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月に嘯く  作者: 甘露寺ちどり
第五章
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 山道に入れば、もう大丈夫だ。追っては来ていない。

 暗い山の中、頼りは月の光だけだった。弱い光だが、孤月が見ていてくれるようで安心する。

 さすがの小春も息が上がっていた。口の中がからからに乾ききっている。屋敷まで急ぎたかったが、まずは今の自分の状態を確認する方が先だ。

 手には、木の枝を掻き分けた時に付いた傷がある。幸いなことに、どれも深くはない。ただ、放っておけば破傷風の危険もある。着物の裾を裂き、両手に巻く。こうすれば、何かを掴む時にも怪我をし辛い。

 足は、脛にいくつかのかすり傷がある。これから山道を行くから、手と同じように着物の布地を巻き付けた。急拵えでも、脚絆の代わりになってくれるだろう。

 最後は草履だ。左の鼻緒が切れてしまっている。残った布で、鼻緒の代わりにした。

 これで用意は整った。山を下りた時とは違う道から入ったため、獣道を進むことになりそうだ。しかし、今なら何でもできる気がした。腹を据えると、何の迷いもなくなるのだ。




 がさがさと、枝や草を掻き分けながら進む。いくら長く住んだ山とは言っても、今どこを歩いているのか分からなくなる。不安に潰されそうになった頃、木々の間にちらちらと揺れる青い火が見えた。村人だろうか。それでも、ようやく見えた明かりに縋りたくて、恐る恐る近付いてみる。

 火の周りには三つの影があったが、いずれも村人ではなかった。姿を見れば、すぐに分かる。彼らの容貌は、人間ではないのだから。一つ目で一本足の老人、見上げる程の大男、全身に短い毛の生えた一つ目の子供。初めて見るが、この山に棲むあやかしだ。


「親父さん、そろそろ行かんとなあ」


 大男が、一つ目の老人に話し掛ける。老人は深い溜息を付いた。


「行くちゅうて、どこに」

「北か――南か……」

「ここは、棲み良かったんだが」


 その会話を黙って聞いていた子供が、不意に不満を露わにした。


「……いきたく、ない」

「行きたくないのは、お前だけじゃねえ。でも、どうにもならんだろう」

「どうにもならんて、どうして」

「孤月さんが、なあ……」


 会話に出てきた孤月の名に、全身が神経になったように敏感になる。孤月に何かあったから、あやかしたちは山を出て行く相談をしているのか。長く棲んでいた地を離れるなど、相当なことだ。早く屋敷に戻らなければいけない。

 音を立てぬよう、そろそろと離れる。万一にも見付かれば、村人だと思われてしまう。敵意を向けられるかもしれない。


「テキイをムけられるかもしれない」


 背後で、抑揚のない声がした。それも、小春の思っていることをそっくりそのまま言葉にする。不気味に思って振り返ると、毛むくじゃらの生き物が、まん丸の目でじっと小春を見ていた。


「キャアアア!」

「きゃあああ!」


 小春よりも一呼吸先に、相手が叫んだ。火を囲んでいた男たちが、何事かと立ち上がる。静磨の気持ちが初めて分かった。今までは孤月が傍に居たから、安心してあやかしたちと接することができたのだ。


「コゲツ、タスけて、コゲツ、コゲツ」


 小春の思っていることを、なおも繰り返す。


「誰だ、あんたは」

「親父さん、こいつ覚だぞ。珍しいなあ」

「コゲツ……って、孤月さんか?」


 小春を取り囲み口々に言い合っているが、それどころではなかった。孤月を助けに行きたいのに、どうしてこんなことになっているのだろう。いつか和尚と話した覚に会っても、感激する余裕もない。


