過現
「っは、はぁ、はぁ」
「未来! 良かった、やっと、目を覚まして……。今先生呼んでくるから」
苦しい、息が荒い、ここは病院? なんだかすごく体が重い。でも、動かなくては。
「って……っあって、待ってー翔」
病室の扉を開けかけていた少年がこちらを振り向いた。
間違いなく、翔だった。
「未来、無理をしてはいけないよ。君は一ヶ月もの間眠っていたのだから」
一ヶ月……そうか、私が今まで見ていた光景は夢だったのか。
少しずつ、状況を理解し始める。けどどうして私はそんな事態になってしまったのか、まだ記憶が混雑していて、はっきりと思い出せない。
何か、何か強く思うことがあった気がするのに。
「ずっと、居てくれたの? 一ヶ月間」
「夜は追い出されたし、学校も行ったけどね。それ以外はずっとここに来てたよ。だって、未来が目覚めた時一人だったらさみしいだろう?」
そのあたたかい言葉に、私の涙腺はあっさり緩んだ。こうして翔と話すことがとても懐かしく感じてきて、さらに涙は溢れてきた。
「怖かったよな。一人で思い悩むのは、辛かったよな。力になれなくてごめん。でもこれからは、二人一緒に考えよう」
翔は横たわる私の手をとって優しく握りしめる。たくさんたくさん言いたい事はあるのに、息が詰まってうまく声が出せない。
「あり……がと」
ようやく絞り出せたのはその一言だけだった。
しばらくして、私が落ち着いたのを確認すると、翔はすぐ戻るからと言って部屋を出た。ほんの一、二分で翔は女性のお医者さんを連れて戻ってきた。翔の顔が見えるだけで、すごく安心する自分がいる。
「おはよう、未来さん。私があなたを担当している者よ」
「お世話になってます。何度か院内でお会いしましたよね」
「あら、覚えているのね」
医師の先生は意外そうな顔で私を見つめた。私自身、すらすらと言葉を発せられることに驚いている。まだ記憶は混濁しているはずなのに。まるで私とは別の意識が会話をしているようだ。
「でも、どうして自分が病室で眠っていたのかが、まだ分からないんです」
「なるほど、彼氏くんのお見舞いでこの病院に来ていたってとこまでは覚えてるのか」
そうだ、そうだ、そうだった。だからこの病院も、先生もなんとなく見覚えがあったんだ。
少しずつ、なにか見えて来た気がする。
「ま、そのうち思い出すでしょうし今はそんなに焦らなくても大丈夫よ。なにせ一ヶ月間も眠っていたのだから、記憶が曖昧になっていてもおかしくないわ。あ、彼氏くん。悪いけど今から彼女の診察するからいったん席外してもらえるかな。未来さんも、目覚めたばかりなのに騒々しくてごめんなさいね。本当ならじっくり話したいところだけど」
「大丈夫ですよ。眠っていた分の時間取り戻さないといけないんで、早く元気にならなきゃ、ですから」
「じゃあ俺は未来のご両親に連絡してくるから。先生、終わったら」
「分かってるわよ、休憩室まで呼びに行くわ。ほら、さっさと出たでた」
手でしっしという動作をして翔を追いやると、先生は私に向き直った。
「さみしい?」
「いえ、戻ってきてくれるって分かってるから、そんなにさみしくないです」
「そ、それは良かった。じゃあ失礼するわね」
先生はベッドの脇にあるリモコンを操作して背を起こすと、ごく普通な診察と幾つかの質問を私にして、大丈夫そうねとつぶやいた。
ものの五分もかかっていないんじゃないかと思うほど一瞬の出来事だった。
「あの、退院とかって」
「あー、やっぱり気になるわよね。安心して、そう長くはならないと思うわ。筋力の衰えとか、食事のこととかあるからしばらくはリハビリしつつの病院生活になると思うけど……あなたは奇跡的に重傷を負わなかったからね、普通に歩けて食事ができるようになれば問題ないわよ」
重傷って、なんの話だろう。私が一ヶ月も眠ることになった原因の事だろうか。すると、私は普通なら重傷を負うような危険な目にあっていた? いえ、自ら危険を侵した。
「ん、なにか言った?」
「へっ、あ、いや、何でもないです!」
「じゃあお待ちかねの彼を呼んでこようかしらね」
