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追跡  作者: 青柳寛之
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第十二・五章 津山千穂子

三年の担任は、五人そろって皆癖の強い人物という謎の裏設定があります。全員のエピソードを書くのは無理なので、ここでは主要登場人物の担任だけを取り上げたいと思います。

 中間試験が終わって、安堵していた日曜日の朝。高木茂の家へ、伯母がやって来た。連絡もなく突如、そして“作り過ぎたから”と言って惣菜や菓子を山ほど持参するところも、実にいつも通りだ。

「師匠……。よほど暇なんだな」

 テーブルに積み上げられたタッパーを横目で見ながら、茂は言った。絶対、二人じゃ食べきれないし。

「暇じゃないわよ。茂がちゃんと真希ちゃんにご飯食べさせているか、心配なの」

「食わせてないんじゃない。食べようとしないんだ」

 茂はため息をついた。茂の母、高木真希子は夫亡き後、鬱病に悩まされ続けている。最近は目の前に好物を並べても、食べようとしないことが増えた。

「真希ちゃんがそんな調子じゃ、茂も困るでしょ。大学でしっかり学ぶためには、真希ちゃんがどうしても足枷になる。誰かさんに、早く嫁に来て貰わないとな……」

 目の前の師匠が、甥を心配する伯母の顔になった。

「俺はお袋のことを足枷だなんて思ってないし、そんなつもりで涼葉と結婚したいわけじゃない」

 茂の声に怒気が含まれていることに気付いた津山千穂子は、茂に訊ねた。

「だったら、どんなつもりで茂は時田と結婚したいの?」

「あいつの隣にいるのは、俺でありたい。これから先も、ずっと……。他の男に取られたくない。それに、お袋だって孫の顔でも見せてやれば、生きる希望を見いだせるかもしれないだろう?」

 真希子の主治医からは“生きる希望を見つけられれば、多少は……”というような、無理難題を突き付けられている。その旨を伝えると、

「生きる希望ねぇ……。子供のお前でさえ、生きる希望になれなかったのに、孫ごときになれるとは思えないわ。それに、取る奴がいると思うか?あんな女。あれの世間的評価は、私の方が良く知っているが?」

 教師の“千穂ちゃん”は、穏やかな口調で厳しい言葉を投げかけてくる。試されているな、と茂は思った。彼女にとって、俺も涼葉も“生徒”だ。どちらかにだけ肩入れすることなど、あってはならない。これは、俺の覚悟を問う質問だ。“千穂ちゃん”は、いつもこうだ。

「俺がお袋の生きる希望になれなかったのは、お袋が気の弱い人だったからだ。子供を一人前に育て上げる、ということの責任の重さに、耐えられなかったんだよ。でも、孫は違うだろ?可愛い、可愛いだけで済む。責任がないからな。子供は無理でも、孫は生きる希望になれる可能性を充分に秘めている。あと、俺には病気のお袋と、変人の伯母しかいない。他に口うるさい親戚がいるわけじゃないから、結婚に世間的評価は必要ない。経済的な不安も、一切ない。俺が涼葉をどう思っているか。涼葉に俺と結婚する意思があるか。それがすべてだ。師匠にあいつの何がわかるって言うんだ」

「変人の伯母とは、失礼だな」

 そう言うと“千穂ちゃん”は、笑いながら茂の頬を抓った。普段の師匠の顔に戻っている。茂は安堵した。

「真希ちゃんは、繊細さんだからね。責任の重さに耐えられなかったってのは、一理ある」

 師匠の顔が“真希子の姉”の顔へと変わる。

「私は、勲くんを許すことは出来ない」

 師匠は、親父を“勲くん”と呼ぶ。別に、幼い頃からの知り合いだった、とかではない。自分と同じ歳であり、妹の夫だからだ。義弟を“くん”付けで呼ぶところなど、師匠はかなり図々しい。お袋に、この図々しさが爪の垢ほどでもあれば、と思わずにはいられない。そして、この後に続く言葉を、俺は何度聞かされたことか。

「真希ちゃんを置き去りにして死んだ勲くんを、私は絶対に許さない」

 師匠の横顔が、怒りで震えている。滅多なことでは、感情を表に出さない人なのに。それほど、親父のことが許せないってわけか……。茂が口を開こうとすると、

「茂は、時田を置き去りにして、死んだりはしないだろう?」

 と、師匠が訊ねた。今日はいつもの言葉を繰り返さないんだな。なぜだ?

