。

「待ってたぜ」

 先に到着していた航一が、ニヒルに笑う。須賀くんが先に来てるなんて、珍しいこともあるものね。

「そんなに待たせてないでしょ。五分前だもの」

 そう言いつつ、腕時計の文字盤を見せた。時計の針は、午前8時55分をきっちりと指し示している。涼葉は、“人喰い屋敷”を見上げた。

「市内では割と有名な心霊スポットじゃないの。ここに、何があるの?」

「この建物自体は多分、蓋でしかない。問題は、地下に何があるかだ」

 航一は、急に神妙な顔になる。涼葉は彼の次の言葉を待つ。

「先日、下調べも兼ねてこの建物の中に入ってみた」

「一人で入ったの?危ないことしないで!生兵法は、怪我のもとなんだから」

 叱責すると同時に航一を睨んだ涼葉に、すぐさま彼は反駁する。

「虎穴に入らずんば虎児を得ず、という言葉を知らねぇのかよ。お前は」

 これでも、護身術の基礎は学んでいるのだが。航一はため息をついた。お前の言いたいことは、わかってる。“美波を泣かさないで!”だよな?俺の体得している護身術など、お前の目には頼りなく映ることだろう。けど。真相を暴くためなら、危険を顧みないのが探偵の性だ。

「中はまあ……。外観とさほど変わらない、ただの廃墟さ。この病院は、倒産してからすぐに売りに出された。買い手はあったんだが、現在の所有者がここを改装、あるいは解体する気配はない。何年も放置されたままだ」

「じゃあ、何のために買ったのか、わからないじゃない」

 涼葉は呆れたように言った。

「放置しておく必要があったのさ。有名な心霊スポットにするためにね。いろいろと便利に利用するには、そういう手間のかかる下準備が必要だったんだ。わざわざ心霊スポットに足を運ぶ物好きは、さほど多くないからな」

 よほどのオカルト好きでもない限りは。航一は、胸中でこう付け加えた。暇を持て余した連中が日ごと夜ごと集まり、怪談じみた信憑性のない噂話を繰り返す、仮想空間の中での交流。そういう場が実在するのだ。中には、実際に出向いてみようという“馬鹿”もいるだろう。その“馬鹿”を利用して噂を広めるのは、さほど難しくはない。

「そして、現在のここの所有者は、黒死蝶の幹部なんだ。彼はここと、あと二ヶ所ほど、利用価値のほぼ無い不動産を同時期に購入していることもわかった。つまり黒死蝶の拠点は、最低三ヶ所はある、ということだ。この市内ではな」

「そんなに?」

 涼葉は驚く。航一は答える。

「恐らく、リスクを分散するために」

 航一の顔が、急に険しくなった。涼葉は静かに息を吐いた。

「行くぞ」

 航一が“人喰い屋敷”に向かって歩き出す。涼葉は黙って後に続く。

「ちょっと、あれ」

 涼葉が目敏く入り口の監視カメラを見つけ、航一を引き止める。

「あれはダミーだ。気にするな」

「あれがダミーだとしたら、誰でもここへ出入りすることは可能だよね?わざわざ心霊スポットに足を運ぶ物好きは多くないとしても、中にはいるでしょ?特に夏場は。肝試しとかに、普通に使われそうな気もするけど……」

「その“馬鹿”を利用して、噂を広める。その結果、心霊スポットが一つ出来上がる、というわけさ」

 そう言いながら、航一は観音開きの硝子の扉を開けた。さて。この巨大な蓋の中身は何だ?何が隠されてる?

 一歩足を踏み入れると、閉じられたカーテンの隙間から陽の光が差し込み、夕闇を濃くしたような薄暗がりの中で埃が宙を舞っているのが見えた。

「須賀くんって、いつもこうよね。いつの間にか大事なことを調べ上げて、しれっと手柄を持って行くの。ねえ。どうやって調べてるの?」

「企業機密だから、どんなに睨まれても教えられないな」

 航一の言うことは、もっともであった。だが、涼葉も負けてはいない。

「企業じゃなくて、個人でしょ」

「屁理屈言うなよ」

 涼葉は、過去に繰り返した押し問答を思い出していた。ここで、“屁って何よ。ただの理屈よ”って言っても、返ってくるのは……。悔しいことこの上ないが、口では須賀航一には勝てない。口……。ではなく、正確には頭の回転の速さだが。涼葉は、それ以上の追及を諦めた。

「お前に話しておかなきゃならないことが、一つある」

「何を?」

 航一の顔が強張っていたので、涼葉も真顔になる。航一の表情は、戸惑いを隠していない。話すべきか、話さざるべきか。しばし迷った後、

「追って話すよ。いきなりここで会うこともないだろうし」

 と、航一はため息をついた。いきなりここで“会う”?……一体、誰に。

「ねえ。それ、絶ッ対に嫌な記憶の相手だよね」

 涼葉は確認のために訊ねた。

「まあな。向こうもお前に対して、嫌な記憶しかないだろうけど」

 航一は微かに口角を片方だけ上げて笑った。やっぱり。涼葉は思った。誰よ、それは!心当たりがありすぎて、どれのことやら、さっぱりわからない。

「ねえ、どこから地下に行くの。地階なんてないよ?」

 壁に貼られたプラスチック製の案内板を見ながら、涼葉が言った。

「それに書いてあるわけないだろ。もともと地階があったわけじゃないんだから」

 航一は答えた。そう。もともと地階なんてものが、あったわけじゃない。後から造ったんだろうから。航一がそのように伝えると、涼葉は呆れて、

「それ、耐震性とか強度とか、大丈夫なの?」

 と、ため息交じりに言った。

「須賀くん、“現在の所有者がここを改装、あるいは解体する気配はない”って言ったよね?それってつまり、専門の業者が請けた証跡はないってことでしょ。どうやって調べてるのかは知らないけど、須賀くんがそれを調べてないとは思えないし。……本当に大丈夫?」

