全ては無限の可能性の為に その1
黒雲が空を覆い、視野を著しく欠かせている中、ウバンは己の足たるイバを急がせる。
脳裏にあるのは、別れる前のラバトの言葉。
バヌブルを見つけた──。
(もし、あんアホタレがやらかしたんなら……!!)
通常、バヌブルは群れるが、例外的にはぐれが存在する。群れの中で協調性を欠いて不評を買い追い出された場合、老いたボスが力も体力も勝る若い個体に負けた場合だ。
これらの場合、間違いなくその個体は成体であり、どのような手段を以って狩ったとしても、バヌブグナスの怒りを買う事にはならない。
が……その何れとも違うもう一つのパターンなら、話は変わってくる。
何かに夢中になった結果、迷子になった場合だ。
バヌブルは巨体故に、その食欲は旺盛。基本的に雑食ではあるが、個体ごとに好みは異なる。獣型の魔物肉を好む個体。虫型魔物の外骨格・体液を好む個体、それらの腐肉を好む個体、草を好む個体、新芽を好む個体など、多岐にわたる。
それ故に、最も好みに合うモノにありついている際は、食欲が警戒心を凌駕し、無防備を晒してしまうのだ。
尤も、そんなことは頻繁に起きるものではない。群れ周囲の誰よりも食事が遅く、誰の声も聞こえないほど夢中になり、ついには諦めるような事態など……。
だが、成体より食べる速度が遅く、[バヌブグナスの恩寵]と禁忌により外敵から護られ警戒心が薄い幼体なら、話は違う。恩寵と禁忌により、幼体に対し多少の放任は問題無いと群れで認識しているのだ。それもまた、成体となる為の試練だと考えて。
そんなこんなで迷子になった幼体が、成体並みかそれ以上に巨躯であったなら?
幼成を判別する角が、限りなく黒一色に近かったなら?
(族長ば言っとった。バヌブグナスに消された部族は、どこも相手をよう確かめんかったと。ほやさけ、うらは慎重が大事思うたんに……!)
ウバンの視界の先で、バヌブグナスの巨躯が黒霧と化し、黒雲と同化するように消えていく。その最中、血の臭いが鼻についた。
地獄がそこにあった。
集落全体が、グルトーの悉くが潰れ、雨上がりの後めいた血溜まりが無数に有り、トマトソースのようになった死体だったモノが沈んでいる。顔も体も何もかもが完全に潰され、血に浸った衣服や装飾品がなければ、元が誰だったのか判別することは不可能だろう。
潰れたグルトーが黒煙を燻ぶらせ、同時に蛋白質が焼ける悪臭を漂わせる。直前まで火を焚いていたのだろう。今そこで何が燃えているのか、ウバンは考えたくなかった。
「こんな……こんなこと……!!」
「うぅ……」
「っ!?」
ウバンの耳が、うめき声を拾った。
慌ててい場から飛び降り、声の元へ向かう。
「おめー……ウバン……か……」
倒れていたのはラバト──いや、ラバトの上半身だけだった。腹から下半身を潰されて失い、空を仰ぐように転がっている。
助かるような傷ではない事は一目瞭然だ。あと数分か、はたまた数秒か、その命は風前の灯火だ。額には脂汗が滲み、辛うじて機能している脳を激痛が支配していることが判る。
「ラバト、何があった!!」
「オレが……ああ、オレが間違ってた。おめーみたいによぉ、慎重に……慎重じゃなくちゃならねかった……。オレが……ズバイを……皆を……殺しちまった……!」
眼に涙を浮かべ、後悔を口にするラバト。だが、何もかもが遅かった。遅すぎた。
「……介錯、いっか?」
「いらねぇよ。楽になりてぇけどよぉ……オレはよぉ……一番、誰よりも長く長く苦しんでよぉ、それからくたばんなくちゃ……っなんねぇ。今オレに出来んのは、そんくれぇ……。簡単に、死んじまうのは……戦士のプライドが……許せねぇよ」
ラバトは口が悪かった。人を殺せないウバンを見下し、臆病者として軽蔑し、侮っていた。戦士として高いプライドがあった。故に、滅びの原因を作ってしまった自分が簡単に逃げる事を良しとしないのだ。
「とっとと、オメーの嫁とガキのトコ行け……。もしかしたら……オレみてぇにまだ……てるかもし……ねぇ……最後…………れくれぇ……は……」
「ッ……!!」
