もう一柱の守護獣 その2
乳を飲み終えたルバニを、ウバンが縦炊きに抱え、肩に担ぐ。
「こんでええがか?」
「ああ、片手で首を支えて、もう片手で尻を支えて上げろ。ルバニの顎が肩に乗る感じで……オーケー、それでいい」
[グラットストマック]から適当な布切れを取り出し、ルバニの顎の下に敷く。
「次ば?」
「背中を下から上にさするか、めちゃくちゃ手加減して背中をたたく。お前の膂力なら、さするだけにした方がいいかもしれないな。これでゲップが出る」
「ゲップさせる意味あんがか?」
「大有りだ。させないと飲んだミルク諸共吐いて戻してしまう。吐いたミルクが肺──息を吸う臓器に入り込めば、呼吸が出来なくなって死にかねない。……自分の痰や涎が変な所に入ってむせたことが1回くらいあっただろう?それのもっとひどいやつが、吐き出すミルクで起こるわけだ」
「あぁ……アレば苦しかぁな……」
ウバンは指示通り、ルバニの背を下から上にさすっていく。
「ゲップが少ない子、多い子と、個人差もある。出ないなら無理に出させる必要はない。要は、飲んでいる最中にどれだけ余計に空気を飲み込むかだからな」
「……うらばなんも知らんかったんな……」
「けぷ……」
程なくして、かわいらしい音のげっぷが聞こえた。
「で、これからどうするつもりだ、ウバン?」
「ルバニば育てる。が、そん為に何すればいいか分からん」
だろうなぁ……。
そもそも立場的に大分不味い。バヌブグナスの裁きを受けた部族の生き残り。これだけでイシューナスの他部族や街は門を閉ざすだろう。
赤ん坊を育てるにあたって、物も人手も何もかもが足らない状況。何をすればいいかわからないという事は、何を第一に優先すべきか、問題処理の優先順位を付けられない事。根幹がもう問題だ。
「……俺と来るか?育児の負担は減らせるだろうが……草原から離れる事になるから、今までの生き方を捨てる事になるぞ?」
「うらばもう草原居れん。生き方捨てるんば仕方なか。じゃっど、何も返せん。うらば、弓ん腕くらいだ」
「ん~……なら、出世払いでいい。そうさな、ルバニが手のかからない大人になった時、自分が納得できる分だけ返してくれればそれでいい」
予想外の答えだったのか、まるで時間が止まったように顔の筋肉が動かなくなるウバン。
「……そんでええがか?」
「俺も知識はあるが、0から100まで赤ん坊を育てた経験があるわけじゃあない。それに……無事に育ってくれるかも、な」
赤ちゃんは脆い。ゲップさせなければミルク吐きからの窒息死もあり得る程に、肉体的に兎に角脆い。ハイハイできるようになって、自分の足で立てるようになってからも、ふとした拍子で命を落としてしまう。物心つくまで無事に育つ保証は、何処にもない。
そして俺自身、育児の過程で起こり得る問題に対し100%確実な対処ができるとも言い難い。にもかかわらず即座に見返りを求めるというのは、詐欺に近いものがある。
終わった後に納得できる分だけ──お互いにとって、これが理想的だろう。
「……恩に……恩に着るっ、ナナクサ……」
「頭を下げるな、頭を。そういうのは全部終わってからでいい」
深々と下げられた頭を無理やり戻させた。
ともあれ、まずは一区切りだ。……まあ、まだ問題は残っているが。
*
夜──。
草原にほど近い街道の離れ、視界の隅に映りそうで映らない絶妙な場所に、[創造]で土を固めて作った簡易ハウスを建てた。
構造は1階建てで落とし穴などのトラップは無し。広さは以前スピネの故郷であるミコルレッテの外に建てたものよりも広めで、屋内から屋上に上がれる階段も備えている。
別にここに定住するわけではない。精々長くて12、3日程度だ。広いのは俺とウバンとルバニに加え、ウバンの相棒たる馬のイバと、メヌェヌェムから預かったメェヌ2頭を抱えているから。草原にほど近い立地なのは、メェヌとイバの食事確保を容易にする為だ。
夕食後、俺はウバンに、今後の動きを明かした。
