弐
「人喰い鬼の棲む山」
どきりとする。
「そんな……」
そんな筈はないと否定しながら、どこかで考えてしまうのだ。もしかしたら、と。何より、思い出してしまった。和尚の言っていたことを。以前の孤月は、動物の肉を食べていた、と。
「孤月さんは、その人喰い鬼だろう?」
「違う、孤月は――」
人間を食べたりはしない。
「孤月さんの他に、鬼が居るのか。小春さんは知っている? 知っているなら、退治しないと。食われてしまうよ」
人喰い――鬼。小春が知る、この山に棲む鬼は孤月だけだ。静磨がここに来てすぐの時に、人間を食べるかという話が出たが、あれは冗談だった。そう。冗談だ。
なるほど、そんな噂があるから、静磨は孤月に食べられると思ったのだろう。自分よりも年上の男が、そんな噂を信じているとは微笑ましい。
「だから、孤月に食べるつもりか、なんて言ったのね」
忍び笑いをしながら言うと、静磨は不愉快そうに眉を寄せた。
「可笑しい?」
冷ややかな声に、はっとする。本人を前にして笑うなど失礼千万だ。慌てて口を押さえて俯く。
「ごめんなさい」
「僕だって、何の根拠もなしに信じている訳じゃあないよ」
引っかかる言い方をする。信じるのは根拠があってのことだと、そう言うのか。これ以上、この話を続けたくはなかった。
「ゆっくり考えるから。私、用事が――」
立ち上がりかけたが、静磨に腕を掴まれる。それはとても強い力だった。振り払うこともできない。いや、それとも。聞きたいと思う気持ちが奥底にあり、腕を掴まれたことを都合のいい理由にしただけだったのか。自分の意志ではなく、無理矢理残らされたのだと。
「どうして逃げるの」
「逃げてなんかいないわ」
「孤月さんのことじゃないと思うなら、最後まで聞いて欲しい」
まるで、ここで立ち去れば孤月を疑うも同じであるかのように言う。
「孤月の筈がないでしょ」
孤月が人喰い鬼であってたまるか。こうなれば、逃げも隠れもしない。しっかりと腰を下ろす。静磨は満足し、話し始めた。
「根拠があるって言ったろう」
黙って頷く。静磨の言う根拠が信じるに値するものなのか。
「姉が、食われたんだよ。この山の鬼に」
言葉を切り、ちらりと様子を覗き見るように小春に視線が向けられる。ここで動揺してしまってはいけない。ぐっと口を引き結び、話の続きを待つ。
いや、動揺などする筈もない。小春の知る鬼ならば、決してそんなことはしない。人間を食べるような残虐な鬼は、知らない。
「姉は隣の村に嫁ぐことになっていたんだ。元々、望んでいた縁談ではなかったけれどね。相手は村の名主で、後添えに、ということだった。悪い話ではなかったよ」
細められた目に映るのは、記憶の中の姉の姿だろうか。ひどく優しく、そして哀しい目だった。
「白無垢も用意ができた。輿入れが明日に迫った夜のこと。笛の音を聞いたんだ」
孤月も、笛を吹く。共通点に、嫌な予感がした。
「僕も、布団の中でそれを聴いた。きっと、山の神さまが姉の輿入れを祝っているんだと……そう思った」
夜の静寂に響く笛の音。それは容易に想像できる。孤月が笛を吹く姿を思い出せば良いのだから。描いて、しかしすぐさま打ち消した。それでは孤月が人喰い鬼だと認めたことになりはしまいか。
「だけど、祝ってなんかいなかった。姉を、山に誘う笛の音だったんだよ。姉は、その夜、居なくなってしまった。翌日、袖を通す筈だった白無垢を抱えて。消えてしまった」
「消えて……? どこに」
「簡単だよ。――鬼に、拐かされてしまった」
「そんな……簡単に結び付けるのはおかしいわ。ただ笛の音が聞こえただけで。も……もしかしたら、ほら。増えはお姉さんと恋仲の人が居て」
我ながら良い仮説だと思った。しかし、全てを言う前に静磨は強い語勢で言い返す。
「縁談が纏まっていたのに? 姉さんはそんな人じゃない。……姉は、この山に連れて来られたんだ」
静磨はまだ何か告げていないことがあるのだ。姉がこの山に入った確証を握っている。それをまだ明かさないのは、小春が想像するのを待っているからだ。想像させ、それを否定するために。
「輿入れしたくなくて……逃げたのかも。そして、そこで、幸せに――」
幸せになったのではないか。そう続けたかったが、声が出なかった。ふと顔を上げ、静磨と目がかちあい、竦んでしまったのだ。
「逃げた先で食われても幸せだった、と?」
