序章
寺は、荒れ果てていた。壁は破れ、柱には蔦が絡み付いている。そんな様子であるから、寺と呼ぶのも憚られる。完全に廃屋だ。つい先ごろまでは坊主が住み、人々が拝みに参っていたというのが、嘘のようだ。人々の信仰の拠り所が、今では植物の楽園だ。人間というものは、上に言われたからといって簡単に信仰を捨ててしまえるものらしい。昨日まで善が、一晩で悪になってしまう。
その廃寺の前に、男の姿があった。絵巻物から抜けだしてきたかのような男である。深い青の狩衣に、浅沓。そこだけを見れば、平安の世の公達のようだが、頭に位を示す烏帽子はなく、代わりに日除けのための薄い絹の小袖を被っている。
黒い艶やかな髪は肘の辺りまで伸ばし、冠下などには結わず、ゆったりと一つに纏めている。容貌もまた、絵巻物に出てくるように美しい。透けるような白磁の肌。鼻筋が通っており、唇はやや薄い。切れ長の双眸の瞳は赤く、瞳孔は獣のように縦に長い。
そして、何より目を引くのは、額である。そこには二寸程の長さの角が二本、生えていた。
彼は、寺の総門を見上げて口許に嘲りの笑みを浮かべた。何が信心だ。何が仏道だ。風向きで考えをころりと変えてしまうなど、実にくだらない。
静けさを掻き消すように、鐘が鳴った。この廃寺を根城にした者が叩いているのであろう。彼は、小袖の裾を翻し、その鐘の音の源へ向かった。
「御坊。精が出るな」
労うよりも、からかう色合いが強かった。鐘を突いていた者は鐘突き堂から身を乗り出し、彼を見付けて笑った。土色の肌をした坊主である。剃り残したのか、単なる不精か、頭や口許には斑に毛が生え残っている。笑った口許から覗く乱杭歯は黄色くなり、纏う黒衣はぼろぼろに破れていた。
それだけならば、怖ろしく思う者もいるだろう。しかし、垂れた目尻が人懐こい雰囲気を作っていた。それだけで、薄気味悪い雰囲気は消えてしまう。妙な坊主であった。
「おお、旦那じゃあないですか。今日はお一人ですが」
「ああ。妙か」
「妙でしょうよ。女連れでないとは旦那らしくもない」
坊主の揶揄に、彼は不愉快そうに眉尻を上げる。
「もう、飽きたのだ」
彼の声音は不機嫌そのものだ。坊主も心得たもので、女の話を打ち切る。
「おれのことよりも、和尚。いつの間に信心深くなったのだ。昼間から鐘を突くなど。とうとう耄碌して、仏に救いを求めるようになったか」
「相変わらず口の悪い。信心も何も。やることがないんで」
「そういうものか」
暇を持て余しているのは、彼とて同じだ。だからといって、鐘を突いたり念仏を上げたりという気は起きない。寺に棲んでいたとしても、僧侶の真似事はすまい。口先では納得したようなことを言ったが、坊主にはやはり爪の先程度でも信心があるのではないか――彼はそう睨んでいる。
「そうでさあ。あれだけ賑わっていた寺にも、人っ子ひとり来やしねえ」
これでは脅しようにも脅せない、と項垂れる。
「お陰で、誰にも文句を言われぬ、そなたのねぐらが手に入ったではないか」
坊主は呵々と大笑する。尤もだ、と頷いた。
「人間とは、阿呆なのだな。上に言われれば簡単に従う」
「それが、楽なんでしょうかねえ」
楽なのか、なるほど、と彼は納得する。馬鹿だ愚かだと思っていた人間も、考えて楽な道を選んでいたのか。しかし、その先の先に何があるかを考えないというのは――やはり愚かなのだ。
「その、楽をするせいで姫路の姫御前も大変な目に遭ったらしい」
話題に上った姫は、彼らの共通の知人であるらしく、名は出ずとも坊主はすぐに察したようだ。
「姫御前が。またどうして」
「何でも、城を壊されるところであったとか」
先ごろ、件の姫からの文で知ったことを伝える。それは、坊主にとっての許せる範疇を超えていたようだ。土色の顔がどす黒く変わる。
「長く、どなたが城を守ってやったと思うておるのか!」
「守った、というよりも姫御前があの城を気に入って棲み着いておるのだろう」
彼が茶化しても、坊主の耳には届かない。