 涼葉は、念を押すように訊ねる。普段は銃を持った相手にすら果敢に立ち向かうくせに、妙なところで慎重なんだよな。航一は思った。

「目的のためなら手段を択ばないカルト教団が、律義に建築基準法を守っているとは思えないが……。まあ、大丈夫だろう」

 まだ怪訝な表情の涼葉に、航一は言った。

「恐らく、彼らもここを頻繁にではないにせよ、利用している。だから、大丈夫だろう。エレベーターのドア、開けられるか?」

 先日この建物の中に入ってみたのは、一階の床の強度、あるいは硬さに違いがあるかどうかを調べるためであった。くまなく調べてみたが、床の硬さに違いは見られなかった。地階を後から造ったのであれば、下に降りるための隠し階段の入り口は、当然塞がれているはずなのだ。そのため、どうしてもその部分の床の強度は低くなるはずで……。夏場、肝試しの場として侵入してきた部外者は、電気が通っていないことを前提として訪れているから、当然のように階段を使用する。それは、廃墟である以上、電気が通っているはずはない、という思い込みからの行動なのだ。もしや、と思い試してみたが、やはり電気は通ってはいなかった。水道の蛇口をひねってみたが、春に草木が芽吹くがごとく、当たり前のように水も出ない。ということは……。

 涼葉がエレベーターのドアをこじ開けた。航一はエレベーターの床の強度を調べる。やはりね。

「この床、持ち上げてみろ。ここから地下へ行けるはずさ」

 は?何言ってんの?と、涼葉は表情で抗議した。

「いいから、やってみろ。簡単に持ち上げられるはずだ」

 涼葉がその言葉に渋々従うと、床の下から大きなマンホールの蓋が現れた。ご丁寧に、施錠がしてある。傍らに、鍵の束とメモ用紙が見えた。涼葉がメモ用紙に書かれた数字を読み上げる。

「三百二十五……」

「三桁か。その鍵の方はどうなってる?」

 涼葉は鍵束を手に取り、かなりの速さで鍵を滑らせて見ている。この様子では、普通の人には鍵に刻まれている数字を読み取ることは不可能であろう。優れた動体視力の持ち主である涼葉だからこそ、できる芸当であった。銃を構えた相手の間合いに臆することなく入って行けるのは、弾丸の動きが見えるからだ。曰く、スローモーションにしか見えないのだそうだ。恐ろしい女だよ、お前は。航一は内心ため息をつく。お前が敵じゃなくて、本当に良かったぜ。

「こっちは、全部四桁なんだけど」

 確認を終えた涼葉が言った。

「なるほど。それなら、鍵の番号は9・4・2・5だな」

 航一が言うと、涼葉はすぐさま該当する鍵を探す。

「これね。九千四百二十五番」

 差し出された鍵を受け取り、航一が解錠する。マンホールの蓋を開けながら、涼葉が訊ねた。

「どうして解ったの?」

「“べき乗”さ。こんな簡単ななぞなぞが解けないようじゃ、先が思いやられるな」

「頭脳労働は須賀くんに任せたから。……べき乗って、何?」

 そこからかよ!航一は呆れた。説明するのも面倒だ。

「同じ数、あるいは同じ文字を掛けることさ。3のべき乗は9、2のべき乗は4、5のべき乗は25。だから、九千四百二十五番」

「それは“累乗”じゃないの?」

 涼葉が訂正すると、

「結果を“べき”ともいうんだ。どちらも間違いじゃない。一つ賢くなっただろ」

 航一はマンホールの中へと降りていく。涼葉もあとへ続く。階段じゃなくて、梯子だったのか。場所を取らなくて良いが、少し不便だな。そんなことを考えながら降りていくと、辿り着いた先には、長く先の見えない一本道があった。振り向くと今しがた降りてきた梯子があり、前へ進むことしか出来ない構造になっている。

「当然行くんでしょ?」

 涼葉が先へと進み始めた。航一があとへ続く。

「懐中電灯だ。使え」

 航一が差し出すと、涼葉はそれを受け取り、

「須賀くんのポケットからは、何が出てくるかわからないわね」

 と、笑った。今日は私服なので、尚更だ。シャツの裾を綿パンの中に突っ込んではいない。作業用のベルトを締めても見た目には分からないので、小道具の隠し場所を増やせる。ボイスレコーダー、懐中電灯、ルーペ、軍手、アーミーナイフ、スタンガン……。その程度の物なら、この男は普段から平気で持ち歩いている。今日はこの他に、どんな凶器が隠されているのやら。指向性の集音マイクとか、盗聴探知機とか?多分、そんなところだ。それにしても。容易に想像できてしまう私って一体……。涼葉は内心ため息をつく。スタンガンは違法じゃないけど、アーミーナイフは銃刀法違反になるんじゃないかな。

 銃刀法。一般的にはそのように省略されるが、正式名称は“銃砲刀剣類所持等取締法”という。これにより、銃砲刀剣類の所持、輸入、譲渡しや譲受が、原則として禁止される。また、これを所持するためには、都道府県公安委員会の許可が必要だ。モノがモノなだけに、許可の条件が細かく規定されている。確か、十八歳未満の者には、許可は認められないはずなのだが。このっ……、犯罪スレスレ男!人のこと、言えないじゃない。私の武器は、この腕と脚だけなのに。バレなきゃいいってものじゃないからね?

 そもそも君は、スタンガンでもモデルガンでも、入手したら改造して出力を上げないと気が済まない性分じゃないの!その出力を上げた武器を、両手に持つ。遠距離攻撃の右と、近距離攻撃の左。素人相手なら、充分過ぎるほどだ。腕っぷしがないのを、機械技術で補っている電脳少年。そっちの方が、よほど恐ろしい。

「どうした?」

 航一が訊ねるので、涼葉は正直に答える。

「須賀くんの方が私よりずっと危険なのに、野放しにされてるのが納得できないなぁって思っただけよ」

「知恵は力、知識は財産だ。知恵と知識を有効活用するのは、ひ弱な俺には必要不可欠なんだよ。それに、俺は絶体絶命の場面でしか、武器を使わない。鍛え上げた全身が凶器のお前は、いつでも技を繰り出せるだろ」

 さらりと答える航一の横顔に、涼葉がますます立腹したのは言うまでもない。ひ弱?どの口が言うのよ!だが、拗ねていても仕方がないので、用心深く先へ進むことにする。

「これは……」

 一本道の両側に、分厚いファイルの放置された棚が続いている。それらは例外なく、埃という名の衣装を身に纏っていた。ファイルの背表紙には、ゼロから始まる十一桁の番号が書かれている。

