参
立ち話もなんだから、と本堂の前の石段に和尚と並んで腰掛ける。タマ子は端から話に付き合う気がないらしく、ひらひらと舞う蝶を追っていた。
「旦那の好物なぞ、小春の方がよく知っているだろうに」
一緒に暮らしているのだから、それが普通だ。誰だってそう思う。理想と現実を比べて、小春は拗ねたように膝を抱えた。
「孤月、私の前では何も食べないんです」
「ほう」
「食事は作っても、自分は食べないんです。何を食べるのかって訊いても、霞を食べる、なんて言うし」
ぽつぽつと、孤月の好物を教えてもらう理由――食事事情を説明する。和尚はうんうんと頷きながら、始終楽しそうに聞いていた。
「私が作れば、味見も兼ねて食べてくれるかもって思ったんです」
「それは面白いことを考えたな」
褒められ、ぱっと明るい気持ちになったが、その後に続く顛末を思い出し、項垂れた。
「今朝なんて、孤月が勝手に支度をしたんです。だから、ね……寝間着のままで様子を見に行ったら、朝餉の支度の前に着替えろなんて言うし」
膝の上に顎を乗せて、愚痴っぽく今朝のことを話すと、和尚は膝を打って笑った。
「そりゃあ傑作だ」
話を聞く分には傑作だろう。聞く分には。しかし当事者はたまらない。
「笑い事じゃありません」
「あー……まあ、そうだなあ」
「孤月をぎゃふんと言わせたいんです。好きなものを用意して」
「好きなもの……? ぎゃふんと言わせるのなら、嫌いなものではないのか」
「それは……その。いつも作ってもらっているのに、嫌がらせはしたくないなって」
恩を仇で返したくはない。この場合はぎゃふんと言わせるよりも、驚かせると言った方が正しいか。
「だから、孤月の好物を教えてください」
小春が熱っぽく語りすぎたからか、和尚は、ああ、と唸り、答えづらそうに頭を掻く。
「いやあ……何だったかなあ」
「孤月と昔なじみの和尚さまにしか聞けないんです」
「そうだなあ……」
「このままじゃ、孤月が飢え死にしてしまいます」
「いや、いや。それはないだろう」
和尚の否定は速かった。悩んだ素振りは欠片もない。
「やっぱり、知っているんですね? お願いします」
「いや……知っているというか、なあ」
「お願いです。和尚さまだけが頼りなんです」
しつこく訊ねる小春に、とうとう和尚も根負けした。
「そういえば……肉を食べていたな。動物の肉だ」
「肉……ですか」
小春が記憶している限り、食事に動物の肉が並んだことはなかった。肉の臭いを嫌がると思ったのだろうか。一言、断れば良いのを、黙って一緒に食べないとは孤月らしいと言えば孤月らしい。
「動物は、どうやって捕まえるんですか? 孤月は、どうしていましたか?」
「そこまでは、わしだって知らん」
「そうですか……」
「そもそも、昔のことだぞ。ものすごく昔のことだ。だから今は好みが変わっていると……小春?」
和尚が横で何か話しているようだったが、小春の耳には届かない。難しい顔をして考え込んでいると、木の実拾いに飽きたタマ子が駆け寄ってくる。
「小春。もう終わった?」
話し掛けられても、小春の反応はない。
「小春ったら。ねえ!」
耳元で大きな声を出され、ようやく気付いた。
「え? あ――うん。そうね」
しかし、返事は上の空だった。孤月が動物の肉を好むようだ、とは分かったが、手に入れるには、どうすれば良いだろう。
「遊ぼう。それとも、帰る?」
「うーん……帰る……かなあ」
「だったら、行くのよ」
難しい顔のままタマ子に手を引っ張られる。
「ああ、そうだ。近頃人間が歩いているようだからな。タマ坊も小春も気をつけるんだぞ」
「どうしてかしら」
不安げなタマ子とは対照的に、小春は目を輝かせる。
「どこの人? 男の人? 女の人? 仲良くなれるかしら」
興味津々に詰め寄ると、和尚は後退る。
「ちらりと見ただけだから、分からんよ。だが、あんまり近寄らん方が良い」
「どうしてですか。仲良くなれるかもしれないんですよ」
仲良くなり、人間の暮らす村の話を聞けるかもしれない。何しろ、近頃は人間が来たという話を聞かない。これは、またとない好機なのだ。
「なにをし始めるか分からん奴らだ。用心するに越したことはない」
「でも」
「小春、いいから」
タマ子は小春の反論を遮り、手を取り駆け出す。無理やり引っ張られる形になりながら、小春は後に続いた。
寺の石段を下りながら、小春はずっと考えていた。いかにして動物の肉を手に入れるかについて、である。捕まえようにも、動物はすばしこい。小春に勝ち目はないと言い切ってしまって良い。あまりに険しい顔をしていたのだろう、気遣ってか怯えてか、タマ