そう言って先生が腰を浮かせたその時、慌ただしく廊下を走る音が聞こえた。音は段々と大きくなり、私がいる病室の前でピタリと止まった。一拍おいてゆっくりと扉が開きだす。
「未来……」
優しく呼びかけながら部屋に入ってきたのは、紛れもなく私の両親だった。二人とも、肩で大きく息をしている。よく見ると二人の後ろには翔の姿もある。きっと翔から連絡を受けて急いで来てくれたのだろう。私、二人にたくさん迷惑をかけてしまったな。
「お父さん、お母さん。心配かけてごめんなさい」
そう言って頭を下げると、二人は慌てて私に駆け寄り、体を起こさせた。
「未来が無事ならそれで良いんだ。なぁ母さん」
「えぇ、本当に。やっと私たちの娘だと、堂々と言えるようになったんですもの。そんな素敵な日に、未来が目覚めてくれるなんて……神様が未来を祝福してるんだわ」
私の目の前で瞳を潤ませ、お母さんは何度もありがとうと繰り返した。部屋の隅では先生が、入口付近では翔が暖かい視線を送ってくれている。
ひとしきり喜びを口にした後、お父さんは真剣な表情で口を開いた。同時にお母さんは姿勢をただす。
「未来に辛い思いをさせてしまったこと、悔やんでも悔やみきれない。どうかこんなお父さんを許してくれ」
「私も、未来の気持ちに気づいてあげられなかった。心からあなたを愛すのが怖かったの。でももう迷わないわ」
あぁなんだ、私はこんなにも両親から愛されていたじゃないか。今頃になって気づくなんて、申し訳ないな。私も二人と同じ気持ちだよ。
「ありがとう、私も二人が大好きだよ。たとえ血がつながっていなくとも、私には二人が唯一無二の両親なんだ」
「……未来さん」
先生、もう大丈夫。私、全て思い出したよ。
そう、自分がなぜ飛び降りたのかも。
私と翔が出会ったのは、まだ中学の制服がぶかぶかだった頃。穏やかな時が流れる夕方の川辺だった。
つまらない。
私の胸中に在るのはいつもそれだけ。他には何もない。何にも、喜びも悲しみも楽しみ怒りも……愛もない。
いつも放課後に寄るこの川辺で、私はまた無駄な時間を過ごす。この日課が、無駄でなくなる日はくるのだろうか。
地面についた手を探る。拳より少し小さめの丸い石を見つけた。思い切り振りかぶって、投げる!
石は川に届かず、二段目の道で虚しく跳ねた。どう頑張っても届くはずない。だってここは、二段になった堤防の一番上なのだから。いくら急な傾斜で芝の坂ができているとはいえ、この高い堤防の下にある川には届くはずもない。分かっているのに、投げてしまう。もしかしたら、投げた石がそのまま消えてなくなってどこか別の世界に行くかも、なんてね。
「どわ!?」
突如謎の奇声が背中から聞こえた。間髪おかずに地面と何かが激しくぶつかり、タイヤが虚しくから回る音が響き渡る。
振り返ると男の子と目があった。慌てて視線をそらし、たまたま見た先にあった鞄を拾いに立ち上がる。
「大丈夫、ですか?」
なんとか下敷きにされた自転車から這い出すと、男の子は私の差し出した鞄を受け取ってにへっと笑った。
「いや、恥ずかしいとこ見られちゃったな。俺は翔って言います。君は?」
「未来です、はじめまして」
「未来さんね、よろしく。あ、そうだ、このこと学校のみんなには内緒にしといてね」
「え、学校?」
そう言われて男の子の格好をよく見てみると、同じ中学の男子生徒の制服だった。服のぶかぶか具合をみると同じ一年生だろう。
「はい、誰にも言いませんよ。言う人も特にいませんし」
「まるで自分には友達が一人もいないみたいな言い方をするんだな」
「ほとんどそんなものですから」
何と無く気まずい空気が流れた。しまった余計なことを言ってしまったと思ってももう遅い。きっと今後会うこともないのだからと、私は自分の鞄を掴んでそれではとだけ言い帰ろうとした。しかし、その腕を掴まれる。
「だったら、俺と友達になってくれないか」
「ど、どうして」
「えっと、何と無く……かな」
「あなたは何と無くで誰とでも友達になれるんですね。私は無理です」
手を振りほどこうと力をいれた瞬間、手は勝手に離れた。不思議に思ってちらりと様子を伺うと、今にも土下座しそうな勢いで手を合わせて頭を下げる男の子がいた。どうしたのと聞く前に男の子が口を開く。
