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追跡  作者: 青柳寛之
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第十一章 夢の隣に

 やはり、私には警察官以外の道は用意されていないのか……。涼葉が胸を痛めている間にも、時は容赦なく流れて行った。一月は行く、二月は逃げる、三月は去るとは、真に言い得て妙である。そして。いよいよ、明日は一回目の進路希望調査が行われる。最終決定までには、まだ少し時間があるが……。

「明日はお母さんが来るんでしょ?」

 涼葉は訊ねた。参観日や保護者会などの学校行事には、仕事の休みが取れた方が出席する。これが、時田夫妻の不文律であった。

「ええ。お父さんの方が良かった?」

「そうじゃなくてね……」

 涼葉は苦笑した。通り過ぎた昔を思い出す。勇作が学校に来ると、当時の担任は誰もが心配した。それは“警察官”という職業に対する無知から来るものであった。

 そもそも警察官には、国家公務員採用総合職試験に合格し採用された者、国家公務員採用一般職試験に合格し採用された者、地方警察官採用試験に合格し採用された者の三種類の人間が存在する。勇作は地方警察官採用試験に合格した、俗に言うノンキャリア。英琳は晴れて国家公務員採用一般職試験に合格した、準キャリアなのだ。二人の結婚が周囲の人々にとって衝撃的な事件だったのは、そのためなのである。

 警察とは、ほんの一握りのキャリア及び準キャリアと、大部分を占めるノンキャリアによって構成される釣り鐘型の組織なのだ。当然、母親の方が忙しく、休みが取れないことも多かった。ただそれだけなのだ。世間的には、警察官は全員国家公務員だと思われているようであるが、勘違いも甚だしい。

「おやすみなさい」

 涼葉はそう言うと母に背を向けた。


 気の早い桜の蕾がほころび始めていた、その日。

「ホントにそれでいいのぉ?」

 苦渋の選択を告げた涼葉に向かって、千穂ちゃんは頓狂な声を上げた。焦って後悔したくはないが、この時期に希望する進路が未定という生徒は稀であろう。空手という特技を活かせる職業を、私は他に知らない。多分、これが一番マシな選択なんだ。自分にそう言い聞かせ、出した結論なのだが。想定外の担任の反応に、涼葉は驚いた。

 “それでいいのぉ?”って……。これは、非常にマズいことになった。……かもしれない。飄々としていて何を考えているのかわからないところがある人だが、それは、千穂ちゃんのある種の隠れ蓑だ。

「もう一度、よく考えてみます」

 涼葉の言葉に、千穂ちゃんは満足気に頷いた。けして、この人を侮ってはならない。彼女は、小手先の嘘や誤魔化しが通じる相手ではない。涼葉の本能が、そう告げていた。

 多くの教師は一回目の進路希望調査を最終決定事項とし、それに向けて生徒を叱咤激励する。高望みの進学希望者には、志望校のランクを下げさせることも忘れない。つまり“面倒臭いのはごめんだ”という本音が、透けて見えるのである。生徒側も、充分に承知している。所詮、他人に多くを期待することが間違いだ、という現実を。学校という組織内で、高い評価を得ること。教師の関心は、そこにしかない。卒業生のその後の人生など知ったことか、というわけだ。それは、そうでしょうね。彼らにとっては“卒業させるまで”が仕事なのだから……。てか、社会に出る前からこの仕打ち?けど。学生のうちに“社会の縮図”を見ておくことは、けして無意味なことではないと思う。

