後編
あの時の事は今でも色鮮やかに思い出す事が出来る。それがほんの半年前の事など、思えない程に。
―――荒れ狂う嵐が幾日も続いた日、私は海上騎士団が所有する騎士団船に同乗していた。しっかりとした造りの騎士団船でも流石に連続で襲ってくる自然の力には勝てず、止む無く陸へ針路を向けた時の事。深夜、甲板でロープを握っていた筈が、私はいつの間にか高波に攫われて荒れ狂う海の中へと落ちて行った。
上も下も、右も左も分からず暗い海の中で荒れ狂う波に飲まれ、何度も海水を飲み込みながら、そこらに漂っている木片か何かのように、ぐるぐると体が動いていく。動かされていく。その内、たっぷりと水を含んだ服が体に張り付いて腕を上げることすら覚束ない。
これは死ぬな。
不意に、そう思った。然し、何度も何度も押し寄せては大きな波を作る海の中で私自身にどうこうする事など出来はしない。ただ、海の中を漂うだけ。その内、自分が何処に居るのかすら分からなくなり、遂には私の意識は暗闇の中に落ちて行った。
それから何時間、いや何日経過したのか、私はエルフィーネの海賊船へと拾われた。エルフィーネ曰く、私を拾い上げた時にはもう死んでいるのかと思ったのだそうな。それは当然だろう。私の着ていた服は無残に切り刻まれ、何処で傷を作ったのか無数の切り傷や擦り傷、それに何処かでぶつけたのか所々に痣が浮き出し、顔も体もむくんで死ぬ一歩手前の状態だったのだから。
瀕死の私を何故救ったのか―――。
未だもってエルフィーネの答えははっきりとはしない。しかし私を拾い、救い上げ、再び生を与えてくれたエルフィーネにはただただ感謝しかない。
私は元々、生きながらに死んでいるような人生を送っていたのだ。騎士団に入った事とてただ私の家系が伝統的に騎士団員だった事が理由であり、特別な正義感や使命感があった訳ではない。ただただ無力に、目の前にある仕事をこなしていただけだ。
生きる事など無為。そう感じていた私に生きる力を与えてくれたのは、エルフィーネである。だから私は、エルフィーネを心底慕うと同時にエルフィーネの為に何でもしてやりたいと思っている。そして同時にエルフィーネを何が何でも私の支配下におきたいと願っているのだ。それは最早目標といっても良い。
まあ、エルフィーネと出会ったのはその時が初めてでは無いのだけれど、エルフィーネは恐らく気付いてなど居ないのだろうな。
二年前、ある海域で潜入捜査の為に商船に出入りしていた私と、その船を襲ったエルフィーネが対峙した事など、恐らく記憶の片隅にも残ってはいないのだろう。気付いて居ないのであればそれで良い。だがこれが全て――一連の事件すべてが――私自身が仕組んだ事だと言ったら、エルフィーネは泣いて怒るだろうか?
軽蔑する?
突き放す?
それとも私を憎むのだろうか。
いつかそれを知った時の反応が見てみたい。腹の中が黒い事など承知の上だ。けれどもそれと相反する感情を私は持っている。
出来る限り優しくしてやりたい。真綿の如き柔らかさでエルフィーネを囲い、私無しでは生きられないようにしてやりたい。
まあこれは、単なる願望にも満たないちょっとした希望のようなものだ。何せ相手は荒くれ物の海賊達に引けを取らぬ女海賊達の船長なのだから。
「リアネス、お客さんだよ」
不意に、この船でたった三人しか居ない男性の一人、ヤンドゥが下から覗き込むようにそう言った。ヤンドゥは私よりも幾分か年下の少年だ。朗らかで明るく、何事にも一生懸命な頑張り屋。到底私等とは似ても似つかない純真無垢な少年である。
「分かった、それで相手というのは―――」
「俺だよ」
気配も無く背後に人が立った。足元に落ちた影は長く太い。
「お前が、リアネスだな」
野性味溢れる精悍な男は、私を見てニヤリと口角を上げた。
*
目の前でゆったりと酒を飲むその男は、エルフィーネの養父、グランと名乗った。多く見積もってもまだ三十代後半といった風貌のグランは、品の良い衣服をその身に纏っていた。元海賊だと言われても、容易に結びつかない程度には、洗練された空気を持っている。
「まさかエルフィーネの夫が海上騎士団の団員だったとはなぁ。流石に俺も予想していなかった」
「私も、あなたのような方が養父だとは思ってもみませんでしたよ、グランさん」
「さん付けは止めてくれ。背筋がこう、寒くなっちまう」
「分かりました、グラン」
「えらく素直なヤツだな」
楽し気に笑うグランは比較的ハイペースで杯を空けているにも関わらず、その顔は涼しいままで、流石は酒豪と名高い男だと笑い出しそうになった。
「それで海上騎士団団員が何故エルフィーネの夫になったのかを知りたいな。お前さん、“鷹の爪”ってヤツだろう?」