「ごめんなさい本当のことを言います。実は俺少し前から君のこと知っててずっと気になってたんだけど話しかける勇気がなくてそれでやっと話すことができたからつい浮かれちゃってとにかくそういうわけで友達になりたいです」
かなり早口で放たれた台詞はかなり情けないものだった。でも、男の子の必死さはよく分かった。
男がプライドを投げ捨ててまで頭を下げているのに、無視してさっさと帰ることなんで私にはできなかった。
「あの、もう少しここにいようかな、なんて」
「本当! 俺も居ていいかな」
「いいんじゃないかな。公共の場所なんだし」
「よっしゃ! 俺、未来さんのこともっと知りたいな」
そうして私達は知り合い、毎日放課後この川辺に寄り、日が暮れるまで話し続けた。私が先に来て座っていると、そのうちに翔君が来て隣にそっと座る。その日学校であったことなんかを話しながらお互いのことを少しずつ知っていく。そう、一人きりだった私の放課後は二人きりへと変わったのだ。
その日は翔君と出会って初めての雨だった。流石に今日は居ないだろう、来ないだろうと思いながら騒々しい教室で一人帰り支度をしていると、普段滅多に声をかけてこないクラスメイトの男の子に呼ばれた。
「あの、翔が教室の外で待ってるんだけど……」
驚いた。と同時に、あまりにも目の前の人物が恐る恐る話しかけてくるので、何だか可笑しく思えた。だって、同い年の女子に対して話しかけてるんだよ? そんなに怯えなくてもいいでしょう。
私は自然と口元を緩めていたらしい。男の子は目を見張って一時停止したのち、にへらっと笑った。
「あ、じゃあそういうことで。また明日!」
早口でそう言うと、男の子は片手を上げてその場を立ち去った。変なの。挨拶なんて一度もしたことないのに。
「また明日」
聞こえるはずもないのにそう呟いおり再び驚いた。今度は先ほどのようなはっとする驚きではなく、ある種気づきのようなものだった。
自分の中で何かが変わり始めている、そう意識した瞬間だったかもしれない。
何にせよ、あまり人を待たせるものではない。もし彼が本当に来てくれたのなら、早く廊下へ出なくては。
「未来!」
扉を抜けた瞬間聞き覚えのある声に呼ばれた。声の主は教室から少し離れた場所で本を片手に佇んでいた。その本はこの間私が勧めたものだということにはすぐに気づいた。私の一番お気に入りの作品だ。
本は苦手ってだって言ってたのに。
私は駆け足でその人物のそばまで行く。
「ごめんなさい、翔君。来てるって知らなくて」
「いやいや、俺が勝手に来ただけだし。それより、無視して帰られたらどうしようってちょっと不安だったから良かった」
人が自分を待っていてくれているのに、どうして無視して帰るなんてことができるのだろうか。
「変なことを言うのね?」
「いやだって、迷惑だったらどうしようとか、学校で話しかけられたくないとか思われたらどうしようって気になるじゃないか」
「別にならないけど。普通はそうなの?」
「まぁ、多分? とにもかくにも、未来が嫌じゃないなら何でも良いんだよ。じゃあ行こ!」
「行くって……どこへ?」
見事なまでに三拍の間が空いたのち、翔君は崩れ落ちた。
「そうだった、雨だから勇気振り絞ってクラスまで来たのに」
「勇気振り絞ってくれたんだ」
「そりゃそうだろ! 女の子迎えに来るなんて人生初のたいけーー」
顔を上げて訴えかけてきたかと思うと、再び崩れ落ちる。
なんか、面白いかも。
「あぁ俺はなんてことを口走って」
何だかぐちぐちと反省の言葉を述べている翔君の肩に手を乗せてどんまい、と言ってみる。使い方はバッチリなはずだ。
しかし彼にとっては追い打ちだったらしく、声すら発さなくなった。
このままでいても仕方がない。折角迎えにきてくれたのだからなにか報いなくては。
「いつまでそこにいるの。早く行くよ」
私は手を離してくるりと背中を向ける。
「へぇ?」
「ほら早く」
「行くってどこへ」
私は少し溜めてから振り向いて答える。
「私の家」
「あぁ未来の家ねーって、え??!」
