第一章 日常への侵入者
葉桜の季節の夕暮れ時。ある者は寄り道をし、またある者は家路を急ぐ街角でのことだった。一人の真面目そうな女子高生が、不良グループであろうと思われる男子生徒に囲まれていた。道行く者たちは厄介ごとに関わりたくないのか、見て見ぬふりをして通り過ぎて行く。少女が青ざめた顔をしていると、急に背後から、
「何やってんだ、テメエら……」
という低い声がした。次の瞬間、不良たちの顔が青ざめて行くのを少女は見た。彼らは声の主の方を振り向く。その視線の先には、驚くほど背が高く端麗な容姿の美少女が立っていた。
「やばい。逃げろ!」
「くそっ!ついてねえ」
彼らは一目散に逃げようとした。だが、遅かった。いや、違う。相手が早すぎたのだ。
「私から逃げられるとでも思ってるの?甘いのよ……」
そう言うと彼女は、逃げようとする不良たちのリーダー格と思われる男の襟首をつかんで引き寄せ、股間を蹴り上げた。蹴られたところを押さえて呻く彼の頭を足で踏みつけ、身動きがとれないようにしておいて、残りの二人の少年の始末にかかる。
その手際も、瞬きをしている余裕もないほど素早かった。一人の鳩尾に拳をお見舞いし、こちらも同様に頭を踏みつけて動きを封じておく。そして、もう一人の頭に回し蹴りを入れた。辺りに静寂が訪れる。
「もう終わり?もう少し楽しませて欲しかったんだけどな……」
清々しいほどあっさりと倒された彼らに、まったく感情のこもらない声でそんな事を言うのだった。そして、少女の方を振り返り、
「大丈夫?何かヘンなこと、されなかった?」
優しい声で、そう訊ねた。少女が黙ったまま頷くと、彼女は、
「今日のことは、早く忘れてね」
そう言い残して遠ざかる後ろ姿を、オレンジ色に染まる空の下で、少女はいつまでも見送っていた。風に揺れる長い髪。すらりと伸びた長い手足。こんなに綺麗な人を、これまで見たことがなかった。美しくも凛々しい彼女が、不良たちの間で「生きた殺人兵器」と呼ばれ、恐れられている、あの時田涼葉なのだということを後から知った。
涼葉の一日は、朝食の準備とお弁当作りから始まる。高校一年生の女の子らしくない日常だ。だがこの習慣は、もう何年も時田家では当たり前のこととなっていた。自分の弁当だけではない。両親の弁当も涼葉が作る。帰りが遅い両親を気遣ってのことだ。
「おはよう……」
欠伸を噛み殺しながら、涼葉と同じ年頃の少年が台所に入って来た。弟の涼雅だ。長身でこそないものの、誰もが振り返って見るような美貌の持ち主だ。そしてその美貌の奥に思慮深さを隠しているような、そんな雰囲気を持っていた。
「おはよう。頭、ボサボサよ?」
弟を一目見るなり、まるで母親のような言葉が口をついて出る。来年からは、もう一つお弁当がいるのね……。涼葉は内心ため息をついた。涼雅は、今年度で義務教育を終える年齢だった。
「顔、洗って来るよ」
そう言うと、涼雅はすぐさま洗面所へと向かった。何しに来たの?そう思ったが、口には出さない。
しばらくして、涼雅が台所へ戻って来た。姉弟が席について食卓に並んだ朝食を黙々と食べていると、母親の英琳が、眠そうな顔をして入って来た。続いて父親の勇作も。
「おはよう……」
二人はほぼ同時に口を開いた。年甲斐もなく、お揃いのパジャマを着ている。
「おはよう。昨日も遅かったわね」
涼葉の言葉に、涼雅も頷く。
「まあ、いろいろあんだよ。社会の下僕は辛いねぇ」
そんなことを言いながら、勇作が苦笑した。社会の下僕。彼らはそれぞれ警部と警視だった。
まず、勇作が席についた。その隣の椅子に、英琳も腰をおろす。長身の勇作と、小柄で童顔な英琳。そこだけを見れば、ごく普通の夫婦だ。しかし、この二人の結婚は、当時少なからず周囲を驚かせたらしい。地位も年齢も、英琳の方が上なのだ。そして、それは今でも変わっていない。
食事を終えて身支度を整えると、勢いよく玄関のドアを開ける。ちょうど向かいの家から出て来た人物と、目が合う。
「おはようございます」
涼葉よりも先に、涼雅が彼に挨拶をした。
「おはよう……」
彼は口を押えて欠伸をしながら返事をした。涼葉と同じ高校の制服を着た彼は、同級生で幼馴染だった。高校の制服にしては爺臭い、紺のブレザーに琥珀色のループタイがよく似合っている。
「おはよう。あまり眠れていないようね」
涼葉が声をかけると、
「まあ、いろいろあんだよ」
勇作と同じ言葉を吐くのだった。
二人は並んで歩きだす。だが、どうしても涼葉の方が背が高いので、歩幅が広い。結果、彼は時折小走りで、涼葉の後を追わなければならなかった。
「おい。もっとゆっくり歩けないのか?」
「仕方ないでしょ……。好きでこんなに背が伸びたわけじゃないわ」
そんなやり取りをしながら、学校へ向かう。正直なところ、涼葉には彼と並んで歩きたくない理由がある。身長173㎝の彼に対して、涼葉のそれは178㎝もあるのだ。いくらなんでも、育ちすぎよ……。思わず、長身を恥じるような吐息が漏れる。
しばらく黙って歩いていると、背後から二人の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「航一、涼葉。おはよう」
涼葉と須賀航一は、声の主の方へ振り返った。色白でショートボブの、黒目がちな瞳の少女が立っている。
「おはよう、美波」
「押忍……」
航一が、寝癖のなおりきっていない頭をポリポリと掻いた。
「じゃ、私、先に行ってるから」
涼葉は彼らに背を向けて、足早に歩きだした。なかなか二人きりで過ごす時間のとれない恋人同士への、友人としての配慮である。
狭いながらも、良好で充実した交友関係を持っているつもりだった。幼馴染の須賀航一、親友の鈴村美波。そして、弟の涼雅。空手道場の仲間たち。それでよかったし、それ以上のものは何も望んではいなかった。だが、涼葉の日常の輪の中に、どうしても割り込みたい人物がいたのだ。それも、涼葉が最も拒否したい形で。しかし、今のところは涼葉の生活は、まだ平和だった。今のところは、まだ……。
その日の放課後。鈴村美波は、机の上にタロットカードを並べていた。彼女は占いが得意で、よく当たると評判だった。そのため、女子から恋愛の相談を受けることがしばしばあった。
「静観して待つ……。今はまだ告白する時期ではないようね。彼が信頼している友人に、縁結びを頼んでみて。きっと力を貸してくれるはず……。気持ちを伝えるなら、四か月後に手紙で。この時、好きという言葉は使わないこと。警戒される。すぐに返事が欲しいような素振りは禁物。気長に待てば、恋が芽生える暗示……」
美波はそこで言葉を切り、細く息を吐いた。
「本当?ありがとう。鈴村さん」
依頼者は微かに頬を染めながら、静かに立ち去って行く。その背中に向かい、
「頑張ってね」
と、美波が声をかける。依頼者は、振り返ると無言で小さく頷いた。しばらくして、
「好きよね、ホント」
嘲笑を口元に浮かべ、涼葉が教室に入って来た。
「また覗き見してたの?お行儀悪いわよ」
美波がたしなめると、涼葉はふてぶてしく、
「はあい」