 しかし、変わった御仁だ。津山千穂子という人は。苦労が趣味なのか、あるいは……。わかんないな。

 懇談を終え、英琳と二人でA組の教室を出た涼葉の目に飛び込んで来たのは、実にいつも通りで変わりばえのしない、三人組の姿であった。

「お母さん、先に帰るから。夕食の支度のことは、気にしなくていいわよ。ゆっくりお友達と羽を伸ばしていらっしゃい」

 優しく微笑む母の顔を見ると、心が痛む。遠ざかる英琳の後ろ姿を、涼葉は黙って見送ることしか出来なかった。

『ホントにそれでいいのぉ?』

 千穂ちゃんのその言葉を……。母は、否定して欲しかったに違いないのだから。

「懇談、どうだった?」

「津山千穂子って人が、読めない」

 涼葉の言葉を聞いた茂の顔つきが、少し険しくなった。ように見えたのは、気のせいだろうか。

「俺たちにもわかるように説明しろ」

 航一は苦笑した。ゴモットモ……。涼葉はため息をついた。

「地方警察官採用試験を受けたいって言ったんだけど、“ホントにそれでいいのぉ?”って言われちゃった」

「へえ……」

 航一は、寝癖のなおりきっていない頭をポリポリと掻いた。

「でも、千穂ちゃんらしいような気もする」

 ぽそりと呟く幼馴染の顔は、やはり実にいつも通りで、鉄壁のポーカーフェイスであった。恐らく彼は気付いている。千穂ちゃんの言葉の意図に。

「大迫は妙なところで熱血だからな。ひと悶着ありそうな、嫌な予感しかしない……」

 そう言って、ため息をつく。須賀くんは、明日が懇談だったっけ?てか、話を擦り替えないで欲しいんだけど。とは思うのだが、睨め付けるのは内心に止めておいた。

「須賀くんの場合は、誰が担任でも、ひと悶着あるでしょ?」

 涼葉はにべもなく言い放った。

「そら、まあそうだ」

 航一の口元に、ニヒルな微笑が貼り付いた。


 懇談会で第一回の進路希望調査が終われば、短い春休みだ。思考を放棄したい。……けど。向き合わなければならない。現実と。残る二枚の絵画を手中に収めるため、怪盗紳士が動き出すはずだ。まるで航一を愚弄するかのように、彼は、学生が遊び惚けている間に、獲物を狩る。恐らくこの春休みの間に一枚、そして、夏休みにもう一枚の絵を盗み出し、終わらせるつもりなのだろう。彼は二度と姿を現すことなく、“怪盗紳士”ではない別の誰かとしてひっそりと生きて行くのだ……。

 ふと顔を上げた航一の目に、昨夜までは無かったはずの“ある物”が映った。あれっ?こんな物、ここにあったかな……。気になったので、手に取ってみる。それは、普通のノートだった。表紙には『備忘録』と書かれている。持ち主の名前は、古賀谷律人となっていた。その名前には覚えが無かったが、書かれている文字は、よく見知った人物のそれであった。アナグラムだ。なるほどな。

 古賀谷律人。KOGAYA RITUTO。これを並べ替えると、TOKITA RYOUGA、つまり、時田涼雅となる。妙だな。昨日、涼雅はこの部屋には来ていない。……はずなのに。ただの大学ノートが、急に不気味な物に見えてきた。

 航一は、古賀谷律人の『備忘録』を、穴が開くほどまじまじと見つめた。秒針の音が、やけに耳につく。何者かが、遠慮がちにドアをノックした。持ち主の来訪だ。

「鍵は閉めてないぞ」

 中へ入るように促すと、ばつが悪そうに困惑の笑みを浮かべた涼雅が入って来た。

「これか?探し物は」

 そう言って、航一はノートを指し示した。涼雅は安堵の息を吐くと、

「やっぱり、ここにあったんですね」

 と、照れ笑う。

「お前、昨日ここに来たか?」

 先ほどの疑問を口にしてみる。勝手知ったる我が家同然の須賀家。その須賀家に住む幼馴染の自室に、断りもなく入る……。あり得なくはないことだし、幼少の頃は頻繁にあることだった。

「ええ。ノックしたんですけど返事がなかったから、入ってみたんです。航一さん、昨日は随分早く寝たんですね」

 なんだ、そうだったのか。確かに、昨夜は晩飯も食わずに早々と床に就いた。それはそれとして……。

「それさ、どんなことが書いてあるんだ?」

 偽名を使って書かれた備忘録。大切な物なのだろう。聡明な涼雅が、それを置き忘れるなどという過失をしでかすはずはない。彼は、これを“読ませたい”のだ。だから、わざと落として行った……。

「読んでみますか?」

 案の定、涼雅の口から出たのは、想定通りの言葉であった。

 航一はゆっくりとページをめくった。時折、紙の擦れる音が響く。

「何のことだか、わからないでしょう?」

 暫時の沈黙ののち、確認するかのように涼雅が訊ねた。満足そうに笑っている。

「ああ。意味不明だな」

 率直な感想だ。固有名詞を一切使わずに書かれた、簡略化された文章。無駄を省いた描写。短編小説のような印象を受けるが、総じて読者を意識していない文章は、やはり『備忘録』だ。

「航一さんにわからないのなら、仮に他の誰かに読まれたとしても、何のことだかわからないでしょうね」

 胸を撫で下ろす涼雅を、航一は黙って見つめていた。何かが……。引っ掛かるんだよな。なあ、涼雅。その文中に出て来る“彼”って誰だ?“友人”って?