 航一は軍手をしてファイルを手に取ってみた。ほらね。やっぱり、出て来るんじゃない。涼葉はわざとらしく咳払いをした。

「カルテみたいだな。名前の記入欄に、十一桁の数字が書いてあるってのが“極秘です”って雰囲気を醸し出してはいるが、これ自体は大事な物じゃないんだろう」

「そうね。大事な物なら、こんな所に放置してあるはずはないし」

 それらが、長時間放置されているのであろうことは、想像に難くない。

「あるいは、そのように見せかけているのかもしれないが」

「どうして?」

 涼葉が訊ねると、航一は落ち着いた口調で、

「可能性としては、充分にあり得る」

 と答えた。

「でも、これ見てよ。生年月日の記入欄。昭和一桁とかだよ?生きている可能性の方が、低いと思うんだけど」

「生年月日を偽装して書かれている可能性もある」

 航一はファイルを元の場所へ戻すと、黙って歩き出した。一本道は続いている。両側には、ファイルの放置された棚。時折立ち止まっては、ファイルの中身を確認する。いずれも名前の記入欄には十一桁の数字、生年月日の記入欄の年号は昭和であった。時間の感覚が麻痺し始めた頃、足元に再びマンホールの蓋が現れた。そこで行き止まりになっている。今度は、下に降りることしか出来ない構造になっているというわけね……。こんな狭くて、頼りになるのは懐中電灯の灯りだけという暗い場所に、須賀くんと二人きりっていうのは……。かなり嫌なんですけど?涼葉は思った。否。どんな場所であれ、この状況は、涼葉にとって苦行以外の何物でもなかった。

「そんなに露骨に落胆するなよ。……これを見てみろ」

 航一が前方の壁を指し示した。憎らしい幼馴染の指先は、縦三つ、横三つに並んだ正方形のパネルを指していた。壁と同じ色なので、非常にわかりにくい。

「これが何なの?」

「少なくとも、前進出来なくはない、ということさ。まずは、下に降りてみようぜ。話はそれからだ。多分、下に降りても構造は同じなんだろうけどな」

 そう言うと、航一は階下に降り始めた。涼葉もあとへ続く。

 地下二階へ降りてみると、妙な違和感を感じた。

「さっきと角度が違うよね?」

 涼葉が率直な疑問を口にすると、航一は、

「よくわかったな。つまり、地下二階は地下一階の真下にあるわけではない、ということさ」

 と、答えた。

「恐らく、下の階へ降りるごとに少しずつ角度が変えてあるはずだ。そうすることで上の建物を蓋にしつつ、地階を有効活用したんだろう」

「有効活用ねぇ……。今のところ、ただの物置き小屋って感じじゃない?」

「それは、まだわからない」

 またしても、長く先の見えない一本道が眼前にあり、振り向くと今しがた降りてきた梯子があった。涼葉の言うようにここが物置き小屋だとすれば、この地下牢ダンジョンのような構造が何度も繰り返されるはずはないし、そもそもこの角度はおかしい。

「一つだけ言えるのは、まだ何度かこの構造が繰り返される、ということだな」

 心霊スポット“人喰い屋敷”の作り方について考察してみると、自ずとわかる。

「なぜこの病院が“人喰い屋敷”と呼ばれているのかは、知っているな?」

 当然知っているものとして、話を進める。

「確か、入って行った人が出て来るところを目撃されたことがないから、だったわね」

 オカルトに興味のない涼葉の返答は、些か自信がなさそうであった。

「その認識で正しいよ。玄関から入って、地階へ降りる。そして、地下を通って上にある建物の裏側へ抜ける。恐らくこれが“人喰い屋敷”の仕掛けなんだろう。目的がそれだけなら、地階をいくつも造る必要はないから、もっと大きく角度を変えなければならないんだ。地下何階まであるかはわからないが、下へ降りるごとに少しずつ角度を変えて、かなり下の方に上へ昇る梯子があるはずさ」

 地下二階を通り過ぎて、地下三階へ到着した。またしても足元にはマンホールの蓋、前方の壁にはお行儀良く並んだ九つの正方形のパネル。一先ずはそれを無視して、降りてきたわけだが。

「本当に、少しずつ角度が変えてある……」

 涼葉が心底感心したように呟いた。

「で、いつまでこれが続くわけ?」

「それは、わからないって言ってるだろ」

 航一はうんざりした様子で答えた。お前、そんなに俺が嫌いか?とはいえ、航一もけして涼葉に好かれたいわけではないので、黙っておく。但し、その強さだけなら誰よりも信頼できる。強さだけなら、誰よりも。

 長く先の見えない一本道の奥から、ほのかに灯りが見える。先程までは、両側に埃に塗れたファイルが鎮座した棚が続いていたが……。今度は何だ?

「何、これ」

 先を歩いていた涼葉が、灯りの前で立ち止まる。追いついた航一は思った。本当に“何、これ”だな。二人の目の前には、魚が泳ぐ水槽があった。

「鰺だけか。ここにいるのは」

 航一は、確認するように涼葉に訊ねた。

「こっちは鰯」

 涼葉は、隣の水槽を指し示して言った。返答になってねぇよ、いつものことだけどな。魚の群れが泳ぐ水槽を見て、ある不自然さに気付く。

「なあ。こいつら、胸鰭が少し大きくないか?」

「そっちは、スーパーの鰺よりも胸鰭が少し大きい。こっちの鰯は、目が若干飛び出てる。よく見ないとわからないけどね」

 涼葉が即答する。さすが、時田家の台所を長年預かって来ただけのことはある。敢えて、家庭的という言葉は使わない。そのワードを使うと、涼葉は壮絶に機嫌が悪くなるのだ。他の女子には普通に誉めポイントなのだが、涼葉にとっては怒りポイントなのである。

『いいお嫁さんになれるよ』

『いいお母さんになれるよ』

『男ウケ、狙ってんの?バッカじゃない?』

 涼葉にとって、家事は“仕事”だ。ただ“仕事”をしているだけなのに、何も知らない周囲の人間は、無責任にそんな言葉を投げて寄越す。男ウケ云々の言葉には“アンタみたいな美人、努力なんかしなくても男はいくらでも寄って来るじゃないの”という、辛辣な皮肉が言外に込められている。結果、痛い目を見たヤツがかなりいることを、航一は知っている。こういう時の涼葉は、たとえ相手が女であっても容赦はしない。

