壱
一緒に出かけて以来、静磨とタマ子の距離は確実に縮まっていた。暇を見つけては、静磨の様子を覗きに行っているらしい。関係は目に見えて良い方向に転がっている――その筈なのに、小春の気持ちは晴れなかった。
原因は、小春と孤月の関係だ。気にしすぎなのかもしれないが、孤月が少し、距離を置くようになった。例えば、小春が静磨と二人きりになっても文句を言わなくなったし、静磨が小春に触れても怒らない。些細なことなのだ。気のせいだと流してしまえる程度のもの。慣れてしまったから、というような理由で片付けられてしまいそうな。
しかし、どうしてもそれで片付けられなかったのは、静磨に抱き締められている所を見られてしまったからだ。
孤月が団子を作ってくれた。しかも、静磨と食べてこいと言って。作りたての団子を皿に乗せ、対屋を訪れた。
「孤月がお団子を作ってくれたの。頂きませんか?」
「美味しそうだ。天気も良いし、そっちで食べよう」
静磨の怪我も順調に快方へ向かっていた。杖を頼りに茵から出て、日当たりの良い廂へ並んで腰掛ける。団子は変わらず美味しい。好きなものを食べているのに、気分は沈んだままだった。無意識に溜息が漏れる。
「小春さん? 元気がないね」
何度目かの溜息をついた後だった。静磨が隣から顔を覗き込むようにして表情を伺う。変に心配させてはいけないと、平静を装った。
「ううん。何でもないの」
「嘘ばっかり。どうせ孤月さんのことだろう?」
いきなり図星を突かれ、手にしていた団子を落としそうになる。慌てて両手を差し出し、宙を舞う団子を受け取り、事なきを得た。
「分かりやすいな、小春さんは。見ていて飽きない」
「……どうして、分かったの?」
一言も言っていないのに、なぜ分かるのか。あんな態度を取ってしまっては、悩みはないなど言えない。今後の参考のために尋ねる。
「そんなの、簡単だよ。さっきから、何度も溜息をついていた。だから何か悩みがあるのは確実だ。そんな時、小春さんは必ず孤月さんに相談をする。だけど、今抱えている悩みは孤月さんには相談できない。つまり、その悩みには孤月さんが関わっている――と」
論理立てての説明は、指摘する間違いもない程に完璧だ。
「凄い。大当たりだわ」
「お褒めに預かり光栄です」
茶化した後、静磨と顔を見合わせて笑った。
「僕で良ければ話してみて。少しは楽になるかもしれない」
どうするか。言うか言うまいか、口を噤んで考えたが、もう独りで抱え込むのは限界だ。怖ず怖ずと切り出す。
「孤月に、避けられているみたいなの」
最初を吐き出してしまうと、後は楽だった。
抱え込んでいた、澱のようにどろりとしたものが勝手に出てくる。最近の孤月の態度、言葉の端に感じる距離、一つ一つを思い出してみても、気にすることもないようなものだ。
ひと通り話した後、少しの沈黙があった。
「小春さん、いろは歌って知っている?」
「いろは歌?」
「色は匂へど 散りぬるを 我が世誰そ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず」
静磨が紡ぐのは、美しい言葉で織り上げられた歌だ。
「この世に、変わらないものはない、という歌だよ。長い年月か、短い年月かはそれぞれだけど、この世のものはあまねく変化をするんだ。不変のものは、ないんだよ」
そうなのか。山の中の時はゆっくりと流れる。流れているか、いないのかも分からない程に。だから、全ては不変のものだと思っていた。
孤月の気持ちだってそうだ。いつまでも小春を一番に考えてくれる、それが普通だと思っていたが。
「孤月さんにも、何か変わる切欠があったんじゃないかな」
考えて、思い当たる切欠と言えば、寺での件くらいだ。あの日を境に何かが少し、変わってしまった。静磨に抱き締められた小春は、どうでも良くなってしまったのだろうか。考えれば考える程、悪い方向に転がってしまう。しかも、答えは藪の中だから、深みに入り込んでしまうだけだ。これ以上、悩むのは止めてしまうが吉だろう。
「ありがとう。静磨さんは物知りね」
「僕くらいの人間、たくさん居るよ」
ふうん、と相槌を打ったが、たくさんと一口に言っても、果たしてどの位なのだろう。
「たくさん……というと、十人? 二十人?」
小春にとってのたくさんは、静磨に笑われてしまった。
「まさか。もっと多いよ」
「本当? 山の下には、そんなにたくさん住んでいるの?」
「それはもう、たくさん。ここは、大日本帝国という国だけれど、周りには清国や、ロシア帝国もある」