すぐに理解できなかった。確かに静磨の言葉は聞こえた。ただ、それを噛み砕いて理解するまでができなかったのだ。呆けたまま、何の反応もしない小春に念を押すように、確認するように、静磨は同じことを言う。
「食われて、死んでしまっても幸せだった、と言うの?」
「そんな……ちが……」
「違わなくない。そういう意味だろう?」
「でも、食べられたなんて……推測で」
「推測なんかじゃない。僕が、見付けたんだ。汚れた白無垢を。そこいらに脱ぎ捨てられ、木の枝に引っかかっていた」
「それは、お姉さんじゃあ……」
「姉のものじゃなかった、と? 捨てられていたのが、母の縫った白無垢だったのに?」
母が縫ったという血まみれの白無垢。それは幸せよりも不幸を連想させる。血を沢山流してしまったのなら、生きているのかも怪しい。いや、小春は知っている。この山に小春以外の人間が居ないことを。静磨の姉の姿など、一度として見たことはない。
「だったら。山を抜けて逃げる途中で捨てたのよ」
静磨は、どうしても孤月を犯人にしたいだけだ。だから悪い方へ悪い方へと考えてしまうのだ。確かに、姉が行方知れずになってしまったのは不幸だが、何もその先まで悲劇的なものにすることはない。
小春の気持ちが伝わったのだろう、静磨は朗笑する。
「そうか。そうだね。ごめん、小春さん」
「そうでしょう? 何も、悪い結果しかない訳じゃないと思うの」
「いや――言い忘れていたね」
「何……を……?」
それはきっと、計算だったと、そう思うのは静磨に対して失礼だろうか。計算せずに話を運んだのならば、静磨には生まれついての人を絶望に陥れる才がある。
「姉を捜しに山へ入った時に、見たんだ。鬼と一緒に居る姉を」
何だ。何よりも決定的な場面を見たのではないか。みるみる力が抜ける。
「幸せそうにしていた。笑っていたから、良かったんだと思うことにした。それでも、時々山に入っては姉の姿を探したよ。――ただ、ある日突然、姉の姿が消えてしまった」
「その……鬼、は……孤月、だったの?」
自分のものとは思えない、弱々しい声だった。そんな程度しか出せない。孤月を信じなければと思うのだが。
「どうだろう。ただ、とても美しい鬼だったよ」
姉と一緒だったのが弧月かどうか、静磨は分かっている。分かっていて、全てを言わないのだ。小春自身に確認させるつもりで。
「最初に、どうして山に来たか、訊いたろう」
そうだ。タマ子が眼鏡を取りに行っている時に尋ねた。その時、静磨は大切なものを探しに来たと言った。
「姉を探している。骨の欠片だって構わない。せめて……しっかり弔ってやりたいんだ」
静磨の手に力が篭る。指先が腕に食い込む。
「あやかしに……鬼に、情なんてないんだ。分かるだろう?」
「だけど、孤月は私を」
拾ってくれた。育ててくれた。大切にしてくれた。だから情があるという証明にはならないだろうか。小春自身が。
「それは情じゃない。汚い、欲だ」
「私に、どんな欲を持つの」
「食欲……もしくは、性欲かもしれない」
「……やめて」
「ちゃんと思い出してみて。いつも、小春さんはどんな目で見られている?」
「やめて!」
孤月を、欲に塗れた汚いもののように言わないで欲しい。
「孤月の何を知っているの? 何も知らないじゃない」
「知らないのは君の方だ。自分には都合の悪いものから目を逸らして、事実を受け入れようともしない」
「私は――……」
逃げているのか。流し込まれるものが多すぎて、器に収まらない。小春の中から溢れて、収拾が付かなくなる。
「僕は、君まで死なせたくない」
「大袈裟よ」
「大袈裟なんかじゃない。好きな相手を、大切に思うのは当然のことだ。僕は――君が、好きだから」
これ以上、無理に注がないで欲しい。掴まれた手を振り払い、逃げるように静磨の部屋を後にした。静磨は、孤月のことを知らないからあんなことを言うのだ。小春の知る孤月は、一見冷たいが、実際は気遣ってくれる。大切にしてくれる。向けられる瞳には、何の欲もない。
自分はちゃんと分かっているのだと言い聞かせる。孤月が心の優しい鬼であること。小春自身の気持ち。何を考えているか。そうだ、ちゃんと理解している。だから――疑うな。
いや、こうして繰り返すことは疑っていると同意なのだろうか。他人の身体を間借りしているように思えてくる。一番理解している筈の自分のことが、一番分からなかった。