 いろいろと問い詰めたかったが、やめた。謎は……。自分の力で解かなければ、面白くない。


 やはり、航一さんは覚えていなかったようだな。多分、航一さんも巻き込まれているはずなのだ。しかし、忘れてしまっているのなら……。それでいい。本来、知ってはならないことなのだから。

 僕は時折、予知夢を見る。それだけならまだしも、その時に、同じ夢を関係者に見せてしまう。巻き込むとは、そういうことだ。強すぎる能力を、上手くコントロール出来ていない証拠だ。何とかして、制御する術を身に付けなければ。

 以前は、この能力を疎ましく思っていたものだ。所詮変えられない運命なら、予知夢なんか見ない方が良い。そう思っていた。将来起こることを予知し、運命を変えてしまわないように監視する。そのために与えられた能力であると知るまでは。さて。もう一人、きちんと忘れているかどうか、確認しておかなければならない人がいたな……。

 涼雅はため息をつくと、急ぎ足でその人物のもとへ向かった。僕は、夢で見たその通りに行動しなければならない。これは、その時点での、確定された未来なのだから。


 玄関先から伯母の声がした。

「茂。いるんでしょ?上がるわよー」

 まただ。来るときは連絡を寄越せって何度も言ってるのに……。

「俺がいなくても勝手に上がって来るだろ、師匠は」

 だから、見られたら困るような物は置いていない。例えば、そう。煙草などは。以前、紙巻き煙草に使う巻紙と煙草葉を見つけた師匠に散々どやされた。あの時の師匠は、怖かった……。茂が辟易しながら息を吐くと、

「どうしたの?」

 と、心配そうに伯母が訊ねた。

「思い出しため息」

「何よ、それ」

 茂の返答に、彼女はふっと笑った。ついでだから、訊いてみることにする。

「あのさあ……。師匠は、物事をややこしくして面白がるタイプの人間なわけ?」

「まず、質問の意味がわからないわ」

 伯母は、持参した大きな紙袋の中から惣菜や菓子の入ったタッパーを取り出す手は止めずに、顔だけを茂の方に向け、眉を八の字にして口に弧を描いた。当然の反応であろう。

「じゃあ、質問を変えよう。進路希望調査の時に、親と同じ職業を希望する生徒がいたら、その生徒に師匠は何と言う?どんな言葉をかける?」

 なあんだ、そのことか……。とでも言うように、師匠は肩をすくめた。

「そういう場合は“ホントにそれでいいのぉ?”って、念を押すようにしているわ。親と同じ職業を選ぶ生徒の中には、明確な理由や信念を持たない子も、少なくない」

 伯母の顔が、教師のそれに変わる。茂の目の前に、教師“津山千穂子”がいた。

「それで、敢えて念を押すようにしてるのか。でも、進級したらクラス替えがあるだろ?」

 意味、無くね?茂は言った。そうだ。クラス替え、新しい担任。二年生の三学期末には、生徒の大半が希望する進路を決定している。良し悪しは別にして、それが普通だ。流れ作業的に仕事をこなす教師にとって、三年生になっても進路希望調査を行わなければならない生徒は重荷であろう。

「それは今年度まで。来年度からは、方針が変わるのよ」

 伯母が、妙に落ち着いた声で言った。

「来年度からは三年進級時にはクラス替えは無しで、担任は持ち上がりになるの。担任に異動があった場合は、副担任がそのクラスの担任を引き継ぐ」

 むしろ、なぜ今までこの方針じゃなかったんだろ?と呟きながら、伯母はタッパーを冷蔵庫の中へ放り込んでいる。

「なあ、師匠。それは俺が聞いてもいい話なのか?」

「茂は口が堅いから、問題ない」

 つまり、喋るなということか……。茂はそのように解釈した。

「春休みに入る前に、その旨の文書が配られる。中には、露骨に落胆する生徒もいるでしょうね」

 こちらへ振り向いた伯母の顔に、悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。これこそが“千穂ちゃん”の顔だな。と、茂は思う。飄々としていて、つかみどころのない……。

 その時。茂は玄関先に、ある人物の気配を感じた。何の用だろう。今来られると、かなり困るのだが。しかし、伯母が、

「真希ちゃんの様子、見て来るわね」

 と言い残して台所から出て行くのとほぼ同時に、彼の気配は遠ざかり始めた。……涼雅?わざわざ家に訪ねて来るなんて、一体何の用事だったんだろう。てか、あいつは俺の自宅の場所を知らないはずだけど……。

