第十二章 三度目の春
隠し場所には自信があった。恨みも何もなく、ただ殺した人間の死体をどこに埋めるのがいいか、という話をしていた時だ。森龍信が酷く渇いた声で呟いた一言が、耳に残っていた。だから、その場所を採用することにしたのだ。なるほど。ここならば、誰も近付くまい。ところが、数日後。取りに行ってみると、あの絵はなかった。一体、誰が……。というのは、愚問だ。あの絵の行方を捜す者がいるとするなら、怪盗紳士の他にはいない。
しかも。用意した完璧なアリバイは、容易く崩されてしまった。高校生探偵、須賀航一の頭脳によって。口角を片方だけ上げて笑う彼の顔は、自信に満ち溢れていた。お前の推理は、すべて正しいよ。脱帽する。けど、俺も捕まるわけにはいかねェんだよ!俺が未だに逮捕されずにいるのは、目撃証言がないためだ。近隣住民には、俺たちの姿も、青い軽自動車も見られてはいない。まあ、それは……。そこだけは、大丈夫なはずだ。そこだけは、上手くやったつもりだ。あの日、吾妻義治の家から盗み出した「無数の扉」。その時、俺の顔を間近で見たのは、被害者の吾妻だけだ。穏やかな顔をした、ロマンスグレーの紳士だった。
森龍信。本仮屋楓恋。死んだ二人の、在りし日の面影を思い出す。それは概ね横顔だった。仲間の顔を正面から見た記憶が殆ど無いというのも、奇妙な話だ。森の顔には、暗い影があった。恨みも何もなく、ただ殺したなどという物騒なことを言い出すあたり、まともなヤツではない。本仮屋はいつも無表情だった。彼女は気付いていたようだ。怪盗紳士の正体に。どうにかして訊き出そうとしたのだが、はぐらかされてしまった。近い将来、俺も消されてしまうのか。あの二人のように。かつての仲間が、俺を追う刺客になるわけだ。いろいろと、皮肉だな。だから俺は、こうして逃亡生活を余儀なくされている。
森を手にかけたのは俺で、本仮屋を殺したのは……だ。あれは、我ながら上手くやったと思う。交換殺人。ヘタな推理小説にありがちなトリックだが、これを実行することで、警察の捜査を攪乱することが出来ている。安元珠代は……が本仮屋を殺害したなどとは、夢にも思うまい。
今宵も、大石渉は一人眠れない夜を過ごしていた。長い夜は嫌いだ。不安を掻き立てる、こんな夜は。くそっ!妹を人質に取られていなければ、こんなことには……。渉は薄い唇を噛んだ。あいつのせいにするのはよそう。俺が自ら望んでしたことだ。悪魔の囁きに耳を傾けてしまったのは、俺なんだ……。
そう来たか……。須賀航一は、寝癖のなおりきっていない頭をポリポリと掻いた。つまり、この絵は中期の香月作品ではなかったということだ。
「私には、何が何だかさっぱりですよ」
ロマンスグレーの紳士、吾妻義治は明らかに狼狽している。彼の妻は、絵が戻って来たことを喜んでいるようだ。時田勇作の手の内に「これは私が探している物ではなかったので、元の持ち主にお返ししておきます。怪盗紳士」と書かれたメッセージカードがあった。
「盗まれた時は、額に入れてあったんですよね?」
勇作の問いに、
「もちろんです」
と、吾妻が答える。航一はキャンバスの裏側を確認した。この状態で返却されたということは、要するに、そういうことさ。
「ああ、やっぱり……」
そこには“愛息”の裏に書かれていたのと同じ順序で、10文字のアルファベットが並んでいた。辻将人が、手放す気のない絵の裏に書いたサインだ。
「何が“やっぱり”なんだ?」
航一は、怪訝な顔で訊ねる勇作をさり気なく無視して、吾妻にキャンバスを手渡した。そして、勇作の方へ向き直り、
「オッサン。俺たちは、以前これと同じサインを見たことがあるはずだぜ?」
と、敢えて疑問符を付けてみる。質問に質問で返すのは、好きではない。だが、勇作は納得したらしく、頷いた。
「そういうことか」
「そういうことさ」
理解出来たのなら、話は早い。それにしても。わざわざ返しに来るとは……。律儀なことだ。つまり、怪盗紳士には自信があった。絶対に自分は捕まらないという、確信にも似た自信が。悔しいが、それは、正しかったと言える。
吾妻家を辞する際、航一は彼に過日の礼を述べた。
