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月に嘯く  作者: 甘露寺ちどり
第四章
17/26

 寝殿の階に腰掛け、孤月は煙管を吹かしていた。

 すらりと伸びた鼻筋に、やや薄い唇。切れ長の双眸を縁取る睫毛。艶やかな黒髪は絹糸のように滑らかだ。煙管を操る指の動き一つ一つに見惚れる。怖ろしく思える程に美しい。美しい――鬼だ。

 静磨の語ったことを思い出し、すぐさま首を振って追い出した。姉と一緒だったのは、孤月ではない。決して。


「孤月」

「どうした」


 吐き出された紫煙がたゆたう。小春は、その隣に黙って腰掛けた。孤月の肩に凭れる。振り払われず、どうしたのかとも問わず、孤月はただじっとしていてくれた。


「お腹すいた?」


 そんな話をしたいのではない。疑ってなどいない。それなのに、口をついて出てしまった。


「そんな時間か」


 孤月は立ち上がろうとした。ここで、このまま何も言わなければ、空腹を訴えていることにしてしまえる。それなのに、袖を引いて引き留めてしまった。


「小春?」

「そうじゃないの。そうじゃなくて。……孤月の話。お腹、すいた?」


 深い溜息がつかれた。次に何が続くかは分かりきっている。またその話か、腹は減らない、そうやって打ち切られるのだ。ここまできては確かめるしかない。気になっているのだ。ずっと、もやもやした感情を抱えてはいたくない。逃げられる前に、小春の方から続ける。


「私が居ると、人間を食べられないものね」


 肩に力が入るのが分かる。それでも、止めなかった。


「私と食事をしなかったのは、しないのではなくて、できなかったのね」


 何か喋っていないと涙が出てきそうだった。その涙が悲しいものなのか、悔しいものなのかは小春にも分からない。


「この山には、人喰い鬼が棲んでいるの?」


 嘘は言って欲しくない。しかし、違うと言って欲しい。下らないことを言うなと笑い飛ばして欲しい。


「……静磨から聞いたのか」


 黙って頷く。隠しても、すぐにばれてしまうことだ。


「あの男、余計なことを――」

「ちゃんと答えて」


 答えを催促する。余計なことと感じるのは、孤月にとって分が悪いからではないのか。そうでなければ、下らないと笑って流すだろうに。

 長いとも、短いとも感じる沈黙があった。長く黙っておいて、その間に小春が諦めてしまうのを期待しているのだろうか。目を逸らさず、じっと根気強く待つ。孤月は、諦めて頷いた。


「間違いなく、おれのことだよ」


 覚悟していた筈だというのに、頭の中が真っ白になる。


「おれは、人間を食べる。――人喰い鬼だ」


 静磨の言うことは本当だった。それはつまり、静磨の姉を食べたことも事実なのだろうか。そして何より。情もなく、ただの欲で小春を養っているのか。


「私も……飽きたら、食べるの?」


 孤月は、いつも優しい。何より小春のことを考えてくれる。それを、ずっと情だと思っていた。そう信じて疑いもしなかった。しかし、その裏には欲があったのか。情だと思っていたものは、静磨の言う汚い欲だったのか。しかし、孤月は問いには答えずに深い溜息をついた。


「お前が、そんな下らないことを聞くとは思わなかったな」


 意を決しての問いだった。それなのに、孤月は下らないと言う。


「下らないの? 私は……私のことは、下らないことなの?」


 違う。そうは言われていない。分かっているが、もう収集がつかないのだ。


「そうじゃない。小春は、ずっと一緒に居たから分かるだろうと思っていた」

「孤月だって、私の考えていること、全然分かっていないじゃない」


 小春自身、自分が何を考えているのか、どうしたいのか分からないのだ。それを孤月に分かれと言うのは無茶だ。無茶だが、どうしようもなかった。


「もう、知らない」

「小春、待て」


 半ば無理やり話を終わらせ、呼び止めるのも聞かずに傍を離れた。対屋に戻り、一人でぼんやりとする。孤月本人から聞いたことではないと言って、信用出来ないと無下にはできない。しかし、信じるならば孤月が静磨の姉を食べてしまったということになる。




 沈んだ気持ちは、夕餉の頃になっても変わらなかった。対屋で一人、ぼんやりと空を眺める。空の色はゆっくりと、しかし確実に色を変えてゆく。変わらぬものはないのだ、何もかも。


