梅の花
「綺麗だなぁ。おめぇはブスだが、おめぇの吐く血は綺麗だなぁ。
紅い花びらみたいで、布に花の咲くようだ」
徹は腿に置いた両手の平の上にある手ぬぐいを、首を折って見下ろしながら小さな声で呟いた。梅の花弁がひらひらと落ちる、黄昏時のことだった。
「そんなもんが綺麗に見えるなんて、あんた大分参ってるのね」
布団に横たわったまま、伊代は馬鹿だねと笑った。白髪交じりの長い髪が、落ち窪んだ頬をへにゃりと歪ませてころころと笑うたび、すこうしづつ布の上を引いた。
「あんたがそんなもので喜ぶんなら、私はそれでいいけれど。でも、ほら、外見てごらんなさいよ。たまには顔を上げないと、そのまま首が落ちてしまう。
ほら、ごらん。蘇芳梅の見事なこと」
ゆるりと上がった伊代の手が、開いた障子の向こう側、粗末な庭に馴染まない立派な一本の木を指差した。
「そうだなぁ。確かに、おめぇよりもよっぽど見ごたえがある」
顔を上げないまま放られた言葉に、伊代はそうでしょうそうでしょうと、薄い瞼の下に埋もれつつある瞳を、ちらりと夫の方へと向けた。
「ほんとうに見事。毎年のことだけど、どんどん綺麗になっていくわ。ねぇあなた、来年はもっと綺麗になるんでしょう。ふかぁいふかぁい朱の色。こんなに濃い夕空にも埋もれやしない。
私、桜も好きだけど、黒く焼けた枝に咲く、あの可憐な赤が一番好き。雨に濡れた時なんて、息が詰まるくらいだわ」
やんわりと促されて、やっと徹は外を見た。ぎゅっと両手を握りしめ、それはそれは大儀そうに瞬いた。
「眩しいなぁ」
風がくるくると花を舞い上げるが、全てはやがて地に落ちた。飛んできた数羽の小鳥が枝の上を跳ねて、ちちと鳴く。伊代はしばらく徹の顔をじっと見上げ、それからすっと手を伸ばすと、力が入りすぎて白くなった拳をぽんと叩いた。
「馬鹿ねぇ。あんたは本当に馬鹿ねぇ」
言った後にけんけんと咳き込んで、何度も体を揺らす度、音がどんどんと濁っていった。おいと声をかけてくる夫の緩んだ両手から、手ぬぐいをするりと抜いて口元にあてがうと、湿った咳を繰り返した。
「冷えすぎたんだ。もう十分見ただろう。閉めようか」
すっかり細くなった背を撫でると、その手はぱんと撥ねられた。
「ごめんなさい。でも、痛くて仕方ないの。布が擦るだけで、針につかれるよう」
布団の上で、伊代はもがいた。弱弱しくも、痛い痛いと体を曲げた。
徹はゆるゆると立ち上がり、庭へ下りると一輪花をちぎった。八重の花を壊れないようそっと握って振り返れば、暗がりで布団がもぞりもぞりと蠢いていた。それを見たまま動けずに、ぼうと立ち尽くす頭や肩に、花びらがそっと触れては離れていった。徹の体は少しも揺れず、案山子のようにそこにあった。
遠くで数度、鐘が鳴る。そうしてやっと金縛りが解けたのか、一つ息を零し部屋へと戻った。戸を閉めて明りを灯せば、痩けた妻の青白い顔に濃い影が落ちた。ぎゅっと目を瞑った顔のそばで、手に握られた赤の散った手ぬぐいをそっと取り上げると、代わりに採ってきた花を握らせた。
「あの子達は、どうしているのかしら」
開かないままの眼が、目蓋の下で動いていた。
「ちゃんと元気にしているよ。おめぇに会いたいなんて言って、癇癪を起こす」
「そう……」
新しい手ぬぐいを枕元へ置いて、汚れた方を籠へと投げ入れた。乱れた布団を正し、入り込んできていた花びらを拾い上げて、屑籠へと落とした。伊代の苦しげによっていた眉間のしわがふっとなくなり、深い琥珀色の瞳が覗いて、それからひたと徹を見た。
「ねぇあんた」
「なんでぇ」
「あんた、足だけは速いんだから走ってけ。私は先に休むけど、あんたはまだまだ休んじゃ駄目よ」