「努力はする」

 茂がそう答えると、師匠は、

「そう」

 とだけ言い、寂し気に微笑んだ。

「……約束は出来ない、か」

「人間は、一寸先は闇だ」

 二人はしばしの間、無言で立ち尽くしていた。互いの顔を見ることさえ、憚られる。茂が暗鬱な沈黙を破る言葉を探していると、先に口を開いたのは師匠であった。

「時田の就職内定先に、行ってみたんだ」

「え……?」

 就職内定先?涼葉の進路は、確か、未定だったはずだが。茂の驚きもどこ吹く風で、師匠は続けた。

「最初は、客のプライバシーを話すわけにはいかないとか何とか言って、ごねたけどね。あの店主。担任として、生徒のことは知っておく義務があるって言ったら、渋々話してくれたんだ。本校生徒が初めて行く就職先でもあるし、どうしても聞いておきたかった」

「それ、どこ?」

「マトリョーシカ」

「そっちか」

 家でコーヒーを淹れる練習をしていると聞いていたので、モグラの根城かとも思ったのだが。その一番の被害者である涼雅は、辟易している様子だった。あの頃すでに決まっていたことなら……。

「どうして、俺たちに黙ってたんだろう」

 茂が率直な疑問を口にすると、

「黙ってたんじゃなくて、言い出せなかったんじゃないか?」

 師匠は言った。

「仮にそうだったとしても、鈴村さんには話していてもおかしくはないぜ?」

「鈴村……。鈴村か。余計な心配をかけたくなかったんだろ。時田はあんなヤツだけど、友達思いだからな。大切な人であればあるほど、言い出せないはずさ」

 師匠は急に“教師”の顔になると、前髪を掻き上げながら続けた。

「伝手というのは意外と当てにならないものだけど、時田の場合は、一応信用出来ると判断していいだろう。けど、あの店に就職してしまうと、しばらく結婚どころではなくなる」

 師匠は茂の方へ向くと、

「どうすんだ?」

 と、訊ねた。

「どうにかするさ」

 茂は、低い声で穏やかに答えた。以前から疑問に思っていたことを、口にしてみる。

「師匠は、どうして結婚しなかったんだ?」

 ずっと、気になっていた。気にはなっていたが、どうしても訊き出せないまま、年月だけが過ぎて行ったのだ。それこそ、自分たち母子おやこが、彼女の足枷になっていたのではないか。そんな思いがどうしても拭い去れなかった。今、こうして言葉にしてしまうと、実に呆気なかった。

「怖くなったからさ」

 腕組みをして、師匠は言った。それ以外の何物でもない、とでも言いたげな面持ちだ。茂には、想定外の返答であった。

「怖い?何がだよ」

「人を好きになるってことが、怖くなったんだ」

 師匠は、遠くを見るような目をして言った。

「勲くんが死んで、真希ちゃんはあんな風になった。勲くんからの贈り物のオルゴールを大事そうに抱えて、虚ろな目でお前と私を見るようになった。もしかしたら、見えていないのかもしれないが。私は自信をなくしてしまった。私は、これほど深く人を愛したことがあっただろうか?そう思わずにはいられなかったし、同時に怖くなってしまったんだ。人を好きになるってことが。だから、当時付き合っていた彼と別れて、中古マンションを購入した」