「あんな物でも、お役に立ちましたか」
吾妻は驚いた様子で答えた。“あんな物”とは、彼の証言をもとに作られた、モンタージュ写真のことだ。男は黒いサングラスに薄い唇。女は眦を強調する濃い化粧のため、元の容貌はわからない。これでは到底、個人を特定するには及ばない。……はずだったのだが。
「大いに役立ちました。……別件でね」
航一は、思わず不敵な笑みを浮かべた。
今日から三年生になる。新学期の楽しみは、クラス替えと新しい担任。これまでは、そうであった。今年度から、方針が変わった。三年進級時にはクラス替えは無しで、担任は持ち上がりだ。美波と同じクラスなのは素直に嬉しいが、担任が千穂ちゃんというのは……。涼葉はため息をつきながら、三年A組の教室へと足を踏み入れた。その後ろ姿を美波が追う。航一はB組で、茂はD組。去年と同じだ。自分の出席番号の札が貼ってある席に着く。春の陽の光が降り注ぐ窓の外を見ると、随分と散ってしまった桜の枝が目に映った。千穂ちゃんのテンションの高さが、涼葉を疲れさせた。時は止まってはくれない。前へ進まなくては。
何だか、あっという間だったような気がする。自分の入学式が、まるで昨日のことのようだ。人生って、これの繰り返しなんだろうな。何もかもが、まるで昨日のことのような……。
「こら、時田。話、聞いてるか?」
千穂ちゃんが呆れ顔で言った。
「スミマセン」
涼葉が棒読みで答えると、
「悪びれてないね……。お前らしいけどな」
そう言って、出席簿で涼葉の頭を軽く叩きながら話を続けた。
「就職の場合は、一学期の中間の頃までには希望先を考えておけ。まだ決まってないのが、何人かいただろ?」
へえ。私の他にも希望する進路が未定の人、いるんだ……。涼葉には、むしろ驚きであった。私の就職先は、内定している。“マトリョーシカ”の店主には、話をしてある。問題は、それをどう切り出すかなんだよね……。涼葉はそっと息を吐きながら、窓の外へ目を向けた。
赤城幸雄展。あるのか?県立美術館で。航一は、少なからず驚いていた。一度くらいは、見ておいた方が良いのだろう。この人の初期作品が“中期の香月作品”として世に出回っているのではないか、という俺の推測は正しいという可能性が、ゼロではない限り。いや、まあ……。限りなくゼロに近いけれど。一応見ておいた方が良いとは思う。けど。俺には、全く理解出来ない世界なんだよ。芸術なんて物は。見るくらいしか、価値のない……。高木になら、わかるのかもしれないが。そうか。わかる人間を、連れて行けばいいんだ。非常に都合の良い人材が、いたものである。
待っている時間は、思いの外、長いものだ。この週は、土曜日までがやけに長かった。単純に、嵐の前の静けさに怯えていたからかもしれない。しかし、それはまた別の話である。
「よう。待たせたな」
航一はニヒルな笑みを浮かべて、自分を待つ人影の方へと歩み寄る。彼の前方には、茂が立っていた。
「いや。俺も、今来たばかりだからさ」
その言葉とは裏腹に、茂は吸っていた紙巻き煙草を揉み消すと、携帯灰皿に吸殻を押し込んだ。事のついでに、以前から気になっていたことを訊ねてみる。
「お前、いつから煙草なんて吸ってんだ?」
茂は、ばつが悪そうに頭を掻いて、
「中二の時からだな。あの頃からどんどん背が伸び始めて、煙草吸ったら身長の伸びが止まるって聞いたからさ。……止まらなかったけどな」
と、はにかみながら答えた。
「嫌味かよ」
航一は、率直な感想を述べた。今の返答の、どこに照れる要素があったのだろう。背は……。高い方が良いに決まっている。と、思うのだが。
「でも、そろそろ止めようと思ってるんだ。今あるのが無くなったら、煙草は止めるよ」
「ああ。そうしろ」
そんな話をした後、二人は美術館へ向かって歩き出した。
受付で入場料を払うと、引き換えにパンフレットを貰った。赤城幸雄展。小冊子のページを捲ると、早熟な天才、色彩の魔術師。そんな文字が躍っている。その中ほどに書かれていた一文が、航一の目に留まる。
“赤城幸雄は雅号であり、本名は非公開”