 本人は“一応手加減したんだけど”と言ってはいた。……猛獣の手加減は、人間の即死なんだよ。極端な喩えだが、鍛え抜かれた肉体から繰り出される技を初心者が受けるとは、そういうことなのだ。

「こいつら生きてるってことは、餌、貰ってんだな」

 航一は呟いた。つまり、ここに頻繁に訪れている何者かがいる、ということか……。それは、今日この場所で、涼葉と“あの男”が鉢合わせしてしまう可能性はゼロではないことを示している。涼葉のことだ。名前までは覚えてはいないだろう。けど。あの時の涼葉は、明らかに彼に対して殺意があった。それだけは、実にはっきりしている。やはり、ここで話しておいた方が良いのかもしれない。しかし、彼の話をすると涼葉は必ず“法律の限界”について、疑問をぶちまける。過去に何度も繰り返した議論が繰り返されるのは、目に見えている。それは“報復は正義”と断言するのに似ていなくもなかった。報復は正義ではない。だが、涼葉の言い分が、全て誤りだとも思えない。だから、なるべくこの話はしたくないんだ。どうする?航一は迷った。

 迷った末、結局ここでは話さないことにした。こういうのは、下っ端の仕事なんだろうし。てか、今ここで、それについての大論争を繰り返している暇はない。

 時間が惜しいので、先を急ぐ。急ぎつつ、周囲の観察も怠らない。地下一階と二階には埃を被ったファイル、地下三階には謎の水槽。中を泳いでいるのは、体の一部に変異が見られる魚。魚というのが、どうにも腑に落ちない。医学や心理学などの分野で実験動物として広く用いられるのは、赤毛猿なはずなのだが。あるいは、魚でなければならない理由でもあるのか……。それとも、黒死蝶の幹部の中にはヒンドゥー教の信者でもいるのか?確かヒンドゥー教は、赤毛猿を宗教上の理由で保護しているはずで。……意外なことに、黒死蝶は従来信仰していた宗教からの改宗を信者に強制はしていない。それはそうだろう。目的のためなら手段を選ばないカルト教団は、宗教法人という名の“別の何か”なのだから。活動資金の調達に支障が出なければ、そのような瑣末なことは、どうでも良いのだろう。

 黒死蝶の幹部は、薬学の研究者や医療関係者が大半を占めている。この事実は、黒死蝶の目的を如実に表している。……俺の推測の域を出ないが、恐らく間違ってはいない。父親が製薬会社の研究員で息子が臨床研修医の和泉父子はまさにそれに該当するし、“人喰い屋敷”の現在の所有者は和泉聡一郎……、和泉翔輝の父親なのだ。……。

 涼葉の小さく短い悲鳴が、航一の思考を中断させた。

「今度は何だ」

「変色した秋刀魚、だと思う。色はグロテスクだけど、体はスーパーで見る秋刀魚と同じだから」

「一部変形の次は、変色かよ」

 航一は神経質そうな細長い指で、寝癖のなおりきっていない頭を掻いた。俺の推測が誤っているか、黒死蝶という組織が迷走しているとしか思えない。恐らくここで何某かの薬物の研究をしているのか、あるいは“していた”のか、そのどちらかであろう黒死蝶の思惑が見えてこない。取り敢えず、降りられるところまで降りてみるしかない。

 これらの他にも、様々な奇妙な光景を見た。魚の他には、昆虫類が飼育されていた。大水青蛾と女郎蜘蛛が、同じ空間に閉じ込められている。航一は違和感を覚えた。女郎蜘蛛にとって、大水青蛾は捕食対象である。しかし、造網性クモ類の中でも最も複雑だとされる網が、一つもなかった。彼らは互いの存在など少しも気にせず、それぞれの生活を営んでいる。これは、明らかに異常事態だ。涼葉は少々飽きてきたようで、悠長に欠伸などしている。

「おい。ここが敵地のど真ん中だということを、忘れるな」

 航一は、険しい表情で言った。涼葉に意見を求めたところで、まともな返答は期待できないことは重々承知のうえで、訊ねてみる。

「妙だと思わないか?」

「何が?」

「捕食する側とされる側が同じ空間で飼育されている、ということがさ」

 涼葉は少し考えてから、

「そのように品種改良されている、とかじゃないの?」

 と、答えた。品種改良、か。その発想はなかったな。航一は思った。食餌を必要としないように改良されていると仮定した場合、この状況に一応は説明がつく。……何のために?そもそも、食餌を必要としないように改良されているって、どうなんだ?あるいは、何らかの副作用でそのように変化したのか……。副作用。そう考えた方が、自然な気がする。

 地下三階から地下四階へと降りる。その角度から、航一は“あること”に気付く。俺の予測が正しければ、地下五階の突き当りに、上へ昇るための梯子があるはずだ。

 地下四階には、人の手を加えられたと思しき植物と鳥類が、奇妙な姿を曝していた。

「見て。青い薔薇」

 涼葉が顔をほころばせる。

「典型的な遺伝子組み換え生物だな」

 女性の夢を壊すようで申し訳ないが、航一は切って捨てた。申し訳ないのだが。それが事実だし、それが全てだ。……遺伝子組み換え生物?