と、返事をした。もちろん、悪いことをしたなどとは、微塵も思ってはいない。
くだらない……。恋愛とは、要するに時間とお金の無駄遣いである。学生時代には友情を育み、恋人は社会人になってから探せばよい。それが、涼葉の率直な意見だった。学生時代に恋愛の経験値を上げておけば、社会に出てからより一層洗練された恋人を探すことができる。失恋の経験も、けして無駄にはならない。という美波の意見も頷けるところはあるが、やはり納得は出来ないのだ。
カードを丁寧に片付けながら、美波が言った。
「根拠のある自信は、根拠が無くなれば崩れ去ってしまう。けど、根拠の無い自信は、根拠が無いからこそ、絶対になくならない。だから、根拠の無い自信の無さは、いつまでたってもなくならない。涼葉が恋愛に否定的なのは、根拠の無い自信の無さの裏返し……」
何言ってんの、この子は。根拠のある自信は、根拠が無くなれば崩れ去ってしまう。これは、わかる。だが、根拠の無い自信を、自信と呼べるのだろうか。それは、ただの蛮勇と呼ぶべきなのでは……?涼葉は頭を抱えた。
そこへ、さらに追い打ちをかけるように、
「どうせ私なんて……、って考え方はやめたら?自分が自分を好きになってあげなかったら、どうするの。涼葉は充分、魅力的よ」
そんな事を言うのだった。
いや、いや。何をおっしゃっているの。私はちゃんと、自分のことは好きですからね?ええ、好きですとも。涼葉はそのように伝えたが、
「そうかしら?」
と言って、美波は首を傾げるのだった。
「どうでもいいけど、帰らない?」
うんざりした涼葉が、帰宅を促す。
「そうね……」
人間が人間を説得することの難しさを噛みしめながら、美波は立ち上がった。その時、視界の端に人影が見えたような気がした。
「ごめん、涼葉。私、職員室に用事があるの。悪いけど、先に帰ってて?」
「そうなの?私、待つよ?」
今日は二人で、甘味喫茶にあんみつを食べに行く約束をしていたのだ。
「ありがとう。でも時間かかりそうだから、今日は先に帰ってて?ごめんね」
「うん、わかった。あんみつ、期間限定品だから、絶対食べに行こうね」
そう念を押して帰って行く涼葉には申し訳ない気がしたが、本当は職員室に用事なんてないのだ。ただ、視界が捉えた人影に、僅かな希望を託したのである。その人影が誰なのか。美波には確信があった。あれは、きっと高木くんだ。
どんな食生活をしたらそんな体形になれるのか、教えて?思わずそう問い詰めたくなるような、長身痩躯……。と言えば聞こえは良いが、有り体に申せば、痩せぎす、ということなのだ。その上、「歩く校則違反」と呼ばれるに相応しい、見事なまでの制服の着崩し方と、目が覚めるような銀色に染められた頭髪。
校内で、その名を知らない者はいないと囁かれている人物が、この高校には二人いた。一人は泣く子も黙る高校生探偵、須賀航一。そして、もう一人がこの高木茂だった。それは彼の見た目もさることながら、その身体能力の高さによるところも大きかった。否。むしろ、そちらの方が、周囲の者に畏怖の念を植え付けていたのである。
気付かれたか?茂は思った。二人の視界に入らないように、注意を払っていたつもりだったのだが。
鈴村美波は見た目はおっとりしているが、非常に勘の鋭い女の子だった。その愁いを帯びた大きな瞳で見つめられると、こちらのすべてを見透かされているような気分になる。胸の奥に秘めている想いも、心の傷も、何もかも。いや、何も気付かれて困るような事ではない。困るような事ではないが、やはり恥ずかしい。
茂は知っていた。自分が、けして叶うことのない、絶望的な片想いをしているという事実を。それでも諦めきれない自分を、彼女はどう思って見ているのだろう。諦めの悪い、情けない男だと笑われているのだろうか?
微かに見え隠れする涼葉の後ろ姿。茂はその後をつけて行く。そして、確実に距離を縮めていった。人気のない校舎内での尾行は、茂にとっては赤子の手をひねるよりも容易いことであった。しかし、その後をどうしろと言うのだろう。伝えたい想いは、山ほどある。だが、上手く言葉に出来ない。
涼葉はそれとなく辺りの様子を窺った。さっきから、誰かに後をつけられているような気がするんだけど、気のせい?恨みを買う覚えなら、山ほどあった。だが、連中は身をもって知っているはずだ。自分たちの実力では、けして私を倒すことは出来ないという事実を。おかしい。だったら一体、誰が。涼葉はしばらく考え込んだ。恐らく、尾行の主は一人のはずだ。職員室での用事が思いのほか早く終わった、美波だろうか?いや、違う。美波なら、気配でそれとわかる。もちろん、航一でもない。とにかく、これは私の知らない何者かの仕業だ。涼葉は考えることをやめて、勢いよく振り向いた。そこには、制服をだらしなく着込んだ、ひょろ長い男子生徒が立っていた。
「あなた、誰?」
涼葉の口から最初に出た言葉は、それだった。服装こそだらしないものの、不良特有の荒くれた雰囲気が無い。彼からは、ごく普通の好青年の匂いがした。
「一年C組の高木茂……。陰では、歩く校則違反とか呼んでいる生徒もいます」
悪びれもせず、そんな事を言う。どうやら照れているらしいのだが、今の話のどこに照れる要素があるのだろう。まだ何か言いたそうにしているが、何だろう。私、早く帰りたいんですけど?涼葉が口を開く前に、茂は言葉を続けた。
「ずっと前から好きでした。あの……。帰る方向、同じなので、一緒にお茶でも……」
「ごめん。そういうのは、無理」
そう答えると踵を返して帰ろうとする涼葉の長い髪を、何者かが引っ張った。
「この子、照れ屋さんなの。高木くん、良かったら私たちと一緒にあんみつ食べに行きましょうよ」
美波だった。いつの間に……。呆気にとられている二人の背中を押しながら、下駄箱の方へと向かう。
「俺はいいですけど、時田さんが……」
「いいから、いいから」
美波が笑顔で答えているのを、涼葉は複雑な思いで見つめていた。もしかして、こういう展開、狙ってた?職員室に用事があるっていうのは、噓だったの?だとしたら、美波はいつ気付いたのだろう。茂の視線に。迂闊だった……。涼葉はほぞを噛んだ。
どこをどう歩いたのか、最早それさえ覚えていない。我に返った時には、涼葉は、茂や美波と一緒に甘味喫茶のテーブルに座っていた。期間限定品のあんみつを、三つ注文する。
店員が、不思議そうな顔をしてこちらを見た。それはそうだろう。周囲を見渡しても、客の大半が女性だ。しかも、女二人に男一人。これからどんな修羅場が展開されるのか、興味津々といったところか。涼葉はそっとため息をついた。私たちは、ただ、あんみつを食べに来ただけですよ……。
気まずい沈黙が流れる。こういう空気は苦手だ。涼葉はとりあえず、差し障りの無い質問をしてみることにした。しかし、その前に改めて茂の顔をじっくりと見てみる。色が浅黒く、精悍なその容貌はけして嫌な気はしないものの、だからと言って彼のことを好きになるということはないだろう。涼葉の視線に気付いたのか、愛情たっぷりの眼差しを投げかけてくる。いや、だから。そんな目で見ないで?