「ハヤく、コゲツを、タスけにイきたい」


 思うのは、そればかりだ。あやかしたちは顔を見合わせ、小春を取り囲む輪をじりじり狭めていく。


「あんた、孤月さんの知り合いか」

「だけど、人間だろう?」

「人間の娘を囲っているらしいと、聞かんかったか」

「酔狂な方だな」

「あなた、ともだち?」

「コゲツのトコロにイきたい、コゲツ」


 ぎこちなく頷く。一歩、一歩と逃げ場を求めて後退ったが、背後には大きな木が生えていた。逃げ道を遮られる。


「こ……孤月を、助けに行くの……」


 震える声で、ようやくそれだけを言った。


「うそ、ついていない?」


 子供が不審がって問うが、懸命に横に首を振った。信じてもらえないのではないかと思ったが、救いの手は意外な所から差し伸べられる。


「それは、ないな。なあ、親父さん」

「嘘なら、覚が本当のことを言うだろうさ」


 大男も老人も、疑う様子がない。


「ウソじゃない、ホントウのこと」


 あやかしたちは顔を見合わせ、頷いた。大男の手が、小春に差し出される。


「娘さんの足よりも、ずっと早く着く」

「え……?」

「こいつに運んでもらえ」

「でも」

「孤月さんが死んでしまうと、こっちも困るからな」


 怖ず怖ずと手を差し出すと、大男は自ら小春の手を握り引っ張り上げた。背に乗せ、走り出す。みるみる音が聞こえなくなり、辺りの景色が流れていった。

 その後は、あっという間だった。屋敷の前に着くと、大男はしゃがんで小春を下ろしてくれた。


「ありがとうございます。もう、すぐ近くだったんですね」

「まさか。娘さん、あんた逆方向に進んでたぞ」

「……そうでしたか」


 住み慣れていたからといって、夜の山を軽く見ていた。大男は笑い、小春の背を叩く。


「まあ、落ち込みなさんな。――ほら、これからがあんたの勤めだ」

「はい」


 そうだ。早く山を駈けることはできなくとも、村人を説得することならば、できる筈だ。




 辿り着いた屋敷は、ひどく荒れ果てていた。多くの人間に土足で踏み荒らされたようだ。


「孤月?」


 声を聞き付けて、松明を持った人影が近付いてくる。村の若い衆か。


「先生のところの?」

「話をしに来ました。ここに住んでいるのは、悪い鬼じゃないんです。あなたたちを襲うようなことは、決してありません」


 しかし、取り合わずに追い出そうとする。


「ここは危ないから」

「村に帰って――」

「孤月はどこ? 知っていますか?」


 しかし、問いに返事はなかった。ひそひそと小春を不審がる会話が聞こえるだけだ。頼りにはならないと見切りをつけた。

 御簾は編んだ糸が切れ、細い竹がばらばらと散っている。土居も倒れ、破れた几帳がぶら下がっていた。


「孤月?」


 呼んでも返事はない。もう一度、大きな声で呼ぶ。


「孤月、どこ?」


 虚しく声が響くだけだ。寝殿には、姿がない。孤月だけでなく、タマ子の姿さえ見当たらないのだ。若い衆は、遠巻きに眺めている。


「タマ子? タマ子、居るんでしょう?」

「……小春さん、化物の知り合いか?」


 誰かが、そう口にした。ざわざわと、騒ぎ出す。下らないことばかり気にするのだ。構わず、対屋へ向かう。若い衆は、ぞろぞろと小春の後に続いた。


「まさか」

「いや、でも……名前を呼んでいただろう?」


 なぜ、返事がないのだろうか。孤月だけではなく、タマ子まで。嫌な予感がした。戻った筈のタマ子が、どうして居ないのか。


「タマ子? ねえ、どこ?」


 静磨が来る前に、小春が使っていた東の対屋へ行く。破れた几帳の上に、赤い染みが付いた猫が横たわっていた。首には、深々と鎌が食い込んでいる。


「タマ子!」


 悲鳴のような声が出た。駆け寄り、抱き起こしたタマ子の身体はひんやりと冷たい。あの美しい白い毛並みも、血や泥がこびり付いてしまっている。


「タマ子、ねえ。タマ子?」


 皆で謀っているのだ。きっと、そうに違いない。そうでなければ――百年以上生きたあやかしが、こうも簡単に死ぬ筈はないのだ。


「タマ子……タマ子!」


 名を呼んでも、揺すっても、タマ子だった猫はぴくりとも動かなかった。冷たくなったタマ子を抱き締める。


「嫌よ、ねえ、タマ子! いやああっ!」


 涙が止めどなく溢れてくる。視界が、ぐにゃりと歪んだ。なぜ、タマ子が殺されなければならなかったのか。どんな悪事を働いたのか。なぜ。なぜ。なぜ。

 背後を取り囲む若い衆の一人が口を開いた。嘲るような声が発せられる。


「化け猫だ、退治されて当然だ」

「……え?」


 耳を疑った。そんな馬鹿馬鹿しい理由があってなるものか。そんな下らない、身勝手な理由で命が奪われても良いのか。彼らにとっては正義なのだろう、口々に同意する。


「何も悪いことなんてしてないでしょう?」

「悪さをされてからじゃ遅いだろう」

「芽は今のうちに摘んでおくものだ」


 むしろ小春の方がおかしいのだと、視線が告げている。おかしい筈がない。もう、話をしても無駄なのだ。分かり合おうとしてくれない。自ら、戸を締め切ってしまっている。


「……孤月は」


 まさか孤月も、殺されてしまったのだろうか。タマ子のように。心臓が早鐘を打つ。渡殿を走り、その先の東の釣殿へ向かう。


「おい、待て!」

「女だからって、容赦できるか」


 手が伸び、小春の髪を、襟を掴む。後ろから強い力で引き戻そうとする。必死になって止めるのだから、きっとこの先に居るのだ。


「孤月!」


 髪を引かれる痛みなど、大したことはない。タマ子が与えられた痛みに比べれば。果たして――孤月はそこに居た。その姿は、血に汚れ、傷だらけだったけれど。


「孤月!」


 急ぎ駆け寄る小春の前を、黒い影が立ち塞がる。


「村のことに口出しをしないでくれないか」

「こげつ!」


 孤月に駆け寄ろうとした所を取り押さえられる。必死に手を伸ばしたが届かない。松明が照らす薄闇の中、血のように紅い瞳が残虐な光を宿した。

 その後は、よく覚えていない。ただ、孤月が懸命に小春の名を呼んでいたことだけは、遠のく意識に感じていた。

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