男の動きはぴたりと止まった。その様子を見て、伊代は意地の悪い笑みを浮かべた。
「それだけが取り柄だって、私はちぁゃんと知ってます。あんた馬鹿なんだから、止まっちゃだめよ。考えちゃだめよ。体を動かすの、止めちゃだめよ」
休み休みそう言った。それから、あぁごめんなさいね、汚してしまったみたい、と紅い花がてんてんと散る敷布の上を、骨ばった手でするすると撫でた。
「ブスはな。そう簡単に死なねぇよ。佳人薄命っていうだろう。だから、おめぇは死なねぇんだよ」
もごもごと口の内から出そこねた言葉は、声になる前に頬の内で死んでしまいそうだったが、伊代の耳は一つも溢さずに拾い上げた。
「ブスブスって失礼な人。でもまぁ、本当のことだもの、こんな私を貰ったこと後悔してやいないかしら」
「馬鹿を言うな。後悔なんてするものか」
背を曲げてしゅんとしょげていた徹は、とたんに肩を怒らせてぎょっと伊代を睨みつけた。
「子供たちをお願いねって、言いたいけれど。どうせあんたのことだから、かえって助けてもらうのよ」
「そんなことねぇ。おめぇは俺を見くびりすぎだ。俺を馬鹿だ馬鹿だと言っちゃいるが、そうでもねぇんだ。今に見てろ、凄いところを見せてやる。だから、ちゃんとその細い目開いてしっかり見てろ。そうすりゃ何処へでも走って行って見せてやる」
「えぇ、そうね。そうしましょう。不甲斐ない旦那の背中を見てましょう。そうして、来年も、再来年も、そのまた先も、ずっと一緒に梅の花を見上げましょうか。あんたみたいな馬鹿に付き合えるのは、私くらいのものでしょうから」
声を荒げる夫の怒りを、嵐の中でひょんとしなる柳のように見事に流し、そして受け止めた。
二人は手の平の上で咲く、一輪の梅の花を見た。可憐な紅が伊代の白い肌に色を注し、そこだけにぽっと命が息づいているようだった。
伊代が儚くなったのは、それから八日後。数えで二十八になったばかりの女は、夫に気づかれぬ内に、さっとこの世を去ったのだ。
たいそう見事な満月が、高く高く空に昇った、酷く静かな夜のことだった。
ある日の昼下がり。屋台の並ぶ通りに置いてある古びた長椅子に、どこかちぐはぐに見える二人の男が並んで腰かけていた。一人は饅頭の包み紙を持ち、もう一人は擦り切れて傷んだ本を、見るともなしにぱらりぱらりと捲っていた。辺りは飯を食おうとやってきた人で、けんけんと騒がしかった。
「おい、お前さん、あの美人さんは誰だい?」
饅頭の包み紙をいそいそと破いていた男の方が、しゃんと背筋を伸ばして歩き去る、一人の女を指して言った。
「覚えてないのかい。ありゃぁ、徹さんところの娘だよ」
「ほぉ、久しぶりに見たな。どうにも記憶と違って見えるが、綺麗になったもんだ。女は化けるというが、本当だね」
小さくなっていく後ろ姿をじぃっと不躾に目で追う男の脇腹を、とんと肘で突いて止めた。それから辺りをちらりと見た後に、小さな声で言った。
「じろじろみるもんじゃねぇ」
「あ?いいじゃないか、減るもんでもないし」
「黒い服着てただろ。徹さんがいなくなって随分経ったから、いいかげん諦めて葬式でもあげに来たのかもしれん」
隣近所に聞こえぬよう抑えた声で言うと、壁に貼ってある焼けて色の褪せた紙を指差した。雨風にさらされて消えかけていたが、そこには男の似顔絵が描かれていた。
「え?あれもしかして徹さんだったのかい。下手糞な絵だと思ってたが。こりゃ似てない」
それで何があったのかと、初めて知ったような口をきく男に、友人は呆れ果てて溜め息を吐いた。
「知らないお前に驚くよ。部屋に籠ってばかりだからそうなるんだ。この浦島太郎め」
そう言われた男は、へへとだらしなく頬を緩めた。