子は一言も話し掛けない。
しかし一人で考えこんでも名案は浮かばない。そこで、小春よりも山に詳しそうなタマ子に助けを求めることにした。
「ねえ、タマ子。あのね――」
小春が続けるよりも先に、タマ子が被せてきた。
「山から下りるのは、だめなの。孤月さまに怒られるわ」
「……違うわよ」
ずっと黙り込んでいたから、山を下りる算段をつけているのだと思ったのか。その証拠に、タマ子は小春の手を離そうとしない。
「動物って、簡単に捕まえられる?」
構えていなかった方向からの問いらしく、大きな目を瞬かせた後、首を傾げる。
「動物? 種類にもよるの。でも……どうして?」
「孤月に食べさせたいの。ねえ、どうにかならないかな」
タマ子は腕を組んで考えていたが、はっと何か思いついたようだった。目を輝かせて飛び跳ねる。
「罠! 罠を仕掛けると、きっと捕まるのよ」
「罠……」
なるほど、と小春も頷く。その手があったか。
「蜘蛛のね、糸を張って。そこに引っかかってくれると私たちでも簡単に捕まえられるの」
確かに、蜘蛛の糸が絡まって動かない相手ならば、容易に捕まえられそうだ。しかし、それには大きな障害がある。
「でも、蜘蛛の糸なんてないわ」
名案だが、蜘蛛の糸がなければどうしようもない。すぐに諦めてしまった小春だが、タマ子に鼻で笑われる。
「あるじゃないの」
ほら、と指さしたのは寺の総門だ。よくよく見れば、太い蜘蛛の糸がびっしりと張り付いている。
「ずっとあのままだか、ら持ち主もきっと忘れているの」
「ああ!」
ぽんと手を打って、タマ子と顔を見合わせた。お互い、目がきらきらと輝いている。回れ右で寺に取って返す。本堂に駆け込み、和尚を呼んだ。
「和尚さま! 和尚さま!」
「総門の蜘蛛の糸をください!」
のんびりと出てきた和尚は、ああ、とのんびりと返事をした。
「そういえば、あったなあ。近頃は持ち主も来ん。好きに持って行け」
了承の返事を聞くやいなや、タマ子は総門へと昇る。器用なものであった。するすると上まで上り、糸を手繰り寄せて腕に巻き付けていく。小春はすることもなく、下からタマ子の様子を見守っていた。
「しかし、蜘蛛の糸なんぞ何に使うんだ」
様子を見に来た和尚が問う。小春は、にいっと歯を見せて笑った。
「内緒、です」
門から飛び下りたタマ子は、そのまま勢いに任せて石段を駆け下りる。小春もその後に続いた。
「気をつけるんだぞお」
「はあい」
和尚の声を背に受けて、二人は飛び跳ねて応じた。
動物を捕まえたいと言い出したのは小春だが、いざ実行するとなるとタマ子の方が乗り気だった。きょろきょろと辺りの様子を見ながら、どこに罠を仕掛けるかと吟味している。ここはどうか、と小春が提案しても、少し考えて神妙に首を振る。
「こういうものは、慎重に考えないといけないの」
「ふうん」
「あんまり山奥過ぎても引っかからないし。難しい所ね」
方々を歩きまわり、崖の手前にある二本の大きな木を見付けそこに決めた。
「ここに、糸を仕掛けるの」
片側の木から、もう片側の木へ。横に糸を這わせる。
「もっと、細かく張らなくて良いの?」
蜘蛛は、もっと細かく糸を張っている。それに比べると、二人の作ったものは間がすかすかだ。
「いいの。これに引っかかれば遠くへは逃げられないのよ」
自信満々なタマ子に、それもそうかと納得する。仕掛け終わった罠に、所々葉を貼り付けて、遠目から目立たなくして作業を終えた。
「これなら、大丈夫だわ」
自信満々に、腰に手を当てて満足している。捕まらなかった時は――その時になって考えるのが一番だろう。今日できることはここまでだ。額に薄っすらと浮いた汗を拭う。
「喉がからからなの」
「明日は、水を持って来ようか」
疲れたが、仕掛けた罠は良い出来だ。二人、並んで満足気に眺める。そして、顔を見合わせてにたりと笑った。
一日中外に出ていた上、身体を動かしたから屋敷に着いた時にはもうへとへとだった。
「ただいまあ」
揃って挨拶をすると、夕餉の支度をしていた孤月が奥から出てきた。
「遅かったな。昼も食べずに何をしていた」
孤月は何も知らない。今日、二人が何をしてきたのかを。そして、明日二人が何を持って帰ってくるのかを。小春はタマ子と顔を見合わせて笑う。
「どうした。もうすぐ夕餉ができるぞ」
「はあい」
今日は孤月に食べさせるものはないが、明日は驚かせてやるのだ。孤月が支度してくれた夕餉の間も、タマ子と目をあわせては声を押し殺して笑い合った。