 気にはなったが、深く考えないことにした。

 数日後。春風と呼ぶにはまだ少し冷たい風が吹き抜ける日に、三学期の終業式が行われた。ホームルームが終わり、教室を出てみると、酷く落胆した須賀航一が眼前に立っていた。彼は神経質そうな細長い指で、寝癖のなおりきっていない頭を掻きながら呟く。

「罰ゲームかよ……」

「何が?」

 暗に口止めされているため、知らぬ存ぜぬを装わなければならない。茂は、答えがわかりきっている質問をしなければならなかった。

「大迫、異動してくれねえかな……。てか、訊くな」

 航一は、不機嫌さを隠そうともしない。

「ああ、スマン」

 誰にでも、苦手な人間の一人や二人、いるものだ。茂の脳裏に、過日の伯母の悪戯っぽい笑みがよぎる。……師匠。これ、知ってたな?

「A組、まだ終わらないんだ」

 茂は何となくいたたまれない気持ちになり、話題を変えた。

「どうする?四人で何か食べて帰ろうか」

 航一の表情が、少しだけ柔らかくなった。底なし胃袋で、推理バカ。高校生探偵須賀航一を揶揄する、幼馴染の言葉だ。けど。それでいい。それさえなければ、非の打ち所がないヤツなのだから。


 最近は地球温暖化のせいで、入学式の前には桜は散ってしまう。この薄紅色の花が散る頃には、三年生になるのだ。まだ、進むべき道を決めていない。私だけが。美波も、須賀くんも、高木くんも。希望する進路は、既に決まっているのに。千穂ちゃん、異動してくれないかなあ。そんな不届きなことを考えながら、涼葉はベッドの中に潜り込んだ。私は、知らない。空手という特技を活かせる職業を、警察官の他には。

 いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。何者かの悲鳴で、涼葉は目を覚ました。お母さんの声だ。自室を出て階段を下りてみると、台所には、落ち着きを取り戻そうと水を飲む英琳の姿があった。……まただ。

「お母さん、大丈夫?」

 涼葉はため息をついた。時折、悪夢に魘されるのだそうだ。逆上した犯人に刺されそうになったり、逮捕した容疑者が留置場で自殺していたりなど。そのほとんどが、仕事がらみだ。

「あら、涼葉。起こしちゃったわね」

 それにしても。二階にまで聞こえるような悲鳴に、隣で寝ている勇作は気付かないのであろうか。らしいと言えば、らしいけど。あれっ?ということは、お母さんは私が警察官になることに賛成ではない?……かもしれない。お父さんはどう思ってるのか、わからないけど。また、振り出しに戻ってしまった。

『姉さんは自分の進みたい道を選んで』

 涼雅は、確かにそう言った。

『星の声の導くままに』

 美波はそう言った。自分の進みたい道。星の導き。私は、どうするべきなのだろう。何を選んだら良いのだろう。黎明は遠く、辺りを闇が支配していた。青白い月の光が、まだ空に残っている。今日は、気分転換に美波と買い物に出掛ける予定だ。もうひと眠りしたいけど……。眠れる気がしないわね。涼葉は湯を沸かし、コーヒーを淹れた。お気に入りのカップに、濃い琥珀色の液体を注ぐ。立ち昇る湯気とともに芳醇な香りが広がり、鼻腔を楽しませる。そういえば。近頃「マトリョーシカ」に行っていない。雰囲気が怪しげな、輸入雑貨と“主に”パスタの店。今日のお昼は、あの店に決まりだ。……美波が嫌がらなければ。

 春休みの初日。涼葉の朝は、忙しく過ぎて行く。家族四人分の朝食の準備と、両親の弁当作り。部活は午前中のみなので、涼雅の弁当は要らない。涼葉の心配は杞憂だったらしく、今でも涼雅は少林寺拳法部に在籍している。我が弟を、いささか見くびっていたようだ。

「おはよう……」

 欠伸を噛み殺しながら、涼雅が台所へ入って来た。紺のブレザーに、ループタイとカフスボタン。そんな爺臭い制服が、実によく似合っている。怒るだろうから、口が裂けても言わないけど。

 涼雅は無言で席につくと、食卓に並んだ朝食を食べ始めた。彼は思い出したように、

「今日は少し遅くなるから、昼ご飯の準備はしなくていいよ」

 とだけ言い、食事を終えると家を出た。私もそろそろ支度しないと。涼葉は自室に戻り、着替えることにした。美波と二人きりで休日に外出なんて、初詣以来だ。進路のことはしばし忘れて、思い切り楽しんでも罰は当たるまい。学校帰りの寄り道では、やはり、充分に遊んだ気がしないものだ。