まさに目が点、というような顔をしている。そんなにおかしなことだろうか。
「嫌なら別に良いのよ、来なくても」
「行きます行きます! 是非行かせてください」
「そう? それは良かった。きっと母が喜ぶわ」
そう言うと翔君はなぜか安堵したような表情を見せた。
「なんだそっか、お母さんが居るのか。って、いきなり押し掛けて迷惑じゃないかな」
今度は心配そうな顔に変わる。
前々から思っていたけど、この人は本当に表情が豊かだな。
「問題ないわ、うちは静かすぎるの。少し騒がしいくらいが丁度いいんじゃないかな」
予想通り、母は突然の来客に歓喜した。母のこんな顔見たのいつぶりだろう。
私達はさっさと二階にある私の部屋にこもったが、したことと言えばいつもの川辺と何ら変わりなかった。ただ、母が持って来てくれたジュースと手作りのお菓子、そして場所が違うだけ。
くだらないようで大切な普通の会話を交わし、他愛ない時を過ごす。それ以上でもそれ以下でもない。ただそんな何の変哲もないごく当たり前な時が、案外面白くて楽しいんだと知る。
翔君には独特の空気があった。それは今まで私が感じたことのないもので、最初は身体が寄せ付けまいとしていたのに、気づけばその空気に包まれていた。それは他の人にはない、あたたかくて心地よい安心感そのもののようにも思えた。
いつだっただろう、翔君は私が笑った時に一番良い笑顔を見せると気づいたのは。私はその顔が見たくてよく笑うようになった。
むっとする顔、しょぼくれた顔、怒った顔、怖い顔、驚いた顔、そして笑顔。私は会話するうち、沢山の顔を彼から学んだ。それは自然と自分の中で還元され私のものとなりおもてに出る。
日常って、こんなに面白いものだったんだ。
その日から雨の日は私の家で、晴れの日は川辺で一緒の時間を過ごすようになった。たまによく晴れた日には近所を散歩したり、文房具を買うくらいなら二人でお店へ行ったりもした。
翔君は毎日私のクラスまで来て私を待つようになり、そのうち翔君と私が話しているのを見て会話に参加してくる人が増えた。直接私に声を掛ける人もいた。挨拶だって誰とでも交わすようになった。
私は誰に対しても分け隔てなく接することを心掛け、自分からも話しかけられるよう頑張った。言葉がうまく出てこなかった頃の自分が嘘のようだ。
いつの間にか私の周りには人が集まるようになり、と同時に毎日が楽しくて仕方がなくなった。
翔君の家へ行けば、必ず翔君のお母さんともお話をした。初めて訪れた日はとても緊張したけれど、すぐに心はほぐれた。
翔君のお母さんも、翔君と同じ独特の雰囲気を持っている人だった。あったかくて優しくて、他人の私を抵抗なく受け入れてくれた。
あぁ、翔君のものはお母さんから受け継いでいたのか。と思うと暖かい気持ちになることができた。親から子へ、そのごく自然な摂理がここには存在するのだ。
そしてそれは私にはないものだった。
翔君は一人っ子なのでお母さんは娘という存在が可愛いらしく、私を家族のように扱ってくれた。私も本当の母だと思って接したし、変によそよそしくされるよりずっと心地よかった。自然と娘になることができたのだ。
学校であったことを話し、悪いところは注意され、冗談を交わし、言いたいことが素直に言える。これが本来の家族なのだろう。私はずっとこれを、この空気を知りたかったのだろうか。
何度も互いの家を訪れ合うち、私達は家族ぐるみの仲となっていた。と言っても特になにかあるわけではなく、連絡先を知っておく程度の関係だが、たまに顔を合わせれば何事か話をしていた。でも私は、私の両親と翔君の両親が顔を合わせる場に、あまりいたいとは思わなかった。
翔君が翔に変わる頃、私達の関係も変わった。
しかしながらやはり何かが変わるわけではなかったが、私にとってはとても大きなことだった。
今まで感じることのできなかったものを、確かに感じている。やっと、あぁこういうものなのかと分かることができた喜びは一生分の不幸を使っても塗りつぶせないだろう。
