四
膳を下げに対屋を覗く。孤月が作ったと聞いた時の反応から、ちゃんと食べてもらえるのか心配だったが、器の中は綺麗に空になっていた。
「美味しかったですか?」
頷いてくれるのを期待して上機嫌で問うと、曖昧な返事しか返ってこなかった。
「ああ……はい」
その、何とも言えぬ反応に、食べ終わっていたら膳を下げて対屋を出ようと思っていたのだが、去り辛くなってしまった。
少し話をしようと思ったが、適当な話題が分からない。いや、聞きたい話はあるのだ。静磨の知っている、山の下の暮らし。人間たちのこと。ただ、それは今ここで聞くのは違うように思えた。静磨のことを考えず、小春の好奇心を満たすだけの話だから。
結局、怪我のことを尋ねる。
「少しは痛み、引きました?」
静磨は居心地が悪そうにした。まだ痛みが引かないのかと思ったが、どうも違うらしい。
「いや……その、あまり畏まらないでください」
ひどく申し訳なさそうに言うのだ。
「でも……静磨さんは、おいくつなんですか?」
「数えで、二十四です」
「だったら、やっぱり敬わないと。私は十七ですから」
指折り、歳の差を数える。七つも違うのだ。ならば、砕けて接する訳にもいかない。
「それでも、もう少し砕けて接して欲しいんです」
「そうなんですか?」
「そうなんです」
「でも」
「できれば、もっと親しくなりたいんです」
「ほう。では、気兼ねなくそうさせてもらうぞ、静磨」
全く気付かなかった。いつの間にか孤月の姿がある。
小春の背後から現れた孤月は、冷ややかな微笑みを浮かべている。先程の、小春に向けていたものと比べると、別人のようだった。静磨は真っ青になり身を引く。
タマ子も、孤月の影に隠れて様子を見ている。
「どうしたの?」
「こいつの脚の様子を診に来た」
言うなり、孤月はどっかりと腰を下ろした。静磨は何をされるのかと怯えていたが当の孤月はそんなことなど気にもとめない。手際良く、静磨の脚に巻かれた布を解き、患部を確認する。異常はないと判断したのか、新しい布を巻き直した。
嘘ではなく本当に手当をする様子に、静磨は驚いているようだった。
不意に、静磨が口を開いた。
「孤月さん、料理がお上手なんですね」
「まあ、長く生きているからな」
「誰から教わったのですか?」
「忘れた」
冷たい、突き放すような声だった。それ以上の詮索を拒むかのような。そう感じたのは小春だけだろうか。会話を一方的に打ち切られたのに、静磨はめげずに再び話し掛ける。
「昨日から、訊ねたいことがありました」
「何だ?」
「なぜ、手当をしたんですか」
問いかけの意図が理解できない小春とは対照的に、孤月は何かを察したらしい。口許に皮肉めいた笑みを浮べる。
「小春に訊いてみろ」
「え? わ、私?」
いきなり話を振られ、小春は慌てふためく。孤月を目で非難してみても、面白がってにやにやと笑うだけだ。
「いえ、その……私のせいで怪我をさせてしまいまったので」
「だ、そうだ」
小春の言葉を引き継ぎ、それを回答とする。しかし、静磨が納得できるものではなかったようだ。眉間に皺が寄る。
「それは、小春さんの理由です。あなたの理由にはなりません」
これ以上の相手は面倒臭いというように、あからさまなため息をついた。
「小春に頼まれたから手当をした。頼まれなければ、お前の手当なんざするものか」
明らかに棘の含まれる物言いだ。小春とタマ子ははらはらしながら成り行きを見守る。静磨が怯えてしまうのでは、と案じたがそれは杞憂だった。静磨は全く屈さず、口の端を歪めて笑う。
「何だ、ちゃんとした理由があるじゃないですか」
「わざわざ言う程のものでもあるまい」
「小春さんに頼まれなければ、手当せずに食べるつもりだったんでしょう」
孤月は黙ったまま何も答えない。
「結局は殺すんだ。だったら怪我をしていようとしていまいと、問題はありませんからね」
それまでの、静磨の穏やかな雰囲気とは違う。それにばかり気が向いていたが、ふと気付く。静磨は今、何と言っただろうか。食べる、と言わなかったか。
誰が――孤月が? 静磨を?