最後の瞬間を見届ける事無く、再びウバンは駆ける。
例外なく全て殺される。それが禁を破った部族の末路だ。だが、自分は今生きていて、原因となったラバトは半死半生。もしかすれば──そんな淡い期待があった。希望があった。
──現実は非情だ。
ウバンの家族が住まうグルトーは無残に潰れ、その前には血溜まりが出来ていた。
「あ……ぁあ……!!」
血溜まりに浸っているのは、彼が愛し護ると誓った女の衣服と、結婚の際に贈った魔物の牙を加工して作ったネックレスの紐と、砕けた牙。そして完全に潰されドロドロになったモノ。ソレが何なのか、彼が理解するには十分すぎた。
「うわぁああああああああああああーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」
*
ウバンが乗っていた馬が留まっている場所に着く。咽かえる様な血の臭いが、青臭い草の匂いを完全にかき消している有様だ。
衣服やヒトだったモノが沈む無数の血溜まり。無残に潰されたグルトー。この惨状で、助けを求める声は聞こえない。
「これが禁を破った結果か……」
……ずっと昔、まだ捻くれる前の子供だった頃、寺の壁に掛けられた絵を──『地獄絵図』を見た。
閻魔に舌を抜かれ口から血を流す罪人が、針山地獄で串刺しになりながらもがき苦しむ様が、血の池地獄で溺れ苦しむ様が描かれていたことを、今でもはっきりと覚えている。
ソレを幼稚園の頃に見たもんだから、酷くそれが怖くて、ふとした瞬間何度も思い出して幼い心を苦しめ、自分は悪人にはなるまいと幾度となく思ったものだ。
今思えば、子供の頃の他人に対する親切の根本は、地獄の裁きに対する恐怖故の独善的なモノだったのかもしれない。何せ結局、善人とは言い難いであろう人生を送っているわけだしな……。
あと何が描かれていたかは忘れてしまったが、今のこの光景を地獄絵図に書き足しても何ら違和感はないだろう。それくらいに、ここは酷い。
「地獄、か……」
この地獄の惨状を見ても、何も思わない。理不尽と憤る事すらない。死者の無念を想い涙を流す事も無い。俺にとって、客でも何でもない、本当に全く何の関係もない者の死なんてそんなものだ。テレビで家族を殺された被害者のインタビューを見るような、そんな他人事、傍観者でしかない。
それなら何故ここに?……なんでだろうな。何か目的があったわけじゃあない。助けなければ!なんて正義感は論外だ。そんな正義感があるなら、災害救助隊のように今頃必死で潰れたグルトーをひっくり返している所──
「うわぁああああああああああああーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」
……この慟哭は、ウバンか。
地獄絵図の中を、ゆっくりと声の元へ歩いていく。……しばらく、トマトソースやトマトケチャップ、赤系のスープやペーストは食べられそうにないな。肉は……ギリギリいけそうだ。本当に、なんで俺はこんなところに……。
理由はすぐにわかった。
血溜まりの前で、ウバンが絶望の表情を浮かべ、跪いている。潰れた血肉と破砕した骨が混ざったソレに、女物の服が浸かっていた。元々ソレが何だったのか、先の慟哭と打ちひしがれた様子を見れば、おおよその見当は付く。
……かける言葉が無い。この血溜まりがウバンの伴侶のなれの果てならば、俺のように伴侶を溺愛していたならば、慰めになるような言葉など存在しない。何を言っても、心に届きはしないだろう。逆の立場であったとしても、誰かの声が届くとは思えない。これが草原で生きるという事、か。
ただ、何か違和感を感じる。漠然としていて何なのかわからないが、この地獄の光景に対し、何かがおかしいように感じた。
しかし、分からない。答えにモザイクが幾重にもかかったように、答えの片鱗すらつかめない。
……いや、もう行こう。当初の人質作戦は完全に破綻した。違和感の正体はつかめないし、どうにもすっきりせず気持ち悪いが、それでも他人事だ。ここでできる事はもう何も──
ォ──ァ──
「ッ──!?」
今、何が聞こえた……!?