「明日、朝一で街道を通ってフォルクマルデに向かう。俺だけでだ」
「一人か?目的ば何ぞ?」
「合流したい人がいる。尤も、会えるかどうかわからんから、置手紙を残していくだけになるだろう。1人なのは、その方が早く動けるからだ。メェヌの足の速さを聞く限り、連れて行けば推定で数日かかるが、俺だけなら1日で往復できる。明日になれば、体内魔力もある程度回復するだろうからな」
まあ、一番はメェヌを連れて入るのは危険すぎるという事だ。
何せ、フォルクマルデでは人肉喰いが裏で蔓延っている。そんな場所に新鮮な羊肉を連れていくなど、ハイエナの縄張りに生肉を放るに等しい。
無論、有象無象のハイエナ共に俺達が後れを取るわけがないが、地形的な不利や予測不能な敵対者の数、そしてルバニを連れている事まで考慮すると、完全対処できるとは言い難い。
ルバニの生命線がメェヌである現状、一旦彼らを置いて俺1人で動く事こそ最も安全であるという結論に達したのだ。
「万一に備えて、食料は2日分置いていく」
「わーった。……うらばここで待つ間、気い付ける事ばあるがか?」
「まず山賊だな。奴らの縄張りである山からはそれなり離れているが、警戒するに越して事は無い。強さは草原の魔物以下だから問題ないだろう、強さだけはな]
「…………」
強い=人を躊躇なく殺せるというわけじゃない。その図式が成り立つなら、地球のトップアスリートが軒並み人でなしの破綻者になってしまう。
ウバンが元々どういう理由で、どういった経緯で、草原で俺とアンリとラティエッタをつけていたのかは既に聞いている。一度覚悟を決めて俺を殺しにかかったとはいえ、未だ誰も殺してはいない現状において、間違いなく、そんじょそこらの魔物相手より強敵だろう。
「……ナナクサ」
「何だ?」
「どがなすれば人ば殺せる?」
「ふむ……」
大真面目な顔でイかれた質問をされた。
人を──同族・同胞を殺すタガをどう外すか。集団で育っていく中で育まれる倫理の枷だ。怒りや憎しみといった負の感情が極地に至り枷が外れる事はあるが……だからと言って確実に殺せるわけじゃあない。殺す為の要所を穿つ──その知識を異常な精神の中で生かす必要があるのだ。冷静を失った状態でそれを行うのは極めて難しく、即ち、殺害の確実性は低いと評していいだろう。
負の感情に寄らず確実に人を殺すには、結局のところ、その殺人によって得られるメリットとデメリットを理解し、それらを天秤に乗せて合理性を突き詰め、納得する他ない。
殆どの場合、法やら何やらに由来するデメリットがあまりに大きく、殺害に傾くことは無いが……法の及ばない土地──無法地帯においては、その限りではない。
「前置きで……これは盗賊や山賊に対する考え方だ」
ウバンが静かに頷く。
「まず、今の状況で襲い来る山賊を殺さなかったら自分にとって、ルバニにとって、イバにとって、預かったメェヌ達にとって、どんな不利益があるかを考えろ」
「不利益……」
「次に、殺さなかったことで生じる周囲への不利益を考えろ」
「周りん不利益?」
「殺さず見逃して、大人しく堅気に戻るタマじゃあないだろう?お前が居た、ズバイ族だってそうだろう?他の誰かを一方的に獲物にする、他の誰かが理不尽を被る。そう言う事だ」
「…………」
初めて人を殺したときの事を思い出す。あの時もそうだった。殺さなければ俺が見せしめに殺されていた。だから納得ずくで、覚悟を決めて殺した。理不尽な死から逃れる──その為に。
「それはもしかしたら戦う力のない老人かもしれない。非力な女かもしれない。身ごもった女かもしれない。薬で命を繋ぐ病人かもしれないし、乳離れしたばかりの子供かもしれない。
こちらから知る事は出来ないが、誰かが理不尽な暴力の犠牲になるんだ」
「…………」