 買い物。とはいえ、あまり物は買わない。新学期に向けて、必要な学用品を買い足すだけだ。それが済むと、洋服や小物、アクセサリーなどを見て歩く。ウインドーショッピングも、二人なら楽しい。

「何か買い忘れた物はない?」

「ええ」

 美波は静かに頷いた。

「お昼は“マトリョーシカ”でいい?」

「いいわよ」

 二人は早速、白い壁と緑の屋根を持つ小さな店を目指して歩き出した。

“バリスタ募集。パート、アルバイト可。詳細は店主まで、お気軽にお問い合わせください”

 店のドアには、貼り紙がしてあった。バリスタ、ねえ。興味が無くはない話だ。涼葉は、夜明け前に飲んだコーヒーの香りを思い出していた。

 カウンター席に座ると、店主が、

「いらっしゃい」

 と、無愛想だが上品な声で言った。

「バリスタ、募集してるの?」

 この店は、パスタとカレーしか出さない。……はずなのだが。

「急ぎではないけどね。最近の客は、文句が多くて」

 店がやりにくくなった。ため息交じりに店主は呟いた。

「ただ、出すからには良い物を出したいんだよ。妥協はしない」

 涼葉はチキンカレー、美波はカルボナーラを注文した。やっと、水とおしぼりが出される。店の看板娘は、レジの横の色あせたクッションの上で眠っていた。時折、耳をぴくりと動かしている。猫って、あまり好きになれない……。涼葉は思った。

 いつになく饒舌な店主は、夢と志を熱く語る。黙々とチキンカレーを食べながら聞いていると、端々に気になるワードがあった。コーヒー豆を直輸入して、自家焙煎?それって、まるで……。

「ねえ。もしかして“モグラの根城”と同じことをしようとしてるの?」

 涼葉が口を挟むと、店主は、

「お客さん。あの店、知ってるのかい?」

 と、驚きを隠さずに訊ねた。

「知ってる。私、いつもあの店でコーヒー豆を買ってるし」

「通だねえ」

 彼は、感嘆の声をあげて涼葉を見た。味には五月蠅いのよ、私。涼葉は呟いた。

 美波が食べ終わるのを待って、支払いを済ませると、店主が言った。

「お粗末さまでした。……お客さん。高校を卒業したら、ウチで働かないかい?」

 やはり、無愛想だが上品な声で。

「検討しておく」

 とだけ言い残して、美波と二人で店を出た。


 航一の視線の先には、一枚のメッセージカードがあった。しかし、それは壁に貼り付けられておらず、時田勇作の手の内にある。

「つまり、あなたがここに戻って来られた時、絵はどこにもなく、代わりにこのメッセージカードが置いてあったというわけですな?」

「はい」

 勇作の問いに、被害者が答えている。髪と髭に、かなり白いものが混ざっている。ロマンスグレーと形容するに相応しい身なりの彼は、怪盗紳士に最後に盗まれるはずであった「無数の扉」の持ち主だ。否。持ち主だった。残念ながら、過去形になる。

「どういうことなんだ?」

 わけがわからん、と勇作はかぶりを振り、航一にカードを手渡した。カードには、羽を広げた黒い蝶が描かれている。

「怪盗紳士をあぶり出して、消したいのさ」

 航一はさらりと答えた。考えろ。そして、解答を述べよ。それが今、俺に求められている全てだ。

 昨日、被害者の家に若い男女二人が訪ねて来た。一台の青い軽自動車が停まり、こちらへ向かって歩いて来る二つの人影。男は黒いサングラスに薄い唇、女は……。眦を強調する濃い化粧のため、元の容貌はわからなかった。二人とも、年齢は20代半ば頃であろうか。

 彼らは玄関に飾ってあった絵を一瞥すると、安く譲って欲しいと言い出した。見知らぬ人物に対して、図々しいお願いである。

「これぐらいでどうでしょう」

 と、男は片手を立てた。薄い唇が、気味悪く弧を描いている。こんな陰鬱な絵を欲しがるなんて、物好きな。率直な感想だった。しかも、けして安くはない金額で。だが、この絵の持ち主は妻だ。彼女の同意を得ずに、勝手に譲るわけにはいかない。折悪しく、妻は出掛けていた。

