四
山道に入れば、もう大丈夫だ。追っては来ていない。
暗い山の中、頼りは月の光だけだった。弱い光だが、孤月が見ていてくれるようで安心する。
さすがの小春も息が上がっていた。口の中がからからに乾ききっている。屋敷まで急ぎたかったが、まずは今の自分の状態を確認する方が先だ。
手には、木の枝を掻き分けた時に付いた傷がある。幸いなことに、どれも深くはない。ただ、放っておけば破傷風の危険もある。着物の裾を裂き、両手に巻く。こうすれば、何かを掴む時にも怪我をし辛い。
足は、脛にいくつかのかすり傷がある。これから山道を行くから、手と同じように着物の布地を巻き付けた。急拵えでも、脚絆の代わりになってくれるだろう。
最後は草履だ。左の鼻緒が切れてしまっている。残った布で、鼻緒の代わりにした。
これで用意は整った。山を下りた時とは違う道から入ったため、獣道を進むことになりそうだ。しかし、今なら何でもできる気がした。腹を据えると、何の迷いもなくなるのだ。
がさがさと、枝や草を掻き分けながら進む。いくら長く住んだ山とは言っても、今どこを歩いているのか分からなくなる。不安に潰されそうになった頃、木々の間にちらちらと揺れる青い火が見えた。村人だろうか。それでも、ようやく見えた明かりに縋りたくて、恐る恐る近付いてみる。
火の周りには三つの影があったが、いずれも村人ではなかった。姿を見れば、すぐに分かる。彼らの容貌は、人間ではないのだから。一つ目で一本足の老人、見上げる程の大男、全身に短い毛の生えた一つ目の子供。初めて見るが、この山に棲むあやかしだ。
「親父さん、そろそろ行かんとなあ」
大男が、一つ目の老人に話し掛ける。老人は深い溜息を付いた。
「行くちゅうて、どこに」
「北か――南か……」
「ここは、棲み良かったんだが」
その会話を黙って聞いていた子供が、不意に不満を露わにした。
「……いきたく、ない」
「行きたくないのは、お前だけじゃねえ。でも、どうにもならんだろう」
「どうにもならんて、どうして」
「孤月さんが、なあ……」
会話に出てきた孤月の名に、全身が神経になったように敏感になる。孤月に何かあったから、あやかしたちは山を出て行く相談をしているのか。長く棲んでいた地を離れるなど、相当なことだ。早く屋敷に戻らなければいけない。
音を立てぬよう、そろそろと離れる。万一にも見付かれば、村人だと思われてしまう。敵意を向けられるかもしれない。
「テキイをムけられるかもしれない」
背後で、抑揚のない声がした。それも、小春の思っていることをそっくりそのまま言葉にする。不気味に思って振り返ると、毛むくじゃらの生き物が、まん丸の目でじっと小春を見ていた。
「キャアアア!」
「きゃあああ!」
小春よりも一呼吸先に、相手が叫んだ。火を囲んでいた男たちが、何事かと立ち上がる。静磨の気持ちが初めて分かった。今までは孤月が傍に居たから、安心してあやかしたちと接することができたのだ。
「コゲツ、タスけて、コゲツ、コゲツ」
小春の思っていることを、なおも繰り返す。
「誰だ、あんたは」
「親父さん、こいつ覚だぞ。珍しいなあ」
「コゲツ……って、孤月さんか?」
小春を取り囲み口々に言い合っているが、それどころではなかった。孤月を助けに行きたいのに、どうしてこんなことになっているのだろう。いつか和尚と話した覚に会っても、感激する余裕もない。
「ハヤく、コゲツを、タスけにイきたい」
思うのは、そればかりだ。あやかしたちは顔を見合わせ、小春を取り囲む輪をじりじり狭めていく。
「あんた、孤月さんの知り合いか」
「だけど、人間だろう?」
「人間の娘を囲っているらしいと、聞かんかったか」
「酔狂な方だな」
「あなた、ともだち?」
「コゲツのトコロにイきたい、コゲツ」
ぎこちなく頷く。一歩、一歩と逃げ場を求めて後退ったが、背後には大きな木が生えていた。逃げ道を遮られる。
「こ……孤月を、助けに行くの……」
震える声で、ようやくそれだけを言った。
「うそ、ついていない?」
子供が不審がって問うが、懸命に横に首を振った。信じてもらえないのではないかと思ったが、救いの手は意外な所から差し伸べられる。
「それは、ないな。なあ、親父さん」
「嘘なら、覚が本当のことを言うだろうさ」
大男も老人も、疑う様子がない。
「ウソじゃない、ホントウのこと」
あやかしたちは顔を見合わせ、頷いた。大男の手が、小春に差し出される。
「娘さんの足よりも、ずっと早く着く」
「え……?」
「こいつに運んでもらえ」
「でも」
「孤月さんが死んでしまうと、こっちも困るからな」