 そこに骨を埋めるつもりでな、と師匠は笑った。……当時。当時ということは、それ以前があったのか?茂は、恐る恐る訊ねた。

「師匠。何人ぐらいの男と付き合ったことあんだ?」

 その質問をはぐらかすように、

「私にだって、恋の想い出の一つや二つぐらいあるさ」

 そう言うと、師匠はまた遠い目をした。しかし、それは過ぎ去った想い出を懐かしむ目ではなかった。

「けどな、女に財力があるとわかると、男は一切努力をしなくなってしまう。私は男をクズにする女なんだよ」

「それは、師匠のせいじゃないだろ……」

 そう言うと、茂は長く息を吐いた。女の稼ぎを当てにする男なんて、男じゃない。生物学的に、オスの機能を持っているというだけで。そして、師匠に財力があるのは、師匠のせいじゃない。……はず。

「けど“ある”とわかると当てにしてしまう。それが“人間”だろ?」

 師匠はさらりと言ってのけた。茂は、目の前のふくよかな中年女性の顔をまじまじと見た。この人は、そんなことを考えていたのか。

「真希ちゃんは想い出の中で生きている。勲くんが死んだあの日の直前で、真希ちゃんの時間は止まってしまっている。生ける屍と言っても、過言ではないだろう。それでも、自殺されるよりかはいい。自分より若い者が先に死んで逝くのは、二度とごめんだ」

 真剣な顔でそううそぶく師匠には申し訳ないが、茂は噴き出した。

「何が可笑しいんだ?」

「年寄りみてぇなこと言うなよ。親父は師匠よりも三ヶ月若いだけだったんだし」

「たかが三ヶ月、されど三ヶ月だ」

 そう言うと、師匠は貝のように口を閉じてしまった。やれやれ。茂は内心ため息をついた。こうなってしまった師匠からは、何も訊き出すことは出来ない。どんなに小さな情報でも、だ。


 甥の自宅を出ると、千穂子は真っ直ぐ家には帰らず、近くの海岸まで車を走らせた。一人になりたい時には、いつも立ち寄る場所だった。いつでも。どんな時にでも。だが、今日は生憎、先客がいたようだ。

 車から降りて海を眺める。見ると、遠くから波に乗って誰かがこちらへ近づいて来ていた。おいおい……。まだサーフィンには、少し早くはないか?どこの馬鹿だよ。まさか、うちの生徒じゃないだろうな。そんなことを考えながらその姿を注意深く見ていると、“彼”は、ゆっくりと海から上がって来た。こちらを一瞥して、

「津山先生?」

 と、恐る恐る訊ねてきた。なんだよ、その態度は。確かにキミたちにとって、私は目の上の瘤なんだろうけどさ。

「大迫チャン?」

 休みの日にまで、此奴に会わなきゃならないなんて……。千穂子は内心ため息をつく。そんなことには気付きもせずに、大迫俊哉は千穂子の隣に腰をおろした。だからさぁ、この距離感がさぁ。図々しすぎるだろ、お前。仮にも私は、キミたちの先輩なんだが?そんな千穂子の胸の内になど頓着なしに、俊哉が口を開く。

「津山先生……。“どこの馬鹿だよ。うちの生徒じゃないだろうな”とか思いながら見てたんでしょう?俺のこと」

「さあ?忘れちゃった」

 千穂子は、器用に口元に微笑を張り付けた。とりあえず、当たり障りのない話題を探す。

「前から訊いてみたいと思ってたんだ。キミたち若者にとって……。いや、キミたちじゃなくてもいいや。キミ個人の私見でもいい。仕事って、なんだ?それはどういう意味を持つものなんだろう」