「高木くんって、何かスポーツやってる?」
慌てて、そんなとってつけたような質問をする羽目になるのだった。茂は少し考え込んだ。
「あれを、スポーツと呼べるのかなあ……」
「あれって、何?」
戸惑いながら、茂は答えた。
「ロッククライミング。あれはスポーツというより、技術と呼ぶべきなのかも」
ソウデスカ。三度の飯より空手が好き、三度の飯も欠かさない涼葉にとっては、興味も関心も湧かない話だ。
「あの、岩壁をよじ登る、登山のテクニックのことでしょ?楽しい?」
「楽しいというか……。登りきった時の達成感は、気分がいいです」
試合で、綺麗に技が決まった時の爽快感と似たようなものなのかもしれない。
その後は、好きな食べ物や家族のことなど、本当に当たり障りのない話をして、運ばれて来たあんみつを食べた。期間限定品のそれは、格別に美味だった。それでお終い。のはずだった。店を出た時、美波がある提案をするまでは。
「高木くんは、C組だったわね」
「はい、そうです」
「だったら、明日から私たちと一緒にお弁当食べない?」
「えっ?」
涼葉と茂は、同時に声を上げた。勘弁して!涼葉はそう叫びたかった。
涼葉はA組、航一がC組、美波がE組。三人はいつも、中間地点のC組に集まって弁当を食べていたのだ。
「いいんですか?」
「高木くんさえ、良ければね」
こちらを睨みつけている涼葉の視線を完全に無視して、美波は答えた。
「嬉しいです。俺、友達が他校に進学したから、一緒に弁当を食べる人がいなくて……」
本当かしら。一瞬、猜疑心が顔を出した。だが先ほど、差し障りのない会話としては定番である家族の話題を持ち出した時、父親は自分が幼い頃に亡くなった、と消え入りそうな声で語った茂なら、あり得そうな話だ。涼葉の中に、高木茂という人物に対する、好奇と興味が芽生えた。
結局三人は、次の日から一緒に弁当を食べる約束をして、それぞれの家に帰ることになった。
次の日の朝。涼葉は、航一に向かって盛大に文句を言っていた。
「一緒に昼飯を食う人間が一人増えるくらい、どうってことないだろ?」
呆れたように、航一は言った。確かに、涼葉にしてみれば、これは非常に癪に障ることなのかもしれなかった。航一は涼葉が友達を大切にしていることを正しく理解しているつもりだったし、それ自体はけして悪いことではないと思っていた。でもさ……。俺たち、いつまでも三人で一緒にいられるわけじゃ、ないだろう?
「高木はさ、中学の頃から、めっちゃお前のことが好きだったよ?その想いを受け入れてやるのが女ってもんだろ。違うか?」
「私、オトコオンナだし」
「都合のいい時だけ、未確認生命体になるなよ……」
航一は困り果てて呻いた。不機嫌さを隠そうともしない涼葉が、その隣を歩いて行く。
「そういえばさ……」
涼葉が疑問を口にした。
「高木くんの、他校に進学した友達のこと、航一は何か知ってる?」
またしても寝癖のなおりきっていない頭を掻きながら、航一が答えた。
「ああ。それ多分、久住のことだろう」
「ふうん」
それきり、二人は一言も口を利かないまま、校門の前までたどり着いた。そういう友達が本当にいたのか……。涼葉は、航一の横顔を見た。けして崩れることのない、ポーカーフェイス。その久住という人物のことを、他にも航一は知っている。恐らく、良からぬ噂か何かを。しかし航一の口からは、これ以上の情報を引き出すことは不可能なようだった。だが今のところは、茂がけして嘘をついていたわけではない、ということが確認出来ただけでも……。それだけでも、いいかな?涼葉は思った。
その日。C組の教室に集まって、涼葉たちが弁当を食べているその最中に、航一の携帯電話の着信音が鳴り響いた。航一は相手の番号を確認すると、素早く口の中に残っていた食べ物を飲み込み、電話に出た。それは、涼葉もよく知っている電話番号だった。
「もしもし」
航一の声が、険しい。この人物からの電話は、まず間違いなく良からぬ知らせだ。涼葉もよく知っている番号の主。その正体は、時田勇作であった。
「俺は構わないけど……。オッサン、定時で上がれるのかよ。……。わかった、じゃあな」
電話を切った後、航一は何事か考え込んでいるように見えた。こういう時の航一に、何を話しかけても無駄であることを知っている美波は、小さな声で、
「ごちそうさま」
とだけ言うと、空になった弁当箱をしまい込み、自分の教室へと戻って行った。
さて、どうしたものか。私も戻りたいけど……。涼葉が思案していると、
「今の電話って、もしかして警察から?」
茂がそう訊ねたので、
「私のお父さんからよ」
涼葉は彼の質問に答えなければならなかった。
「へえ。時田さんの親父さんって、警部なんだよね?それにしても、オッサンって……」
「子供の頃から、知ってるからでしょ」
それなのに「時田さん」とか「警部さん」とかいう呼び方をするのは、何だか着慣れない衣を身に纏うようで、落ちつかない。涼葉がそう付け加えると、茂は納得した。
「じゃあ、そろそろ私も教室に戻るわね」
そう言うと涼葉は立ち上がり、C組の教室を後にした。
航一と二人で取り残された茂は、
「須賀。大丈夫か?」
と、声をかけた。うわの空で、返事がない。もう一度、今度はもっと大きな声で、
「須賀航一くん!」
またしても、返事はなかった。
知らんがな……。茂は諦めて、自分の席へ戻った。
放課後。茂は思い切って涼葉に声をかけた。
「良かったら、一緒に帰らない?」
涼葉は少し考え込んだ。昼に掛かって来たあの電話の様子なら、今日は勇作は定時で仕事を終えて、帰って来るはずだ。そして、その頃を見計らって航一が訪ねて来るに違いなかった。冷蔵庫に何か残っていたかなあ……。スーパーで、買い物をして帰った方が良さそうだ。二人とも典型的な瘦せの大食いなので、とにかく食べる量がもの凄い。
「ごめん。今日は寄るところがあるから……」
そう言うと、涼葉は足早にその場を立ち去り、食材の調達へと急いだ。途中で、不良グループに絡まれて困っている男子生徒を荒っぽい手段で救出することも、忘れない。試合では反則とされる技でも、実戦ではためらうことなく使うことが出来る。
特売品ばかりを選りすぐって買い、家路を急ぐ。家に帰るとまるで邪魔物を剥ぎとるように制服を脱ぎ、私服に着替えた。それから長い髪を後ろで一つに束ね、台所に立ち、ささやかな晩餐の支度を始めるのであった。
そうしているうちに、まず涼雅が帰宅した。普段よりも僅かに豪華な食卓を見て、
「航一さん、来るんだ」
すぐさま事態を察したようだ。
「じゃあ、僕、シャワー浴びて来る」
そう言うと、そそくさと台所を出て行く。涼雅は航一によく懐いていた。話の輪に加わりたいのだろう。だが、勇作には職務上守秘義務があるので、いつも途中で追い出されてしまうのであった。
予想通り、しばらくして勇作が玄関のドアを開ける音がした。
「お帰りなさい」
「ただいま。須賀はもう来ているか?」
「ううん、まだ。そのうち来るわよ」
「なんだ。じゃあ、今、シャワーを浴びてるのは涼雅か」
航一にとっては時田家が、涼葉にとっては須賀家が。それぞれ、勝手知ったる我が家も同然だったので、シャワーを浴びて行くことなどは日常茶飯事であった。
涼雅がパジャマ姿で台所に現れてから、ほどなくして航一が訪ねて来た。
しばらくの間、四人は和やかに談笑した。勇作と航一は、よく食べた。
「二人とも、よくそんなに沢山食べられるよね……」
食の細い涼雅は、呆れ顔だ。
「ところで……」
そろそろ本題に入るようだ。勇作は、涼葉と涼雅に台所から出て行くよう、指示した。涼雅が渋々席を立つ。そんな弟の後を追うように、涼葉もその場を立ち去った。
二人の気配が遠ざかる。それを待っていたかのように、勇作が口を開いた。
「怪盗紳士から、犯行予告状が来た」
航一は、耳を疑った。
