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月に嘯く  作者: 甘露寺ちどり
終章
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終章

 屋敷は荒れ果てていた。壁は破れ、柱には蔦が絡み付いている。そんな様子であるから、屋敷と呼ぶのも憚られる。完全に廃屋だった。住む者の居なくなった建物は、往々にしてこのような道を辿る。植物が好き放題に伸び、柱に弦を絡ませているが、屋敷の主が暮らしていた頃はさぞ立派な建物だったと思われる。平安の絵巻物に描かれてもおかしくはない、寝殿造りだ。


 その廃屋の前に、老人の姿があった。暇を見付けては、ここを訪れているのだ。老人は、目を細めて建物を見上げる。その瞳には、懐かしむような色が滲んでいた。楽しげで、しかし哀しげで。ここに何かしらの思い入れがあることは明らかだ。


「すっかり変わってしまったなあ」


 瞼を閉じ、思い描くのはいつかの思い出か。今にも、足音が聞こえてきそうだった。渡殿を通り、老人の目の前の広縁に。明るい、鈴を転がしたような声が――。


「色は匂へど 散りぬるを 我が世誰そ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず」


 突然聞こえた少女の声に、老人は驚いて辺りを見回す。その様子がおかしかったのか、ころころと可愛らしい笑い声が続いた。


「こんな山の中で、何をしているの?」


 (ひさし)に、小袖を目深に被った少女の姿がある。先程まで老人だけだった筈だが。気配すら感じられなかった。

 記憶の中から出てきたのだろうか、とそんな馬鹿馬鹿しいことまで思ってしまう。目を擦っても、少女の姿は消えなかった。幻ではない証拠だ。


「いや……君、こそ……何を……?」


 老人が問うと、小袖の端から顔が覗く。緑の黒髪を腰のあたりまで伸ばし、ゆったりと緋色の紐で一つに結んでいる。墨で引いたような眉と、その下の黒眼の大きな双眸が印象的だった。少女はにこやかに朱唇(しゅしん)を綻ばせている。どことなく、面差しに覚えがあるような気がした。いや――老人は、その懐かしさをすぐに打ち消した。老人の知る思い出の中の人物は、こんなに冷ややかに微笑まない。もっと、春の日だまりのような暖かさがあった。


「まあ。私が質問したのに、答えないのね」

「い――いや……それは……」

「でも。特別に、私から先に教えてあげる。――散歩をしていたの。いい天気でしょう?」


 風が少女の艶やかな黒髪を揺らす。細められた双眸は、まだ幼さの残る少女には不釣り合いな艶を帯びていた。じっと見詰めていては、魅入られてしまう。老人は視線を逸らした。


「今度は私の番。あなたは、何をしていたの?」

「同じく、散歩かなあ。ここも、変わったものだと思ってね」


 懐かしげに廃屋を見上げた。


「昔を知っているの?」

「少しだけね。しかし、もう見る影もない」

「おかしなひと。世の中、変わらないものはないのよ?」


 そういえば、少女はいろは歌をうたっていた。この歳になって改めて思い知らされるものもあるのかと、笑う。


「これは。お嬢さんに教えてもらったなあ」

「でしょう?」


 得意げにつんと澄まして言う。それは歳相応に見えた。


「でも、変わらないものもあるのよ」


 少女は嬉しそうに続ける。


「どんなものだい?」

「ととさまの気持ち。ととさまは、ずっと変わらず私を好いてくださるわ。かかさまにそっくりなのですって」

「お嬢さんに?」

「そう」

「だが……お嬢さんのような子は二人と居らんだろう」


 悪い意味に取ったのか、少女は頬を膨らませる。


「それは、どういう意味かしら? ととさまが、嘘吐きだって言うの?」

「いや……まあ、お嬢さんが可愛らしいからなあ。そんな娘さんが世の中に二人と居ては大変だ」

「ととさまは、嘘なんて言わないわ」


 少女の言葉からは、父への絶対的な信頼が伺える。盲信と言ってもおかしくはない程の。軽く流せそうな話でも、今のように突っかかるのだ。


「いや――……ああ、うん。そうだろうね。済まない」


 白々しいと言いたげな瞳も、生き生きと輝いている。


「だけど、あなた。こんな山の中に、一人で来るなんて。危ないわよ」

「お嬢さんだって。危ないじゃないか」


 危ないと言うならば、少女の方だ。老いたとはいえ、男なのだから。


「私は大丈夫なの。何かあれば、ととさまがすぐ来てくれるわ」


 少女の父がこの近くに居るのか。辺りを見回しても見付けられない。


「ととさまは……どこに居るんだい?」


 恐る恐る訊ねてみても、少女は可愛らしく首を傾げるだけだ。


「どこかしら」

「かかさまは……」

「内緒」


 言葉にせずとも、少女に全てを見透かされているような気になる。怖い。逃げてしまいたいが、できなかった。身体が思うように動かないのだ。それとも、動かしたくなかったのか。


「ねえ。あなたは、いつも何をしに来ているの?」


 そんなことは、老人にも分からない。ただ憑かれたようにこの山に登っているのだ。何年も、何年も。それなのに、理由は見付けられない。


「さあ――……」


 答えかけて、違和感に気づく。少女は間違いなく、いつも、と言った。少女とは今日初めて会ったのだ。老人が何度もこの廃屋を訪れているとは知らない筈だ。


「どうして……」


 恐る恐る問い掛ける。


「どうして、知っている?」


 返事はなく、可愛らしい仕草で首を傾げた。


「帰らなきゃ」


 話に飽きたか、奔放な少女は小袖を翻す。そのまま消えてしまいそうな気がして、老人は慌てて呼び止めた。


「ま、待ってくれ」

「どうしたの?」

「ここに来れば、また会えるだろうか」


 ここに来る目的は分からないままだったが、少女がその答えの欠片を握っているように思えたのだ。怖いけれど、もう少し話をすれば分かるような気がした。


「誰に会いたいの?」

「それは――……」


 すぐに答えが出てこなかった。会いたいのは、少女にではないのか。


「お……お嬢さんに……会いに来たいんだよ」


 そうだ。少女以外に居る筈がない。それなのに、嘘を吐いた時のような後ろめたさを感じるのはなぜだろうか。

 それが少女に伝わったのか、また笑う。


「そうね。私に文を書いてくれたら、考えても良いわ」

「文……?」

「ここに文を置いて、いつ会いたいと伝えるの。簡単に会えちゃ、面白くないでしょう?」


 出された条件は、何とも容易く情緒的なものだった。老人は幾度も頷く。


「文くらい、いくらでも書く」

「本当? 嬉しいわ。――あ。でも」


 少女の微笑みは蠱惑的だった。美酒に酔ったかのように、意識をふらつかせてくれる。


「ちゃあんと、あなたの名を書いて頂戴」

「当たり前だろう、そんなこと」

「他の人の名を騙って気持ちを伝えられるなんて、私は嫌よ」


 さあっと血の気が引いた。身に覚えのあることだったのだ。気付かれていたという羞恥心と、若気の至りとも言うべき甘酸っぱい過去とが満ち満ちる。


「君は……いや、君の、かかさまは……気付いて……」


 震える声での問い掛けは、途切れ途切れになる。


「嘘偽りもなにも。まだ気持ちを伝える前だったのよ、ととさまったら」


 そう言って、額から角を生やした少女は霧のように姿を消す。追いすがろうと伸ばした手は、何も掴めず虚しく空を切る。

 遠くから、いつかの昔に聴いた笛の音が響くばかりだった。

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