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月に嘯く  作者: 甘露寺ちどり
第四章
19/26

 その日は、月の美しい夜だった。階で夜空を眺める孤月の横に、そっと腰掛ける。話したいことが、伝えたいことがたくさんあるのだ。今さら謝罪もないだろうが。


「……孤月。あのね」


 けれど、小春の言葉を遮り孤月の方が口を開いた。


「小春に見せたいものがある」

「何を?」


 問いかけに返事はなかった。黙って、孤月が立ち上がり、手を差し出す。その手に自らの手をそっと重ねた。

 繋いだ手を引いて、歩き出す。草履を履き、繋いだ手に導かれて小春も続いた。

 見せたいものがある、と言っていたが、どこに行くとも何を見せたいとも言われなかった。ただ、黙々と歩くのだ。小春を気遣うことはしてくれる。あまり速く歩かぬよう、足元に段差や木の根があれば、先に教えてくれる。しかし孤月が言うのは、その程度のことだけだ。返事を期待せずに、問うてみる。


「どこに行くの?」


 案の定返事はなく、振り返り、黙って微笑むだけだった。だから小春も、尋ねるのをやめた。いずれ分かるのだから。

 月の照らす薄い闇を、孤月と歩く。夜の散歩は見慣れた景色が違うもののように姿を変えて楽しい。返事は期待せずに、独り言のつもりで話し掛けた。


「孤月とこうして歩くの、久しぶりね」


 小春がもっと幼い頃は、こうして夜に出かけていた。山桜が咲いた日、月の美しい日、葉が赤く色付いた日、雪の日。時節ごとに、孤月の作った料理を重箱に詰めて宴会を開いたものだ。孤月を慕うあやかしが集まり、夜通し騒いだ。タマ子と親しくなり、一緒に暮らすようになったのも、その宴が切欠だった。


「そうだな」


 思いがけず、返事があった。会話をしたくないのではなく、ただ目的の場所を教えたくないだけなのか。


「いつから、しなくなったのかな」


 ある日、宴会を開かなくなった。徐々に回数が減ったのではなく、ぱったりと止めてしまったのだ。だが、その切欠が思い出せない。


「覚えていないのか」

「ええ」


 きっと、些細なことだったのだ。小春もあまり気に留めないような。切欠が何であったか、その話をする前に孤月の足が止まった。

 開けた場所に出た。そこだけ木がなく、小さな広場のようになっている。


「覚えているか?」

「ここ? ――あ」


 いつも、ここに緋毛氈を敷いて宴を開いていた。


「来なくなったのは、小春にこれは何かと訊かれてからだな」


 孤月が示したのは、盛り上がった土の上に置かれた丸い石だった。その石を、慈しむように撫でる。大切な、愛しいものに触れるように。ちくりと胸が痛んだ。


「これが、見せたかったものだ」

「これは……?」

「墓だよ」

「誰の?」

「おれが、最後に食べた女の」


 さらりと言ったことは、重い――ひどく重い内容だった。問いなおすこともできず、小春は黙りこむ。

 孤月は石の――きっと、孤月が作ったのであろう墓の前に腰を下ろした。墓に向き合うようにして、小春に背を向ける形で話し始めた。


「幸か不幸か、おれの顔は美しいのだそうだ。放っておいても女が寄ってくる。食べるには困らなかった」


 静磨から聞いた時には、嫌悪の感情しか抱けなかった鬼の話だったが、孤月から聞くと嫌悪よりも憐憫の感情が強くなる。残虐な筈の鬼は、出てこない。出てくるのは、欲を満たすことしか知らない哀しい鬼だ。


「いつの世から生きているのか、おれ自身も忘れてしまった。昨日も明日も変わらぬ日々を送っていたせいだろうな。峠で待ち伏せすれば、女は簡単に引っ掛かる。通りかからなければ、笛を吹けば良い」