怪盗紳士とは、絵画を専門に盗みを働く美術品窃盗犯だ。盗んだ絵が飾ってあった壁に「確かに頂いて参ります。怪盗紳士」と書かれたメッセージカードを貼り付けて去って行くことから、こう呼ばれるようになった。だが、これまで彼が犯行声明をしてきたことは、一度もない。
「ちょっと待て。それ、本当に怪盗紳士からの犯行声明なのか?」
「わからん。だが一応、怪盗紳士本人からの予告状である、という線。怪盗紳士の名をかたる別人からの犯行声明である、という線。どちらもあり得るだろうが」
「うーん……」
航一は腕を組み、目を閉じた。怪盗紳士のこれまでの犯行と、それにまつわる謎の数々について、考えてみる。
まず、怪盗紳士のターゲットとなる絵は、香月稔という画家の作品であるということ。この香月稔という画家は、そのけして長いとは言えない生涯で、かなり多くの作品を残している。多作な芸術家であった、と言ってしまえばそれだけのような気もするが、それにしては作品数が多いのだ。
それに、単純に金銭が目的だとすれば、美術品窃盗はハイリスクな割に、リターンはさほど大きくはない。盗難品であるかぎり、美術品の価値は事実上なくなってしまうからだ。警察当局の全てのデータベースに、それらの作品は記録されている。つまり、転売は至難の業なのである。結局のところ、盗まれた美術品は薄汚い裏社会における違法取引の通貨や担保になっているというのが現状なのだ。
あるいは、美術品そのものが目的である場合はどうだろう。もしそうであるなら、もっと有名な画家の作品を狙いそうなものだ。有名な美術品を盗むというロマンを求めて、などというケースなら尚更だ。フィクションの世界では、犯罪者を英雄視するものも珍しくはない。その手の映画や小説の罪過は、大きい。犯罪者自身が自らをアンチ・ヒーロー的な存在だと思い込む。
どうやら怪盗紳士の目的は、金銭やロマンといったものではなく、香月稔作品にあるらしい。美術品そのものが目的である犯行の場合、特定の画家の作品に対するこだわりはない場合が多い。名画と名高い作品でありさえすれば良いのだ。
しかし、怪盗紳士が狙うのは香月稔の作品に限られている。それも、香月作品の「左下にサインがあるもの」という条件付きなのだ。どういうわけか、香月稔の作品には、右下にサインがあるものと、左下にサインがあるものが存在するのだ。なぜ、同じ画家の作品に、サインが違う位置に書かれている物があるのだろう。どうして怪盗紳士は、左下にサインがある作品にこだわるのだろう。
「今回狙われている作品は、何だ?」
「それが……。わからないんだよ」
「はあ?それ、どういうこと?」
勇作の話によると、怪盗紳士は、香月稔の孫とされる人物が所有している香月作品のどれかを狙っているらしいのだが、犯行予告状には「お孫様の所有しておられる作品の、いずれかを頂きに参ります」としか書かれていなかったと言うのだ。手紙には消印はなく、朝、使用人が郵便受けに入っているのを見つけたのだそうだ。その使用人が警察に通報してきたのだが、主人である「香月稔の孫」は、当屋敷のセキュリティは万全だから、けして怪盗紳士などというけしからぬ輩に、祖父の作品を盗まれるということはあり得ない。警察は一切介入してくれるな、と言い張るのだそうだ。
「ふうん……」
航一は、香月稔その人の人生に思いを馳せた。
端的に言えば、その生涯は謎に満ちている。彼は妻との間に、三人の娘をもうけている。だが、香月は愛娘を全員大富豪のもとへ養女に出していた。なぜか。これには諸説あるが、現実的なのは、その頃の香月は非常に貧しく、子供たちを養うことが出来るだけの経済力が無かった、という説か。
その娘たちが、その後どのような人生を送ったのかは定かではないが、それぞれが伴侶を得て、子をもうけたと仮定すると……。一体、どの「孫」なのだろう。そもそも、その人物は本当に香月稔の孫なのかどうか。それすらも、怪しい。
「なあ、オッサン。その人ってさ、本当に香月稔の孫なの?」
航一は、勇作に率直な疑問をぶつけてみた。
「さあな……。けど、怪盗紳士は少なくともそう思っているようだし、本人も“祖父の作品”だと言っているし、現時点では、そう仮定するのが妥当だろう」
航一の頭の中に、怪盗紳士の犯行の動機について、ある仮説が浮かんだ。しかし、今はまだそれを明かすべき時ではない。もう少し、根拠と証拠が必要だ。でも……。俺の勘は、当たる。これまでの経験が、そう告げていた。
「それで?どうするの。犯行を予告された本人が、警察は一切介入してくれるなと言っている上、予告状には日時を指定する記述が無い」
まずは、それだ。怪盗紳士の目的は、香月稔の「左下にサインのある作品」の「収集」であるということは、間違いないだろう。そうであるなら、なにも今更、犯行予告状を寄越すなどという気障な真似をする必要はない。しかも、その予告状には日時を指定する記述は無く、ただ「盗みに行きますよ」と言っているのだ。そして、その標的とされる人物は、警察の介入を望んではいない。そう。どうしても、そこに違和感が拭い去れない。まるで、表沙汰にされたくない「何か」があるような……。
「須賀はどうしたらいいと思う。それを訊きたかったんだ」
「まあ、泳がせておけばいいんじゃないかな」
航一は答えた。
「えっ……」
明らかに勇作は狼狽していた。犯行声明があったにもかかわらず、警察は一切介入しなかった。果たしてそんな事を世間は許すのか。たとえ当事者が望まなかったにしても、だ。戸惑う勇作に構うことなく、航一は続けた。
「結果はどうあれ、収穫は大きいと思うぜ?」
航一は、勇作に幾つかの注文を付けた。
「わかった。調べておく」
この日は、それで解散となった。
涼葉、航一、美波。この三人の輪の中に、もう一人。高木茂が加わってから、早いもので一ヶ月が経とうとしていた。しかし、その間に何か特別に大きな変化があったわけではない。ただ、弁当を一緒に食べているだけだった。四人で机を並べ、黙って黙々。食べてお終い。後は航一と美波が仲良く談笑したり、航一が美波にやり込められていたり。そんな二人を尻目に、涼葉はさっさと自分の教室へと戻って行く。そんな毎日が続いた。茂は涼葉に一言も話しかけることさえ出来ないまま、もどかしい思いをしていた。
涼葉はA組の教室に戻ると、小さくため息をついた。慣れとは恐ろしいものだ。最初は嫌悪と違和感しかなかった、高木茂の存在。それが今、時間の経過とともに抵抗が無くなりつつある。一緒に帰ろうと誘われれば、途中まで一緒に下校することさえあるのだ。まるで、蜘蛛の糸に絡め捕られてゆく蝶のようだ。おぞましい。私は、絶対にあんな奴を好きになったりはしない。絶対に……。
平和な日常が、侵蝕されてゆく。たった一人の、侵入者によって。
何だか廊下の方が騒がしい。そう思って見てみると、茂が風紀委員長に追い掛けられている。
「待ちなさい!」
待てと言われて、待つ馬鹿はいないわよねぇ。涼葉はそう思ったが、面白そうだったので、見物させてもらうことにした。
「やなこった」
茂は、余裕でそんな軽口をたたきながら彼との距離を引き離し、窓を開けると身を乗り出した。そのまま窓から外に出ようとする。
「待てっ!ここは二階だっ!」
委員長が叫んだ。だが、すでに外に出ていた茂は、窓枠に手をかけたまま壁を蹴って近くの木の枝に飛び移った。そして、木の枝から枝へと飛び移って行き、瞬く間に追っ手から逃げきってしまったのである。
涼葉は呆然とその場に立ち尽した。これまで自分が打ち立てた、武勇伝の数々を思い返してみる。
小学六年生の時のことだった。体育の授業で、水泳があった時。この頃すでに長身、巨乳の萌芽を見せ始めていた涼葉の水着姿。それを見て、一人の男子児童がこう言ったのだ。
「時田の胸、デカいな」
涼葉はその児童の首を片手で掴んで持ち上げた。彼の足が宙に浮く。男子児童は足をバタつかせ、苦しそうに、
「は、離せ……」
と言ったが、涼葉は離すどころか、彼の首を掴んでいる手にさらに力を込めた。
