連れ添う男
僕は小さい頃、年上の綺麗な女性をとても慕っていた。
他の人は何故か意地悪をして彼女を居ない人として扱っていた。
僕はその事が悲しくて寂しげな彼女を守らなくてはと、ある約束をした。
「大人になったら僕のお嫁さんになって、ずっと傍に居られるようにしようよ。」
それが全ての始まりであった。
僕の名前は秋野誠司。
小さな出版社で働き始めて、二年目になる新米社会人だ。
日々の仕事は忙しくて、まだまだ覚えることも多いけれど充実している。
高校を卒業し、働き始めてから目まぐるしく環境は変わった。
それでも、アパートの一室で一人暮らしを満喫するぐらいの余裕は出てきたところだ。
そんな僕の平穏な日常の唯一の異変は毎日見る夢だった。
普段は出版社の仕事が忙しく、深く眠ってしまい余り夢を見ない。
けれどその夢は不思議なくらいの頻度で見る様になった。
登場人物はいつも決まって同じ女だった。
彼女は藍色の着物で黒檀の絹のような長い髪を持っていた。
肌は抜けるように白く、唇は紅い。
顔は典型的な日本人美人。
その女は初めは遠くから見つめるだけだったが、徐々に近付いてきた。
やがて、僕と彼女は手の届く距離になると雑談をするようになった。
色々な話をすることで、僕達はお互いに徐々に馴染むようになっていった。
冷たい容貌の彼女は笑うと雪が溶けたような印象で、それを見るのが好きだった。
ある時、女はやっと会える様になったと大層嬉しそうに微笑んだ。
僕は何の事だか分からず、それでも曖昧に頷いた。
「先輩、何時も女性の夢を見るのはどんな意味があるんでしょう?」
「それは女と付き合いたいって事じゃないか。」
休憩時間中の罪のない雑談の延長線上で事務の山中がお前に興味があるってよと、先輩は教えてくれた。
僕は成程と納得をし、偶々帰り道が一緒になった山中さんに飲みに行きませんかと声を掛けた。
そうすると彼女はとても嬉しそうな顔をして、いいお店知っていますよと言った。
その積極さは意外だったけれど、嫌いじゃなかった。
「秋野さんってどういう方が好みなんですか?」
「年上の人かな。着物が似合いそうな人がいいんだ。」
そうなんですか、と呟く彼女を尻目に僕は夢の女を想い浮かべ答えてしまったことに驚いていた。
山中さんは年上だが活発な人で如何転んでも着物なんか似合わないタイプだ。
やや気まずくなった雰囲気を払拭しようと酒を次々に空けることになった。
酔いの弾みか、彼女に口付けられた事は覚えている。
その後の記憶は曖昧で自宅に辿り着いたのを最後に僕の意識は暗転した。
そうして、当然のように女の夢を見た。
彼女は、私がいるのに如何してと僕を詰った。
取り縋って泣きわめく女は端正な人形に炎を宿した様だった。
僕は精一杯彼女を宥めようと背中に手を回したが振り払われた。
そうして啜り泣きながら、僕の首元にゆっくりと手を這わせてきた。
その後の事は覚えていない。
僕は気が付いたら、自宅のベッドの上で寝転んでいた。
痛む頭を抱えながら洗面台に行くと、鏡には紫色の痣を首に持つ僕の姿が映っていた。
その痣は如何見ても女性の手形にしか見えなかった。
僕はざわざわとした寒気を堪えられずに、昨日の夢を思い出した。
そうして幼い頃、年上の女性とした忘れかけていた約束も。
先月、自分が成人した当たりから女の夢を見る様になったと思い返した。
社会人になってからは誕生日なんて殆ど意味のないイベントになっていたのだ。
僕は、慌てて母に電話をすると数コールで出た。
「もしもし、誠司だけど。」
「ああ、お久しぶりです。如何したんです?」
「僕、小さい頃はどんな子供だったか教えて欲しいんだ。例えば、誰もいない所に話しかけたりしていなかった?」
「何ですか急に?確かに貴方は不思議な子供でした。居る筈のない女性を居ると言い張って。
初めは周囲も聞き流していましたが、段々不気味がるようになって苦労しました。
私がきつく口止めをしたら、言うのをぱったり止めましたよ。」
それが如何したんですと聞き返す母に、
ちょっと昔の夢を見て懐かしくなっただけと答え、僕は電話を切った。
間違いない、あれは彼女だったんだ。
今まで幼い頃の美しい夢だと思っていた、女と居た日々が記憶の底から蘇った。
当時父が浮気をし、不仲だった両親に代わって構ってくれたのが彼女だった。
今でこそ落ち着いたものの、当時母は寝込んでいることが多かった。
寂しかった僕の気持ちを慰めてくれたのは彼女唯一人だった。
僕は初恋の人を蔑にした自分に愕然とした。
そうして、女に無性に会いたくなって瞼を閉ざした。
夢の中で僕は彼女にごめんねと謝った。
それは、色々な意味の籠った謝罪だった。
彼女は前回見た夢よりもずっと落ち着いた様子で首を振った。
自分の事が視えなくなった僕をずっといて見守っていた事、
それでも僕が成人することで夢の中に現れることが出来るようになった事、
幼い頃してくれた約束を忘れられなかった事を静かに語り、一筋涙を零した。
それは泡沫にも似た短い夢だった。
夢から覚めた後、僕は彼女の元に行かなくてはと言う思考に支配された。
そうして、アパートを出た所のすぐ近くにある高層ビルの最上階に行くと屋上に出た。
僕は転落防止用のフェンスを乗り越え、建物の縁から足を踏み出した。
ああ、これで何時でも彼女に会えるようになると言うのが最後の思考だった。