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月に嘯く  作者: 甘露寺ちどり
第五章
22/26

 静磨が帰ってきたら、冗談ぽく話せば良い。あの時はからかったのか、と言えば、静磨だって素直に頷いてくれる。そして、おどけて言うのだ。あまり真剣に聞くものだから、ついつい出来心で、と。そうでなければ困るのだ。

 静磨の帰りは遅く、日が沈みかける頃だった。


「お帰りなさい」

「ただいま」


 ひどく疲れているようだった。とても、冗談など言えそうにない。


「小春さん?」


 何も言わず、じっと見詰められるのを気味悪く思ったか、顔を覗き込むようにして問われる。


「どうか、した?」

「い、いいえ、何も」

「そう?」


 何かを隠しているとは気付いているようだったが、それ以上の追求はされなかった。そんな余裕がない程、疲れているのだ。


「今日は、夜、出かけないといけないんだ」

「そう。遅くなるの?」

「……きっと。だから、早くに戸締りをして。騒がしくても、開けるんじゃないよ」


 いつもの快活さがない。そんなに疲れているのに、また出かけなければならないのか。


「大丈夫? 静磨さん。無理はしないで」

「大丈夫。もうすぐ終わるからさ」


 やけに含みのある言い方だった。終わる、とは何を指しているのか。


「何が?」


 今までは何も訊ねなかったが、今日はなぜか引っ掛かる。


「いいや、何でもないよ。村のことだ」

「でも」

「小春さんは気にしなくて良い」


 結局、はぐらかされてしまった。これ以上、しつこく訊いても教えてはもらえない。だからせめて、これ以上暗い表情をさせぬよう、何も詮索せずに素直に頷いた。




 静磨が言った通り、騒がしい夜だった。山の中とは違い、大勢の人が生活しているのだから、そんな日だってあるだろう。

 言われた通り、騒ぎに首を突っ込むことなく、静磨が勧めてくれた書物を読んでいると、表の戸を激しく叩く音がした。静磨が帰って来たのかとも思ったが、それならば声を掛ける筈だ。戸は開けぬよう言い付けられていたから、気にしないようにした。そのうち諦めて帰るだろう――そう思っていたのだが。

 気が長いのか粘り強いのか、戸を叩く誰かは中々諦めてくれず、ずっと叩き続けている。それに、家の周りが更に騒がしくなったように思う。早く静磨が帰ってきてくれれば良いのだが。

 思考を遮るように、外から名を呼ぶ声がした。


「小春!」


 その声に聞き覚えがあった。はっとして顔を上げ、耳を澄ます。


「ねえ! 居るんでしょう、小春!」


 根気強く名を呼ぶのは――間違いない。


「タマ子?」


 静磨の言い付けを破ることになるが、今は非常時だ。後から事情を話せば分かってくれる。それよりも、今はタマ子だ。あんなに人間を嫌っていたタマ子が山から下りてきたのだから、何かあったに違いない。慌ててつっかえ棒を外し、戸を開ける。

 やはり、そこに居たのはタマ子だった。身なりも気にする間がなかったのか、髪はぼさぼさに乱れ、猫の白い耳がぴんと出てしまっている。しかし、それ以上に驚いたのは、家を取り囲む大勢の村人だった。松明を持ち、この家を取り囲んでいる。火の爆ぜる音にまじり、さざめく声がする。


「ちょっと、タマ子! 耳! 耳!」


 慌てて耳を押さえて隠す。タマ子に向けられる無数の視線は、無慈悲な声は、見えない無数の針のようだ。ちくちくと全身に突き刺さる。それらから守るため、タマ子を庇うように抱き締める。化物だなんだと言っているのが聞こえる。

 初めて、人間の世界が怖いと思った。見た目が異なると、人々はこうも奇異の目を向けるものなのか。いくら言葉を喋っていても、いくら心の優しい者であっても。人垣を掻き分けて静磨が出てきた。


「どうしたんだ、小春さん」


 自分の家に群がる人々を見て、慌てて戻ってきたのだ。


「静磨さん、タマ子が――」

「先生、おい。そいつは化物じゃないのか」


 小春の声を、村人の誰かが遮った。そうだ、と煽るように周りが同意する。あんなに優しかったのは幻だったのか。火に照らされた中に、ミツの姿もある。憎らしげに、小春を、タマ子を睨んでいる。


「匿うのか?」

「そいつが疫病を運んできたらどうする」

「出せ」

「早く出せ」


 口々に、罵詈雑言が飛んできた。怒りの感情は、はけ口がなければ収まらない。言葉だけでは足りなくなる。誰かが石を持ち出すのは必然だった。一つ二つ程度だったものが、次第に数を増やし雨のように降ってくる。