「そんなに若くないですよ、俺。四捨五入すれば三十ですからね」

 目の前の若者は、涼しい顔をして答えた。知るかよ。キミの歳なんか。千穂子はうんざりしながら、しかし、

「質問に答えて」

 と、強い口調で言った。

「そうですね……。一番金のかからないコミュニティ、ですかね」

 俊哉は少し考えてから、答える。一番金のかからないコミュニティ?なるほど。そういう考え方もあるのか……。千穂子は勢い良く立ち上がると、

「ありがと、大迫チャン。その発想は私にはなかった」

 とだけ言い、その場を去ろうとした。だが、俊哉は千穂子の腕を摑んで引き止めると、

「もう少し、話しませんか?」

 真っ直ぐに千穂子の目を見つめ、そう言うのだ。綺麗な瞳……。一瞬。ほんの一瞬だけ、そんなことを思う。やれやれ。面倒なことになっちまった。千穂子は諦めて、もう一度そこへ座る。

「キミはまだ、恋をしているのかな?」

 千穂子はそんな質問をしてみる。“NO”という返事が返ってくることを期待して。

「していますよ、もちろん」

 俊哉は答える。

「それは、以前とは違う相手だよね。そうだろう?」

「いいえ。同じ相手ですよ」

 千穂子の期待する言葉とは異なる返答を、俊哉は返した。千穂子は軽く失望する。

「俺、一途というか……、粘着質なんで」

「変態だな」

「そうですね。でも、変態と変人で、お似合いなんじゃないですか?俺たち」

 そこは認めるんだな。自分が変態ってとこは。いっそ、清々しくて反吐が出そうだ。けど。私のどこが変人なのよ!

「非現実的、且つ、生産性のないその恋を諦めて、新しい恋を始めようという気にはならないの?」

「なりませんね。全然、まったく、一向に」

 俊哉はきっぱりと言い切る。そして、次に口にするべき言葉を探している。千穂子はそれを待った。さて、この坊やは何を言い出すのだろう。

「今日は本来なら俺はスーツを着て、見合いをしているところでした。でも、次々と縁談を持って来られるのにも嫌気がさしたので。断る方も、心苦しいんですよ?だから、言っちゃったんです。俺は若い女よりも年増の方が好みなんだ、ってね。お袋には泣かれました。妹夫婦は引いてました。でも、親父だけはこう言ってくれたんです。“お前も男だ。好きに生きればいいさ”って」

「無責任な親父さんだな」

 千穂子は率直な感想を述べる。うまいこと言ったつもりかもしれないけど、それは結局ただの責任逃れだよね?

「そういうのではないと思います。親父は自分も好き勝手に生きてきた人なので」

「あぁ、そうなの」

 心底、どうでもいいわ。だが。一つだけ言えるのは、この若者よりも父親の方が生産性のある生き方をした、ということだ。だからこそ、彼と妹が存在している……。千穂子は指で砂を掬い上げた。指先から砂が落ちてゆく様子を、黙って眺めていた。そろそろ帰りたいな、などと考えながら。その横顔を見つめながら、俊哉は次に口にするべき言葉を慎重に選んでいた。