本名は非公開?公開しない、あるいは公開出来ない理由は何だ。妙に引っ掛かる。
「何か気になることでもあるのか?」
茂が訊ねるので、航一はこの素朴な疑問を口にしてみた。
「これだ。本名を非公開にする理由がわからない」
ページの中ほどにある一文を指差す。茂は少し考えてから、口を開いた。
「別に深い意味はないんじゃね?西尾維新だって、本名は非公開だ」
「それは小説家だろ……」
二人で首を捻ったが、結局、個人情報の漏洩やプライバシーの侵害を気にしてのことであろうという、実に陳腐な憶測に落ち着いた。しかし、だ。やはり、何かが引っ掛かる。赤城幸雄は画家であり、小説家やタレントほどファンから執拗に追い回される立場にはない。……はず。その上、既に亡くなっている人だしな。疑えば疑うほど、怪しく思える。深く考える必要は、ないのかもしれない。けど。探偵は、疑ってなんぼの職業だ。
「絵を見てみるか」
航一が呟くと、
「てか、絵を見に来たんだろ?」
隣で茂が呆れている。
「行こうぜ」
珍しく、茂が航一の前を歩いて行く。二人は展示フロアに足を踏み入れた。
そこは、さながら鮮麗な花畑であった。見る者を圧倒する作品の数々に、茂はため息をついた。芸術の何たるかを知らない航一も、さすがに思うところがあった。
「なんか、すげぇな……」
「そりゃあな。早熟な天才、色彩の魔術師って言われてる人だし」
茂がさらりと答える。一枚一枚、目を皿のようにして見て歩いた。鮮やかな色の中に、美しさや醜さ、喜びや哀しみの全てが表されているようだ。
ふと航一が茂の方へ目をやると、彼は一枚の絵の前に立っていた。普段は他人の絵にあまり関心を持たない彼が、瞬き一つせず、食い入るように見つめている。航一は近付いて作品名を確認した。“愛しき吾子”と名付けられたそれは、写実的ではなく、辛うじてそこに描かれているのが幼児と赤子であることがわかる程度の絵であった。だが、やはり『色彩の魔術師』と謳われた人物の手になる作品である。愛情が、見事に色遣いで表現されていた。もっとも、それを感じ取っていたのは茂だけであったが。
航一は、漠然と思った。俺は、これに似た色遣いを見たことがある、と。香月稔ではない、誰かの絵だ。しかし、残念ながらどこで見たのかまでは思い出せなかった。……嫌な予感がする。なぜだ?
美術館から出ると、昼を少し過ぎていた。
「どこかで食べて帰ろうか?あの、涼葉に教えてもらったメガ盛りの……」
「異議なし」
航一は快く賛成した。涼葉のヤツ。よくも、次から次へと穴場的な店を見つけるもんだ。今は、とにかく考える時間が欲しい。腹も減ったことだしな……。
「それで。どうだった?」
席に着くと、茂が訊ねた。昼は定食屋、夜は居酒屋として営業しているらしいその店は、店主の趣味なのか、随所に小さな梟の置物が飾られている。梟は、不苦労。語呂合わせだよな。そんな事を考えながら、航一は口を開いた。
「初期作品が展示されていなかったから、何とも言えねぇな。ただ……。あの絵から迫力がなくなったのが、香月作品って気が、した」
そうだ。香月稔は、劣化した赤城幸雄みたいな……。航一は頭を掻いた。どうしても、胸の奥の痞えが取れない。
「そうか。俺も同じこと思った。それと……」
茂は、言葉を続けた。
「香月作品には、個性がない。良くも悪くも。大半の日本人は、強烈な個性を嫌う。だから、赤城幸雄の初期作品は海外にあるのさ。これは、俺の憶測だけど」
「つまり、初期作品はもっとずっと個性的だった、と?」
航一は、訊き返した。
「ああ。多分な」
前から感じていたことだが、高木は、けして嘘はつかない。けど。絶対に本当のことも言わない。何故そのように思うのかと問われれば、ただの勘としか言えないのだが。
……。……。……。……。……。……。
「どうした。何か気になることでもあんのか?」
「まあな」
航一はそう答えると、少し長めに息を吐いた。いつの間に来たのか、目の前にエビフライ定食が置かれていた。大皿の上に、エビフライと千切りキャベツが山のように盛られている。ご飯はその隅に普通盛り、申し訳程度にプチトマトが添えられている。品はないが、洗い物は少なくて済むだろう。ま、美味けりゃいいんだよ。二人は黙って遅い昼食を摂り始めた。
