六
タマ子が出て、座はしんと静になる。何か話題はないかと考えを巡らせる。
「き……今日は、良い天気ですね」
「はい。雨が降っていなくて助かりました」
本当に、と頷く。そのまま会話は広がらず、続くのは沈黙だ。考えれば考える程、何を話せば良いのかわからなくなる。小春が一人、懸命に頭をひねっていると、横から孤月が問いを投げた。
「なぜ、この山に来た」
問いに、静磨はすぐに答えなかった。不機嫌にさせてしまったかと、慌てて取り成す。
「あ、いえ。失礼なことでしたら無理に答えなくても……。ね、孤月。いきなり失礼よ」
「何が失礼なんだ。意味もなくうろつく場所ではないだろう」
「だけど――」
また始まりかけたやりとりを打ち切るのは、静磨だった。
「探しに来たんです」
「探しに?」
「そう。大切な……」
しかし、その後は続かなかった。何を、と続きを催促する前に、ぱたぱたと軽い足音が近付いてくる。タマ子が眼鏡を手に戻ってきたのだ。
「帰って来た」
「速いですね」
「タマ子だけなら、このくらいです」
タマ子は、手にしていた眼鏡を得意顔で差し出す。
「これでしょう?」
「ああ、そうです。これです」
静磨は眼鏡を受け取り、壊れていないかを確認してかける。幾度か瞬きをし、辺りを見回した。ぼんやりと、明後日の方向を見ていた瞳がしっかりと焦点を定める。
「良かった。ちゃんと見える。本当に、ご迷惑をおかけしました。何から何まで、ありがと――……」
にこやかに挨拶をしかけ、その表情が凍り付いた。真っ青になり、ぱくぱくと口を開くが、言葉が出てこない。
「どこか、まだ痛いのですか?」
「大丈夫?」
タマ子が布団の上に身を乗り出すと、静磨は後退る。脚はまだ痛い筈だが大丈夫だろうか。
「ひっ――! 猫が――!」
「猫?」
「喋っ……猫が……!」
大急ぎで山道を駆けたせいだろう、タマ子は子供ではなく本来の姿――大きな白猫に戻っている。つやつやとした毛並みと、二又に分かれた尾。瞳は、おかっぱの子供と同じように黄と青の色だ。小春にはごく日常のありふれた光景であったから、静磨が怯える理由が分からない。タマ子と共に首を傾げる。
「失礼な男だな」
「ちょっと孤月」
本人を目の前にして言う孤月も充分失礼だ。小春が窘める。
「すみません、孤月ったら礼儀知らずで」
静磨に向き直ると、茵から這い出し柱の陰に隠れようとしている。
「静磨さん?」
脚を折っているのに、そんなに動いてはいけない。
「つ……つの……つの、が……」
「つの?」
孤月を指さし、震えている。端正な孤月の顔、その額には二本の角が確かに生えていた。
小春とタマ子の視線が、孤月の額に向けられる。
「角が、どうしたのかしら」
タマ子は付き合っていられないというように、廂に向かう。そこで軽やかに一回転の宙返りをした。白猫の姿からおかっぱの子供に戻る。
「ばっ――化物――っ!」
鼓膜をびりびりと震わせる大声を出し、静磨は布団を被ってしまった。
孤月は沸点が高い。滅多なことでは怒らない。嘘を吐かれた時など、著しく信頼を裏切った時くらいだ。だが、その孤月が今までに見たことがない程に怒っていた。当然と言えば当然だろう。嫌々助けた男から不躾に指をさされ、さらには化物呼ばわりされたのだ。静磨を信頼していたのではなく、誇りを傷付けられたのだと思う。
タマ子も可哀想だ。礼を言われてすぐのあの仕打ちなのだから。
このままでは、事が大きくなるだけだ。怒る孤月と呆れるタマ子の腕を引き、一旦寝殿に戻った。戻ったは良いが、席を外したくらいで片付く問題ではない。
「あの……ね、そのう……」
怖ず怖ずと小春が話し掛けると、赤い獣のような瞳に睨まれた。
「……ごめんなさい……」
静磨の反応は失礼だが、間違っているとは言い切れない――のだろう、多分。小春には分からないが。
孤月もタマ子も、静磨の言葉を借りれば人間ではなく化物だ。それだけではない。廃寺の和尚だってそうだ。この山には、化物――小春たちに言わせれば、あやかしだが――が多く棲んでいる。タマ子は百年以上生きた白猫だし、和尚は廃寺に棲み着くあやかしだ。そして、孤月はこの山で一番力を持つ鬼である。小春はそんなあやかしの山に嬰児の頃に捨てられ、孤月に拾われた。あやかしたちとは家族のように暮らしてきたから、怖いなどと思ったことは一度もない。しかし、静磨のように初めて触れる者にとっては怖いのだ。
「なぜ小春が謝る」
「罠を仕掛けたのは、私だもの」
そのせいで、静磨に怪我を負わせ、孤月に頼んで屋敷に連れてくることになった。それがなければ、孤月も嫌な思いをせずに済んだだろうに。
「ならば、あの男に謝れ。おれに謝らなくて良い」
「そう、だけど……でも」
「それとも、何だ。あの男の言ったことか? それをお前が謝るのか? 筋違いだろう」
「……はい……」
代わりに謝るのは筋違いだと、小春も分かっている。しかし、嫌われたくなかったのだ。あやかしたちが人間を嫌えば、いずれその中に小春も含まれてしまうのではないか。人間だからという理由で嫌われてしまうのではないか。それが怖かった。
