伍
真暗闇の中で意識を取り戻した。横たわっているようだ。噎せ返るような臭いがする。何の臭いだったか――これは。
何か、暖かなものに抱えられているのが分かる。瞼を開けようとしたが、何かに塞がれて叶わない。目元に触れようとすると、孤月の声が降ってきた。
「起きたか」
気配も、声もすぐ傍にある。ただ、姿だけが見えない。ああ――そうか。これは夢なのだ。長い長い、本物に限りなく近い偽物に違いない。
「ねえ、孤月」
夢のなかであれば、そして姿が見えなければ、素直になれそうだ。
「どうした」
心なし、孤月の声も優しい。散々冷たくされた夢だったから、最後くらいは優しくしてもらわなければ。夢とは、得てしてそういうものだ。悲劇で終わってはいけない。
「目を覚まして、ちゃんと言えるように練習したいの。付き合ってくれる?」
すると、何の冗談かというように笑い声がする。
「目を覚ましたのではないのか」
「今は、夢でしょ。きっと、もうすぐ目が覚めるわ。ひどい夢だったの。でも、夢の終わりは幸せであるべきだわ。だから」
幸せに幕を下ろすため、そして本番の練習のために付き合ってもらわなければならない。
「そうだな。好きなだけ練習しろ」
本物の孤月ならば、よほど機嫌が乗った時でなければ承諾してはくれぬだろう。その分、夢とは便利なものだ。咳払いをし、台詞を口にする。
「孤月。いろは歌っていうものがあるの」
「ああ――……そうだな」
「変わらないものはないっていう歌よ」
「そうか」
「今まで、孤月は私にとって一緒に居るのが当たり前の存在だったの。でも、やっと分かった」
「何が分かったんだ?」
「私、孤月がすき。誰よりも、孤月が一番よ。孤月が私のことを娘にしか思えないって言うのなら、絶対に考えを変えさせるわ」
「どうやって」
「家のことは、私がするの。いつも身綺麗にして。そして、毎日、すきって言うの」
「すぐに諦めるさ」
「諦めないわ。他には要らないの。孤月がいいの」
それまで、すぐに返ってきた相槌が、ない。
「孤月?」
姿が見えないから、どうしてしまったのかが分からない。
「そう毎日、熱烈に言われては根負けしてしまいそうだな」
「でしょう?」
当人からそう言ってもらえれば、自信が付く。小春が都合良く作っている夢であっても。
「私の強みは、それくらいしかないもの」
「そんなことはない」
「え?」
孤月は、それ以上何も言わなかった。
「ゆっくり休め」
それが合図であったかのように、眠気に襲われる。夢の中でも眠くなるのか、と――そんなことを思いながら、深い眠りに意識を沈めた。
強い日差しに耐え切れず、目を覚ました。今、自分がどこに居るのか、すぐに分からなかった。静磨の家ではない。ならばどこか――と記憶を手繰り、ようやく思い出す。この見慣れた孤月の屋敷だ。
飛び起きると、全身が痛む。身体の節々もだが、手や脚も。痛みはするが、見てみるときれいに手当がされていた。
「目が覚めたか」
顔を上げると、孤月が膳を運んでくれていた。見える景色が違うのは、西の対屋だからだろう。
「生憎と、物があまり残っていない。粥で我慢してくれ」
湯気に乗って届く粥の香りに安心する。だが、一人で食べるのは寂しい。なぜタマ子が居ないのかと思い、さっと血の気が引いた。
「――タマ子!」
気を失う前に見たタマ子の亡骸を思い出す。反射的に立ち上がり、東の対屋へ急いだ。孤月が綺麗にしてくれたのだろう、首の傷は襟巻きを巻いているように布で綺麗に隠され、血も拭き取ってある。
冷たくなったタマ子の頭を撫でる。
「……怖かったね、タマ子」
結局、仲直りできないままで別れることになってしまった。大切な友であったのに。
少しも大切にできなかったと思う。あの時、タマ子と一緒に戻っていれば、悲しませずに済んだろうに。言葉では伝え尽くせない。だから、黙って頭を撫でる。それで、きっとタマ子には伝わるだろうから。
「別れが済んだら、墓に入れてやろう」
頷くと、孤月は用意していた小袖でタマ子の身体を包んだ。孤月がよく使っていた小袖だ。
「どこにお墓を作るの?」
「もう、用意してある」
亡骸を抱き上げ、階から外に出る。小春も、その後に続いた。