幸せだと感じる日々はいくらか続き、私達はほとんどの時を一緒に過ごした。互いにとって何か原因とか確かな形とか言葉だとかは一切必要なかった。ただ二人が同じ場所で同じ気持ちでいられたらそれで良かったのだ。強いて言うなら、あの日川辺で出会ったことが全てで、証なんかを求めるのは野暮だだった。
それくらい、必要不可欠な存在になっていたんだと思う。
ある日、翔は車にひかれて入院した。
そう言うと大事のように思えるが、実際は全治一ヶ月程度の骨折で済み、近くを通りがかった人によりすぐに病院へ運ばれたので、一見すると彼は幸運の持ち主だったように感じられる。だが、重要なのはそこではなかった。
私が事故のことを知ったのは、太陽が街を赤く染める頃、母と夕食の準備をしている最中だった。リビングに鳴り響いた電子音に反応して、私は受話器をとる。
「もしもし」
「未来ちゃんね、大変なの。いえ、そんなに大変じゃなかったのだけれど一応報告をね」
相手はどうやら翔のお母さんさりい。けれど、それならどうしてディスプレイに表示がないのだろう。怪訝に思いつつ言葉を発する。
「何か、あったんですか?」
正直、電話はまだ苦手だった。相手の顔が見えないから不安になる。けど、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「うちの翔がちょっと車とぶつかってね」
「え……」
「心配しないで、大きな怪我は足の骨折だけだって。でもしばらくは検査とかで入院しなきゃいけないらしくてね」
翔が無事なら何よりだ。しかし、私の胸中は騒がしさを増すばかりだ。
「今、まだ病院なんですか?」
「そうなの、でももう帰るわ。看護師さんに追い出されそうなの。でも、後で未来ちゃんにメールしとくようにって翔には伝えてあるから」
「そうですか、ありがとうございます。お気をつけて」
「えぇ、心配させてしまってごめんなさいね。それじゃあ」
受話器を置こうとして、私は慌てて耳に引き戻す。
「あの、病院の場所教えてもらってもいいですか? 明日、学校の帰りにお見舞いに」
「そう? わざわざありがとう。少し遠いのだけれどねーー」
受話器越しに届く言葉を近くのメモに書き取り、お礼を言って受話器を置いた。そのままの流れで殴り書いたメモを手にとり凝視する。
母が不安げにこちらを覗き込んでいることに気づき、たった今聞いた情報を母にも伝えた。母は安堵の笑みを浮かべ、夕食の準備へと戻って行った。私は再びメモに視線を落とす。
何だろう、すごく、すごく嫌な感じ。気持ち悪いというか、強烈な違和感を感じるというか、パズルが完成しているにも関わらず変な隙間が出来てしまったようなしっくりこない感じ。
兎にも角にも、明日翔に直接会って無事を確かめよう。もしかしたら、ただ不安なだけかもしれない。彼の笑顔が見れれば納得がいくかもしれない。
それから毎日、病院へ通った。しかし、あの不気味な感覚が消えることはなかった。一瞬翔と接することで忘れることは出来たものの、家に帰った途端背中を駆け上がって襲いかかってくる。
早く、どうにかしてこの違和感を消し去りたかった。
しかし、私の精神が限界を迎える前に、ずいぶんと余裕を持ってそれは向こうからやってきた。
夜もすっかり更けた頃、来客があったのだ。その時私は自室で部屋で勉強をしていたのだが、唐突な来客が家に上がり込んでくる足音を聞き、怪しく思ってそっとリビングの方を覗いた。もうすでに全員リビングへ入ったのだろう、扉はピタリと閉じられ、人を寄せ付けない空気を孕んでいた。
足音からして来客は数人いるはず。一体こんな時間に我が家へ上がり込んでまで何の話があるのだろう。
気配を押し殺して階段を降りようとしたその時、家中にピリピリとした空気が満ち初めた。くるな、来てはいけない、そう両親に言われた気がして一旦部屋に引っ込んだものの、気になるものは気になるのだ。いても立ってもいられなくなり、再び私は階下へと足を向けた。
肌が重い空気を敬遠するかのようにヒリヒリと痛む。しかし、私は負けてはいけないのだ。この先に、私の知らないこと、ずっと知りたかったことがあるのだ。
何を知りたいのかすら分からないのに不思議とそんな確信があった。この向こうに、私の求めたものがある。