 どんな表情で話しているのか分からない。淡々と語る声から感情を汲み取るのは難しかった。


「女が捕まれば、昼も夜もなく騒いで歌う。腹が減って、飽きたら食ってしまう。それの繰り返しだ。何十年も、何百年も」


 来る日も来る日も、周りに人が居ても孤月は独りだったのだ。タマ子の言う通り。


「今も……食べているの?」

「いいや。今はもう、食わない。――……食えない、だな」


 言い直し、一呼吸を置いてまた話が続けられた。


「最後に食べた女は、妙な女だった」


 そこで、孤月は一呼吸を置いた。その女の姿を思い出しているのか。小春も、その女の姿を共有したい、そう思った。墓まで作っているのだ。間違いなく、孤月にとってあ特別は存在だろう。和尚から聞いた話を思い出す。孤月は、その女を――。

 そこまで考えて、止めた。推測で勝手に結論を出すものではない。先を促す。


「どんな人だったの?」

「うん? その女か。……綺麗だったな。着の身着のままで出てきたんだろうが、白無垢を大切に抱えていた」


 白無垢――その、覚えのあるものに、はっとした。それはきっと、静磨の姉ではないのか。この墓は、静磨の姉の。


「それで……」


 続きを聞きたくないが、しかし孤月からの事実を知りたい。最後に食べたという、女の話を。


「自分から食べてくれと言ってきた。おれは天邪鬼だからな、食うなと言われれば食いたくなる。食えと言われ、逆に食べる気が失せた。そうしたら、なぜ食べてもらいたいかを切々と語りはじめたよ」


 くつくつと笑い声が混じる。女が、鬼に向かって自分を殺せ、食べろと迫るなど絶後のことだったのだ、きっと。


「名乗りから始まり、嫁ぎたくないだの、しかし家のためには断れぬだの。家族に死んだと知られたくはないから、もう鬼に食われるのが一番だとな」

「でも……その位で?」


 縁談とは、家のためには断れぬものなのか。なぜ、他に良い道を探さなかったのか。小春にはそれが不思議でならない。命を断つ理由には思えないのだ。


「おれも、そう思うよ。実家に帰るよう諭したが、だめだと繰り返すばかりだ。金でも絡んでいたんだろう――恐らくな」


 孤月の推測を聞いても、その程度で、という思いは消えない。金というものは、命よりも大切なものなのか。


「死体が見付からなければ神隠しに遭ったとされるだろうから、と言う。ふざけた女だ。自分の都合でものを言う。食いたくはなかったが、追い返すと何をするか分からん。関わりを持った奴に自ら命を絶たれては、寝覚めが悪い。暇でもあったからな。だから屋敷に連れて帰った」

「食べなかったの?」

「食えるものか。女も行き場所がないから、しばらく屋敷で暮らした。楽しかったよ。……楽しかった。おれは、もしかすると、あの女を憎からず思っていたのかもしれない。あの女も、きっと……おれに好意を抱いてくれていた」


 まるで物語をなぞっているかのようだった。孤月の語り口に、現実味はない。鬼と人間の女との恋物語。幸せな結末が待っているとは到底思えなかった。いや、最初から悲劇しか待っていないのは分かりきっていたではないか。孤月は、最後に食べた女の話をしているのだから。


「おれも、忘れていたんだ。自分が鬼だということを。人喰い鬼だということを」


 鬼だと忘れる程の毎日は、孤月にとって新鮮だっただろう。


「その晩は、やけに喉が渇いた。腹も減っていた。久しく、人間を食っていなかったからな。……夜、その女が階に腰掛けて月を眺めていたんだ。満月が綺麗だと言って。……綺麗だったんだ。月が。女の肌が」


 孤月の声が、肩が震えている。


「腕を掴んだら、驚いて振り返った。おれだと分かって、安心したように微笑んだよ」


 先に続く言葉を、もう聞きたいとは思わなかった。想像が付く。和尚から聞いた話を踏まえれば、簡単だ。孤月が辛そうに話す姿を見たくはなかった。


「それなのに、おれは首筋に歯を立てた。血が口の中に広がって、ようやく気付いた」

「もう、いいから。もうやめて」

「助からないのを、分かったのだろう。自分を食べれば、もう空腹になることはないと言ったよ。これで最後だと。だから、おれは」

「孤月! ……もう、やめて」


 後ろから抱き締める。少しでも孤月が寂しくないように。孤独を感じないように。小春にできることを、探す。小春が力一杯抱きしめれば、きっと大丈夫だ。静磨の姉に負けぬ程、小春を好いてくれている筈なのだから。そして、小春も孤月を好いている。