時田涼葉はため息をついた。この週は、一週間がやけに長かった気がする。ようやく待ちに待った土曜日が来て、今、“モグラの根城”に来ている。
「本日、何回目のため息かしらね」
そう言うと美波は、悪戯っぽい目をして笑った。悪気はないんだろうなあ、と思いながら、
「美波……。面白がってるよね?」
また一つ、ため息が出る。
「ほら、また……。ため息をつくと、幸せが逃げていくわよ」
たしなめる美波を、涼葉は睨んだ。
「他人事だと思って……」
そんな涼葉を軽くスルーして、美波はコーヒーカップを口に運ぶ。薄紅色の唇が、琥珀色の飲み物を音もなく啜る。
「出来るわけ、ないじゃない……」
涼葉はため息を堪えて、呟いた。そう。そんなことが、出来るはずはない。むしろ、すべきではないのだ……。
“それ”は、月曜日の放課後に起こった。あったとしても何ら不思議ではないし、あり得なくはない些細なことだ。涼葉は見てしまった。高木茂が、下級生から告白されている場面を。美術部の二年生だった。
『悪いけど、他のヤツにしな』
すげなく断り踵を返した茂に、後ろから抱きつくと彼女は言った。
『今、付き合っているあの人ですか?あの人よりも私の方が、あなたを幸せにしてあげられます』
見た目の可愛らしさに似合わず、 随分と情熱的な台詞を吐くものだ。
『……思い上がるのも、いい加減にしろ』
茂は彼女の腕を振り払うと、足早にその場を立ち去った。
これだけなら、普通にあることだ。しかし、その後が良くなかった。
『涼葉、ここにいたのか。探したぞ』
それはそうだろう。顔を合わせるのが気まずかったので、しばらく隠れていたのだから。通学路から少し外れた公園まで来た。鯛焼き屋の屋台だ。つぶあん、こしあん、豆乳鍋、キムチ、明太子……。付き合い始める前の、思い出の場所だ。茂は鯛焼きを二つ買うと、一つ涼葉に差し出した。いつか、そうしたように、二人並んでベンチに座る。キムチ味の鯛焼きを静かに食べていた涼葉の隣で、茂が言った。
『高校を卒業したら、俺と結婚して欲しい』
と。今、何て……?寝耳に水とは、まさにこのことである。一瞬、場の空気が揺らいだ。その時のことは、よく覚えていない。非現実的な発言を、どのようにかわすべきか……。そればかり考えていて、気が付いたら家のリビングでソファーに座っていた、という感じだ。
翌朝。涼葉は航一に向かって、盛大に文句を言っていた。航一が、すこぶる真面目に答える。
『お前を嫁に欲しがる奇特な男なんて滅多にいないから、大切にした方がいいぞ?』
気の置けない仲、というのは実に厄介だ。本来なら言葉を選ぶべきところ、いつもの調子でつい本音が出てしまった航一に対して、涼葉の怒りは瞬く間に頂点に達した。いつものように背後から二人の名前を呼ぶ声が聞こえて来なかったら……。つまり、航一は美波のお蔭で事無きを得たのである。絶ッ対、隙を窺って殴ってやるんだから!
そのせいで、一週間がやけに長かった。航一は何かに怯え、美波がクスクス笑い、涼雅は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
相変わらずこの店には、店主が趣味で買い集めたフィギュアやミニカー、漫画本などがずらりと並んでいる。そして、その店内の雰囲気には全くそぐわない、洒落たジャズのメロディーが流れていた。客は、涼葉と美波の二人だけだ。突然、
“バカダナ、オメーハ”
背後から抑揚のない声がした。鸚鵡だ。この新しい看板娘には、飼い主も手を焼いているようだった。
「やれやれ。妙な言葉、覚えちまって」
困ったように店主が呟く。鸚鵡は、
“バーロー!バーロー!”
と、続けた。さらに、
“ホレラレテンノヨ”
さすがに、これには二人ともギョッとした。店主が慌てている。普通、教えないでしょ。そんな言葉。涼葉は思った。
「すみませんね、お客さん。……暇な客が教えるんだよ」
店主はそう言うと、ポリポリと頭を掻いた。鸚鵡に向かって、言い放つ。
「お前、今夜は飯抜きな」
“イケズ~!”