「涼葉、急ごう。この先に何があるのかが、気になる」

 周囲の観察を怠らない程度に先を急ぎ、突き当りまで来た。二人の足元には、マンホールの蓋がある。前方の壁にはお行儀良く並んだ九つの正方形のパネル。この構造は、地下五階で終わるはずだ。

 地下五階まで来た。吸い込まれそうな暗闇が眼前にあり、右を向くとエレベーターの扉がある。前へ進むことしか出来ない構造にはなってはいない。長く先の見えない一本道はこれまでと同様に存在する。

「これを見る限り、地下八階まであるみたいね。どうする?」

 涼葉は航一に訊ねた。頭脳労働は全部丸投げだ。てか、今何時なのよ。そんなことが気になった涼葉が時計を見ると、午後1時近くになっていた。

「もうこんな時間なんだけど」

 腕時計の文字盤を、航一にも見えるように傾けて指さす。

「先に突き当りまで進もう。そこに上へ昇るための梯子があるはずだ」

 航一は答えた。この底なし胃袋で推理バカの幼馴染は、空腹を満たすことよりも謎を解き明かすことの方が優先順位が上なのだということを、忘れていたわ……。涼葉は諦めて航一の指示に従うことにした。

「それに、途中に何があるのかも、気になる。必ず“何か”はあるはずだ。今のところ、何もないように見えるけどな」

 確かに、不気味なほど何もなかった。しかし、突然“それ”は現れた。右側の、本来壁でなければならない場所に、抜け道がある。それはさほど長くはなく、ほんの数メートル先にドアが見えた。

「中に何があるのかは、非常に気になるが」

「今は、突き当りを優先するのよね」

 涼葉は、悪戯っぽく笑いながら確認する。

「そうだ」

 航一が短く答える。

 やはりね。突き当りまで進むと、目の前に上へ昇るための梯子があった。だが。右を見るとトロッコがあり、その先はかなり長い一本道になっているようで、懐中電灯の光は届かず、闇に吸い込まれて消えた。

「上ってみよう。俺の推測が間違っていなければ、建物の裏側にある職員専用出入口付近に出られるはずだ」

 航一が梯子を上り始めると、涼葉があとへ続いた。上り切った先には、施錠されたマンホールの蓋があった。四桁の数字を入力すると、解錠される仕組みになっているようだ。そして、ヒントを書き記した物は見当たらなかった。ということは……。航一は迷わず5・2・4・9と入力した。入り口とは逆の順序にしてみたのだ。いくらなんでも、全く同じということはあるまい。

「あーあ、娑婆の空気は美味しいわぁ」

 外に出ると、涼葉が大きく伸びをしながら言った。

「蓋は開けたままにしておけよ。一度閉めると自動的に施錠される仕組みになってるかもしれないからな」

「わかった」

 涼葉は短く答えてから、

「それで、このドアがかつての職員専用出入口ってわけね?」

 確認するように、近くのドアを開けてみる。中には、古い下駄箱が置かれたままになっていた。よく見ると所々に錆が浮き出ているその下駄箱に、ボロ靴が何足か放置されている。

「ここは、備品込みで売りに出されたのかな」

 涼葉が訊ねた。倒産してからすぐに売りに出されたのであれば、恐らく、備品を処分する金などなかったはずだ。

「さあな」

 航一が投げやりに答える。涼葉は娑婆に出られたことが嬉しいらしく、周囲を見回す。

「この階段は?」

 涼葉が指し示した先には、まごう方もない螺旋階段があった。

「それは、三階の住居に直通する階段だ。ここは一階が外来で、二階に入院施設が10床ほどあって、三階が院長家族の住まいになってたんだ。だから、正確には診療所だ。病院ではなく」

「診療所と病院って、どう違うの?」

「医療機関のうち病床数が19床以下のものが診療所。病床数が20床以上の医療機関だけが病院と称することが出来るんだよ。ちなみに、病床がない診療所は無床診療所で、病床があるところは有床診療所というんだ。だから、ここが倒産する前に掲げてた看板は“権代医院”だぜ」

「いつも知識のひけらかし、ありがとう」

 涼葉が嫌味を言うと、航一は、

「別にこんなのは、知識でもなんでもない。一般常識の範疇だ」

 と、容赦なく切り捨てた。

「そろそろ地下に戻るぞ」

「はぁい」

 涼葉は気のない返事をして、梯子を降り始めた。航一もあとへ続く。蓋をすると、カチャリと施錠らしき音がした。なるほど。内側からでないと、解錠できない仕組みに……。なっているわけがない。頻繁にではないにせよ使用されているのなら、外からも解錠できるようになっているはずだ。それについてはあとで考えるとして、まずはあのトロッコだ。

 再び地下五階へ降り立った。トロッコは線路の上で静かに休んでいるようだ。埃を被っておらず、定期的に使用されていることは明白だ。本来ならば、歩いて距離を測りたいところではあるが、時間がないのでトロッコに乗って移動することにした。恐らく、突き当りで左右に分かれているはずだ。ここからだと、この線路が少なくとも3㎞ほど続いて、そこで丁字路に出る。俺の推測が誤りでなければ。

 航一がトロッコに乗り込むと、涼葉は少し驚いて訊ねた。

「歩いて距離を測らなくてもいいの?」

 この男の行動パターンが読める私って、嫌すぎる……。この男がどうなろうが、私は一向に構わない。仮に死んでしまったとしても、一筋の涙すら流さないだろう。二度と離れる必要のない距離に、“友達”の立ち位置に身を置くことに決めたあの日、誓ったのだ。この男が死んでも、泣かないと。けど。彼に万一の事があれば、悲しむのは美波なのだ。それだけは、何としてでも避けたい。

「今は時間がないからな。途中で見かけた、謎のドアの向こう側も気になるし。多分、3㎞くらい先で突き当たって、左右に分かれて丁字になってると思うんだ」

「行って、それを確認したいわけね?」

「そういうこと」

 涼葉がトロッコに乗り込むと、眠るようにおとなしくしていたトロッコは急に動き出した。一定の重さを超えると、自動的に走り出す仕組みになっているようだ。

「結構スピードが出るのね」

 恐らく、体感では時速40㎞程度であろうか。涼葉が感心していると、懐中電灯の光が前方に丁字路を照らし出した。

「荷物運搬用じゃなくて、移動手段だからだろう。……思った通りだ。てか、止まる時の衝撃に気を付けろ」

「わかってる」

 そう言うと、涼葉は航一を抱きかかえた。

「何すんだよ」

 この後の展開はある程度予想できたが、一応訊ねる。

「衝突する直前に、飛び降りる」

 航一はため息をついた。それが最適解であることは、間違いない。けど。女にお姫様抱っこされる男ってのは、どうなんだよ……。その時々で涼葉は、最適解を用いて俺を守ってくれた。「生きた殺人兵器」と呼ばれる時田涼葉を、女として見ることがそもそもの誤りなのかもしれない。こいつは自分が女であることを、高木といる時だけ思い出すんだろうから。俺は、涼葉が女であるという事実をたまにしか思い出さない。むしろ、思い出せない。しかし。高木といる時の涼葉は、“女であること”に戻っているように感じられる。それも含めて、色々な意味で高木茂という男は、それ自体が不可思議な存在だ。