怖ず怖ずと手を差し出すと、大男は自ら小春の手を握り引っ張り上げた。背に乗せ、走り出す。みるみる音が聞こえなくなり、辺りの景色が流れていった。
その後は、あっという間だった。屋敷の前に着くと、大男はしゃがんで小春を下ろしてくれた。
「ありがとうございます。もう、すぐ近くだったんですね」
「まさか。娘さん、あんた逆方向に進んでたぞ」
「……そうでしたか」
住み慣れていたからといって、夜の山を軽く見ていた。大男は笑い、小春の背を叩く。
「まあ、落ち込みなさんな。――ほら、これからがあんたの勤めだ」
「はい」
そうだ。早く山を駈けることはできなくとも、村人を説得することならば、できる筈だ。
辿り着いた屋敷は、ひどく荒れ果てていた。多くの人間に土足で踏み荒らされたようだ。
「孤月?」
声を聞き付けて、松明を持った人影が近付いてくる。村の若い衆か。
「先生のところの?」
「話をしに来ました。ここに住んでいるのは、悪い鬼じゃないんです。あなたたちを襲うようなことは、決してありません」
しかし、取り合わずに追い出そうとする。
「ここは危ないから」
「村に帰って――」
「孤月はどこ? 知っていますか?」
しかし、問いに返事はなかった。ひそひそと小春を不審がる会話が聞こえるだけだ。頼りにはならないと見切りをつけた。
御簾は編んだ糸が切れ、細い竹がばらばらと散っている。土居も倒れ、破れた几帳がぶら下がっていた。
「孤月?」
呼んでも返事はない。もう一度、大きな声で呼ぶ。
「孤月、どこ?」
虚しく声が響くだけだ。寝殿には、姿がない。孤月だけでなく、タマ子の姿さえ見当たらないのだ。若い衆は、遠巻きに眺めている。
「タマ子? タマ子、居るんでしょう?」
「……小春さん、化物の知り合いか?」
誰かが、そう口にした。ざわざわと、騒ぎ出す。下らないことばかり気にするのだ。構わず、対屋へ向かう。若い衆は、ぞろぞろと小春の後に続いた。
「まさか」
「いや、でも……名前を呼んでいただろう?」
なぜ、返事がないのだろうか。孤月だけではなく、タマ子まで。嫌な予感がした。戻った筈のタマ子が、どうして居ないのか。
「タマ子? ねえ、どこ?」
静磨が来る前に、小春が使っていた東の対屋へ行く。破れた几帳の上に、赤い染みが付いた猫が横たわっていた。首には、深々と鎌が食い込んでいる。
「タマ子!」
悲鳴のような声が出た。駆け寄り、抱き起こしたタマ子の身体はひんやりと冷たい。あの美しい白い毛並みも、血や泥がこびり付いてしまっている。
「タマ子、ねえ。タマ子?」
皆で謀っているのだ。きっと、そうに違いない。そうでなければ――百年以上生きたあやかしが、こうも簡単に死ぬ筈はないのだ。
「タマ子……タマ子!」
名を呼んでも、揺すっても、タマ子だった猫はぴくりとも動かなかった。冷たくなったタマ子を抱き締める。
「嫌よ、ねえ、タマ子! いやああっ!」
涙が止めどなく溢れてくる。視界が、ぐにゃりと歪んだ。なぜ、タマ子が殺されなければならなかったのか。どんな悪事を働いたのか。なぜ。なぜ。なぜ。
背後を取り囲む若い衆の一人が口を開いた。嘲るような声が発せられる。
「化け猫だ、退治されて当然だ」
「……え?」
耳を疑った。そんな馬鹿馬鹿しい理由があってなるものか。そんな下らない、身勝手な理由で命が奪われても良いのか。彼らにとっては正義なのだろう、口々に同意する。
「何も悪いことなんてしてないでしょう?」
「悪さをされてからじゃ遅いだろう」
「芽は今のうちに摘んでおくものだ」
むしろ小春の方がおかしいのだと、視線が告げている。おかしい筈がない。もう、話をしても無駄なのだ。分かり合おうとしてくれない。自ら、戸を締め切ってしまっている。
「……孤月は」
まさか孤月も、殺されてしまったのだろうか。タマ子のように。心臓が早鐘を打つ。渡殿を走り、その先の東の釣殿へ向かう。
「おい、待て!」
「女だからって、容赦できるか」
手が伸び、小春の髪を、襟を掴む。後ろから強い力で引き戻そうとする。必死になって止めるのだから、きっとこの先に居るのだ。
「孤月!」
髪を引かれる痛みなど、大したことはない。タマ子が与えられた痛みに比べれば。果たして――孤月はそこに居た。その姿は、血に汚れ、傷だらけだったけれど。
「孤月!」
急ぎ駆け寄る小春の前を、黒い影が立ち塞がる。
「村のことに口出しをしないでくれないか」
「こげつ!」
孤月に駆け寄ろうとした所を取り押さえられる。必死に手を伸ばしたが届かない。松明が照らす薄闇の中、血のように紅い瞳が残虐な光を宿した。
その後は、よく覚えていない。ただ、孤月が懸命に小春の名を呼んでいたことだけは、遠のく意識に感じていた。




