壱
東の空が白く染まってゆき、山の稜線がくっきりと浮かび上がる。光は徐々に明るさを増し、次第に稜線を侵食していった。山が溶けてしまう程の光が満ち、抱えきれなくなった山はとろりとした白い雫を零れさせた。それまで藍色だった西の空は、水で洗われたように色が抜け、青へと変わってゆく。日が昇ったのだ。夜が終わり、朝が訪れる。
山を降り、数日が経った。環境ががらりと変わったせいか、やけに早い時間に目が覚める。こうして日が昇るのを眺めるのが日課となった。
山を見上げた。住んでいる時は、こうして見上げることはできなかった。
孤月は今頃、どうしているだろう。タマ子のために朝餉の支度をしている頃か。それとも、支度を終えて煙管を吹かしている頃か。日々の生活のふとした時に、少しでも小春のことを思い出してくれているだろうか。懐かしく思ってくれているだろうか。
孤月が懐かしくて仕方がなかった。これからの、孤月の暮らしが健やかなものであるよう――祈った。
朝餉を終えると、次第に静磨の家は賑わう。静磨は、村で子供たちに勉強を教えていた。その礼に、食料を貰い日々の糧にしている。子供たちは両親の手伝いをしながら通ってくるから、入れ替わり立ち替わり、目まぐるしい。小春も、子供たちと一緒に学ぶことになった。
静磨と二人きりになる時間が少ないのはありがたかった。嫌いなわけではない。だが、何を話せば良いかわからなくなる。屋敷では、あれだけ二人でたくさんの時を共有したというのに。
掃除、洗濯。食事の支度に、勉強。忙しくしていると、他のことを考えずに済む。こうしているうちに、昔のこともいずれ思い出として懐かしむことができるようになるのだろう。今は、まだ孤月を思い出さぬよう蓋をして仕舞いこんでいれば良い。
その日は珍しく、子供たちが帰るのが早かった。何かしていないと話をしなければならないから、静磨から逃げるように文机に向かって字の練習をしていた。
「小春さんは、姉さんに似ているな」
不意に静磨が話し掛けてきた。ここで無視をするのも気まずいから、筆を置き、手を止める。
「お姉さん? 静磨さんの……」
「そう。毎日、楽しそうに過ごしていた」
「仲が良かったの?」
「ああ。小さな僕の手を引いて、河原に連れて行ってくれた。僕を連れて行ったのに、自分の方が真剣に遊んでいるんだ。魚を捕まえたり、綺麗な石を探したりしてね」
思えば、静磨が姉の思い出を語るのは初めてのことだ。それまで、顔を持たなかった静磨の姉が、一人の女性として輪郭を持つ。当たり前のことだが、ちゃんと生きていたのだ。
「最後には、着ているものがずぶ濡れになって。二人で、童歌を歌いながら帰ったよ」
この村で暮らしていた姉弟。きっと楽しかったのだろう。静磨は、今までに見たことがない程、嬉しそうに話す。
「孤月さんの話も、姉さんから聞いたんだ。あの山には、鬼が居るから一人では絶対に行くなってさ」
だが、その山に自ら分け入ったのだ。それ程に、嫁ぎたくなかったのだろう。
「春の日だまりみたいに暖かな人だった。色々なものを見せてあげたかったよ」
それもあって、小春を気にかけてくれたのだろうか。償いに。姉の身代わりとして。
静磨の姉は、やはり幸せだったのではないかと思う。弟にこうして慕われ、何より、孤月にあんなに想われて、受け入れてもらえている。死んでもなお、小春の欲するものを独り占めしている。彼女が得たもの全てを手に入れたいのではない。ただ、孤月の気持ちが欲しいのだ。
彼女が、羨ましく、同時に憎くて仕方がない。沸き上がってくる感情はひどく醜い。故人の思い出を聞きながら、その人物を憎んでいる。そんな自分を嫌っても、感情をどうやって操れば良いのか分からない。
「静磨さん」
訊けば、何かしらの答えが出るだろうか。
「どうしたの」
「誰かを、憎いと思ったことはある?」
今、小春が感じているのは憎いという一言では足りない、強い負の感情であるのに。それを誤魔化すように、柔らかな表現を選んだ。
「人並みにはね。どうしたの、何か嫌なことがあった?」
それでも、静磨は案じてくれる。小春の考えていることも知らずに。
「……違うの。私、ある人が憎いの。欲しくても手に入らないものを全て持っているのが、憎くて仕方がないの」
抑えようとすればする程、ふつふつと沸き上がってくる嫌な感情に支配されてしまう。静磨が慕う姉をこんなに憎んでいる自分は、のうのうとここで暮らしていて良いのだろうか。
「小春さん。その人に悋気しているんだね」
思ってもいなかった指摘に、目を瞬かせる。憎むと悋気は別物ではないのか。
「悋気……え、誰に?」
「だから、その憎い人に」