「人間が悪いのです。姫は常にあの城を守っておられる」
あまりの坊主の怒りように、彼は可笑しそうに笑った。
「まあ御坊、そう怒るな。あの姫御前のこと、あまり度を越せば罰でも与えるだろう」
彼の知る姫は、人間の好き放題にさせてばかりではない。気分屋で好き嫌いが激しい姫のこと、気に入らぬことが続けば、いずれ人間も痛い目を見る。坊主は、激高したことを恥じたのだろう、黙って顔を伏せた。
「ところで御坊。何か聞こえぬか」
「何か、とは」
先程から彼には耳障りな泣き声が気になっていた。身近なことであるから、遠い地の姫よりも泣き声の方が気になる。
「何か。泣いている」
いつかの――記憶の果てに眠る女も、同じように泣いていた。あの女の声と今聞こえる泣き声は別物だというのに。重なって聞こえるのはなぜだろうか。涙を零し、助けを求めた、あの女と。
「聞こえますかねえ?」
坊主の声で、はっとする。手繰り寄せていた追憶の糸は反射的に手を離れ、女は深い記憶の底に沈んでしまった。
「聞こえるだろう」
泣き声の源を求め、歩き出す。坊主も興味があったのか、鐘突き堂から下りてきて、彼の後を付いてくる。
「御坊は、気付かなかったのか?」
この寺に棲んでいるのは、彼ではなく坊主の筈だ。それなのに、なぜ気付かぬのか。少し非難する口調で言ったが、坊主は少しも応えておらず、平然としている。
「旦那は耳が良すぎる。今になってようやっと聞こえるくらいです」
「鈍いのだな」
「旦那の神経が細かすぎるんでさあ」
「よく気が付く、と言ってもらおうか」
「それはそれは。都合の良い言葉をよくご存知で」
そんな他愛のない会話を交わしながら、辿り着いたのは本堂だった。その、薄暗い中に鎮座する仏像の前に、白い布に包まれた何かがある。近付いて覗き込んでみると、まだまだ幼い嬰児が包まれていた。白いふくふくとした頬は、搗きたての餅のようだ。口を大きく開け、小さな身体には見合わぬ大声で泣く。
「ほう。旦那好みの柔らかそうな人の子ではありませんか」
坊主に抱え上げられた嬰児は、さらに泣き声を大きくする。本能で、身の危険を感じたのかもしれない。耳をつんざく泣き声に耐えかねて、彼は指で耳に栓をする。
「騒がしいな。御坊の顔がよほど怖ろしいとみえる」
「それは、旦那でしょうが。わしは人の子なんぞ食いません」
坊主は、試してみろとばかりに嬰児を差し出す。彼の腕に抱かれると、今まで火が付いたように泣いていたのが嘘のようにぴたりと泣き止んだ。まさか、と驚いて嬰児の顔を覗き込むと、彼と目があって嬉しそうに笑った。土砂降りの雨がやみ、一気に日がさしたようだ。
「おれは怖ろしくはないようだな」
「旦那は、見た目だけは良いですからねえ」
「負け惜しみにしか聞こえぬぞ」
嬰児は、彼の言葉を肯定するかのように笑う。これでは、坊主も負けを認めざるを得ない。
「今晩の食事ですか」
嬰児が食事とは、ひどく物騒なことを言うが、彼は顔色一つ変えなかった。おかしなことではない。
「いや……」
この嬰児を食べたいという欲は湧いてこなかった。柔らかな嬰児は、以前までは坊主の言う通り、彼の好物であった筈なのに。
しかし、どうすれば良いのだろう。今日は暖かだとはいえ、もうすぐ冬だ。このまま、ここに放っておいてもいずれ死んでしまう。
「明日にでも召し上がりますか。いつ捨てられたのかは分かりませんが、この小春日和ならば一日二日では凍え死にはしますまい」
小春日和、という柔らかな響きに、彼は納得したように頷く。
「小春……ああ、良い響きだ。それに決めた」
「は?」
呆けた情けない声がする。食べる話をしていたのを、唐突に脈絡のないことを言い出したのだ。坊主が驚くのも無理はない。
「近頃、暇を持て余していたからな」
「旦那、何をするのです」
「たまには遊んでみるのも、悪くはないだろう――なあ、小春」
そう言って笑った彼は、新しい玩具を手にした幼子のようだった。