 体が宙に浮く感触のあとに、僅かな振動を感じた。そして、航一の体が涼葉の腕から解放される。地に足がつくと、目の前には突き当りがあり、そこから左右に分かれた線路の上にトロッコが一台ずつ放置されている。

「戻ろうか」

「もう?」

「今は構造だけ確認できれば充分だ」

 再びトロッコに乗り込み、今しがた通って来た線路を引き返す。ブレーキはないのかよ。航一はその辺りを探したが、どこにもそれらしき物は見つからなかった。またしても、涼葉にお姫様抱っこをされるという屈辱を味わいながら、元いた場所まで戻って来る。右を見ると上に昇る梯子、左を見ると長く先の見えない一本道。二人は吸い込まれるように歩き出す。目指すは、謎のドアの向こう側だ。

「食べる?」

 そう言って涼葉が差し出したのは、タブレット状のサプリメントであった。腹の足しにはならないが、必要な栄養素を補うことは出来る。航一は有り難く頂くことにした。目の前に、謎のドアが現れる。

「これ、開けたら警報機が鳴るとかには、なってないよね?」

「探知機が反応しないから、大丈夫だろう」

 ああ、やっぱり。色々と持って来ているのね。涼葉は内心苦笑する。

 ドアを開け中に足を踏み入れると、航一が人差し指を唇の前に立てた。“喋るな”という合図だ。涼葉は無言で頷いた。つまり、盗聴器が仕掛けられてるというわけね。

 狭い部屋の中に棚があり、その棚に並べられているのは、背表紙にゼロから始まる十一桁の番号が書かれたファイルであった。比較的保存状態が良い。航一はいくつかを手に取って中を確認する。

 航一がしきりに手を動かしている。よく見ると、それは手話であった。“行くぞ”と、彼は告げている。意外ではあるが、話すことの出来ない状況下での意思伝達方法として、航一に手話を教えたのは涼葉だ。幼い頃、便利だからと勇作から教えられたのだ。確かに、知恵は力、知識は財産なのだと痛感する。

「何かわかった?」

 部屋から出ると、涼葉が訊ねた。

「これだけで、何かわかると思うか?取り敢えず戻って、地下八階まで降りてみよう」

 航一はにべもなく答えた。中の様子を全部確認してから考えよう、というわけね。ハイハイ、わかりましたよ。涼葉は軽く失望する。それにしても。お腹空いた……。

 前方の左側に、エレベーターの扉が見える。その前に立った涼葉は、足がすくんだ。

「どうした?」

 涼葉の異変に気付いた航一は、訊ねた。

「この先には、見てはならない物があるような気がしてね。野生児の勘ってヤツ?」

 涼葉は答える。そう。見てはならない物が、きっとある。そして、それは須賀航一の大好物だ。彼の言葉でいう、“謎を解く鍵”だ。あるいは、後にそうなる何かがある。行くな。私の本能は、告げている。けど。行っちゃうのが、須賀くんなんだよね……。

「それこそが、黒死蝶が隠している物なんだろ。何隠してんのかは、わかんねぇけど。行くぞ。お前の“野生児の勘”は、いつだって正しい」

 航一の指が、エレベーターの扉を開くボタンを押した。涼葉はため息をつきながら、航一と二人で電動の箱に乗った。

 ゆっくりと下降するのを止め、エレベーターは地下六階で停止した。扉が開くと、そこは病棟らしき内装になっている。目の前にはトイレがあり、年の頃七十歳ほどの男性が入って行った。航一の鼻腔が、非常に人工的な彼の体臭を捉える。

 如何にも入院患者らしい風体をしているが、果たして正体はどうだかわからない。一つだけ言えるのは、黒死蝶は今でも何某かの薬物の研究を継続しているということだ。あの男性からは嗅いだことのない薬品の臭いがした。俺だって、伊達に探偵稼業をやってるわけじゃない。問題はそれが一体何なのか、である。さて、何なんだろう。

「ここって、トイレが男女兼用になってるの?信じられない!」

 涼葉の驚く声で、航一は我に返った。

「それは、そんなに驚くことか?」

「だって、普通に嫌でしょ。特にあの年代の方々には、不評だと思うわ」

「だろうな」

 航一は同意した。そして、大水青蛾と女郎蜘蛛が同じ空間で飼育されていた光景を思い出していた。そうか。わざわざ赤毛猿を使わなくても、人間を使って実験すれば……。あり得ない話ではない。

「これからどうするの」

 涼葉に訊ねられ、

「誰にも見つからずに構造を調べるのは難しそうだから、開き直るぞ」

 そう答えると、航一は足を踏み出した。

 実際、誰にも見つからずに構造を調べるのは不可能であった。しかし、そんなに多くの人に出会った、というわけでもない。彼らは皆、何かを諦めたような表情で部屋に閉じこもっていたからだ。あるいは、彼らの年齢がそうさせているのかもしれない。

「高齢者ばかりね」

 涼葉が、見たままの事実を述べた。

 中央に広めの談話室と職員の詰め所のような部屋、四人部屋が二十あり、両端にはトイレ、という病棟そのものの施設になっていた。トイレが男女兼用という点と、各部屋に監視カメラが仕掛けてあるという二点を除いては。エレベーターがない方のトイレの前が、浴室になっている。そのため、二人は引き返さなければならなかったのだが、お陰で“ある事実”に気付くことが出来た。途中で三人の患者とすれ違った。一人の男性と、二人の女性だ。その三人の左胸にはプラスチック製の名札がつけられており、ゼロから始まる十一桁の番号の下に名前が書かれていた。航一が注目したのは、明らかに名前と性別が一致しない人物がいたことだ。この事実は、その名前がその人を示す固有名詞ではないことを意味する。……なぜだ?