「浦島太郎ってこりゃうまい、お前は頭が回るね。てことは、玉手箱を開けたら俺は爺さんか。恐ろしい恐ろしい、しばらく箱には用心しなきゃ」
なんてすっとぼける男の頭を、からかうなと言いながら、本から視線も上げないままに叩いた。すると当たり所が良かったのか、ぱちんと小気味のいい音がして、近くで休んでいた人らが、なんだなんだと視線を寄こした。
友人は軽く頭を下げて、すみませんと謝ると、また本をだらだらと捲り始めた。
「はぁ……。噂も耳に入らないとは、お前周りに嫌われてでもいるのかい。俺はてっきり皆知ってるもんだと思っていたぜ」
「人とは狭く浅く付き合うことにしてるんだよ」
馬鹿にされてもどこ吹く風と呑気にしているものだから、この唐変朴はしょうがないと二度目のため息を吐き、ぽつぽつと続きを話しはじめた。
「まぁいいか。お前の友好関係なんて、知ったことじゃなし。で、徹さんな、去年の春にどっかに行っちまったんだ」
「へぇ、そういやしばらく見てなかったな」
「お前のしばらくは、真っ当な人間にゃ、随分って言うんだよ」
「まぁまぁ、世間様の常識ってものは俺にはあんまり分からんからね。でも、あの人働きものだったろう?どっかに行っちまったって言うんなら、遺骸は見つかってないんだろうから、案外よその所で何時もみたいにあくせく走り回ってるんじゃないか?」
饅頭を頬張りながら聞き返し、前を通り過ぎる人の影を目で追った。
「いやいや。それがね。いつだったか、消えた日に姿を見たって人に話しを聞いたんだがね。どうやら普通じゃなかったらしい」
「ほう、普通じゃないか。皆の言う普通は狭いから、意外と変ことなんてなかったかもしれんよ」
そう言って、何が可笑しいのかにやにやと笑う男とは対照的に、もう一人は眉間にしわを寄せて腹でも傷むような顔をした。開いたままであった本を、栞も挟まずにぱんと音を立てて閉じ、その角でとんとんと椅子の端を叩いた。
「なんでも笑ってたってさ。そんで、梅の花を持って走って行っちまったって。噂じゃ死にに行ったんだろうって」
ふんふんと生返事をしつつも次の饅頭を手に取り、大きな口でがぶりと中ほどまで食らいついた。
「確かにそいつは変だな。でも、それくらいじゃ死にに行ったとは限らないだろう?人の不幸は蜜の味ってな。暇な奴らは、噂に尾ひれ背びれを付けたがる」
「けどなぁ、今でも帰ってこないままだし、家を覗いたら綺麗に片づけられてたって話しだ。とどめに、走って行った先があの崖の方角だったとよ」
視線だけでついととある方角を見た視線を追って、ありゃまと声をあげた。その拍子に、饅頭の屑が口からぽろぽろとこぼれ落ちた。
「崖って、あの海にせりだした所かい。そりゃ、そんな噂がたつのもわからんでもないな」
「おいおい、さっきから汚い奴だな。飲み込んじまってから口を開けろ、この阿呆」
こりゃすまねぇと、男がいそいそと屑を地面に落とすと、何処からかやってきた二匹の鳩がちょんちょんと嘴で突いて、すっかり綺麗にしてしまった。それから、物欲しそうにしばらくうろうろしていたが、しっしと追い払われて、何処かへと飛んでいった。
「ここいらで死のうと思った奴がいりゃ、まず間違いなくあそこに行くだろうよ」
「まぁたしかになぁ。でも、もし身投げだったとして、悩みでもあったのかねぇ」
「さぁな。娘は良いとこの嫁さんに行って、末の息子も丁稚先で上手くやっていると聞いたが。やっと肩の荷が下りたところだろうに。一人になって気が触れでもしたのか、なんなのか。嫁さんが亡くなった時以来、あの人が暗い顔していたところを俺は見たことがなかったがね」
そんな風にこそこそと話していた二人の背後から、知らない男が、おぃと声を挟んできた。
「そいつ、たぶん見たぞ」