鸚鵡は、理解して喋っているわけではない。それでも、ここだけは会話として成立しているのだから、不思議なものだ。
「前飼ってたオカメインコはどうしたの?」
涼葉が訊ねると、
「あれはもう、年寄りだったからね」
過ぎ去った時を懐かしむような目をして、店主が答えた。
つまり、死んだということか……。店を変えよう。そう思った涼葉は、席を立った。美波も同じことを考えたようで、二人はほぼ同時に立ち上がっていた。支払いを済ませ、そそくさと店を出る。
「付き合って欲しい場所があるんだ」
「いいわよ。どこへ行くの?」
その質問には答えずに、涼葉は、
「美波は普通の鯛焼きでいいからね」
と言った。
ごく普通の、鯛焼き屋の屋台。ではあるが、メニューは一風変わっている。つぶあん、こしあん、豆乳鍋、キムチ、明太子……。涼葉はキムチ味の、美波はこしあんの鯛焼きを一つずつ買った。
「今日は彼氏と一緒じゃないんだね?」
「まあね」
涼葉はさらりと答えた。
「てか、そんなに客を一人一人覚えてるもの?」
ここは屋台だ。客は入れ替わり立ち替わりするはず。常連ならまだしも、私たちはふりの客なのに。半ば呆れて訊ねると、
「下手物食いの客は、よ~く覚えてるのさ」
と、痛いところをつかれてしまった。失礼だなあ……。
「あっち行って座ろう」
釣り銭を受け取り、二人で黙って移動する。二人並んでベンチに座ると、鯛焼きを一口かじった美波の口から、
「美味しい。尻尾の先まで、餡こが詰まってる」
という感嘆の声が上がる。言われてみれば、ここまでしっかり餡こが詰まった鯛焼きは、他では見当たらない。今までそんなことを観察しながら食べる余裕なんて、なかったもんね。ここの鯛焼き。
結局、その日は何の解決策も見つけられないまま、ただの気晴らしで終わってしまった。
『大いに役立ちました。……別件でね』
使用人の家族とはね。これは盲点だったな。航一は、つくづくそう思った。
時々でいいから、瑛様に会いに来て欲しい。安元珠代から、そのように頼まれていた。近くまで来たので、寄ってみた時のことだ。航一が素朴な疑問を口にすると、珠代は笑いながらそれを否定した。『執事だって、人間ですよ?私の父は、執事ではありませんけどね』と。どんな疑問を投げかけたのかと言えば、“執事って、天涯孤独なイメージがあります”だった。主人に仕えることを生きがいとし、結婚もせずに一生を終える……。勝手にそんなイメージを持っていた。やはり、その世界をよく知る者に訊ねてみるものだ。
本仮屋家の使用人は、原則、住み込みで働いている。珠代の父親は若い頃から本仮屋家で使用人として勤めており、同じく本仮屋家の使用人だった女性と結婚したという。素質がある者は、親、子、孫と長きに亘り本仮屋家に仕えて来たのだ。素質がある者?“でしたら、素質のない人はどうするんです”航一が訊ねると、珠代の返答は、『当然、他の道を選ばざるを得ませんね。それに、この仕事を望まない人もいますし』であった。それはそうだろう。だとしたら。別の道を選んだ家族にとっては、ここが実家になるわけだ。
自殺に見せかけて殺害された、本仮屋楓恋。楓恋の爪の間から僅かに検出された、加害者の皮膚。実家の合鍵。……そうだ。合鍵さえあれば、外部から侵入可能だ。それに。使用人の子供や孫なら、あの子が実家に帰って来たんだ、程度にしか思われない。従って、記憶に残りにくいものだ。
航一は懐から例のモンタージュ写真を取り出すと、珠代に訊ねた。“別の道を選んだ使用人のお子様の中に、こんな感じの人はいませんでしたか”と。これは最早、職業病だ。それを見た珠代の顔からさっと血の気が引き、唇が震えていた。見知った顔なのか。もし、そうであるなら……。航一の顔が険しくなるのと同時に、死んだ魚のような目をして、彼女は呟いた。『珠希……』と。
吾妻にとっては“あんな物”でも、大いに役に立ったな。安元珠希、か……。航一は、口角を片方だけ上げて笑った。城一警部はある程度自分で考えて動いてくれるので、少しは楽だ。こちらは、僅かな指示を与えるだけで事足りる。あとは、彼が手はず通りに上手くやってくれるさ。恐らくこれは、交換殺人なのだろうから。けど。まさか、ヘタな推理小説にありがちなトリックを実行してくれるとは、想定外だったぜ。