孤月が歩くのは、いつかの夜に通った道だ。きっと、あの女性の墓の横に用意したのだとすぐに分かった。直接の面識はないのだろうが、タマ子も寂しくないだろう。
孤月の後を付いて行きながら、目についた美しい花を摘む。
やはり、孤月の用意した場所は静磨の姉が眠る地だった。
「ここならば、タマ子も寂しくはないだろう」
掘ってあった穴にタマ子を横たえ、その上に花を乗せた。最後にもう一度頭を撫で、土を被せる。ゆっくりと眠れるよう、祈った。
手を合わせた後、沈黙が続いた。
「どうして、戻ってきた」
ふと、孤月が口を開く。
村人たちが怖かった。静磨に追い出されてしまった。――いや、そのどちらでもない。そんなのは単なる言い訳だ。ちゃんとした、小春が決めた理由があるではないか。
「孤月が、すきなの」
そう。他人に責任を押し付ける言い訳ではない。小春が、自分自身で選んだことなのだ。その他に理由など必要ない。
「孤月がすきだから、戻って来たの」
「やめてくれ」
やめろと言われてやめられる程度の気持ちではないのだ。ここで引き下がるのならば、戻ってなど来ない。
「やめない。すきだもの。孤月がすき」
「おれは、小春に好かれる資格はない」
「資格って何? どうすれば、孤月を好きになって良いの?」
「おれは、醜い」
「孤月が醜いのなら、私はどうなるのよ」
容姿がどうこう言っているのではないと、承知していた。ただ、おどけていなければ涙が溢れてきそうだったのだ。
「……傷付けた。小春と同じ、人間を」
「そう」
隣に立つ孤月を、抱き締める。孤月の方が、遥かに背が高いため、抱き着いているようにも見えただろうが。背を撫でると、糸が切れたように深く息を吐きだした。
「辛かったね」
孤月だって、好きで人間を傷付けたのではあるまい。何よりも、誰よりも。選びたくなかった道を選んでしまったのだ。誰よりも傷付いているのは孤月だ。
「もう、孤月は独りじゃないよ」
「……小春を、傷付けてしまうかもしれない」
「出て行けって言われたので、充分慣れたわ」
「しかし……おれは人喰い鬼だ」
「人喰い鬼は、人間と暮らしちゃいけないの?」
「……小春を、食べるかもしれない」
「そうね。その時は……どうしよう」
一番、孤月が気にしていたことだ。静磨から教えてもらった歌を思い出した。
「色は匂へど 散りぬるを 我が世誰そ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず」
「……いろは歌か」
「そう。変わらないものは、何もないっていう歌。孤月は、大切な人を手にかけてしまった時から変わってる。同じことは繰り返さないわ」
「だが」
「言いたいことは分かるわ。私だって、お腹が空いてどうしようもない時は、辛いもの。だけど、そのもしもに怯えて離れるよりも、孤月の傍に居たいの」
もしものことを考えると、きりがない。もし、孤月が人間を食べたくなった時はどうするのか。小春の命を奪うかもしれない。そうなれば、孤月の心は更に深い傷を負うだろう。しかし、悪いことを考えてはきりがない。小春を拾ってからは、一度として食べようとしなかったのだ。そちらの、明るい希望に賭けてみるのも良いではないか。
「あ……でも」
大切なことを忘れていた。気持ちを押し付けるばかりで、孤月がどう思っているのかを知らない。抱き締めていた孤月の身体を離す。
「孤月が良かったら……だけど」
勝手に話を進めて、申し訳なくなる。
「小春。お前という奴は」
心から可笑しそうに、肩を震わせた。久しぶりに孤月の笑顔を見た。嬉しくもあり、少し恥ずかしくもある。
「どうして笑うの。私は、真剣に――」
抗議の途中だった。孤月は、小春の身体を抱き上げる。ぐんと視界が広がり、つい今まで見上げていた孤月が見下ろす位置に居る。
「誰よりも愛しい小春が傍に居るのなら、おれは今、ここで死んでも良い」
初めて、孤月の気持ちを聞いた。ちゃんと小春に向けられた嘘偽りのない気持ちだ。この世のものはあまねく変わってゆくものだとするなら、この、今の幸福も変わる時が来るのだろう。しかし、不幸とて永遠に続きはしない。孤月と一緒であれば、耐えられる。
身を屈め、幸福の味を確かめるように、孤月の唇に口付けを落とした。