「千穂子さん」

 彼は何事かを決心したように告げる。

「俺と一線を越えてくれませんか」

 何を言い出すのかと思えば、この坊やは……。

「それは、どういう意味なんだろう?」

 千穂子は穏やかな声で言った。込み上げてくる怒りを抑えながら、真っ直ぐに海を見つめて。彼の顔をほんの少しでも見てしまえば、怒りを抑えられそうになかったからだ。

「言葉通りの意味ですよ」

「クラシカルだけど、ストレートな表現ね。もう少しこう……。オブラートに包むことは出来なかったのかな?キミは、そんなのでよく現国の教師をやっていられるわね」

 千穂子は軽く息を吐き出すと、続けた。

「それで、キミと私の関係性が変わることはないから」

「変わるか変わらないかは、やってみないとわからないですよ」

「無駄なことに時間を割かない。時間は、お金では買えないんだから」

 千穂子は言った。その後にこう続ける。

「私は甥が高校を卒業したら、仕事を辞める。会えなくなれば、キミは自然と私を忘れる。そして、生産性のある新しい恋を始める。……それがキミのためなんだ」

 それだけを俊哉に伝えると、振り返らずにその場を去った。キミのため?いや、違うな。それはきっと、私のためだ。私の心を、守るためだ。


 茂から電話があったのは、その日の夜だった。滅多にない甥からの電話に、不安がよぎる。まさか、真希ちゃんに何かあった?一呼吸おいてから電話に出た。

「もしもし。真希ちゃんに何かあったの?」

 よほど慌てた声になっていたのだろう。茂は、

「いや、そんなんじゃないよ」

 と、即座に否定した。

「ただ、俺……。まずいことしたなぁって。だから、電話したんだ。今、時間あるかな」

「まずいことって、何?」

「ええと……」

 茂は口を濁す。何から話したら良いのか、迷っているようだ。

「落ち着いて」

「ああ」

 茂はゆっくりと大きく息を吸い、長く吐き出した。それから、いつものように話し始めた。

「今日、家に大迫が来たんだ。そして、師匠の自宅の住所と連絡先を訊かれた。もちろん、最初は断ったんだ。“伯母の個人情報を教えるわけにはいきません”って。けど……」

「ちょっと待ってよ。どうして大迫チャンがお前の家を知ってるんだ?」

 千穂子は軽く混乱して、茂に訊ねた。いや、だって。知らないはずだしね。

「ああ、それか。それは俺も気になって大迫に訊いてみた。そしたら“あんな目立つ車が留めてあったら、判るだろ”ってさ。そりゃまあ、そうだろうな」

「私の車って、そんなに目立つかな……」

「黄色のジムニーシエラなんて、どう考えても独身の中年女性が乗るような車じゃないだろ……」

 茂は半ば呆れて言った。その程度、知っとけ。とでも言いたげだ。

「なるほど。それで?」

 千穂子は、話を先に進めるよう促した。

「なんだか随分と切羽詰まった様子だったからさ、……だから。教えちまったんだよ。師匠の住所と携帯の番号を」

「なんだ、そんなことか。私はてっきり真希ちゃんに何かあったんだろうと……。まあ、いいさ。携帯の番号は変えればいいし、最悪、ここを売り払って他所へ引っ越せばいい」

 千穂子がそう言うと、茂は怪訝そうに訊ねる。

「師匠……。あいつと何かあった?」

「別に、何も」

 千穂子は答えたが、茂は納得できない様子だった。

「何もないわけはないと思うけどな。俺が思うに、あれは慕われているか、個人的に怨恨を持たれているかのどちらかだ。大迫の年齢を考慮すると、慕われている可能性は極めて低い。となると、残りは怨恨だ。師匠。何かあいつの恨みを買うようなことをした覚えは?」

 “思うに”とか“考慮すると”などという単語は、以前の茂からは出て来ないものであった。須賀と親しくしている影響かもな。千穂子は思った。両極端なその二択しかないところが、まだまだ稚拙ではあるが。

「ない。と思うけど……。でも、お前は大迫チャンの歳なんて、知ってるの?」

「知ってるさ。俺、選択科目は書道だったんだぜ?あいつは自己紹介で、自分の名前と年齢と誕生日と血液型を告げた。俺があいつの誕生日をよく覚えてるのは、親父の命日と同じ日だからだ。初めて書道の授業があったのは、四月の終わり頃だった。その時点で27歳だったから、その年には28になったはずだ。そうすると、あいつは今年で三十になるんだ。師匠より十七も年下なんだ。慕われてるはずがないだろう。よぉく思い出してみてくれ。きっと何かあるはずだ。恨まれる理由が」

「無駄情報が多い自己紹介だな」

 千穂子は言った。でもまあ、大迫チャンらしいと言えばそれまでか。

「割と歳がいってるんだな。見た目じゃ、二十四、五歳くらいにしか見えないが……」

「だな。けど、これだけは覚えといてくれ。師匠はあいつに、なぜだかよく解らないけど恨まれている。そして、そんなあいつに、俺はうっかり師匠の住所と電話番号を教えてしまった。用心するに越したことはない」

