壱
山は、古より人々の信仰の対象であった。人間の力の及ばぬ所、神々の棲む地――異界。
人の世は目まぐるしく変わる。昨日まで刀を腰に帯びて歩いていたかと思えば、今日は杖を持ち見たことのない、とんちんかんな格好で歩いているのである。
四民平等、富国強兵、周りの国に追いつけ追い越せと、ただひたすらに、脇目もふらず必死に前進していた。行き着く先が正しいか、間違いか、考える余裕すらなく。
そんな世に比べれば、山中の時はゆっくりと、穏やかであった。一年が一日、十年がひと月のように。ゆっくりと流れる大河のように、時を刻んでいた。
さて、そんな緑深い山の奥には不釣合いな屋敷があった。貴族の住まい――寝殿造りのようである。尤も、寝殿の前には池もなければ太鼓橋もない。申し訳程度に木々の植えられた庭があるのだが、それでは正式な寝殿造りとは呼べない。言うならば、寝殿造り風、であろう。
その、寝殿から渡殿が伸び、東西にある対屋を繋いでいる。さらに東の対屋からは渡殿を出し、その先に庭を眺めることができる釣殿が設けられていた。山から下りた世には、このような建物で暮らす者はもういない。やはり、山の中は異界であった。
東の空が白く染まってゆき、朝日が昇る。東の対屋の、昼の御座と呼ばれる三間は、とうに格子が上がり、燦々と降り注ぐ朝日を受け入れていた。日除けに御簾が垂らしてあったが、朝の日差しというものは中々に強い。御簾の隙間から差し込んだ日差しは、几帳の奥の茵を照らす。
東の対屋で寝起きする少女は、眩しさに耐え切れず目を覚ました。肩よりも長く伸ばした髪は、寝乱れてぼさぼさだった。昼間ならばぱっちりとしている双眸も、今は眠気と必死に戦っている。小振りな口が大きく開き欠伸が漏れた。口に出さずとも、その表情だけで眠いのは充分に伝わってくる。それでも、もぞもぞと布団から這い出し、御簾を持ち上げ廂に出る。空は今日も青く澄んでいていい天気だ。
再度大きな欠伸をし、鏡の前に移動する。まだ眠そうな顔と対面した。櫛で髪を梳く単純な作業をしていると、ようやく意識がはっきりしてきた。
少女の鼻孔を擽るのは、美味しそうな朝餉の香りだ。白米が炊けた香り。そしてそれに、ほんのりと味噌が混じる。朝の空腹を刺激する。身体は欲に忠実で、食事をしろと急かすように腹を鳴らす。
今日の朝餉は何だろうか。幸せに浸っていた少女だったが、はたと気付く。何かおかしい。なぜ、美味しそうな朝餉の香りがするのか。それは、誰かが作っているということ。
何だそうか、簡単なこと、と納得しかけたがそんなことではまずいのだ。自分が起きた時に、朝餉の香りがしてはいけない。昨晩、宣言したばかりなのだから。
どんな切欠でその話になったのかは忘れてしまった。一晩経ったくらいで忘れてしまうのだから、あまり大したことではないだろう。重要なのは、少女が宣言したことだ。明日からは一番に起きて食事の支度をする、だからもう、金輪際誰も台処には立つな、と。昨日の時点での明日――つまり今日。
それがなぜ朝餉の支度をしているのだ。一体、誰が――と考えなかったのは、下手人に心当たりがあるからだ。その人物以外には考えられない。
寝間着のままで飛び出した、透渡殿に足音が響く。右手にある、手入れの行き届いた坪庭に目もくれない。
寝殿の昼の御座に、赤い着物を纏ったおかっぱの子供が行儀よく正座をしていた。ふわふわとした白い兵児帯が可愛らしい。右目が黄、左目が青と印象的だ。子供は少女に気付くと、嬉しそうに笑う。口の端に、にゅっと尖った歯が覗いた。
「小春、おはよう」
しかし、少女――小春は挨拶を返さない。それどころではないのだ。脇目もふらず廂を走りぬけ、向かったのは台処だ。ここだけは、古めかしい造りをした屋敷の中でも雰囲気が違う。使い勝手が良いように機能的に纏められていた。
土間に二つの竈が作られ、木製の流しがある。竈には釜が置かれ、ほかほかと食欲をそそる湯気が立ち上っていた。
予想した通りの下手人の姿があった。狩衣を襷掛けにし、きっちりと三角巾をしている。
「孤月!」
肩で息をしながら、台処に立つ男――孤月を呼んだ。孤月は振り返り、小春を一瞥すると再び竈に向き直る。小春の相手よりも料理の方が重要なのだ。火を使っているから当然なのだろうが――気に入らない。
「早いお目覚めだな」
彼が、この屋敷の主であり、小春の養親だ。
孤月は小皿を手にし、味噌汁の味見をしている。艶のある長い黒髪のせいで、おさんどんに精を出す後ろ姿は話に聞く母親というもののようだ。
「もう――」
「小春。今日はお前の好きななめこ汁だ」
不意を突くように聞かされた今日の献立に、小春の目が輝いた。久しぶりに食べたいと思っていたのだ。さすが孤月、小春のことをよく理解している。しかし、それは一瞬のこと。すぐに表情を引き締める。献立くらいで喜んで目的を忘れてはいけない。
「今日から朝餉は私が作ると約束したでしょう? なめこ汁で誤魔化されないんだから」
一切、手出しは無用である、と。しかし小春の勢いに気圧される孤月でもなかった。
「タマ子が、腹が空いたと煩かったからな」
泰然と構える孤月に負けそうになる。が、ここで引いてはいけない。負けを認めることになってしまう。
「だったら私を起こして」
「無理矢理起こすと不機嫌になるだろう。ならば、おれが作った方が手っ取り早い」
「……」
いかにも、尤もだ。それを言われては、もう何も返せない。負けを認めるしか道はない。孤月は何も悪くはないのだ。寝坊してしまった小春が悪い。責めるならば相手は自分しかないこの状況に、どうやって気を鎮めれば良いか分からず、より一層頬を膨らませてじっと棒立ちになる。
「小春。膨れていないで二人分の膳を用意してくれるか」
「三人分じゃなくて?」
「おれはいつも食わないだろう」
今更、何を言い出すのかと瞳が語っている。無理強いしても食べないだろう。棚から、言われた通りに二人分の膳を出す。器に炊きたての飯と味噌汁が注がれた。