「国家の司法が行き届いているなら、クソ共の血で手を汚す必要は無いだろうが、ここは違う。法も刑罰もあったもんじゃない。害悪は駆除しなければ誰かが犠牲になるんだ。少なくとも、だ。自分や家族を含めた、誰かを護るためという大義名分がある。もしこの場での賊殺しを非難する奴が居るとしたら、そいつは何も考えていない頭がかわいそうな世間知らずだ。存在そのものを無視していい存在だけだ」
「…………じゃっど、うらば……」
まあ、口で説明してはいそうですねと理解できる話ではない。喫煙者にたばこの害を説いて、「はいそうですね、今日から止めるよ」なんて、すんなり禁煙宣言を引き出せないのと同じだ。どちらも合理・理論ではなく、実行する側の感情に寄るものが大きい。
「見張りながら考えればいい。ああだこうだ言ったが、自分が納得する事、殺人に限らず何事においても重要。……というのが、今の俺の持論だ」
納得するというのは、物事の在り様におけるブレ──迷いを排する事だ。迷いのない行動は、力強さが違う。迷ってあちらこちらに向いていた力が、一点に集約されるのだから。
まあ、納得できないまま行動せざるを得ない事も人生多々ある。人によっては納得できる事の方が少ないかもしれない。
「いいか?やるなら徹底的にやれ。下手な情けをかければ、忘れた頃に復讐される。その時に被害を受けるのは、自分だけじゃあない」
「……ナナクサ、わーば長老か?長老ば話、聞いとった感じしよる」
「ジジイ扱いは30年後からにしてくれ。説教臭いウダウダ話というのは認めるけどな」
……自分の未来が今から不安だ。ウザいジジイになりそう……。
「コホン、話を戻すが……あと問題があるとすればカーストレントだな」
「カーストレント?何ぞ?」
「木の魔物だ。カビジのヤマから降りてこないと断言できない。お前の弓の威力なら問題ないだろう」
あの威力なら十分幹を貫けるだろうし、屋上からの見晴らしの良さなら、防衛に徹すれば遠距離から一方的に攻撃できる。
「弱か?」
「いや、一般常識では強い部類らしい。俺やお前が強いだけだ。ただ、襲ってくる場合複数雪崩れ込んでくることも視野に入れた方がいい。見た目は木そのものだから気を付けろ。可食部は無いが、材木はいい金になると聞いた。もし可能なら回収してくれ」
「金か。したらば全部集めなぁな」
「それと……この小屋は仮設だ。価値は無い。万一の場合に放棄する事を躊躇するな。こんなモン、いくらでも建てられる」
ウバンは力強く頷く。
俺にとっていくらでも建てられる代物であっても、[創造]無しで人力を以って同等の広さと強度のモノを建てるなら、どれだけかかるか判らない。惜しんで不利を取るのは愚かだ。もったいない精神は大事だが、それで取り返しがつかない事態に陥るのは愚かにも程がある。
「で、別件なんだが……」
「む?何ぞ?」
「ルバニは男の子なのか?女の子なのか?」
「……は?」
ものすごい今更だが、一息付けた今だからこそ気になってしまった。というか、今を逃したらもう聞けない気がした。生後間もない赤ちゃんは、どうにも見た目で男女の区別がつかん……。
「あー……あぁ。理解。ルバニば男だ。顔ば母親ん似た」
「そうか。……お前は道を間違えるなよ?」
「……?何ぞ?」
「何でもない。俺はもう寝る。夜泣きでどれだ眠れるか判らないからな」
頭に疑問符を浮かべるウバンを他所に、部屋の隅で横になる。
クソ親父の存在が頭を一瞬過ったが、それだけだ。最早顔も声も何も思い出せない。そういう存在が居たという事実だけが、頭の中に残っている。記憶として留める価値がない、本当に、どうでもいい存在になったわけか……。
すぐに眠った俺の判断は間違っていなかった。
この後、2度ほど夜泣きによって起こされ、眠い中おしめ交換レクチャーと、おしめに使える布を引っ張り出し裁断する羽目になった。
結構いい値段の織物だったんだが、ウンコとションベンを垂れ流しのままにするわけにはいかないからな……。洗って再利用できる手間を惜しんで、使い捨てだ。紙おむつってスゲー発明だったんだなと、今らさながらに思う。
お読みいただき感謝