「く、苦しい……」
血の気の失せた蒼白な顔をして、彼は呻いた。このくらいにしておいてやるか……。涼葉は舌打ちすると、その軽い体をプールの中に投げ入れた。勢いよく水しぶきが上がる。彼は他の児童の手によって救出された。
この出来事以降、時田涼葉は「生きた殺人兵器」と呼ばれ、恐れられるようになったのだ。
また、中学二年生の時。柔道部主将から試合を申し込まれたことがあった。
「柔道と空手では、そもそも土俵が異なるでしょう?」
あなたたちじゃ、弱すぎるし。本音はそれだったが、率直に伝えると失礼だと思ったので、遠回しに断ったつもりだった。しかし、彼は納得しなかった。同じ格闘技ではないか、と言うのだ。それもそうだ。涼葉はその申し出を受けることにした。
気の進まない試合ではあったが、たとえどんなに弱い相手であろうと、試合はいつでも全力投球。そうでなければ、相手に対して失礼だ。それが涼葉の信念であった。
ところが。一対一で勝てないと知るや否や、彼らは涼葉一人に対して、参加していた部員全員で掛かって来たのだ。その数、二十三人。こんな卑怯な連中に負けるわけにはいかないし、この私が負けるはずがない。涼葉は彼らを蹴散らし、圧勝した。
勝った涼葉は、一言、こう言い放った。
「勝負は正々堂々と勝ってこそ、意味があるんだ。テメエらに、スポーツとしての柔道を続ける資格はねえよ」
そして、柔道部の看板を素手でへし折ったのである。
この他にも数え上げれば切りがないが、よく知られているのはこの二つか。しかし。たった今見てしまった光景は、涼葉の武勇伝などよりも、はるかに衝撃的だった。高すぎる身体能力。その痩身のどこにそんな力があるの?と思うような、体力。
涼葉の中に、茂に対して「平和な日常を侵蝕する迷惑な侵入者」以外の位置づけが生まれた。その位置づけがどうあるべきなのかを考えていたし、迷ってもいた。
「相変わらず、派手な追い掛けっこだな」
いつの間にか、航一が背後に立っていた。
「航一は“あれ”を見たことあるの?」
「あるよ?お前、あれを見るのは初めてか?まあ、風紀委員の連中も、高木を追い掛けまわすのは、効率が悪いと思ってるんだろうな。滅多に見られる光景じゃない。でも、壁をよじ登ったり、天井に張り付いたり……。ホント、すげえと思う」
そして、涼葉の方をちらりと見て、
「別の意味で、人間業じゃないよな……」
と言うのだった。
結局その日は何の結論も出せないまま、涼葉は一人、家路を急いだ。
真夜中に、ふと目を覚ました。どうやら夢を見ていたらしい。どんな夢だったのかは、覚えていないが。
涼葉はゆっくりと起き上がった。覚えてはいないが、嫌な夢だったような気がする。シャワーでも浴びて来よう……。部屋を出たところで、涼雅と目が合った。彼も丁度自室から出て来たところだった。
「あら。あんたも眠れないの?」
「うん……」
そう答えると、涼雅は視線を逸らした。どうやら、姉の顔をまともに見られない様子であった。顔を赤らめて、もじもじしている。
変な子。涼葉はバスルームへと直行した。
階段を下りて行く涼葉の後ろ姿を、涼雅はじっと見つめていた。姉さんも、同じ夢を見ていたはずだ。“あれ”が現実になるのか……。涼雅は思わず身震いをした。
今見た夢を、多分姉さんは覚えていない。いつもそうだ。巻き込まれた人は覚えていないのに、僕だけが覚えている。将来起こることを予知しても、あらかじめ知ってしまったことによって本人の行動が変わり、そのせいで微妙に未来を変えてしまう。そして、予知が無効になる。だから、覚えていないのだろう。運命を変えてしまわないために。所詮変えられない運命なら……。どうして僕は、予知夢なんか見るのだろう。
自室のドアノブに手を伸ばした涼雅の伏せられた目には、涙が浮かんでいた。
やはり怪盗紳士は、万全であるはずの豪邸のセキュリティをものともせず、見事に獲物を攫って行ってしまったらしい。だが、それは想定の範疇だ。
「そんなこったろうと思ったよ」
航一は、電話の向こうで悔しがる勇作に、そう言った。慰めるでもなく、責めるでもなく。そう。これは予想されていた出来事なのだ。さらに事の顛末を詳しく説明しようとする彼に、
「まあ、落ち着けよ。詳しい事情は後から聞く。ところで……。この間頼んでおいた件。調べておいてくれたかな?」
「ああ、あれか。調べておいた」
「そうか。じゃあ、近いうちに定時で上がれそうな日に連絡をくれ。家でゆっくりと話を聞くから。……え?これは、そんなに急ぐことじゃないから構わないよ」
「わかった。じゃあな」
そう言って電話を切った勇作の表情が、目に浮かぶようだ。
「今の電話って、時田さんの親父さんから?」
いつからそこにいたのだろう。航一が顔を上げると、茂が立っていた。
「そうだよ?」
あっさりと答える航一に、茂は遠慮がちに訊ねた。
「須賀ってさあ……。割と頻繁に、時田さんの家に出入りしてる?」
「まあ、なあ。ガキの頃ほどじゃなくなったけど。何か事件が起きると、オッサンから呼び出されるし」
ふと気付いた。茂は羨ましいのだ。「幼馴染」という立ち位置にいるため、気兼ねなく涼葉に声をかけたり、家を訪ねたり出来る自分のことが。
「なあ。今度、一緒に涼葉の家に来ないか?」
「え……。いいの?」
茂は驚きを隠さず、訊き返した。
「構わないよ。途中から、出て行ってもらうことになるだろうけど。その間、涼葉と二人きりに……。なれないかも」
航一は茂に、涼雅の気合の入ったシスコンぶりを話して聞かせた。
「まあ、それは知ってるから……」
そう言って、茂は苦笑する。それなら話は早い。
「じゃあ、オッサンから連絡が来たら知らせるから。一度俺の家に集合してから、二人で押し掛けるか。くれぐれも、涼葉にバレないようにしろよ?」
航一は、悪戯を企む子供のような目で笑った。しかし、茂は穏やかな表情で、かぶりを振ってこう言うのだ。
「気遣ってくれるのは、ありがたいけど……。自力で何とかしたいんだ。そもそも、簡単に落とせるなんて、思ってないし」
「そうか……」
航一は、寝癖のなおりきっていない頭を掻きむしった。確かに。男として、その気持ちはわかるような気がした。
健闘を祈るよ。ゆっくりと去って行く茂の後ろ姿に向かって、航一は心の中で、先ほど言いそびれた言葉を呟くのであった。だが、こうも思った。果たして“あれ”を、落とせる男がいるのかな……。
放課後。なんとなく真っ直ぐ家に帰る気にはなれなかった涼葉は、一人で雑貨屋のショーウインドウを見つめていた。普段は忙しい航一が珍しく暇なので、美波を誘ってショッピングモール内のフードコートへ行ったのだ。
航一は、甘い物でも辛い物でも何でもよく食べる。曰く“激辛”とか“完食された方は無料”などという謳い文句を目にすると無性に腹立たしくなり、どうしても食べたくなるのだそうだ。アホらしい……。確か二人が向かったその店は「ジャンボ激甘みつ豆」という新商品を出したばかりのはずである。何がIQ200の天才よ。ただの底なし胃袋じゃないの。
硝子の向こうには、可愛らしいデザインのアクセサリーが並んでいる。こういうの、美波だったら似合うんだろうなあ。私には、ちょっと……。ショーウインドウに背を向けて、帰ろうとしたその時だった。いつの間に、そこにいたのであろう。茂に声をかけられた。
「時田さんって、そういうのが好きなの?」
相変わらず彼の涼葉を見つめる眼差しは、愛情たっぷりだ。
「別に。どうせ、似合わないし」
涼葉の声が、若干低くなった。それが何を意味するのか。当然茂は知っていたが、気付かない振りをした。
「おいで。買ってあげるから」
そう言うと涼葉の手首を掴んで、今しがた後にした雑貨屋へ連れ込んだ。
掴まれた手首を必死に振りほどこうとするが、容易にそれが出来ない。涼葉は茂の横顔を睨んだ。想像以上に、強い。手首が痛い。私より強い男なんて、いるはずないのに!