熱っぽく語られても、小春は軽く頷く程度だ。国と言われてもよく分からない。言葉だけでは充分に伝えられないのだろう。静磨は立ち上がり、文机へと向かう。小春もその後を追った。
静磨は筆を手にし、紙に何やら絵を描き始めた。ひょろひょろとした細長い何かだ。
「それは、何?」
「日本だよ。この国は、こんな形をしているんだ」
国の形と言われても、やはりぴんとこない。小春の知る世界の全てはこの山だ。細長く、反った形の絵を見せられても、他人ごとのようにしか思えない。
「この中に、この山があるの?」
「そう。この山も日本だからね」
「だったら……ここ? ここが、この山?」
紙の上に描かれた帝国の、一番大きな細長い場所を指さす。この広い山だから、きっとこの絵の中でも一番大きな場所にある筈だ。
「まあ、間違ってはいないけれど。ここ――……この辺りが、この山だ」
説明しながら、細長い場所の真ん中辺りに、小さな丸を打った。この山とは言ったが、それは小春が知るよりも、はるかに小さなものだ。その小さな丸が何を示すのか――この山とは思えなかったから、首を捻る。
「この丸はお屋敷?」
山の話をしているのに、丸はやたらと小さい。首を傾げて問うと、静磨は笑った。
「違うよ。この山だ」
「こんなに広いのに。こんなに小さいの?」
「日本が広いんだよ。日本だけじゃない。海を渡れば、もっともっと大きな国がある」
「うみ……?」
「もの凄く広い、水溜りのようなものだ。ただ、水は塩水だけれど」
「塩水の……水溜り」
「塩辛い水がたまっているんだ」
そんなことにまでわざわざ説明を付ける。親切ではなく、からかっているのだ。頬を膨らませる。
「塩水くらい、分かるわ」
「ごめんごめん」
さらさら悪いと思っていなさそうな謝罪だ。静磨がふざけているのは分かる。だから小春も、ふざけてそっぽを向いた。不機嫌な態度を取られ、困ったな、と溜息混じりに聞こえる。口先だけで、少しも困った様子は伝わって来なかったが。そんな小芝居は、ちらりと目を合わせた所で終わる。自然と、笑っていた。
静磨の語る話は、小春が今までに聞いたことのないものばかりだった。
「でも。そんなに広いのなら、移動するのも大変ね」
「そう思うだろう? 街から街まで、汽車が走っているんだ」
「キシャ?」
「そう。固い鉄でできた乗り物なんだ」
「へぇー……」
「遠い街と街を繋ぐんだ。歩けば一日かかる距離を、一刻もせずに行き来できる」
小春には全く想像もつかない。
「いつか、静磨さんもその世界に帰るのね」
こうして話ができるのも、怪我が治るまでなのだ。静磨が山を下りてしまえば、まだ以前の生活に戻る。孤月と、タマ子との三人での生活。それは少し、ほんの少しだが、寂しく思えた。
「寂しい?」
「そりゃあ……寂しいわ」
静磨は嬉しそうに笑った。
「さっきも話したじゃないか。変わらないものはないんだよ」
「そうね。それは……そう思うわ」
「孤月さんだけじゃない。小春さんだって。いつまでも、今のままじゃないんだ」
「どういう意味?」
その、ぼんやりとした言葉の裏には一体どんな意味が込められているのだろう。外見が、というだけではあるまい。真意を問うと、一呼吸の間があった。じっと向けられる視線は、今まで見た中で一番真剣なものだ。
「僕と、山を下りよう」
「また、その話?」
下りないと言ったではないか。軽く流そうとするが、それは許されなかった。
「冗談なんかで片付けないで欲しいんだ」
退路を断つためにか、肩を掴まれる。
「僕は本気で言っているんだよ。ねえ、小春さん。君はいつまで、今のままで居るつもり?」
全く知らない場所に飛び込む勇気はない。何より、小春が居なくなれば孤月は寂しくなるのではないか。そう思うと、山から下りようとは思えないのだ。
「だけど、孤月が」
孤月を残しては行けない。口をついて出たその名に、呆れたような声が返る」
「孤月さんたちは、人間じゃないんだよ。分かっていないの?」
「分かっているわ。角が生えているじゃない」
人差し指を立て、額に当て、おどけてみせた。孤月の真似で少しなりとも和めばと思ったが、期待は外れた。
「そうじゃないよ。見た目だけじゃない。考え方だって違う」
違うのだろうか。小春が知る人間は静磨だけだ。外見こそ違うが、二人は似ている――と思う。どちらがどちらに似ているというのではなく、生き物というものは総じて似通った所があるのではないだろうか。人間や鬼、あやかしなど関係なく。
小春が黙ったままであったから、静磨は構わず続ける。
「この山は、何て言われているか知っている?」
黙って首を振る。一度も山を下りたことのない小春が知る筈もない。