「小春、もういい。山を下りろ」


 優しい声音とは裏腹に、残酷な言葉が紡がれる。聞き間違いだ。


「え?」

「あの男と一緒に山を下りろ」

「どうして」


 聞き違いだ、きっと。もしくは冗談に決まっている。笑えない冗談を言うものではないと言ってやろうと思ったが、小春よりも先に孤月が口を開いた。


「小春は人間だろう。人間の暮らしをするべきだ」


 笑ってしまいそうだった。あれだけ山を下りさせなかった孤月が、今更何を言い出すのだろう。


「孤月は……私が嫌い?」


 傍に置いて貰えない程に。最近、避けていたのはそういう理由からなのか。


「そんな筈がないだろう」

「だったら置いて。嫌いじゃなかったら」

「そんな言い方は、狡いな。おれは小春が大切だ。ずっと、そう思ってきた。しかし、あの男が――静磨が来て、分からなくなった」

「何が……分からないの」


 孤月の手が、小春の手に重ねられる。大きく、暖かだった。


「小春を、どう思っているかが」


 それは絶望させるには充分すぎる言葉だった。大切に思う気持ちが揺らいでいるということか。


「あいつは、お前を好きだと胸を張って言える」


 幾度も、幾度も真っ直ぐに気持ちを伝えてくれた。


「だけど、おれは――……そうは言えない」

「……この、お墓の人に悪いから?」

「そうじゃない」

「だったら、どうして。私の方が、絶対、絶対に、孤月のことが――」


 好きだ。今までにも、何度も言ってきたことだが、言葉にできなかった。好きだと言うだけでは足りない。十回、二十回も言っては安っぽくなる。けれど、好意は本人に伝えてこそのものだから、見付からない言葉の代わりに、抱きしめた。


「ごめんなさい。もう、我侭は言わない。孤月を困らせたりしない。だから、ここに置いて。出て行けなんて言わないで」


 視界が歪む。鼻がつんと痛い。堪えきれず、涙がぼろぼろと溢れてくる。孤月の襟が涙で濡れてしまうが、構っていられない。


「そうじゃあ、ない。我侭だとか、そういうことじゃあないんだ」


 ならば何がいけなかったのか。悪い所があるならば気を付ける。迷惑をかけないようにする。そう伝えたいのに、言葉にでならなかった。ただただ、感情が溢れて意味を持たぬ声しか出せない。


「これ以上、おれの傍に居ると、どうなるか分からない。小春を大切にしたいから……山を下りてくれ」

「狡い。この人は、ずっと孤月の傍に居たのに? 私は駄目なの?」


 孤月と一緒に過ごした時間は、小春の方が遥かに長いだろう。それなのに、小春には山を下りろと言う。長壁姫からの文が届いた時よりも、もっと胸が痛い。苛々する。なぜ、自分ではいけないのか。


「だからだよ、小春。おれはもう、同じことを繰り返したくはない」

「でも――……もう、孤月は……何も、食べないんでしょう?」


 いくら、小春が一緒に食べようと言っても拒否し続けたではないか。


「今は、な。しかし、いつ腹が減るか分からん。欲には勝てんのだ」

「絶対に嫌。孤月、言っていることが違うもの」

「そうだな。おれが悪い」

「そうじゃなくて! 今までは食べないって言っていたのに。急に、食べるかもしれないなんて言い出すのはおかしいわ」


 そんなつもりはなくとも、どうしても責めるようになってしまう。矛盾点を突き付け、言い負かしたいのではない。ただ、考えを変えてもらいたいのだ。


「忘れていたんだ。――あの時の、欲を」

「欲……って……」

「おれは、自分が鬼だと忘れてしまっていた。だから、小春を食うことはないと思っていたが――」

「これからだって、絶対にないわ」

「絶対なんぞ、言い切れるものか」


 小春の希望を打ち消すように、断言される。


「おれが見たところ、あの男はしっかりした奴だ。きっと、小春を大切にしてくれる」

「嫌よ。どうして。……ばか。孤月のばか」

「そうだな。自分が今まで、どうやって生きてきたのかを忘れるとは、かなりのばかだ」


 いくら嫌だと繰り返しても、孤月は頷かなかった。涙がぼろぼろと溢れて、頬を伝った。

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