「買って貰う理由なんて、ないから」
仕方がないので言葉で抵抗すると、
「俺には、買ってあげる理由があるよ?」
優しく微笑んで、そんな事を言うのだ。要らないから。絶対に要らないから!
茂は沢山ある指輪の中から、リボンモチーフの華奢なリングを選んで、涼葉の左手の薬指にはめた。まるで測ったかのようにぴったりだ。どうして、よりによって指輪なのよ。
「愛なんてないから、友情の証に」
哀しみを笑顔で押し隠し、それでも漏れてしまった吐息に、涼葉が気付くはずもなかった。
「愛どころか、友情すらないでしょ」
支払いを済ませる茂の背中に向かって、毒のある言葉を吐く。
「ないなら、これから育てればいいさ」
そう言って涼葉を見つめる瞳の奥には、湿った欲望が入り混じって溢れている。それを見た時、彼に対して、そこはかとない嫌悪と侮蔑を感じた。
気まずい沈黙に包まれたまま、二人は店を出た。あるいは、気まずい思いをしていたのは涼葉だけだったのかもしれないが。
「似合ってるよ、それ」
涼葉は茂の瞳の奥を覗き込んだ。そこに、先ほどまでの薄気味悪い感情は見られなかった。少しだけ安堵する。しかし、どうしても不信感を拭い去ることは出来ない。
茂が言葉を続けた。
「多分それ、普通に外せないと思う。手を濡らしてからじゃないと。華奢なリングってのは、小さめのサイズの物がはまってしまうんだ。左右で指輪のサイズが同じ人ってあまりいなくて、利き手の方のサイズが若干大きい場合がほとんどなんだよ。時田さんは左利きだろう?だから、右手にでもはめてくれたらいい」
「詳しいのね。昔、彼女にプレゼントしたことがあるとか?」
涼葉はフンと鼻で笑った。
「いや?俺、好きだしね。アクセ」
そう言われてみれば、茂はセンスの良いアクセサリーを身に着けている。そんな事にすら、今更ながらに気付く。
「じゃあ、また明日」
彼はいつもそう言って笑う。涼葉は憂鬱だった。
「またね」
明日なんて、永遠に来なければいいのに。心の底からそう思った。変な借りを作ってしまった。この借りは、絶対に返す!近いうちに、必ず。
茂と別れた後、涼葉は急いで家に帰り、指輪を外そうとした。しかし、なかなか外れない。台所のシンクで手を洗ってから外すと、すんなりと外れた。試しに右手の薬指にはめてみると、ぴったりはまるし、簡単に外れる。
「脱帽……」
涼葉はすっかり感心して、そう呟いた。
改めてそのリングをよく見てみると、好みのデザインだ。だが、面白くないのは、これが高木茂からの贈り物である、という事実であった。彼の瞳の奥に一瞬現れて消えた、愛情の陰に隠された劣情を思い出す。軽い眩暈と吐き気を覚えた。どうにか気を取り直し、夕食の支度に取り掛かった。それでもまだ、寒気がする。
「じゃあ、また明日」
そう言って笑った、茂の笑顔を思い出した。明日なんて、永遠に来なければいいのに……。
翌朝。涼葉の口から昨日の出来事の一部始終を聞かされた航一は、ため息交じりにこう言った。
「仕方ないだろう?男なんだから」
まず、自分よりも強い男などいるはずがないという自負を持っている、という所からして驚きだ。そんなに自分の強さに自信があるのかよ……。それに。茂の瞳の奥に一瞬現れては消えたという、湿った欲望。“薄気味悪い感情”と涼葉が表現したそれは、彼女が思っているほど穢いものではないはずなのだ。手を繋ぎたいとか、キスしたいとか……。愛しい者へ抱く自然な感情を、なぜこいつは“薄気味悪い”と斬って捨てるのだろう?
航一は何とかして涼葉にそれをわからせようとしたが、
「あんた、どっちの味方なのよ」
と、なじられた。航一にとって、非常に残酷な言葉だった。何を言っても伝わらない、もどかしさ。どうしても誤解や曲解を生じてしまう、言葉というものの限界を痛感する。返答に窮していると、背後から、
「航一、涼葉。おはよう」
という、聞き慣れた声がした。険悪になりかけたその場の空気が、元に戻る。
「じゃ、私、先に行ってるから」
酷く温度の低い感情を押し殺した抑揚のない声でそう言うと、涼葉は足早に去って行ってしまった。その姿に、違和感を覚えたのだろう。
「何か大切な話でも、してたの?」
美波が、航一の顔を覗き込んで訊ねた。
「そんなんじゃ、ねえよ」
航一はそう言って、艶のある美波の髪を撫でた。なあ、涼葉。高木はさ、お前にこんな風にしてみたいんだよ。
その二日後。航一は勇作から連絡を受け、時田家へと足を運んだ。不機嫌さを隠そうともしない涼葉は、食事を終えるとすぐさま台所から出て行った。それでも律儀に手料理をふるまうのは、父親の手前なのだろう。
「航一さん。姉さんと喧嘩でもしたんですか?」
涼雅が訊ねた。あの日、高木にも同じこと訊かれたな……。
「喧嘩ってほどの喧嘩じゃねえよ。気にすんな」
航一は、その時と全く同じ返事をした。
「そういえば、ここ二~三日、塞ぎ込んでるな。涼葉の奴」
ぼそりと勇作が呟く。航一は、まだ皿に残っていた唐揚げを一つ口に放り込んだ。
「そっとしておいてやって」
「唐揚げを頬張ったままそんな事を言われても、説得力ないですよ?」
やれやれ、という仕種をして席を立ち、涼雅が台所のドアを開けた。恐らく、涼葉の様子を見に行ったのであろう。
「怪盗紳士が犯行に成功したのは、想定の範疇。問題は、誰の所有している何という作品が盗まれたのか、だ」
それを表沙汰にしたくないので、警察の介入を拒否したのであろう。無論、被害者が口を割るはずがない。それも、想定の範疇だった。だから、航一は勇作に「せめて、盗まれた絵のサインの位置だけでも確認して来い」と伝えておいたのだ。
「お前の推測通りだったよ。盗まれたのは何という作品だったのか、については一切話そうとしない。どんな絵だったのかについても、訊ねてみたが返事はなかった。けど。サインの位置が左側だったということだけは、訊き出せた」
勇作は気が抜けたビールを飲み干した。航一は黙ったままウーロン茶の入ったグラスに口を付ける。
「なあ。香月稔の作品で、左下にサインがある絵っていうのは、あと何枚あるんだ?」
「そうだったな。それ、調べておいたぞ。六枚だ」
勇作は思い出したように、そう答えた。
「六枚?今回のを省いて、六枚か?」
「そうだ」
航一は、ピンと寝癖が立っている頭を掻きむしりながら、呻いた。残りの六枚の作品を盗み終えた時、怪盗紳士の目的は果たされるのだろう。そして、彼は二度と姿を現すことなく、世間から忘れ去られて行くのだ。……多分。
怪盗紳士は、現場に個人の特定につながる指紋や毛髪などの証拠を、一切残していない。犯行後に必ず残して行くメッセージカードや、この度寄越した犯行予告状。それらは、パソコンで文字入力が出来る人間であれば誰にでも作成可能な上、もちろん指紋は付着していない。消印も押されていない。これまでの犯行現場に設置されていた防犯カメラに写っていた彼の姿は、黒いタキシードに白い手袋、まるで道化師のようなシュールな仮面、という出で立ちであった。つまり、顔は隠されているのだ。コスプレ感満載ではあるが、入手不可能な品ではないはずだ。要するに、現場に残された証拠品から犯人を割り出すのは、ほぼ不可能なのである。
それならば、動機を明らかにし、犯人を特定することは出来ないだろうか?可能なはずなのだ。充分な調査と証拠があれば。だが、重要な鍵を握る人物は、けして多くを語ろうとはしない。当然だ。そこに隠されているのは、一連の事件に関する秘密の根幹とも言うべき暗部なのであろうから。
「それから……。今回盗まれたのは、非公開作品だったらしいぞ」
勇作の言葉は、珍しく弱気になりかけていた航一に、希望を与えた。非公開だと?