静磨は嫌な顔一つせず、にっこりと笑った。
「でも。……すごく、憎いの。私が欲しいものを持っているの、その人は」
「それが悋気だよ。僕だって、ある。人間、そういうものさ」
「誰に? 誰に、悋気なんてするの?」
「それは、教えられないな」
それ以上の詮索を避けるためか、話題ががらりと変わる。
「それよりも小春さん。今度、面白い所に行こう」
「面白い所?」
「そう。せっかく山を下りたんだから。話したろう? 海だとか、汽車だとか。それに」
そこで、言葉が途切れた。言うか言うまいか、考えあぐねているようだ。
「それに?」
先を促すと、観念したらしく続けた。
「寂しい時は、寂しいと言って良い。……むしろ、言って欲しい。孤月さんの話をしたい時は、僕がいくらでも聞く。だから、僕に気を遣わないで欲しい」
みるみる顔が赤くなる。気付かれていたのか。小春は隠しているつもりだったが。
「優しいのね」
いつだって、静磨は小春のことを考えてくれる。こんなに親切にしてくれるのだ。山を懐かしむのは失礼だ。
「当たり前だよ。誰だって、好きな人の悲しい顔を見たくはないからね」
「ありがとう。気遣ってくれて」
静磨は優しい。だから、その姉に対して醜い感情を抱くべきではない。孤月のことも、思い出にしてしまわなければいけない。それが静磨への礼儀だろうから。
小春がどうにか村の生活にも慣れ始めた頃から、静磨は時間を見付けては外出するようになった。村の若い衆で集まっているらしいとは聞いたが、一体どんな内容で集まっているのかまでは分からなかった。小春に関わりのあることならば、いずれ静磨から話してくれるだろう。あまり詮索せず、黙って見送っていた。
静磨が出かけて程なく、来客があった。
「先生。瓜が穫れたよ」
特に親しくしてくれているミツだ。母が生きているなら、ミツくらいの年齢だろう。実際、ミツは娘のように小春を可愛がってくれる。手にした笊には、瓜が盛られていた。
「静磨さん、出かけているんです。何か、村の集まりがあるとか……」
ミツは、ああ、と思い出したように納得した。
「小春さんは、山に住んでいたんだろう? 寺はまだあったかい」
「寺……ええ、ありましたよ」
和尚が棲んでいた寺だ。
「和尚さまが亡くなられた後に、お上からのお達しがあったからね。従わないといけなかったけれどさ。やっぱり、嫌なもんだよね」
元々住んでいた和尚は、あやかしたちが殺したのだと静磨は言っていた。
「和尚さまは……どうして亡くなられたんですか?」
静磨を信じていない訳ではない、ただ、どんな話が伝わっているのかを確認したいだけだ。そう自分に言い聞かせる。
「元々、病持ちだったらしいよ。何せ、あの山の中だろう。朝、村の者が行った時には」
もう、息を引き取っていたのだろう。口許に手を添え、声を潜めて言う。病に見せかけて殺したのだろうか。罪を気付かれないように。
「そうだったんですか……」
「その後に、次の和尚さまが来ると思っていたら、上からのお達しじゃないか。私は、和尚さまが化けて出て来やしないか、気が気じゃなかったよ」
「お達しって、何があったんですか?」
先程から、何度も出てはくるが、一体どんな達しなのかが分からない。ミツは、小春が知らないことに驚いたようだったが、すぐに納得した。
「そうか、知らないよねえ。廃仏……えぇと、何て言ったかな。お上が、寺や仏像を壊せって言ったんだよ。仏様は駄目だ、なんて言ってね。壊れていただろう?」
「はい」
「若い衆で、鍬やら何やら色々と持って壊しに行ったんだよ。もう、二十年は前になるかねえ」
はるか昔を思い出しながら語るミツだったが、どうも腑に落ちない。孤月たちから聞いた話とは一致するが、静磨の話とは食い違いがある。どちらが事実にせよ、逆ではないのか。村人同士の話が一致しないとは妙だ。
「ちょっと待って下さい、あの……山のお寺は、あやかしが襲ったんじゃ……」
真剣に問うが、ミツには何かの冗談だろうとしか受け取られなかった。けらけらと可笑しそうに笑う。
「先生が言っていたのかい? 嫌だねえ。そんな話で脅かして」
嘘だったのか。なぜ、そんな嘘を教える必要があったのだろう。
「どうして……」
「そりゃあ、怖がる小春さんが見たかったんじゃないのかい。先生、あんたに心底惚れてるようだから」
「そう……ですか」
怖がらせたいのなら、もっと別の話をすれば良いのだ。あの時の静磨を思い出してみても、怖がらせる意図があったとは思えない。あれは、孤月たちを疑わせたかったのではないか。あやかしは悪だと思わせるためではなかったか。
ここで静磨の言ったことを話しても何ら解決しない。曖昧に頷いて、場をやり過ごした。