「取り敢えず、下に降りよう」

 航一はエレベーターに乗り込んだ。涼葉があとへ続く。見てはならない物を、私たちはまだ見ていない。涼葉は思った。

 地下七階に到着した。扉が開くと、真っ先に目に飛び込んできたのはトイレであった。構造は地下六階と同じだよな、多分。足を踏み出す航一と、渋々それに続く涼葉。わかりやすいヤツだよ、お前は。航一は内心苦笑する。涼葉の“野生児の勘”は、いつだって正しい。どうやら、俺たちは核心に近づきつつあるようだ。

 幸い、内部の構造は同じであった。二十ある四人部屋はほぼ空室であったが、全く人がいない、というわけでもなかった。年の頃十三、四歳ほどの男女が数名。皆が皆、何かを諦めたような表情で部屋に閉じこもっていた、一つ上の階とは収容されている人間の年齢層が異なるようである。こちらの職員の詰め所には、人の気配がした。息を殺し、見つからないように気を付けながら、その場を立ち去る。

 涼葉がため息をつきながら下に降りようとしたので、航一もあとへ続く。本当は、降りたくないんだろうな。航一は思った。

 ようやく最下層までやって来た。植物園のような広場……、と呼ぶのが正しいのかどうかはわからないが。恐らく、地下七階に収容されているのであろうと思われる年齢層の者が、そこかしこでくつろいでいる。

 ここにある植物は全部、地下四階で見たものだ。時折姿を見かける飛べない雀や鳩は、地面を走り回っている。網を造らない女郎蜘蛛、天敵の目の前で悠々と翅を広げて舞う大水青蛾。これらも上の階で見た。何がしたいのか、さっぱりわかんねぇな。航一は思った。涼葉が微動だにせず噴水を凝視していたので、そちらに目を向けると、鰺や鰯、秋刀魚が泳いでいる。

「これ、淡水なのよ」

 確認のため、手のひらで掬って一口飲んでみる。……淡水だな。多分、何某かの研究の結果出来てしまった副産物を寄せ集めて、この広場は造られているのだろう。現段階で実験に使用されているのは、ここに収容されている人間の方だ。

 女の子が一人、鳩を追いかけて走ってきた。飛べない鳩は、呆気なく彼女に捕まってしまう。十二、三歳といったところであろうか。鳩を抱き上げた彼女の左胸の名札を見た航一の体に、落雷に打たれたような衝撃が走る。

「君の名前は?」

 声が震えた。どうしてこの名前を、ここで見るんだ?涼葉の顔色が悪い。間違いない。涼葉が言う“見てはならない物”は、この子だ。

 女の子は、大人びた声でゼロから始まる十一桁の番号を答えた。

「それは、そこに書いてある番号だろう?」

 航一は彼女の左胸を指さし、努めて穏やかに言った。

「ここではずっと、この番号で呼ばれてるの。名前は、ここでは意味がないの。今ではすっかり忘れてしまって……。名前……、私の名前……。何だったかしら」

 俄かには信じがたいことだが、彼女は真剣に考え込んでいた。

 そこに書かれている名前が、彼女の名前である可能性は極めて低い。だが、一応礼儀として訊ねてみる。あきらちゃんや、あおいくんがいるのだ。渉ちゃんがいたって、おかしくはない。はず……。

「そこに書いてある大石渉っていうのが、君の名前なんじゃないかな」

「これは私の名前じゃないの。兄の名前」

 おいおい。自分の名前は忘れてしまったくせに、兄貴の名前は覚えてるのかよ。航一は呆れたが、同時に驚いてもいた。彼女の兄の“大石渉”は、あの“大石渉”なのだろうか。黒いサングラスに、薄い唇。黒死蝶の捨て駒の一人の、あの……。

 航一は、吾妻義治の証言をもとに作られた二枚のモンタージュ写真の内の一枚、男の方を彼女に見せ、

「君のお兄さんっていうのは、こんな感じの人なのかな?」

 と、訊ねた。

「そう、こんな感じよ。サングラスとアロハシャツ。変なこだわりがある人なの」

 彼女は答えた。無邪気に、何も考えずに。そして恐らくは、何も知らずに。その笑顔が、航一には痛々しい。サングラスで人相は誤魔化せても、アロハシャツは、外見的にはかなり大きな特徴になる。

 俺は一刻も早く、この事実を城一警部に伝えなければならない。そのためには、ここから出なければならないが……。

「最後に、もう一つだけ訊いていいかな。君が最近お兄さんに会ったのは、いつ?」

 あまり兄に似ていない女の子は、答えた。

「兄が面会に来てくれたのは、今年の三月の終わり頃よ」

 やはりね。航一は思った。その頃なら、大石渉が行方不明になる直前と一致する。

 彼女が鳩を抱いて立ち去るのを見送ってから、航一は、

「取り敢えず、ここから出るぞ」

 と、涼葉に言った。電動の箱で地下五階まで戻り、長く先の見えない一本道を通って、梯子を上り、元権代医院の職員専用出入口付近まで戻って来た。こんな物は、心霊スポットでもなんでもない。黒死蝶の悪事を覆い隠すための、巨大な蓋だ。

 二人は潜入の痕跡を隠滅するため、偽の監視カメラが設置されている玄関から中に入り、マンホールの蓋を閉めて施錠すると、エレベーターの床でそれを再び覆っておいた。


 何でもいいから、少し食物を腹に入れたい。航一がそう言うので、涼葉は仕方なく“止まり木”に来ていた。時計を見ると、すでに午後5時前だ。この男の言う“少し”は、普通の人の“少し”ではないので、嫌がらせのつもりで連れて来た。随所に小さな梟の置物が飾られているその店は、とにかくメガ盛りなのが売りである。注文時に“極小盛り”指定しないと、普通の量で出て来ることはない。

「ここって、昼は定食屋で夜は居酒屋なんじゃねぇの?」

 航一の問いに、店主が、

「店の雰囲気のせいですかね。そのように思われてる方が多いんですけど、閉店までずっと定食屋なんです」

 と、笑顔で答えた。店の雰囲気というよりは、むしろ店主の人相風体のせいだと思うけどなぁ。涼葉は内心苦笑した。

「お前に話しておかなきゃならないことが一つあるって言っただろ?……話しておくよ。飯が不味くなるけどな」

 涼葉の嫌がらせに気付くこともなく“極小盛り”指定をした航一が、重い口を開いた。

「そういえば、そんなこと言ってたわね。嫌な記憶の相手なんて、心当たりがありすぎて、どれの事やらさっぱり思い出せないんだけど?」

 航一は、正直な気持ちを告げる。

「俺は、なるべくこの話はしたくない。あの時のお前は、明らかに彼に対して殺意があったからな」

 ここで一旦言葉を切り、水を一口飲む。涼葉が単刀直入に訊ねる。

「誰よ、それは」

 その質問には答えずに、航一は言葉を続けた。

「今回の彼は、ただの容疑者じゃない。重要参考人なんだ。今日のところは会わずに済んだが、黒死蝶という組織の全貌を明らかにするための調査を続けるうちに、いずれ会うこともあるだろう。あの時のように、病院送りにされては困る」