「ああ。気を付けるよ」

 千穂子がそう言うと安心したのか、茂は、

「じゃあな。おやすみ、師匠」

 とだけ言って、電話を切った。はあ……。恨まれてる、ねぇ。まあ、事実が露見しなかっただけ、良しとしようか。ん?そうなると、車も目立たないものに変えた方が良いのかな。折をみて、茂に訊いてみよう。


 次の日を一日無事にやり過ごすことは、そんなに難しいことではなかった。理由は至極単純で、お互いに忙しかったからだ。そんな風にして、何日かが過ぎた。

 茂は取り越し苦労が多いからな。慕われていようが恨まれていようが、あの坊やが私に何かを仕掛けてくるなんてことは、あり得ないよ。千穂子は思った。但しそれは、大迫俊哉もそこまで馬鹿ではない、というに過ぎなかった。高木が卒業するまでに、どうにかできれば良い。彼はそう考えていたのである。


 晩春が過ぎ、初夏を迎えようとしていた。開け放された窓から風が入り、カーテンを揺らす。高木茂は母親に朝食を摂らせた後、片付けを済ませ、一息ついていた。紙巻き煙草に使う巻紙と煙草葉は、先日無くなったばかりだ。今日は土曜日か。そんなことを考えながら、レモンドロップを一つ指で摘まんだその時。ふと、茂の鋭い感覚が、ある人物の気配を捉える。おいおい……。勘弁してくれ。その人が、玄関の前に立っている。落ち着け。取り乱すな。茂は自分に言い聞かせる。呼び鈴の音がした。茂は呼吸を整えて、

「開いてますよ、どうぞ」

 と答えた。返事がないし、入ってくる気配がない。聞こえなかったか?茂は玄関まで出ると、古い日本家屋の戸を開けた。やはり、そこにいたのは大迫俊哉だった。

「“開いてますよ、どうぞ”はないだろう」

 ……ちゃんと聞こえてんじゃねぇかよ。茂は内心舌打ちする。

「こんな所で立ち話ってのもアレなんで、取り敢えず上がってください」

 茂は、本当に取り敢えず俊哉を庭の見える縁側へ案内した。座布団を差し出し、

「どうぞ」

 と、座るように促す。俊哉はその上に胡坐をかくと、

「こんな広い家に客間がないなんて、不自然だな」

 と言った。

「あの部屋、日当たりが悪いんでね。ここで勘弁してください」

 茂は答えた。自分も座布団を一枚持って来て座る。二人はそれぞれ、自分が相手に告げるべき言葉を慎重に探していた。

「アンタが伯母にどんな恨みを持っているのかは知らないけど……」

 先に口を開いたのは、茂であった。

「俺にとって、伯母はほとんどたった一人と言ってもいい身内なんだ。アンタが伯母に危害を加えようとしているのなら、俺がアンタを潰す」

 鋭利な刃物のような鋭い視線を、俊哉に向ける。目力の強さには、自信があった。少しでも牽制になれば……。と思ったのだが。

「俺は別に、津山先生を恨んでいるわけじゃないよ」

 俊哉は、茂の想定外の言葉を口にした。

「彼女は“甥が高校を卒業したら、仕事を辞める”と言っていた。それまでに、距離を縮めたい。近づきたいと思ってるだけだ」

 茂は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、その言葉を聞いていた。師匠が、俺が卒業したら仕事を辞める?それは一体、どういうことなんだ。それまでに、距離を縮めたい?近づきたい?ということは……。どうやら俺は、とんでもない勘違いをしていたようだな。

 いや、いや。この言葉を鵜吞みにするのは、あまりにも浅慮だ。だって、あり得ないだろう?歳が違いすぎる。

 俊哉は、茂が頭の中を整理するのを待っていた。目の前のタッパと態度がデカく、いささか問題行動が多めの生徒が狼狽する姿は、見ていて楽しい。お前が何を考えているのかは、大体想像できるよ。