「本当か?」
勇作は黙ったまま頷いた。
「それが、なぜわかる」
「屋敷を後にしようとして俺らが背中を向けた時に、彼女が“あれは、外に出すべきではない物だったのに”って小声で嘆いたのが聞こえたんだよ。他の二人には聞こえなかったみたいだけど……。俺の耳は、地獄耳だからな」
勇作が誇らしげに話した。その様子が可笑しくて、航一は思わず噴き出してしまった。しかし、
「外に出すべきではない物だった……、か。だったら、どうして怪盗紳士はその絵の存在を知っていたんだろう」
なぜか。その可能性について、航一の頭の中を幾つかの推測が駆け巡る。その絵は公開されたが、すぐさま遺族の手によって回収され、闇に葬られた?一番現実的なのは、これか。もしそうであるなら、一体なぜ……。その他にも、次々と浮かんでは消える、別の可能性。香月稔とは、架空の人物である?怪盗紳士は、香月稔の遺族だった。あるいは、親しい間柄だった?それとも……。
バラバラだったジグソーパズルのピースが徐々に組み立てられ、ようやくその片鱗を見せ始めた、そんな感覚。調査も証拠もまだ足りないが、これだけはわかる。一連の事件の裏に隠された闇は、相当深い。
「もう一つ、気になることがある」
航一は、ゆっくりと口を開いた。
「外に出すべきではない物だったのなら、なぜさっさと処分してしまわなかったんだ?」
「そう言われてみれば、そうだよなあ……」
勇作が呻いた。航一は続けた。
「この事件が、怪盗紳士の名をかたる別人の犯行である可能性は、まずないだろう。ちゃんと例のメッセージカードも、現場には残されていたんだよな?あれがどんなデザインなのかは、メディアには公開されていない。次に、怪盗紳士はなぜその絵の存在を知っていたのか。これは、その絵は一旦公開されたが、すぐさま遺族の手によって回収された。そう考えれば、腑に落ちる。なぜさっさと処分してしまわなかったのか、という疑問は残るが」
航一は、再びウーロン茶の入ったグラスに口を付けた。
「もう少し、情報があればな……。でも、収穫はあった。期待したほどじゃなかったのは、残念だったけどな」
航一の言葉に、勇作は頷いた。
「調べなきゃならないことが、増えたな」
「わかってんじゃん。オッサン」
二人の作戦会議は、夜遅くまで続いた。帰宅した英琳が、航一がまだ家にいたことに驚いたほどである。航一が時田家を辞した頃には、日付が変わっていた。
微かに聞こえる、秒針の音。涼葉は枕元の目覚まし時計に目をやった。まだ、こんな時間なのね……。日曜日の朝は、気が楽だ。学校に行かなくて良いので、茂の顔を見なくても済む。それだけが、涼葉の心を明るくしていた。
平和な日常を侵蝕する迷惑な侵入者であり、倒すべき敵。これが、涼葉の高木茂への認識と位置づけであった。しかし、彼の笑顔が涼葉を惑わせるのだ。慕われるということに、慣れていないからなのかもしれなかった。だが、優劣がはっきりしない以上、関係を変えるつもりはない。否。それがわかったところで、けして何も変わらないだろう。大丈夫。私は負けないから。
ぼんやりと天井を見つめながら、こう思った。結局、航一はあいつの味方なのよね。やっぱり、男同士だから?そもそも、あいつは私なんかのどこがいいんだろう。理解に苦しむ。あの二人に結託されると、厄介なんだけど。
昨夜は航一が訪ねて来たので自室に閉じこもり、いつの間にか眠ってしまっていたのだ。風呂にも入らずに。茂のお蔭で、航一とも顔を合わせ辛い。シャワー、浴びて来よう……。涼葉はようやく起き上がった。窓を開けると、黎明の澄んだ空気が部屋の中に流れ込む。今日の朝食は何にしようかな?そんな事を考えながら、自室を出てバスルームへと向かった。
美しい肢体や長い緑の黒髪を洗い、やっと気持ちが落ち着いた。服を着て、ドライヤーで髪を乾かす。これからしばらくの間、航一は忙しくなるはずだ。だから、私は美波の遊び相手をしていれば良いわけで。あまり茂と関わらなくても済むはずなのだ。心なしか、台所へ向かう足取りが軽くなる。この時の涼葉は、航一と美波が、出来るだけ涼葉を一人にさせるようにと口裏を合わせていたことなど、知る由もなかった。もちろん、茂に涼葉を口説く機会を与えるためだ。
やがて、時田家にいつもと変わらない朝が来た。
中間試験が終わった。航一は一応高校生なので、勇作もその点には気を遣っているらしかった。学生の本分は勉強であって、仕事ではない。
案の定、途端に航一は活動を開始した。今足りない、必要な情報の収集。気が遠くなりそうな、地道な作業だ。そうなると、涼葉は美波の遊び相手をしていれば良いはずだった。はずだったのだが、美波からのお誘いが急に減ったのだ。これまでは、航一が忙しくなると決まって美波が涼葉を遊びに誘っていたのだが……。まさか、浮気?そんなはずは……。ないと思う。航一と美波は、美波の方が熱を上げて交際をスタートさせた。ただ、のちに事の真相を知った涼葉は、呆れて物が言えなかった。しかし、それはまた別の話である。
涼葉は一人遊びが得意だ。だから、美波からの遊びの誘いが減ったからといって、何も困ることはない。困るのは、涼葉が一人でいると、必ず茂が声をかけてくることだ。
この日も涼葉は茂に、
「鯛焼きを食べに行こう」
と、誘われた。た、鯛焼き?嫌いではないが、季節外れのような気がしなくもない。
「どうしても時田さんに食べて欲しくて、探したんだ。おいで」
そう言うと、茂は涼葉の手首を掴んで歩き出した。周囲の好奇の視線が痛い。推測や忖度が、あたかも真実であるかのように伝わって行くのだろう。人の口に戸は立てられない。
抵抗しても無駄なことは知っていたので、敢えてそれはしなかった。けど。もしも、その鯛焼きが美味しくなかったら。こいつに喧嘩を吹っ掛けよう。涼葉は固く決意した。
通学路から少し外れた公園まで来た。なるほど。鯛焼き屋の屋台だ。しかし、何かが変だ。つぶあん、こしあんはまだよい。豆乳鍋、キムチ、明太子……?驚きを隠せずにいる涼葉に構わず、茂は、
「おじさん。鯛焼き、キムチ味二つ!」
と言った。茂に鯛焼きを手渡しながら、
「今日は彼女連れかい?」
鯛焼き屋の主人が、からかうように言った。やっぱり、そんな風に見られてるのか……。わかってはいたが、不本意だ。
「あっち行って座ろうか」
茂がベンチの方を指差したので、二人で黙って移動する。
「はい、これ」
「うん……」
涼葉は複雑な表情で、差し出された鯛焼きを受け取った。二人並んでベンチに座る。だが、茂との間に自分の鞄を置いて座る。こうすることで、二人の心の距離を周囲にアピールするのだ。涼葉の無言の抵抗である。
「いただきます」
そう言って、鯛焼きを一口かじった。キムチ味のこしあんだ。懐かしい味だった。以前も、これと同じ鯛焼きを食べたことがあったような気がする。
「小学生の時にさあ……」
茂が懐かしそうに口を開いた。涼葉は黙ってそれを聞いていた。
「トランプで勝負をして、負けた人にヘンな味のお菓子を食べさせるってのが、流行ったことがあったんだ。何でもいいんだよ。ポーカーとか、ダウトとか、ブラックジャックとか。要するに、罰ゲームを楽しもうっていうのが、主だったんだから」
そう言われてみれば、そんなことがあったような気がする。