「だから、誰なのよ。それは」

 歯切れの悪い航一に対して、涼葉は苛立ちを隠そうともしない。そこへ“極小盛り”のきつねうどん定食が、野菜ジュースと一緒に運ばれて来た。きつねうどん定食を航一の方へ差し出しながら、涼葉は野菜ジュースを受け取る。病院送り?さすがにそこまでにした相手は、さほど多くはない。

「お前、覚えてるか?吸血殺人事件」

「犯行の動機が珍しく利他的だったから、覚えてる」

 お前の覚え方はそっちか……。航一は思った。確かに、最近の犯行の動機は非常に短絡的、且つ、利己的だ。

 吸血殺人事件。そして、病院送り……。涼葉は、何かを思い出しかけていた。航一は、構わず話し続ける。

「あの事件の容疑者の一人が、黒死蝶幹部の息子だったんだよ」

 吸血殺人事件の容疑者の一人。そして、病院送り。間違いなく、あの野郎だ。名前は忘れてしまったが、その顔を忘れるはずはない。

「あの時、私が正当防衛に見せかけて殺そうとしたヤツね?」

 涼葉は思い出すだに業腹な男の顔と、その瞬間に聞こえた、骨が砕ける鈍い音を思い出しながら訊ねた。

「そうだ。あの時に彼が死んでいれば、間違いなく正当防衛で通せただろう」

 航一は、容疑者が犯行を自供する時のような面持ちで答えた。それから、

「少々苦しいだろうが、一応通るはずだ」

 と、付け加えた。生きていたため、彼には“強姦未遂犯”という不名誉な烙印が押されてしまった。だが、その事実が彼に全くダメージを与えなかったのは、涼葉が彼に負わせた怪我があまりにも酷いものであったからだ。

「和泉翔輝。それが、あの男の名前さ」

 そう言うと、航一はうどんの出汁を啜る。和泉翔輝。クズ野郎のくせに、名前だけは立派なのね。涼葉は思った。

「須賀くん。塩分の摂りすぎ」

「緊張して、冷や汗が止まらないんだ。お前にどう話したら良いのか、とか考えたら。俺も気を遣うんだ。これぐらいは、許せよ」

 さらに、航一は水を一口飲んだ。

「君でも、私に気を遣うことがあるんだ?」

「まあな」

 なにしろ、相手がお前だからな。という憎まれ口は、慎む。

「でも、あんなクズ野郎は、殺してしまって構わないと思うけどなぁ」

 ほら、始まった。航一はうんざりする。

「だって、そうでしょ?乙女の純潔を強引に奪おうとするような怪しからん輩は、むしろ犯罪防止のために、殺しておくべきよ」

「正当防衛は合法だけど、過剰防衛は違法だ」

 航一は力なく抗弁する。不毛な戦いの火蓋が切られた。

「殺人は合法であれば問題ないが、非合法であれば罰せられる。俺は、お前を殺人犯にはしたくないんだ」

「そんな奇麗事言っても、全然説得力ないんだからね?」

「奇麗事なんかじゃない!」

 航一の声が荒くなる。お前が俺をどう思っていようが、俺にとっては、お前は大事な幼馴染だ。

「万が一、被害者が出てからじゃ遅いのよ。性犯罪の被害者っていうのは、犯人が逮捕されても取り戻せるものは何もないの!窃盗や強盗、詐欺とかの方が、取り戻せるものがあるから、まだマシよ。一度奪われた純潔は、二度と戻ってはこないの!」

 だから、性犯罪の加害者になり得る人間は全員、殺しておくべきなのよ。被害を未然に防ぐために。涼葉は呟いた。

「犯されそうになったから抵抗したら誤って殺してしまった、というのなら、これは正当防衛だ。合法な殺人だ。けど、此奴は性犯罪の加害者になりそうだから殺しておこう、は過剰防衛であって、非合法になる。当然だが、何事も合法であれば許されるし、非合法であれば罰せられる。俺たちは法律で守られている以上、法律を守らなければならない。……法律に正しさを求めるな。死刑、戦争、堕胎、正当防衛。合法とされている殺人は、これくらいのものだ。それにな。一度奪われた純潔が二度と戻ってこないのと同じで、一度失われた命は回帰しない」

「理屈がそうなら、合法であれば何をしても許されるってことになるわよね?」

 涼葉が噛み付く。

「理屈の上では、そうなる。だが、不倫は刑法には触れないが、民法上は違法になる。こういうところも、法律のややこしいところさ」

「須賀くん。不倫願望なんかあるの?美波が可哀想……」

 涼葉は軽蔑の眼差しで、航一を睨んだ。

「混ぜっ返すな。法律の事実を述べただけだ」

「じゃあ、あれは?須賀くんが普段から持ち歩いてる、アーミーナイフ。あれは明らかに違法だよね?」

「あれは、未必の故意だ。やむを得ない」

「ミヒツノコイ?」

「法に触れることになるかもしれないが、仕方がないとして、あえて危険を冒すことだ。てか、警察官の娘がそんなことも知らねぇのかよ」

 航一は些か落胆した。涼葉は続ける。

「堕胎が合法な殺人になるなら、もし仮に妊婦が殺害された場合は、犯人は二人分の命を奪っておきながら、一人分の罪にしか問われないってこと?そんなの、絶対に間違ってる」

「胎児は、ヒトとはみなされないからな。法律に正しさを求めるな。何回言わせれば気が済むんだよ」

「何回言われても、納得できない」

 そう言うと、涼葉は野菜ジュースを飲み干した。明日が日曜日で、本当に良かった。航一は心底そう思った。


涼葉ちゃんと航一くんが、不毛な水掛け論をしています。

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