「信じられないな。そもそも、歳が違いすぎる」

 吐き捨てるように言うと、茂は俊哉に警戒の眼差しを向ける。

「だろうな。告白した時も、信じて貰えなかったし」

「それは気の毒に」

 そう言う茂の顔は、少しも気の毒がってはいなかった。俊哉は言葉を続ける。

「あれからけっこうな時間が経つけど、なかなか」

 俊哉は、茂のそばへにじり寄る。茂は後退りする。そのままの姿勢で縁側の突き当りの壁まで進むと、俊哉は片方の腕を壁につけた。BL好きの腐女子が見たら大喜びだな、これは。茂は思った。

「ここまで追い詰めても、彼女はするりと逃げる」

 そう言うと、俊哉はやっと茂から離れた。

「けっこうな時間って言うけどさ、それって、月単位?年単位?」

 元の場所に座ると、茂が訊ねた。

「年単位さ」

 俊哉はそっとため息をつく。

「物好きだな、アンタ」

「なんとでも言え」

 しばし、沈黙が続いた。

「俺は全部白状したぞ。お前は……。協力してくれるんだろ?」

 茂は黙っていた。衝撃と戸惑いが、彼を支配している。俊哉は茂が口を開くのを待つ。

「今はまだ、YESともNOとも言えねぇよ」

 茂は口を閉ざす。ついでに、目も閉じる。俊哉は声に出して茂の言葉を反芻する。

「今はまだ、YESともNOとも言えない……」

「そうだ。いろいろと、解らないことが多すぎる」

 茂はかぶりを振ると、

「悪いけど、今日はもう帰ってくんねぇかな」

 と、目を閉じたまま言った。

「解らないことが多すぎて、お前は混乱している。冷静な判断ができなくなっている、ということだね?」

「そういうこと」

 茂はあっさりと認めた。俊哉が続ける。

「けど、このままだと判断材料が増えることはない。……もう少し、話してもいいか?」

 茂は迷った。

『私にだって、恋の想い出の一つや二つぐらいあるさ』

 そう言って、遠い目をした師匠。その目は、けして過ぎ去った想い出を懐かしむ目ではなかったし、実際彼女は傷ついてきたのだろう。その度に自分をすり減らし、損なってきたのだ。それぐらいのことは、茂にも容易に想像できた。

 関わり合いになるな。本能はそう告げている。だが。今、目の前にいる彼の澄んだ瞳を見ていると……。結局、否とは言えなかったのである。

「少しそこで待っててください。お茶、淹れて来ます」

 そう言うと茂は台所へ行き、ハーブティーを淹れた。ついでに、先程食べ損ねたレモンドロップの入っている缶を持って行く。


 春の香りを残した初夏の風が吹く中で、俊哉は言葉を選びながら、愁いを帯びた声で話し続けた。一通り話が終わると、彼はレモンドロップを口の中へ放り込む。

「信じられねぇよ」

 冷めてしまったハーブティーを飲み干すと、茂は言った。無性に喉が渇く。

「けど、これは全部本当のことさ。お前がどう思おうと、勝手だけどな」

 俊哉は答える。

「そして今、俺は千穂子さんに……。お前の伯母さんに恋をしている。とても強く、とても深く」

 これほど深く人を愛することは、もうあるまい。だから、どうしても手に入れたい。しかし、それを口にしてしまうと、途端に嘘くさくなってしまう。言葉とは、そういうものだ。言葉で心を伝えるには、限界がある。

「今日はもう帰るよ。なんだか、いろいろと喋りすぎたようだし」

 ああ、そうしてくれ。茂は思った。無言のまま、玄関まで見送りに出る。

「伯父さんと呼んでくれていいんだぞ?」

 別れ際に、俊哉が言った。

「遠慮しときます」

 遠ざかって行く俊哉の背中を見つめながら、茂は考えた。今のあいつの話が全部事実だと仮定した場合、真偽のほどが定かではないあの噂は、ガチ話なのか……。師匠も、とんでもない変態に惚れ込まれたものだ。


壁ドン……。

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