弐
膳を持ち、先程走り抜けた座敷へ戻る。行儀よく座って待つ子供――タマ子の前に膳を置いた。釣り気味の双眸が細くなった。
「孤月さまの朝餉!」
手を合わせて、うきうきと上機嫌に食事を始める。味噌汁を啜るタマ子に向かって、小春は唇を尖らせた。
「そんなに、お腹が空いていたの?」
「そうよぉ。飢え死にするかと思ったの」
「私が作るんだから、起こしに来てよ」
つい先程も、孤月にも言ったことだ。朝餉を急かした張本人と聞いたからには言わずにはいられない。
「小春、中々起きてくれないもの」
「起きるから。踏んだり蹴ったりして良いから」
「でも。小春よりも、孤月さまの方が上手なのよ」
とうとう本音が出た。しかしタマ子は悪びれもせず、しれっとしている。悪いのは小春だから、仕方ないが。
「私だって、これから上手になるわ」
「……それまで、我慢しなくちゃいけないの?」
我慢なのか。小春が作ったものを食べるのは。そんなに辛いことなのか。拳を震わせていると、溜息が降ってきた。
「おれが構わんと言っているんだ」
背後の声に振り返る。孤月が、小春の分の膳を持って来たのだ。膳を座布団の前に置くと、自分は寝殿から庭に下りるための階に腰を下ろし、日に当っている。
「冷めないうちに食え」
「……」
小春だって、孤月の作った朝餉は嬉しい。だからといって、素直に食べるのも癪だ。
「食べないのか?」
「だったらタマ子が代わりに!」
「食べるわよ!」
渋々と、膳の前に座った。手を合わせて箸を取る。味噌汁を啜る。やはり、孤月の作るものは美味しい。ほっと表情が緩んでしまう。
「小春はどうして、孤月さまに作ってもらうのを嫌がるの?」
投げられた問いに、緩んだ頬を引き締めた。
「別に、嫌がっているのじゃないわ」
タマ子の言う通り小春よりも孤月の作るものの方がはるかに美味い。下手な自分の料理よりも孤月の作る美味しいものを食べたい。
「だったら良いじゃない」
「食べない人にわざわざ作ってもらうのは、悪いじゃない」
孤月をちらりと見る。小春の気遣いなど気にもせず、煙管を取り出してふかしている。
「おれが好きで作っているんだから、気にするな」
吐き出した紫煙が、ゆらゆらと溶けてゆく。その先に広がる山は、所々、薄紅色に染まっていた。寒い冬が終わったのだ。
「料理、楽しいの?」
「楽しいな」
「食べないのに?」
「食べないのに」
「どうして食べないの?」
「おれは、米が嫌いだからな」
「だったら、麦」
「麦も嫌いだ」
「……変なの」
「米や麦を食うお前たちの方が充分に妙だ」
「だったら、何を食べるの?」
孤月は少し考えた後、にやりと笑った。
「そうだな……。霞でも食うさ」
結局は、適当に誤魔化されてしまう。
小春が見る限り、孤月は食事をしない。朝、昼、夕の食事も小春とタマ子の分を作りはするが、一口も口にしないのだ。小春の知らない所で食べているのかもしれないが、ならば一緒に食べれば良い。何度もそうするように言ったが、孤月は断固として食事をしない。だから、小春が作ると言い出したのだ。孤月の手を煩わせたくない、というのは表向きの理由で、他人が作れば孤月も食べてくれるのではないか、という期待から。
そして。更に下心を言えば、山から下りる許可を貰いたかった。産まれてこの方、小春は山を下りたことがない。孤月の話してくれる下の世界は、怖ろしいこともあるが、同時にとても楽しそうなのだ。何も、山から下りて暮らしたいというのではない。せめて一日だけでも、行ってみたいのだ。朝餉の支度ができれば、一人前と認めてくれるかもしれない。そんな思いもあったのだ。
好き嫌いが多いのだろうか。それが知れると、食べ物を残すなと言えなくなってしまうから、一緒に食べないのか。いや、米も麦も嫌いだと言ったばかりだ。好き嫌いを隠す気配は感じられない。
「ならば小春。訊いても良いか?」
「何を?」
「なぜ、料理をしたがる。今まで全くしなかったお前が、どういった風の吹き回しだ?」
抱えている下心を見透かされたようで、どきりとする。いや、ここで慌てふためけば、さらに怪しまれてしまうだけだ。深呼吸をし、気持ちを落ち着ける。
「この前、孤月が言っていたじゃない。年頃の女性は家事をするものだって」
「ああ。言ったな」
「私も十七になるもの。朝餉の一つや二つ、支度できないと困るでしょう?」
我ながら、これ以上ない答えだと自信満々だったのだが。孤月は心底呆れ果てたと言いたげに溜息をつく。
「なによ、その溜息」