「いや、まさか……!!」
[シルフィードウィスパー]を感度最大でかけ、周囲一帯の音を完全に掌握。
──いる!目の前の潰れたグルトーの中から、微かな呼吸と小さな心音が聞こえる!
潰れたグルトーに駆け、ガワの布を引っぺがしてどかし、折れた梁や支柱をどかしていく。
──いた。揺り籠替わりの深い竹ザルが、地面にのめり込んでいる。その中に、メェヌの毛で織ったであろう布に包まれた赤ちゃんが!!
「ゥゥ……」
外傷、無し。呼吸、異常なし。おもらし、無し。奇跡的に健康そのものだ。人をミンチよりひでぇ状態にする圧力を受けて、無事?……このザルに使っている竹、ただの竹じゃないのか?
「……わーは、なんしとる……?」
死にかけた病人のような、生気の欠片も無いウバンの声が聞こえる。考えるのは後だな。
「おい!この潰れたグルトーは、お前のか!?」
「そう……けど、もう……」
「お前の子は、生きているぞ!!」
赤ちゃんを竹ザルごと抱えて引きずり出す。
赤ちゃんを間近で見るのは久しぶりだ。どうにも……三太郎が生まれた日を、思い出してしまうな。
「ぁ……ああ!!ルバニ……!!ルバニッ!!!」
俺から赤子を受け取ったウバンは、そのまま泣き崩れた。
地獄の中の、たった一つの救い、か。だが……悠長にしてはいられない。
「おい、喜ぶのは後だ。……来い!」
「……?わーは……何言っとる……?」
「それはこっちのセリフだ!この惨状で、この子の食事を、ミルクを確保できるのか!?夜に凍えない暖を確保できるのか!?クソが付いたおしめの替えが用意できるのか!?何も無いだろうが!!……ぐずぐずしていたら、せっかく助かった命が消えるぞ?」
「っ!?」
言われてはっとするウバン。成程、どうやら育児はまるで素人。このまま任せていたらこの子、100%死ぬわな。
「なんでうらを……ルバニを助ける?うらはわーを殺そうと……殺すつもりやったぞ?」
「……俺はな、敵は容赦なくぶっ殺すくらい非情だが、基本はおせっかい焼きなんだよ!プラス、赤ちゃんが死ぬのは見たくない!例え無関係な赤の他人の子供でもだ!何が悲しくて可能性の塊を死なせなくちゃあならないんだ!そして今ここでお前を敵としてぶっ殺したら、この子の家族は誰も居なくなるだろうが、バカタレ!!……お?」
漸く空が晴れてきた。日は僅かに傾き、数刻もすれば夕方になるだろう。……時間が無い。
「ほれ、さっさと馬に戻れ!!……同胞を弔いたいだろうが、赤ちゃんはそんな事情お構いなしに体力が尽きるまで泣くぞ!!満たされない限り泣き続けるぞ!!」
「お、おお!……恩に、恩に着る!」
ああ、もう暇だとか退屈だとか贅沢言える状況じゃあなくなってきた。状況の緩急が……激しすぎるッ!!!
ウバンの尻を蹴って移動を促す。急がなけれ──
「「ッ!?」」
──フッと、太陽光が遮られ、空を見る。
散った黒雲が再び渦を巻き、草原の空を覆い隠そうとしていた。
「急げ!!!」
「わーっとる!!!」
現状を理解したウバンは、先までとは打って変わって迅速に行動を始める。
屋台のおっちゃんは言っていた。例外なく、と。どうやらバヌブグナスは、赤ちゃんであっても見逃すつもりはないらしい。
「じゃあ……敵だな」
守護獣だろうがなんだろうが、俺の目の前で赤ちゃんを物理的に潰そうとするんなら、間違いなく敵だ。例え大義があろうが、正当な復讐であろうが、そんな事情は関係ない。敵対というモノはいつだって、譲れない意思と意思のぶつかり合いだ。
お読みいただき感謝。