一人は大して驚かず、なんだなんだと振り返り、もう一人は声の主をじろりと睨んだ。
「なんだいあんた、立ち聞きしてたのか」
「あぁ、すまない。でも耳に付いたんだ。あんたらの話している、その徹さんとやらの事が。
まぁ、間違いないと思うが、俺はそいつを見たよ」
背後に立つ男は、二人を見下ろして言った。どうにも表情の乏しい男だった。
「何処でだい?」
「あんたらの言う。あの崖の上で」
「なんだってあんたそんな所にいたんだい?」
「あの場所に行く奴は、皆同じ目的だろう。つまらんことを聞いてくれるな」
「でも、あんたは生きてるじゃないか。死ぬのが怖くなったのかい?」
「いや。たしかに、全く怖くなかったのかと聞かれたら、それは少しくらいは怖かっただろうが、その時は生きるほうがよっぽど怖かった。だから、きっとそれほど恐れちゃいなかったよ」
続けざまに投げられる質問に淡々と答え、意地の悪い問いに苛立ちもせず、視線をすっと二人から離すと、くだんの崖の方を見た。
「じゃぁなんなのさ」
まるで、視線の先に見えるものでもあるのか、目を細めて小さく息を吐いた。それから肩をすくめると、刈り上げた頭をぽりぽりと掻いた。
「馬鹿らしくなったのよ」
「はぁ?」
「だから、死ぬのが馬鹿らしく思えたんだ」
「馬鹿らしくって、あんた生きるのが馬鹿らしくて死のうとしたんじゃなのか?」
何が面白いのか、相も変わらずにやにやと笑っている男とは違い、もう一人は顔に呆れを露わして眉間に皺を寄せた。
「あぁ、そのつもりだったんだが……」
どうにも自分でも掴み切れていないと途方に暮れる男に、最後の饅頭を頬張った男が何を見たのかと急かした。
「俺が見たのは。そりゃ見事な、真っ赤な八重の梅の咲く、立派な枝を持った男だった」
「噂通りだ」
顔をしかめて聞いていた男も、興味が出たのか神経質にとんとんと叩いていた手を止めて話しに耳を傾けた。本の角がまた少し、削れていた。
「あんたらの言った通り、何が楽しいのか、笑っていたよ」
「へぇ、それも本当だったのか」
「あぁ。それでな、けっこう歳食ってそうな人だったんだが、ひょいひょいと地面を駆けるんだ。見事な走りで、それで、そのまま崖の向こうに飛んでったんだ」
ひょいと置くように言われた言葉に、ずっとにやけ顔だった男もさすがに呆れた様子だった。
「はぁ?」
「そりゃさすがに嘘だろう。あんたの言ったように、今際の際で少しも怖がらないなんてことは、いくらなんでもないだろう」
腿を本でぱんと叩いて、男をじろりと見上げてみても、どうにも嘘をついている様子は少しもなかった。男はただ、見たままを言っただけだと、真っ直ぐ二人を見返して、大げさに言うでもなく続けた。
「嘘じゃないんだ。俺は見た。それで、それを見たせいで死にぞこなっちまって、今もこうしてぬけぬけと生きている」
しばし三人は沈黙した。それから饅頭を食べ終わった男が、包み紙をくしゃくしゃと丸めながら言った。
「なんとも、奇妙な話しだね」
隣の男が小さく頷いたが、どうにも煮え切らない表情のままで、人違いかもしれんと呟いた。しかし、それも次の言葉で打ち消されてしまったのだ。
「あと、叫んでいた」
「叫ぶ?」
「あぁ。確か、まってろ伊代、今行くぞって」
「おいおい。あんた、そりゃ徹さんの死んだ嫁さんの名前だよ」
「へぇ、そうなのか。まぁ兎にも角にも、それを見たら何だか、死に切れなくなったんだ。俺もあんな顔してみたいって思っちまって。気が付いたら家の前にいた」
「あんな顔って、どんな顔だったんだ?」
言われて死にきれなかった男は、すっと天を指して言った。
「この空みたいな顔だったよ」
その日は雲ひとつなく、たいそう穏やかな深い青色の空だった。