「いいや。歳を気にするのなら、朝餉の支度よりも先に、寝間着のままおれの前に出てくるのをやめた方が良いのでは、と思っただけだ」
着ているものを確認する。いや、確認しなくとも分かってはいたが、紛うことなく、寝間着だ。しかも、寝相が悪かったのか皺が寄ってしまっている。
「こ――これは! 孤月が約束を破ったからでしょう! 勝手に朝餉の支度をしていた孤月が悪いの!」
正論を言われたことが悔しくて、無茶苦茶な理由で言い返す。孤月に罪を擦り付けるだけの、子供じみたものだ。年齢を気にしている者が言うことではない。
「ああ。おれが悪い。おれが悪党で構わんさ」
孤月は軽くあしらうばかりで取り合わない。しかも、笑いを堪えているのが分かる。恥ずかしく、情けなく、悔しい。
そんな所へ油を注いでくれるのがタマ子だ。
「タマ子は、ちゃあんと着替えているのよ」
「そうだな。タマ子は偉い偉い」
孤月に褒められ、タマ子は得意げに胸を張る。小春は、自らに平常心を言い聞かせた。怒ってはいけない。しかし、その葛藤が面白かったのか、とうとう孤月は吹き出してしまった。堂々と、膝を叩いて笑ってくれるのならまだしも、肩を震わせて必死に堪えようとするわざとらしさに腹が立つ。このまま泣き寝入りでは腹の虫が治まらない。
「着替えたら出かけてくる」
不愉快な話題を無理矢理打ち切る。
「どこに行く」
「……教えない」
「山からは下りるなよ」
「どうして」
「どうしてもだ。村の人間とは関わりを持つな」
「……」
下りるつもりは少しもなかったが、こうも念を押して言われると反感が募る。わざと返事をしなかった。
「タマ子も付いて行け」
「行きたい!」
タマ子は純粋に、外に出ることが嬉しいのだ。箸を握った手を挙げ、目をきらきらと輝かせる。
「……見張り役?」
小春が山から下りぬよう、タマ子に見張らせるためにしか思えない。
「どうしてそんな風に考えるんだ」
溜息混じりに言われるが、小春の苛々は治まらなかった。つんとそっぽを向く。
「素直じゃなくてごめんなさい」
それ以上、孤月は何も言わなかった。味噌汁を啜りながら、その瞳に闘志を燃やす。必ず、孤月の鼻を明かしてやるのだ。
朝餉を終え、小春は大急ぎで対屋へ戻った。気合を入れるため、気に入りの、赤地に白い小花が散った着物に着替え、髪を緩く纏める。
「小春、用意はできたの?」
早く出かけたいのだろう、様子を覗きに来る。
「うん。行こうか」
出かけてくると孤月に挨拶をし、タマ子と、手を繋いで屋敷を出た。暖かな日差しが心地良い。
「タマ子は、山から下りたことがあるのよね」
「下りた、というよりも暮らしていたの」
「どうだった? 楽しかった?」
話を振ると、タマ子は眉を寄せ、口をへの字に曲げた。その表情は不機嫌そのものだ。
「人間は、嫌い。すごく虐められたのよ。石を投げられたり」
「どうして」
そんな目に遭うところとは知らなかった。
「自分たちと違うものには冷たいのよ」
「そっか……」
少し違うだけで、石を投げられたりするのか。尤も、タマ子が暮らしていた頃からは年月も流れている。少しは良くなっているかもしれないが。
「それより、どこに行くの」
「お寺に」
「お寺? 何をするの」
「和尚さまに会うの」
「それくらい分かるの。何の用事?」
「内緒」
「意地悪!」
山に棲む者にとって、寺といえば一つしかなかった。山の中腹に建つ廃寺だ。そこに棲む土色の顔をした好々爺が小春の言う和尚である。和尚といっても、経を上げははしない。寺に棲みつき、ぼろだが黒い衣を着ているからそう呼んでいた。
朽ちかけた総門に、号は掲げられていない。石段を登る。
「和尚さま、こんにちはあ!」
タマ子が大きな声で挨拶をすると、本堂から和尚が現れる。和尚は、小春とタマ子を見て相好を崩した。
「おお、久しいな。今日は二人か」
「そうよ」
「孤月の旦那は達者かい」
「孤月さま、ちゃあんと元気よ」
「そうか。それは良かった。それで、今日はどうした」
「今日は――……」
タマ子がちらりと小春を伺う。用事があるのはタマ子ではなく小春なのだ。しっかりと目的はあるのだが、何をどう尋ねるかまでは考えていなかった。
「ええと……今日は、その」
こうも言い淀んでいると、後ろめたいことがあるように見える。何も、悪事を画策しているのではない。だが、焦ると出て来なくなってしまう。外堀からじわりじわりと埋め立てるのは不得手だ。小春の武器は、勢いのみ。意を決して、深々と頭を下げ切り出す。
「どうか和尚さま。孤月の、好物を教えて下さい」
声を張り上げて頭を下げる小春に、タマ子と和尚は目を合わせて驚いた。