「妻に相談してみます」

 被害者は、妻に電話を掛けるためにその場を離れた。話を終えて戻って来てみると、彼らの姿はなかった。あの絵が見当たらず、黒い蝶が描かれたメッセージカードだけが残されていたのである。

 要約すると、こういうことであった。被害者には申し訳ないが、非常に好都合だ。

 人相風体からして、男の方は大石渉である可能性がある。それに、青い軽自動車。……。県立美術館で起きた警官殺害未遂事件と、森龍信殺害事件。二つの事件の犯人が大石渉であると仮定した場合、あの日、あの夏の事件の容疑者として彼を取り調べることは不可能だ。問い詰めてみたところで、白を切られるだけだろう。けど。昨日のことなら、忘れたとは言わせない。つまり、この美術品窃盗事件が大石渉の犯行であれば、彼は墓穴を掘ったことになるのだ。遠目ではあったが、俺は確かに見たぞ。森龍信殺害事件の現場から、走り去って行く青い軽ワゴンを。車種も同じだし、犯人の人相もそっくりだし。黒死蝶、人材不足か?

「大石渉を取り調べる、いい口実が出来た」

「そうだな」

 勇作が頷いた。続きをここで話すのは、賢明ではない。それに、被害者に幾つか質問がある。航一は、ロマンスグレーの紳士の方へ向き直った。


 コーヒーは、繊細な飲み物である。同じ豆でも、淹れる人によって、その味と香りが変わるのだ。涼葉は、一心不乱にコーヒーを淹れ続けた。匂いを嗅ぎ、口に含み、ゆっくりと嚥下する。香り。味と舌触り。そして、喉越しを確認するのだ。

「これじゃあ、駄目」

 思わずため息が漏れる。涼雅がテーブルの上に突っ伏した。

「姉さん、まだ続けるつもりなの?コーヒーの飲み過ぎで、舌がバカになりそうだよ」

「あの味と同じ味が出せないのよ」

 どうにかして“モグラの根城”の店主が淹れるコーヒーの味を再現したい。涼葉はそう考えていた。

「同じ味を出す必要って、ある?個性って、大切だと思うけど?」

 皆違って、皆いいのさ。その中からどれを選ぶのかは、客の判断に委ねられるべきで。こちらが押し付けるものではないよ。金子みすゞの詩のような言葉を吐いて、涼雅は台所から出て行った。


 やはりな。須賀航一は思った。これで、未来永劫に怪盗紳士が現れることはない。

「ありませんね。最後の最後まで、見事でした。悔しいですが」

 顔馴染みの鑑識官が、お決まりの台詞を口にした。舞い散る桜の花びらを連れて行くかのように、怪盗紳士は去った。香りだけを残して。但し、過日他家から黒死蝶によって盗まれた絵画が、中期の香月作品でなければの話だが。

 前期、中期、後期と作風に変化が見られる香月稔。それ自体は、珍しいことではない。けど。中期最後の作品とされる「無数の扉」は、全体的に暗く陰鬱な絵だ。鮮やかな色遣いで知られる香月作品の中では、かなり浮いている。あれ、本当に“中期の香月作品”なのか?もし、そうでないなら……。怪盗紳士にとっては、価値のない物のはずだ。

 以前、怪盗紳士は“私としたことが、勘違いで盗んでしまいました”として、ご丁寧に盗んだ絵を返却している。それは、全て前期の作品であった。だから、あの暗く陰鬱な絵が“中期の香月作品”ではない可能性も、否定出来ない。てか、あれは絶対違うだろ……。

 ん?ちょっと待て。初期作品のほとんどが海外にあるとされる洋画家、赤城幸雄。色遣いが鮮やかで、繊細かつ上品と言われており、作風が少し香月稔に似ている。素人目にはわからないが。

 赤城幸雄の初期作品が“中期の香月稔”の作品として世に出回っているのではないか、という俺の推測が事実であると仮定してみよう。赤城作品の中には、暗く陰鬱な色遣いの物も確かあったはずだ。早熟な天才と呼ばれた彼は、同時に、色彩の魔術師とも呼ばれている。

 ……。……。……。……。

 怪盗紳士は必ず、もう一度だけ動く。「無数の扉」を取り戻すために。もっと言えば、本当に“中期の香月作品”なのかどうかを確認するために。

「どうした。何を考えてるんだ?」

 勇作に声をかけられ、我に返った航一は、

「これで終わったわけじゃない。怪盗紳士は、もう一度だけ動く」

 と、自分に言い聞かせるように呟いた。


やっと終盤に入りました。今しばらくお付き合いください。

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