「小春、食べないの?」


 タマ子が様子を覗きに来ても、小春は黙って首を振る。


「どうしたのよお」


 返事すらないのは不安にさせてしまうばかりだが、どうしても言葉が出てこなかった。タマ子は今にも泣きそうな声で近寄ってくる。隣に座り、小春の頭を撫でた。その手の温もりに、張り詰めた糸がぷつりと切れた。涙が溢れてくる。

「孤月にとって、私はどうでも良いのかなあって」

「孤月さまが? そう言ったの?」

「……言ってないけど」


 タマ子は声を上げて笑った。


「そんな、笑うことないじゃない」


 涙でぐしゃぐしゃで、情けない顔をしている筈だ。膨れ面で言い返しても、タマ子は可笑しくてたまらないようだった。自分の着物の袖で、小春の顔を拭く。


「だって。言われてもいないのに」

「真剣に考えているの」


 小春が膨れると、ようやく笑うのをやめた。


「タマ子、うまく言えないけれど……孤月さまは小春のことが好きよ、絶対」

「……人間なのに?」

「そんなこと、関係あるの?」


 ある、のではないだろうか。静磨のように人間の社会で暮らしていると、あやかしと人間との線引がきっちりとなされているようなのだから。


「でも……食べるために置いているんじゃないの?」

「孤月さまにそう言われたの?」


 それも言われてはいない。首を振って否定もできず、ただ黙り込んだ。


「タマ子は違うと思うの。だけど、小春は何を言っても信じないでしょ? だから、何も言わないの」


 それは、その通りだ。孤月本人が言ったことも信じないのだから。なぜ、信じられないのだろう。孤月と、長く一緒に暮らしていたのに。


「小春は、孤月の意味を知っている?」


 何の前置きもない、突然の問いに、すぐに頭を切り替えられなかった。


「意味が……あるの?」


 単なる名前だと思っていたから、意味があるなど思いもしなかった。


「孤は、孤独の孤。物寂しげに見える、月のこと」


 物寂しげな月。孤月が寂しがっていたなど、考えもしなかった。


「孤月さまは、ずっと寂しかったんだと思うの」


 タマ子や、和尚。他にあやかしたちが傍に居たのに、寂しいと感じるのか。


「私が居る前も、皆が居たじゃない。それでも寂しかったの?」

「皆、孤月さまに対して対等に接するなんてできないよ。それができるのは、小春だけ」

「どうして? 仲が悪いの?」

「そうじゃないの。ただ、孤月さまは位の高い鬼だもの。対等にはなれないのよ」


 そういうものなのだろうか。小春は納得できなかった。今だって孤月に対して対等な立場でいるのは、なにも小春だけではない。長い文を送ってきた長壁姫がいる。孤月が姫御前と呼ぶのだから、かなり高位にある筈だ。何もない風を装っていたが、小春の機嫌を治すためだったのではないか。


「……でも。お姫さまが、居るじゃない」

「お姫さま?」

「……長壁姫さま」

「古いお付き合いなのよ。姫さま、人間の若い男の人が好きって聞いたもの」

「でも……そんなの」


 分からないだろう。口で言うことと、感情は全く同じではない。ぶつぶつとくぐもった声だったが、人間よりもはるかに耳の良いタマ子にはしっかりと聞こえたらしい。目を細め、にんまりと笑っている。


「小春、孤月さまのことが好きなのね」

「そりゃあ、好きよ」

「そうじゃなくて」


 好きかと問われて好きだと答えるのは、間違っているのか。タマ子の言わんとすることが分からず、首を傾げる。


「どうして、長壁姫さまから文が届いた時、あんなに機嫌が悪かったの?」

「それは――……」


 理由を言いかけたが、出て来なかった。なぜ、苛々したのだろう。あの時、孤月は小春の話も聞かずに長い文を読んでいた。そうだ、それが嫌だったのだ。


「仲間外れにされたからだわ」


 それ以上にしっくりくる答えはない。


「それだけじゃないでしょ?」

「そうなのかな……」

「長壁姫さまと小春が仲良くなったら、仲間外れにされないの。そうすれば、孤月様と長壁姫さまが仲良くするのは気にならない?」


 孤月にも、長壁姫に文を書いてみるよう言われたが、気が乗らなかった。輪には入れたとしても、長壁姫からの文を皆で読みたいとは思わない。


「……気になる」


 タマ子の望んでいた答えだったらしく、満足気に頷いた。


「でしょう? そういうことなの」

「どういうこと?」

「内緒」

「変なタマ子」

「変な小春」


 じっと小春を見詰め――おかしそうに笑った。


「明日、遊びに行こう。お寺に」


 最近、屋敷に篭りっぱなしだった。それもまた悪いのかもしれない。手の甲で、頬を伝う涙を拭い、頷いた。

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