「誰がどこから仕入れて来るのかは、わからなかったけど。俺、弱かったから。いつも負けて、お好み焼き味のチョコとか食わされてたんだ。それが、不味いのなんのって!でも、俺が食べられないでいる不味い菓子を、時田さんは“これ、美味しいよね”って言って、一緒に食べてくれた。それで……。いつだったか、キムチ味の鯛焼きってのを買って来た奴がいてさ。俺がそれを吐きそうな思いで食べてたら、時田さんが“それ、ちょうだい”って……。俺が黙って差し出したら、一口食べてから“これ、美味しいよね”って言って、笑ったんだ。それを見た時、俺“この人は、俺のことが好きなのかな?”って思った」
そんなわけ、あるか!涼葉はそう叫びたかった。しかし、思い出した。確かにあった。そんなことが。
「まあ、それは時田さんが、いつも弟の食べ残しを食べているから抵抗がなかっただけで、俺の盛大な勘違いだったってことは、すぐにわかったわけだけど。でも……。“これ、美味しいよね”って言って笑うその顔を、可愛いなって思ったんだ」
それはつまり、こういうことだろう。
「妙な味の菓子を、平気で食べられる女が好きってこと?」
涼葉は訊ねた。悪趣味にも程があるというものだ。だが、茂はすぐさま否定した。
「それは違う。全然違う。好きになったのは、もう少し後。その時は、他に好きな人がいたし。けど、これが意識するようになったきっかけ」
鯛焼きを一口かじった彼は、相当無理をして食べているように見えた。涼葉が呆れていると、
「可愛い顔、見せてよ」
口の中の、甘いのか辛いのかよくわからない食べ物を飲み込んで、そう言うのだった。
涼葉は笑って見せるかわりに、茂を睨みつけた。
「他に好きな人がいたけど、その人に振られたから私に乗り換えた?私も随分安く見られたものよねえ……」
喧嘩を吹っ掛ける、絶好のチャンスだ。でも、これだと嫉妬しているみたいで、変に期待を持たせてしまう。
「それも違う。須賀が時田さんを諦めて鈴村さんと付き合い始めたのとは、違うよ」
思い掛けない言葉に、涼葉は戸惑った。
「航一が私のことを好きになるはず、ないでしょう?」
そんな事はない、と思う。航一からは、散々「怪力」とか「化け物」などと罵られ続けたのだから。しかし、茂はそれも否定した。
「いや?好きだったよ。誰がどう見ても、わかりやすく好きだった。でも、諦めて鈴村さんと付き合うことにした。俺の好きだった人は、あまり笑わない人だった。だから、俺の気持ちは自然と彼女から離れて、時田さんの方へ向かって行った。ただ、それだけ」
過ぎ去った遠い昔を懐かしむような顔で、そう言うのだ。そしてもう一度、
「可愛い顔、見せてよ」
と、繰り返した。
涼葉は、あっかんべーをして見せた。茂は、
「その顔も、可愛いよ」
と言って、いつものように愛情たっぷりの眼差しを投げかけてきた。涼葉はおもむろに立ち上がり、
「私がいかに可愛くない女なのか。それは、私が一番よく知っている……」
と、遠い目をして呟いた。茂はそれを否定はしなかったが、肯定もしなかった。そのかわりに、一言、こう言った。
「自分のことってさ、自分じゃ案外、わからないものなんだよね」
晩春の爽やかな風が、二人の間を吹き抜ける。
それから何日か過ぎた、ある日の放課後。高木茂は、四~五人の不良たちに取り囲まれていた。ガムを噛んでいる者、煙草をくわえている者。自分たちはそれがカッコいいと思っているのだろうが、勘違いも甚だしい。
「お前が噂の、時田涼葉の彼氏かぁ?あまり強そうには見えねえな。背ばかり高くてよ」
彼らの中で、一番横に大きい男が口を開いた。確かに茂の身長は飛び抜けて高かったが、痩身なのでけして強そうには見えない。そう言うお前も、あまり強そうじゃないな……。茂は思ったが、黙っていた。
「それは、どうかな?」
茂は静かに答えた。
「でけえのは、タッパだけじゃねえか」
細面で、顎の割れている男が言った。茂の顔が、険しくなった。
「ピーピーうるせえんだよ。来いよ、オラァ!」
茂の長い足が、横に大きな男の腹を蹴った。蹴られた男は顔をしかめ、
「おい……。こいつは、見た目ほどヤワじゃねえぞ」
と言って、その場に崩れ落ちた。それを見た不良連中の顔つきが豹変した。
茂は殴り掛かってきた男たちの手首を掴んでは投げ飛ばしたり、鳩尾を蹴り上げたりして、次々と自分に襲い掛かってくる者たちを片付けて行った。そして。辺りに静寂が訪れた時には、不良たちが折り重なって倒れていた。
「見た目で人は判断出来ない、という事を、覚えておくんだな」
そう言い残して、茂はその場を立ち去った。
後日、この噂は涼葉の耳に入った。涼葉に面と向かって話す者がいたわけではない。それほど衝撃的だった、というだけだ。彼らは口々にこう言った。「生きた殺人兵器の夫は、やはり生体兵器である」と。そして、これもまた“伝説”になって行くのだろう。
それ、すっごく見たかったわ……。涼葉はそう思った。「生きた殺人兵器」の「夫」と言われている所が、気に入らないが。
時田涼葉にとっての“日常への侵入者”が高木茂であるなら、須賀航一にとっての“それ”はもちろん怪盗紳士である。もっとも彼は、航一の日常にごく最近侵入して来たわけではない。彼と航一の初めての出会いは、航一がまだ中学二年生の時だった。勇作から、航一の携帯電話に連絡があったのだ。「怪盗紳士と名乗る、美術品窃盗犯が現れた」と。現場からは、個人の特定につながる証拠は一切検出されず。よって、前科の有無はわからず。夏の終わり。航一は、勇作の電話の向こうの渇いた声を、黙って聞いていた。
タイムリミットは、あと六枚……。怪盗紳士はこれまで、香月稔の作品を左下にサインがあるものに限って、制作年代順に盗んでいる。彼が今後もこのポリシーを貫くものと仮定すると、最後に盗まれる作品は、恐らく「無数の扉」であろう。全体的に暗く塗り潰された背景。その中に描かれている数ある扉はどれも僅かに開いていて、人間の腕が伸びていたり、魚の頭がこちらを覗き込んでいたりする陰鬱な絵画である。見ていて気持ちの良い作品ではない。しかし、これが香月稔の左下にサインがある作品の中では最も制作年代が新しいものだ。但し、制作年代順に犯行を重ねて行けばの話であって、必ずしもこの限りではないかもしれないが。
もし俺が怪盗紳士だったら、ここからは崩す。ランダムに盗んで行く。彼はどうするつもりなんだろう。本物の怪盗紳士は……。それと。“あれ”は、いつ頃描かれたものなんだ?
“あれ”とは、香月稔の孫だという女性が所持していた作品である。あの絵に関する情報が得られない事が、調査をより困難なものにしていた。勇作に頼んで彼女の屋敷へと連れて行って貰ったのだが、結局、盗まれた絵に関する情報は得られなかった。香月稔の孫にしては、若いな。と思っただけで。……え?若い?なぜ、今まで気付かなかったんだ。
航一の頭の中に「香月稔の孫」の「正体」にまつわる仮説が浮かんだ。まずは、ここから調べ直してみる必要がありそうだ。
すっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干すと、航一は別の資料を手に取った。
青柳寛之プロフィール
段ボール箱の中に、張り紙付きで生存中。
遅筆なので更新は遅くなると思うのですが、生温かい目で見守ってくださると、嬉しいです。