「静磨さんの様子を見てくる」
怯えていたから慌てて退散したが、相手は怪我人だ。放ったらかしにしてはいられない。この中でその役目を全うできるのは小春だけなのだ。
西の対屋を覗くと、静磨が布団から起き上がろうとしている所だった。骨を折って、手当をしたばかりだというのに。
「無理をしないで」
倒れそうになっていた静磨に慌てて駆け寄る。肩に小春の手が触れると、強張るのが伝わった。
「あ……すみません。怖いですよね」
自分も化物だと思われているのかもしれない。同じ人間には見えないのだろうか。小春は、自分が何者なのか分からなくなる。あやかしでもなければ、人間にも受け入れてもらえない。
「あなたは、名前は何というのですか」
「え?」
「名前……訊いていなかったから」
そうだ。静磨には訊いたが、自分たちは一切名乗っていなかったと気付く。いくら助けたとは言っても、これでは怖がられてしまうのも無理はない。怖がる理由は他にもあるだろうが。
「私、小春といいます。猫……眼鏡を拾ってきたのがタマ子で、もう一人の男の人が孤月」
些細なことでも、静磨を刺激しないよう言葉を選ぶ。一つの質問に返すと、静磨は間髪入れずに次の質問を投げてくる。
「あなたは、人間ですか?」
「はい」
「だったら。母親は居ますか」
身を乗り出して問われ、反射的に身を引く。
「私、赤ん坊の頃に、この山に捨てられたんです。それを、孤月が拾って育ててくれたんですよ」
できるだけ暗い話にならぬよう、明るく伝えたのだが、静磨は申し訳なさそうに俯いた。
「そう……ですか……」
それは、どうも申し訳ないというよりも、小春の答えに残念がっているように見えた。そして、すぐに表情を改め、謝罪した。
「済みません。辛い話を……」
「いいえ。少しも辛くはありません。孤月は、大切にしてくれるから」
産みの親に捨てられたことは不幸かもしれないが、山で暮らすことを不幸だと思ったことは一度もない。
「だけど、化物に育てられるなんて――」
「孤月も、タマ子も。化物なんかじゃありません」
「角が生えていたし、猫だったじゃ……」
「でも、化物ではないんです。大切な……家族です」
静磨は複雑な表情を浮かべ、黙りこむ。今だって、無理にでも起き上がろうとしていたのだ。山を下りるつもりだろう。きっと、恐怖心が消えなければ、ここに居て怪我を治して欲しいと言っても受け入れてもらえない。
「他の人にとっては怖ろしいかもしれないけれど……少しも怖くはないんですよ。見た目が変わっているだけで」
怖がらないのは小春だけかもしれない。少しでも理解して欲しいが、押し付けてしまっては逆に孤月たちを悪く思われそうだ。
「ですが、怖いものは……怖いですよね。すみません」
「いや……」
「怪我がちゃんと治って山を下りたほうが良いと思ったのですが、孤月に麓まで付き添ってもらえるよう頼んでみます。その間だけ怖いかもしれませんが、私も付いて行きますから。だから、少しだけ我慢してください」
しかし、静磨は意外なことを言い出した。
「あなたは……ここを出ないのですか?」
「出るって……?」
「山を下りて、人間の村で暮らさないのですか」
問いかけに、きょとんとした。今まで小春が一度くらい下りてみたいと思っていたことよりも、遥かに先のことだ。暮らしてみるなど、考えたこともない。身の丈に合わぬようなことに思えるのだ。
「ええ……まあ、一度くらいは、下りてみたいとは思います。だけど、暮らすのは……ちょっと」
下の世のことは何も知らないのだ。どう暮らせば良いのか分からない。ここには、あやかしたち――小春にとっての家族が居るのだ。
「人間が嫌いですか」
「いえ、そうじゃないんです。全く。好きか嫌いかなんて分かりません。今日、初めて自分以外の人に会ったんです」
妙な誤解をされないよう、慌てて補足する。だから、好きも嫌いもないのだ。
「ここには私の家族が居ますから」
「家族……? ご両親が、ここに?」
「いえ。孤月やタマ子が私の家族なんです。孤月たちが居る所が、私の住む場所ですから」
「だったら、僕が――……」
静磨は言葉を選ぶように黙りこむ。僕が――どうしたのだろうか。中途半端に途切れた言葉は、中々続かない。首を傾げて黙っていると、意を決したように口を開いた。
「怪我が治るまで、ここに居て構いませんか」
あれだけ怯えていたのが、どういう風の吹き回しだろうか。
「でも……怖くはないのですか?」
それ以上の反論を遮るように、静磨は小春の手を握る。
「あなたが居れば、大丈夫です。それに、せめて話だけでも聞いてみませんか」
「話……ですか?」
「はい。人間の村の暮らしを。山の下も、良い所なんです。何でも教えます」
「い――良いんですか?」
「喜んで」
渡殿を通りこちらに向かう足音が聞こえた。
「小春、どうだ――」
孤月の声が聞こえたが、中途半端に途切れる。それよりも、じっと向けられる静磨の瞳から目が離せなかった。