壁に耳を当て中の会話を聞き取ろうと試みる。初めはぼそぼそこもって聞こえていた声が段々クリアになり、部分部分ながらも単語がわかる程度には耳が慣れた。しかし、対して壁も厚くないのにこんなに聞きづらいとは、中では一体どんな声量で会話しているのか。それで成立しているのだろうか。
耳に全神経を集中させ、途切れ途切れの単語を解読していく。
「なにを……っているのか……りわか……ん」
「…….から……が、ご病気……て、変わり……らいお嬢様を……来いと」
「今更、ど……て未来……帰るなんて」
中からは切れ切れながらも知らない人の声と、両親の声が聞き取れた。
「急ぎ……です。わかって……さい」
「わかる……って? わかってない……じゃないか」
「社長の意向……す」
交わされる言葉は次第に力を持ち始め、はっきりと聞こえるようになる。
「あの方は一度あの子を捨てたじゃないですか。そのような人に、大切な娘はお返し出来ません」
「そうだ、あの子は」
「しかし、あなた方の子ではない。それは分かっているでしょう」
「あの子のことを何も知らないのに、なんて勝手な」
「そうですわ。あなたはあの子のこと、何か一つでも知っているの?」
「しかし親権はこちら側にある。これはいかんしがたい事実です」
「親権なんて形式的なもので、あの子これからを脅かすというの? やっと、やっと心を開き始めたというのに……」
お母さん? もしかして、泣いてるの?
私よく分からないけど、そばに行きたいよ。そばで肩を抱いて、それから、それから……。
「親権がなんですか! あの子は、未来は私達の子どもです。誰にも譲る気はありません。どうぞお帰りください。何も知らないあなた方に未来は譲れません! 母として、娘を信頼のおけないところへはやれませんわ」
ありがとうって言わなきゃ。
「お母さん、お父さん!」
「未来!」
「未来っ」
思わず扉を開けて中へと飛び込んでいた。奥にちらりと見えた黒ずくめの集団は無視して両親の元へと駆け寄る。
「私、何も分かってなかった。私、わたし、二人に酷いこと」
「未来、いいのよ。あなたは何も悪くないわ。だってこんなに素直に育ってくれたんですもの」
何年ぶりかに母に抱きしめられ、私の心は感謝の気持ちで溢れかえった。
「未来、僕らの子どもだ」
「うん、うん、私にとっても、本当の両親は二人だけだよ」
ひとしきり泣いたのち、私は涙をぬぐい黒ずくめの集団を振り返った。漆黒のスーツに一切の光を通さないようなサングラス、そして何の感情も示さない口元。面と向かっているはずなのに、電話よりも相手のことが分からない恐怖。私は自分を奮い立たせた。
「あなた方が何者か私は知りませんが、どのような事情があろうとあなた方について行く気はありません。ここには、この街には私の全てがある。それを置いて行くことなんて出来ません」
「これはこれはお嬢様、お会いできて光栄です」
「私の話、聞いていますか?」
「何も知らないのですね、可哀想に」
なんて情のかけらもない言葉なんだろう。私はあからさまに不機嫌な顔をした。
「いいでしょう、お教えします。あなたは」
「遠慮します。そのことについては後で両親から伺います。それより、まだ何か用がおありですか? ないのならどうぞお帰りください。玄関はあちらです」
「分かりました、今日は帰るとしましょう。しかし、最後に一つだけ」
一瞬の間。そこに彼らの全てを見た気がする。サングラスの奥からじっと見られているのが肌で分かった。冷ややかな視線、そして放たれる冷たいナイフは私の心臓をいともたやすく串刺しにした。
「お嬢様の大切な人が無事で何よりです。お見舞い申し上げます」
今までにない早さで脳内パズルのピースが解体、再構築され全く別の形へと組み直されて行く。分析回路はオーバーヒート寸前までフル活動、そして一つの答えを導き出した。
それは同時に、違和感の答えでもあった。
温められた脳内が急激に冷えて行く。自分の中にこんな怖いものを秘めていたなんて、正直知りたくなかった。でも、最低な人に対しては自分も最低にならなければ負けてしまう。