一気に物音が消える。風が吹き、さわさわと木々を揺らす音も遠くなる。
「ま、まさか。いくら孤月だって人間を食べるなんて……」
そんな馬鹿げたことがある筈もない。しかし、笑い飛ばそうとしたのは小春だけだった。孤月も、静磨も、タマ子すら、くすりとも笑わない。
「安心しろ。いくらおれでも、男の肉は食わんさ」
皮肉っぽく言い残し、立ち上がる。そのまま踵を返し、対屋を去った。いくら何でも、冗談が過ぎる。化物と指をさされてあれだけ不機嫌になっていたのに、火に油を注ぐようなことを言うなど。
「ちょっと、孤月」
呼び止めるのも聞かなかった。
孤月が立ち去った後の対屋は重苦しい沈黙が続いた。誰も口を開かなかった。いや、開けなかったのか。静磨は、孤月の去った後もじっと廂を睨んでいたし、タマ子は顔を伏せて考え込んでいた。ちらりと盗み見た表情に、驚きはなかった。孤月が人を食べると聞いても。知っていたのだろうか。いや――まさか。それとも、簡単に想像の付くことだったのか。そんな筈はない。静磨の発言に乗っただけの、質の悪い冗談だ。
場の空気を変えることができるのは、小春だけだ。思い切り明るい声で笑い話にする。
「こ……孤月、冗談が下手でしょう」
笑って誤魔化してみるが、静磨もタマ子も、聞いているのかいないのか、全く反応を見せない。ただ、小春の場違いな声だけが虚しく響く。情けなくなって溜息をつく。少し間を置いて、ようやく静磨が口を開いた。
「どうして、冗談だと思ったんですか?」
「え? いや……その、だって、どう考えても……」
人を食べるなど、冗談としか思えないではないか。
「孤月さんは、鬼でしょう」
「そう……ですが」
だから何だと言うのか。不審がる態度に呆れたのか、静磨は深い溜息をついた。
「鬼が何を食べるか、全く知らないんですね」
一緒に暮らしているのに、と遠回しに言われているような気がした。だから、むきになったのだ。孤月のことはしっかり分かっていると証明したかった。
「動物の肉を食べます」
肉を食べていたと、和尚は言っていた。そう聞くやいなや、静磨は我が意を得たりとばかりに手を打つ。
「何だ。知っているんじゃないですか。動物の……人間の肉を食べるんですよ」
突拍子もない発言に、思わず笑ってしまった。動物と言ったのに、それがなぜ人間になってしまうのか。
「孤月は、そんな……食べたりしないわ」
「それは小春さんが知らないだけです。鬼という生き物は、野蛮なんですよ」
否定が必死になってしまう。我慢できなくなったのは、タマ子だ。黙って聞いていたが、とうとう限界に達したらしい。
「それ以上、孤月さまのことを馬鹿にしないで」
「事実を言っているだけです。馬鹿にはしていませんよ」
「しているの。人間だって魚を食べるわ。それと同じなのよ!」
「そういう考えが野蛮なんです。鬼だから人間を食べて良いなんて理屈は無茶苦茶でしょう?」
「野蛮って……。自分たち以外の生き物を見下す人間の方が野蛮なのよ!」
そう大声で怒鳴ると、小春の手を引き回れ右をする。
「小春、もう行くの」
「ちょっと、タマ子……」
幼い外見でも、タマ子の力は強い。小春は、引き摺られながら、対屋から連れ出された。
「タマ子ったら」
昨日から、引き摺られてばかりだ。場違いにそんなことを思う。
「あの人、嫌い」
頬を膨らませ、嫌悪を露わにする。このままでは、タマ子も静磨と険悪になってしまう。距離を縮めたい小春の願いとは裏腹に、亀裂は深まるばかりだ。懸命に取り成す。
「お互い、分かり合っていないだけよ」
「分かり合いたくもないわ」
「そうやって分かり合う努力をしないから、今みたいなことになるんじゃない」
ぱっと、タマ子の手が離れる。転びそうになるのを、必死に踏みとどまった。急に離すなと文句を言ってやろうと思ったが――出て来なかった。タマ子の、小春を見る瞳からは憎しみの感情が溢れていたのだ。
「小春は、あの人の味方をするの?」
思いつめた声が問う。静磨の味方をしているように映ったのだろうか。小春自身ではどちらの肩も持たず仲裁したつもりだったが。
「味方って……そんな言い方しないで」
「だって。孤月さまに失礼なことを言ったのよ?」
確かに、静磨は孤月を――鬼を野蛮だと言った。それは充分、失礼なことだ。しかし互いに互いの非礼を指摘し続けてはきりがない。
「それは、孤月だって言ったじゃない」
出て行けだの、小春が頼まなければ手当をしないだの。静磨に接する態度は褒められたものではない。一方の味方をするのではない。そういうつもりで言ったのだが、タマ子には小春の意図が伝わらなかったようだ。左右、色の違う瞳が獣のように冷たく光る。
「やっぱり、小春は人間の味方なのね」
今までに聞いたことのない、冷たい声だった。ぞくりと、肌が粟立つ。むき出しにされた敵意が怖い。思わず、一歩後退った。
「味方、とか……そういうことじゃなくて」
「だったら、どういうことなの?」
「それは……」
弁解しようとしたが、どう表現しても情けない言い訳にしかならなそうで言い淀む。
「タマ子も、あの人を置いておくのは反対なの」
つんとそっぽを向いて対屋に消えた。その背に、小春は何も言えなかった。引き止めることも、謝罪することも。
何が悪かったのだろうか。つい先日までは仲良く暮らしていたのに。静磨を助けなければ良かったのか。それとも――そもそも、小春が居なければ良かったのだろうか。人間の小春が居なければ。もし万が一、孤月が人間を食べるのだとしても気遣う相手は居ない。
家族だと思っていたのは小春だけだったのだろうか。表面上はうまく行っていても、人間だのあやかしだのという話が出てくると、この関係は脆く崩れ去ってしまうのか。
静磨の対屋には戻れず、かといって二人が居るかもしれない寝殿を通って東の対屋にも行けず、行く宛てのない小春は、渡殿に座り込んでぼんやりと庭を眺めていた。
山を下りた方が良いのだろうか。一人で考えていると、悪い方向にばかり進む。
孤月はどう思っているのだろう。あの時、そうか、という一言だけで良いとも悪いとも言われなかった。勝手に、山から下りてほしくないのだと解釈したが、それは小春の思いこみではないのか。
見上げた花曇りの空に、大きな鳥――らしきものが飛ぶ姿があった。
それは徐々に大きくなり、こちらに向かっているようだ。それは緩やかに滑空し、寝殿に飛び込んだ。
見間違いでなければ、胴体にふわふわとした毛が生えた妙な鳥だった。しかし、羽は生えていない。翼にも、だ。
孤月やタマ子は無事かと、そろりと寝殿を覗く。