鷹の爪。それは出来れば一生聞きたくは無かった言葉だ。いや、言葉ではないか。それは単なる名称に過ぎないのだから。だが、意外だった。まさかここでその名称を聞く事になろうとは。
「それが?」
「否定しねぇなあ。まあ、俺はお前がどんな人間だろうと別に構わないがな。エルフィーネが幸せなら、な」
一度言葉を切ってぐっと杯を空にしたグランはかたんとその杯を甲板の上に置いた。その瞬間、グランの背後から立ち上る殺気が私の肌を突き刺していく。前髪から覗くその目は爛々と輝き、やはりこの男が元海賊である事は確かなのだと漸く実感する。
「私はエルフィーネの為ならば命すら投げ出せる。それでは不満か?」
「そっちが本性ってヤツかい。全くエルフィーネもえらく面倒な男を引っ掛けて来たもんだな」
「エルフィーネには見る目があった、という訳だ」
「お前、自分でそれを言うのか? ああ全く、海上騎士団の連中はどうも自信過剰な奴らばっかりだな」
「自信過剰ではない。実際、そうなんだ」
「まあお前の能力はエルフィーネの助けになる事は確かだ…が、その存在が本当に有益かどうかは判断しかねる話だな」
くっくと喉の奥で笑うグランは胸元から新しい杯を取り出し、私の前に置いてとくとくと酒を注いだ。暗褐色に色づいたその酒は、海賊達が嗜む安酒の一つだ。
「美味いだろう? 俺の好きな酒の一つだ」
「この島を実質支配する男が好む酒としては、庶民的に過ぎる気がするが」
「昔から愛飲している味と高級な酒はまた違うものだぞ?」
グランは笑い上戸とでもいうのか、よく笑う。その笑みは感情を読み難くさせる不可思議な空気に満ちて居て、その時々で色を変えている。恐らくはただの平民であれば気づかない程度の些細な変化だ。
ぐっと杯を呷り、私はグランに疑問をぶつけた。
「所で、エルフィーネは今何処に行っている?」
「おや、エルフィーネはお前に何も言っては居なかったのか。エルフィーネならば女達の村へ向かっているのだろうよ。あそこは、エルフィーネにとって故郷のようなものだからなぁ」
「村…?」
「そうだ。この船の船員が殆ど全て女であることは知っているだろう? だが女の衰えは早い。そして海で生活していく上では余りにも脆弱な存在だ。だからこそ、海賊業から足を洗った女達や、エルフィーネが攫ってきた奴隷の女や娼婦をその村で匿い、時折こうして様子を見に来るのさ」
「女達の楽園、か」
「まあな。そもそもエルフィーネが海賊業なんてものをやろうと思ったきっかけも、その村の女共が自由に暮らせるよう手助けするものだった。あれは豪胆な女だからなぁ。色々な男共がエルフィーネの強かさや女とは思えぬ度胸に惚れて幾度も俺の女になれと迫っていたが、その誘いをすべて蹴って今の女海賊達を纏め、海賊になったのさ。流石は俺の娘だぜ」
何処か懐かしがるような素振りで遠くの海を眺めるグランには、恐らく過去の幻影が見えて居るのだろう。然し、私が居なかった時の事などを話された所で、苛立ちしか生まれない。全くこの男は煽るのが上手な男だな。だが、聞き捨てならない言葉が一つあった。
「男達の誘いがあったのはいつまでの事だ?」
「嫉妬深い男は嫌われるぞ。さて、いつの事だったか。昔から変わらぬエルフィーネの気風を慕う人間は多い。男でも、女でもな。確か数か月前も一度、俺の部下だった男がエルフィーネに恋文なんぞを海鳥に括って寄越していたと思うがな」
「……なんだと?」
「そういきり立つな。エルフィーネはお前に何も言ってはいなかったのだろう? なら、それが答えだ。エルフィーネは既にお前を配偶者として認めてしまっている。故にお前にはわざわざそんな些末事に心を傾ける事が無いよう自ら処理したんだろう」
「……」
「まっ、あいつは今も昔も誠実で一本筋が通った女だ。お前が手を回さない限り、エルフィーネがお前の側を離れる事はない。絶対にとは言い切れないがな。だがお前も、エルフィーネが嫌になったならば俺に言えよ? エルフィーネが泣かなくても済むように俺がお前を直々に処理してやる」
喉にナイフを突きつけられたかのような、一段と鋭くひやりと冷たい殺気が私の背筋を駆け抜けた。
「それには及ばない。私がエルフィーネを厭う事などありはしないのだからな」
「そう願ってるよ、エルフィーネの夫君」
思わず、鼻で笑った。
*
「おい、何でグランがここに居るんだ?」
「何でって、そりゃ娘の顔を見に来たからだろう。久しぶりだな、エルフィーネ」
「ああ、久しぶり、グラン」
緩く笑みを浮かべたグランは相も変わらず男臭い色気が溢れている。ちらっとグランの目の前に座るリアネスに目を遣れば、リアネスは柔らかな笑みを浮かべて私を見つめていた。自然と湧きたつ自分の心を抑え込み、リアネスの隣に腰を下ろした。
「二人で何を話していたんだ?」