人の醜さの一欠片も知らずに、私は幸せに今まで生きてきたのだな。
「そうですか。それで、私を脅したおつもりですか? いいでしょう、私はあなた方のような汚い人達に屈するような人間ではないというところを、見せてあげます」
「失ってからでは遅いですよ」
「その言葉、そのままお返しします」
私の幸せを、誰かに壊させたりなんかしない。やっと分かったんだ、やっと感じたんだ、やっと……家族になれるんだ。そんな幸せを、邪魔させないんだから。
黒ずくめの集団はさっさと退散した。しかし、家にはまだ重い空気が残されていた。
私はそれを吹き飛ばすように、できる限りの明るい声音で両親に話しかける。
「大丈夫、確信はないけど何とかなる気がする。それよりさ、話し、聞いてもいいかな」
私の出生の話し。ずっと不思議には思っていたんだ。だって私は、二人に似なさすぎるから。
でも今はそのことを引け目に思ったりしない。だって二人は私を愛していてくれたのだから。黒ずくめの集団には怒りを覚えたけど、二人の言葉を聞いた時は嬉しくて嬉しくて仕方なかったよ。
「そうね、もう隠すこともなくなってしまったのね」
お母さんは少し残念そう。本当は知られたくなかったのだろう。
「僕はいつか伝えなければとは思っていたよ。ただ、こんなに早くその時が訪れるとわな。これを言ってしまうと、未来が私達の子ではなくなってしまう気がして……怖かった。でもそれは違ったな。未来は僕らが思っているよりずっと強い。黙っている方がよっぽど不安を与えてしまうよな。全てを話そう、そして本当の家族になろう」
「そうよね、お父さん。未来、聞いてくれる? 私達の昔話」
勿論だよ、お母さん、お父さん。どんな話でも、私は全て受け入れて、そして初めて、二人を心から愛すことが出来るんだ。
「僕らは昔、ある財閥家の豪邸で働いていたんだ」
古くから続く家にはありがちな話だった。双子が生まれたら片割れを殺すだとか、弟は家を出すとか。そのどれもが成長したのち当主の座を争って自ら家を破滅させないための予防線なんだと思う。
その家にもそういった言い伝えがあった。
内容は、第一子と同じ性の第二子が生まれたら殺せ。さもなくば呪いにより不幸に見舞われるぞ。と言ったものだったらしい。
バカバカしい、現代に置いて呪いだとか。使用人のほとんどはそう思っていた。しかし念のためと、第一子の娘が産まれた際にもう二子は産まないでおこうと極秘に話し合われていたとか。
しかし奥様は第二子を身籠ってしまった。そして不幸なことに、それは娘だったという。
奥様は泣き泣き男児が欲しかったのだと謝った。しかし、言い伝えは所詮言い伝え。使用人は皆大丈夫です、産みましょうと励ました。
だが、旦那様はそれを許さなかった。男児でないならば殺してしまえ。それはあまりにも無情な判断だった。しかし、逆らえるものなどいるはずもない。
その家は古くから根強く生き続けただけあり、人脈も富も名誉も全て持っていた。逆らおうものなら人生がどうなってもおかしくない。それほどに恐ろしく強大な力そのものなのだ。
しかし、人を殺すなんて……。
使用人の間ででた結論は、産まれてすぐ施設へやることだった。出生を明かさず裏のルートから施設へと預ける。その案は、意外にもすぐ旦那様の承諾を得ることが出来た。必死の交渉を覚悟していた使用人たちは皆一様に安堵した。その裏に、第一子の病気が関係していたとは知らずに。
しかし、施設へやることすら拒んだ者たちがいた。それは社長、つまりは旦那様直属の秘書である男と、奥様が最も信頼していた使用人の娘だ。二人は屋敷内で出会い恋に落ち婚約していた。しかし子宝に恵まれず、医者には諦めろとすら言われていたのだ。
人生がどうなろうと構わない。どうかその子を私たちにください。二人は頼み込んだ。奥様も、見ず知らずの人々に娘をやるくらいなら、離れ離れになってでもも二人に渡したいと告げた。奥様の申し出と、他の使用人らの後押しもありなんとか旦那様は受け入れてくださった。そして、絶対に迷惑をかけないこと、もう二度とこちら側に関わってこないことを条件に娘は二人の夫婦のものとなった。