茂は、ただ返事を待っているような男ではない。涼葉も、あっさりと「はい、そうですね」と応じるような女ではない。ただ。茂の方が、根回しが上手かった。それだけの話だ。
「あれっ?お前、結婚するんじゃないの?」
とは、希望する進路を伝えた際の、千穂ちゃんの反応である。涼葉が全力で否定すると、
「それも“あり”だと思ったんだけどな」
そう呟いて、悩まし気に息を吐いた。初めて見る、千穂ちゃんの顔だ。涼葉の怪訝そうな視線に気付くと、
「別に、バリスタが悪いって言ってるんじゃないぞ」
と言って、笑うのだった。
「お前にそんな伝手があったとはね」
心底感心したように、手元の書類に何事か記入しながら、
「じゃ、次の人。時間がないから、サクサク行くよ」
と、涼葉の疑問に答えるつもりは毛頭ないようだ。
仕方がないので、涼葉は次の生徒を呼ぶと、教室を後にした。どうしてそれを、千穂ちゃんが知ってるのよ!しかも、それも“あり”だと思った?……その是非はともかく。この言葉からはっきりと導き出される事実が、一つだけあった。高木くんの伯母さん。それは多分、千穂ちゃんだ。
『ええと……。それは、秘密』
涼葉は、長めの頭髪を掻きながら答える茂の目が、微かに泳いでいたのを思い出していた。千穂ちゃんって、投資や資産運用の知識があったんだ……。などと、今はどうでも良いことを考えながら帰路についた。
家に帰ってみると、玄関先に涼雅の靴があった。
「あら。部活はなかったの?」
涼葉が訊ねると、すでにパジャマ姿の涼雅から、
「今日は早退したんだ。熱があったから」
という返事が返って来た。
「姉さん。結婚って、してもしなくても後悔するものなんだからさ。どうせなら、せずに後悔するより、して後悔した方が良いと思うんだよね」
そんなことを言う弟の顔は、熱のせいか目が充血していて、瞼も腫れている。まるで、泣き腫らしたかのようだ。
「あんたまでそんなこと言うの?」
涼葉はうんざりしてため息をついた。涼雅が続ける。
「千穂ちゃんは茂さんの伯母さんだからね。甥の幸せを願うのは、当然だろ?」
やっぱり……。超能力の類の不思議な力を持っている涼雅が、千穂ちゃんが茂の伯母であることを知っていても、何らおかしくはない。さらに、涼雅が続ける。
「自己実現や自己表現を職業の中に求めるのは、筋違いさ」
「それ、どういうこと?」
涼葉の問いに、涼雅は、
「言葉通りの意味だよ」
とだけ言うと、踵を返してリビングから出て行った。それを言うためだけに、わざわざ降りて来たの?ただ。気になることはあった。『言葉通りの意味だよ』って……。あのねぇ。お姉ちゃんは、あんたほど頭良くないの。もっとわかりやすく説明して!とはいえ、涼雅にはこれ以上を説明するつもりはないらしい。この問いに対する答えを正しく導き出せる人物がいるとしたら……。須賀航一。結局、一番頼りたくない相手に頼らざるを得ないのか。涼葉は軽く落胆した。
「それは、多くの人が勘違いをしている、ということさ」
翌朝。航一を捕まえて涼葉が疑問をぶつけると、彼の返答はこうであった。
「確かに、俺たちは職業こそが社会とつながる唯一の接点だと教えられて育つ。けど、実際はこの見解にさしたる根拠があるわけではないからな。専業主婦や学生、リタイアした年寄りが全く人と関わることなく生きているわけではない、ということからもそれは明白だろ。少し考えればわかることさ」
馬鹿か、お前は。とでも言いたげに、航一は涼葉を見た。
「わかった。それはそれとして……。千穂ちゃんが高木くんの伯母さんだってこと、須賀くんは知ってた?」
「本人から聞いたことはないけど、そうじゃないかな、とは思ってたぜ。千穂ちゃんは高木に対する態度だけ、他の生徒とは微妙に違ったし」
「そう……?」
さすが“探偵の目”は違うわ。涼葉は白旗を揚げた。
喫茶店の鸚鵡にヘンな言葉を教える客って一体……。