参
「どうするの、小春さん」
「どうする……って。別に、どうもしないわ」
静磨の顔も見ず、短く答える。どうするも何も、決めるべきことはないのだ。孤月に出て行けと言われ、長年暮らした山を下りた。孤月のことは心配だ。しかし、人間とあやかし、きっちりと線を引かれてしまったのだ、今更、何ができる訳でもない。
「気にならないんだ、小春さんは。意外と冷たいんだね」
ひんやりと冷たい声だった。突き放すような、他人ごとのような。
「まあ、行かない方が賢明だよ。村の若い衆が退治に行っているからね。小春さんが行くのは危ない」
「退治……? 何を」
小春の問いかけに、静磨は笑った。
「分からないのか。――人喰い鬼の、だよ。最近、山で姿を見たという人が居たんだ。また、食われるかもしれない。ただ、今までは屋敷の場所が分からなかったから。だから、僕が教えたんだ」
「どうして」
「邪魔だったんだよ。――……居なくなってくれれば、もしかしたら……」
もしかしたら、という後に続く筈の言葉は途切れる。不安が一気に溢れ出した。追い打ちをかけるように、やけに低い声が問う。
「気にならないの?」
「気になるわよ……そりゃあ」
「だったら、どうして」
「もう、来るなって言われたもの」
「それは孤月さんが言ったことじゃないか。どうして、自分で決めないの」
「決めているわ。今だって、帰らないって決めたもの」
「自分で決めていないよ。孤月さんのせいにしているじゃないか」
ぎくりとする。静磨の言う通りだ。孤月に言われて、拒否しても受け入れられなかったからそれに従った。渋々ではあったけれど。
何より、伝えていないではないか。小春の気持ちを。邪魔されてでも伝えようと思えば、できたのではないか。拒否された、と、それを逃げの口上にして。
「僕や孤月さんが決めることじゃない。小春さん自身が決めることだと、思う」
できることならば、孤月の所に戻りたい。しかし、小春を連れて来て喜んでくれていた静磨はどうなるのか。落ち込んでいる小春を元気づけてくれた静磨は。
「でも、私が居なくなったら……静磨さんは」
静磨は溜息をつき、鼻先で笑う。
「困ったな。今度は僕のせいになるのか」
「違うわ」
「どう違うんだ。僕が悲しむから、山に戻らない? それは君の意思じゃない」
その通りだ。従う相手が孤月から静磨に変わっただけで、小春の意思は含まれていない。唇をぎゅっと噛み、どうするか決められないでいた。
「どうして、僕が君を連れて来たか、分かる?」
不意に投げられた問いに、聞き返すことしかできなかった。小春からの答えを待たず、先が続く。
「え?」
「姉を殺された恨みだよ。苦しめてやりたかった。だから――僕は、大切なものを奪いたかったんだ」
何だ、そうだったのか。考えてみれば当たり前の理由に、つい笑ってしまう。
「だったら、役に立てなかったと思う。孤月は、私のことなんてどうでも良かったのよ」
「いつまで、そんなことを言うの?」
懐から紙を取り出し、小春に差し出す。
「あの鬼が、こんな文を書いたんだから、上出来だよ。仇討ちは済んだ」
文には、こはるへ、と書かれていた。裏返すと、こげつ、と名がある。平仮名しか読めない小春のために書かれたのだ、漢字は一つも使われていない。
孤月は、こんな字を書くのか。
こはると すごした まいにちは いままでで いちばん たのしかった
こはるの おかげだ ありがとう
つたえた きもちに うそいつわりはない
だれより いとしい こはるへ
こげつ
この文まで本心からではないと疑える筈もない。小春に読めるよう、気遣いが散りばめてあるのだから。文を持つ手が震える。
「君の死に際に渡してやって欲しいと言われたんだ」
他人の口を介してではなく、小春自身に読んでもらいたかったから平仮名だけの文にしたのだ。
どんな思いで書いたのだろう。短い中に、ありったけの気持ちを詰めて。
「山から下りても、君を養うつもりなんて少しもなかったよ」
手に力が篭り、文に皺が寄る。
「そんな文、捨ててしまっても良かったんだけれどさ。君がそんな顔をするのなら、取っておいて良かった」
休む間もなく続く静磨の憎まれ口を、黙って聞く。
「どうやって追い出すか、理由を考えていた所だったんだ。手間が省けたよ」
静磨の声が震えている。今、顔を見てはいけないのだと思った。手許の文をじっと見詰めたまま、問う。
「……だから、なの?」
「何が」
「だから、お寺を壊したのは孤月たちだって嘘をついたの?」
「知っていたのか。――そうだよ。できるだけ、悪い印象を持ってもらいたいじゃないか」
そろそろと顔を上げる。静磨はそっぽを向いて、表情を隠してしまっていた。真意はその表情から窺い知れない。
「君のことが好きだなんて、嘘だからな。あんな言葉、真に受けるなよ」
そう言いながら、握りしめた静磨の拳は震えている。誰に言われたからではない。小春自身はどうしたいのか、答えはもう、とうの昔に出ているではないか。山に戻りたい。孤月に会いたいのだ。
「ほら。どこでも好きな所に行けよ」
「少しの間でも、山から下りてみて良かった。楽しかった。静磨さんに会えて良かった」
この出会いは、決して悪いばかりではなかった。あのまま、山に居ては気付かないことがたくさんあった筈だ。
「ありがとうございました」
深々と頭を下げ、踵を返す。つっかえ棒を外し、戸を開ける。開いた戸の隙間から、喧騒が流れ込んできた。ここで怯んでしまいそうだったが、そうはいかない。戸を一気に開けてしまおうとしたが、腕を掴んで止められた。振り返ると、それを見計らったかのように、静磨が人差し指を立てて小春の唇に押し付ける。何をするのかと問うこともできない。
「僕が話している内に、さっさと出て行ってくれ」
静磨だって、今、出て行けば非難の矢面に立たされてしまうのだ。それなのに、身を呈して小春を逃がそうとしてくれる。
「嫌いなのに、どうしてそこまで……」
なぜ、手を貸してくれるのだろう。小春には見向きもせず、静磨は答える。
「嫌いだからこそ、だ。最後まで厄介事を起こしてもらっては、僕が困る」
それが本心か、それとも強がりかは分からない。それでも、力になってくれることに変わりはないのだ。
「ありがとう、静磨さん」
やや人数は減っていたが、それでも敵意をむき出しにした村人たちの姿があった。静磨が出ていくと、待ち構えたように取り囲む。
「先生。一体、どういうことだ」
「小春さんは、化物の仲間だったのかい」
「あの女が、が化物を連れて来たんだろう?」
皆、口々に小春への負の感情を投げ付ける。日が沈むまでは、小春に優しく接してくれていたのが、嘘のようだ。
「いい加減にしませんか」
「先生が言い出したんだぞ」
「そうだ、そうだ。化物を退治をしなきゃいけないって」
「あんたが、あの女を連れて来たんだ」
「僕だって迷惑をしているんです。姉を殺されたのに、化物の肩を持つ筈がない」
村人たちが静磨に詰め寄る。戸の影に隠れている小春には、誰も見向きもしなかった。恐怖で足が竦みそうになる。深く息を吸い、気持ちを静める。運を天に任せて駈け出した。背後で、小春に気付いた誰かが声を上げる。捕まえようと、無数の手が伸びる。だが、小春はずっと山で暮らしてきたのだ。タマ子を相手に山を駈けて育った。村人が敵う筈がない。きっと、今までで一番速く走った。