「ちょっとした雑談だぞ? 何せリアネスはエルフィーネの夫君だからな」
「ふうん、そうか。リアネス、済まなかったな。留守を頼んでしまって」
「いえ、構いませんよ、エルフィーネ。用事は済んだのですか?」
「ああ、勿論。といっても、私の用事など大した事は無いのだがな」
苦笑しつつそう呟けば、リアネスはにこやかに微笑んだ。リアネスが私の乱れた髪を梳き撫でてくれるのをただ受け入れていると、ごほんとわざとらしい咳払いが前からした。
「おい、そこ。いちゃつくな。それとリアネス、エルフィーネに近すぎるぞ。少し離れないか」
「いえ、私はエルフィーネの夫ですから、これ位が適正だと思いますが?」
「お前、本当にイイ性格してんな。しかも猫被りときた。エルフィーネも苦労するなぁ」
「ん? 何だって?」
ぼそりと呟くように言うグランの言葉が上手く聞こえなかったからそう聞き返せば、グランは誤魔化すように口角を上げた。一瞬、その笑みに見惚れてしまい隣に座るリアネスが身動ぎした。
「何でも無い」
「そうか?」
「ああ、そうだぞ。そうそう、エルフィーネ、今日は酒場で晩飯を食べるんだろう? いつもの所だよな」
「そのつもりだ」
「今日は久しぶりに酒でも酌み交わそう。んで、航海の話でも聞かせてくれ」
「ああ、楽しみにしている」
じゃあなと手を上げて酒瓶と杯を持ったグランは振り返る事無く去って行った。
「相変わらずだな」
「昔から、あんな感じだったのかい?」
「ああ、昔からあんな感じだよ。変わってないな」
ふっと笑みが零れ落ちた。
グランは私にとって養父であると同時に兄、師匠のような存在だ。掛け替えのない家族である。だからこそ、ここに帰って来るとなんとも言い難いむず痒さが時折胸の奥に沸き上がって来る。
「リアネス?」
「あまりグランを見ないで欲しいな。エルフィーネの夫は私でしょう?」
「ああ、その通りだ」
ふっと唇に落ちて来るリアネスの唇を受け入れながら、エルフィーネはくすりと微笑んだ。
*
その晩、酒場で迎えた宴は盛況のまま過ぎていく。船員達に混ざって座るのは、グランやその仲間達で、エルフィーネや船員にとっては親しい間柄の男達ばかり。この島に降り立った時、エルフィーネは少しだけ寂しさを滲ませていたが、その理由は恐らく、船員の中でこの島での定住を望んで船を下りる女達が複数居たからなのだろう。
副船長のルーランド曰く、これは定期的に行われている事で、男達よりも体力面で劣る船員達が海賊業から足を洗って島に残るのは珍しい事では無いのだという。男達ばかりの他の海賊と違い、女ばかりが船員となっているエルフィーネの海賊船では、比較的短いスパンで辞める者と新たに入って来る者が居るらしい。
「女には妊娠も出産もあるだろう? だから皆、好いた男が出来たり、船での生活が無理だと分かったら、この島に残って生きていくのさ」
「ですがエルフィーネは――…」
「船長は別格だよ。あの才能は、海でこそ活きるものだ。第一、船長が今更船を降りると思うかい? 無理だね。だって船長は皆の憧れの女海賊なんだからさ」
ルーランドの言葉に、グランから言われた言葉が頭に過る。
「あんたが、支えてやるんだよ、リアネス」
不意に、力強い眼差しにぶつかった。
「私じゃあ、船長を最後まで支える事は出来ないんだからさ。でもあんたにならそれが出来る。海上騎士団元団員、リアネス・ウェスティンならね」
「何故、私の名前を、」
「頼んだよ」
ルーランドは切なさと少しばかりの憧憬、そして何かを託すような強い口調で言い放った。
私はそれに、ただ頷く事しか出来なかった。
酒場から見上げる空は、海上に居た頃と変わらず美しい。夜空を過る海鳥は、いつか私が手放してしまった海上騎士団が飼いならしていた特徴のある鳥だ。ぐるぐると上空を旋回し、けれど何かを見つけたかのように何処か遠くへと飛んでいく海鳥を見つめ、そっと息を吐いた。
海上騎士団に未練など無い。だが、探されているのであれば、いつかは対峙する日が来るのかもしれない。私の過去と、そして私の運命と。
「リアネス?」
「エルフィーネ」
「お前も酔い覚ましか?」
軽やかな笑い声を上げるエルフィーネは私の隣に並んで夜空を見上げた。雲一つない澄んだ夜空には、明るく輝く星々が幻想的な風景を形作っている。
エルフィーネを支えろ、とルーランドは言っていたな。だがしかし、エルフィーネがただ守られるだけの存在ではないと私自身も理解している。だからこそ、側に居て、見守っていきたい。私とエルフィーネの行く末を。何処までも、何処までも続くこの海の果てまで共に。
「リアネス?」
そっと見上げて来るエルフィーネを抱きしめ、私はただ静かに夜の海を眺めた。
このささやかな幸せの日々が続く事を私は祈っている。