「痛っ……」


 頭に当たらぬよう庇ったが、石は止めどなく投げ付けられる。手に、身体に当たり鈍い音がする。


「小春さん、速く」


 静磨に庇われ、家の中へ身を隠す。戸を閉めても、戸板を叩く石の音が家中に響いた。静磨は肩で息をしながら、厳重につっかえ棒で戸を封じた。


「僕が言えた義理じゃないけれど。……済まない」


 きっと、あの時の――屋敷に来た時に孤月とタマ子を見て怯えたことを言っているのだろう。タマ子は、照れ臭そうにしながら、手で髪を梳く。こんな騒動にはなったが、訪ねて来てくれたのは素直に嬉しい。


「お別れが言えなかったから、気になっていたの。よくここが分かったね」

「そんなこと、どうでも良いの。あのね……」

「静磨さん、せめて今夜だけでも泊めて良い?」

「小春、あのね」

「村の人たちには、私から説明するわ。タマ子はいい子なんだって」

「小春、どうして孤月さまのことを訊いてくれないの?」


 避けていた名を、タマ子は構わずに口にする。本当ならば、小春とて一番に訊ねたい。今、どうしているか。息災か。どんな些細なことでも良いから、孤月の話を聞きたい。


「だって――……」


 しかし、訊けば懐かしくなる。会いたくなる。しかしそれは叶わぬのだ。ならば、もう訊ねない方が良い。そう思ったが。


「このままじゃ孤月さま、死んでしまう。殺されてしまうの!」


 耳を疑った。聞き間違いか、新手の冗談かとも思えたが、タマ子の表情に嘘偽りは見えない。心からの悲痛な叫びだった。


「殺されるって……?」

「人間がたくさん来たの。たくさん。棒や鍬を持って」

「そんな、孤月が人間に殺される筈、ないじゃない」


 人間相手に、あの孤月が、殺される筈はない。何しろ何百年も生きた鬼なのだ。拍子抜けしたが、タマ子は真剣だった。


「あれだけ人が居たら……いくら孤月さまでも」


 いくら孤月が人々から怖れられた鬼だといっても、限界はあるのか。


「だから小春、助けに来て! 人間を止めて!」


 叶うならば、今すぐにでも助けに行きたい。小春一人の力など微々たるものだろうが、どうにかして守ってあげたい。そう思ってしまうから、訊かなかったのだ。


「でも……私が行っても、孤月は嫌がるもの」


 タマ子は必死に食い下がる。


「孤月さま、小春のことが好きよ。大好きよ。だから、山を出ろって言ったの」


 それが事実ならば、どんなに幸せだろうか。それを胸に秘めて、思い出にしてしまえば傷付かずに済む。


「ありがとう。だけど――もう、いいの」

「孤月さまのこと、嫌いなの?」

「嫌いな筈、ないでしょ」


 嫌いになれれば、どんなに楽だったか。そうすれば、こうして心をざわざわと騒がせることもない。

 わざわざ山に行かない方が良い。会って、なぜ来たのかと言われては堪らない。もう、辛い思いはしたくない。しかし、タマ子はそれを受け入れようとせず、目に涙を溜めて、怒りに顔を赤くし、震えていた。


「小春のばか! あれだけ好かれてるのに。ずるいわ!」


 なぜタマ子にこんな風に怒られなければならないのか。タマ子は小春の気持ちを知らないから、孤月に何と言われたか知らないから、平気でこんなことを言うのだ。


「タマ子にも分からないわよ! 出て行けって言われたこともないくせに!」


 屋敷に居場所を得て、今でも孤月と暮らしているタマ子には、好きだと伝えることすら拒絶された気持ちが、分かる筈がないのだ。


「そんなこと、分からないのよ。タマ子は小春のおまけなの。小春が居なければ、孤月さまの傍にも居られないのに!」

「今は孤月と暮らしているんでしょ? 独り占めしてるじゃない」

「屋敷で暮らせるようになったのも、小春が寂しいからだったのよ? 孤月さまには、タマ子はどうでも良かったのよ! 孤月さまは、小春のことを一番に考えていたのに。それなのに、小春は孤月さまのことを忘れて――……!」


 折れたのはタマ子だった。いや、折れたのではなく諦めたと言った方が正しいか。


「もう、小春には頼まないわ」


 小春から離れ、静磨に向き直る。深々と頭を下げた。


「お騒がせしました。小春をよろしくおねがいします」


 そう挨拶をすると、小春をちらりとも見ることなく戸を開けて外に出る。まだ様子を伺い、石を投げていた野次馬たちが居たが、タマ子に気圧され、黙って道を譲る。口々に、あれは何だったのかと言い合っていた。静磨は無言で再び戸を締める。

 タマ子が居なくなったからか、投石は止み、静かになった。

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