しかしあくまでも仮の形。と言うのは、親権はあくまで旦那様の手に。夫婦は娘の両親役を割り当てられただけだと言うことだ。
その意図に気づいた者は、第一子の病気について聞かされていたあの人物だけだった。
「いつかこの日がくるんじゃないかと不安で仕方なかったよ。お嬢様のご病気について知っていたのは、当時社長秘書だった僕だけだったからね。あぁでも、お母さんもまだ小さな赤ん坊だったお嬢様と関わる機会が多かったから、何と無く察していたみたいだけど」
「えぇ、親権をいただけないと知った時にもしかして、と。でもそのせいで未来に申し訳ないことをしたわ。本当は私達の子どもではないと思うと、どうしてもうまく愛せなかったの。でもこれだけは信じて。あなたを産んだのが私ではなかったから愛せなかったのではないの。あなたは奥様がお体に宿された時から愛しくてたまらなかったわ。けど、愛して愛して育てたあなたが、突然奪われることを考えたら、怖くて……」
お母さんは一筋の雫を頬に伝わせた。そんなお母さんをお父さんは優しく抱き寄せる。
大丈夫だよ、お母さん、お父さん。私だって、同じ気持ちだったもの。家族なのに変によそよそしくて、他人行儀で、気を使われていて。それがすごく嫌でいやで、他の家はこうではないと気づいてさらに嫌になって、不安になって。私は愛されていないからこうなんだと考えると、もう愛が何なのか分からなくなって、生きることがただの作業に思えた日もあった。でもそれは、彼が変えてくれた。今の私は愛がなんなのかよく知っている。そして、二人の愛がここにあることも知ってるよ。
もう怯えたりしない。人と話すってとっても楽しいことだって気づけたから。日常って素晴らしいって気づけたから。愛のない言葉に傷つくことだってあるだろう。でもそれを怖がっていたら仮初めの愛しか知ることが出来ないんだ。
愛は時に、いろいろな要因で迷ったり失ったりするだろう。でもね、芽生えたり溢れたりすることだってあるんだよ。今の私達がまさしくそうだよね。
「私、二人の愛に気づけて良かった。このままだったら一生分からなかったかもしれない。今はそれを考えると怖くなるわ。だから、嫌なことはあったけれど、今はとても幸せ。私も二人のこと愛してるわ。私を拾ってくれて、ありがとう」
「未来……。ありがとう、産まれてくれて。ありがとう、僕らの元に来てくれて。ありがとう、こんな両親を、愛してくれて」
お父さんまで目を瞳を潤わせちゃって、それじゃあお母さんの支えにならないじゃない。
「未来、大好きよ。最初から誰にも渡す気なんてなかったの。なのに惑わされてしまってごめんなさい」
「もういいの、分かったから、もういいの。まだやり直せるわ。時間はたっぷりあるもの」
そう、人生まだまだ序盤だわ。こんなところで躓いていられない。そのためにもまずは……。
「彼にも感謝しなければいけないな。僕らが未来に与えられなかったものを代わりに与えてくれたのは翔君だからな。彼に出会ってから未来は本当によく笑うようになった」
そこまで言って何か思い出したらしくお父さんは顔をしかめた。お母さんも複雑な表情で体を硬直させている。
あぁ、やっぱり二人とも気づいてましたか。
私は口元を緩めて窓の外に視線を送った。既に太陽は姿を消して、星達の独壇場となっている。
「負けないよ。私も、翔も。あんな最低な奴らに屈したりしない」
そこで一旦呼吸をおいて、両親に向き直る。
「安心して、翔には明日ちゃんと説明するから。今日私が知ったこと、今の状況全てを。きっと翔ならこう言ってくれるよ」
「話してくれてありがとう。大丈夫、俺らはずっと一緒だ」
「翔……」
緩やかに持ち上げられた手がベット脇に座る私の頭をそっと撫でる。
予想通りの彼の言葉。しかし、その暖かさに触れた途端、強がっていた私の心はあっさりと崩れ落ちた。
「頑張ったね、未来。未来はご両親の支えだから、しっかりしないとって思ってたんだろ。でも、そんな話急にされたら誰だっておかしくなっちゃうよ。未来は強い人から…….頑張りすぎちゃったんだね」
頑張った。あの時はそんなこと考える余裕すらなかったけど、私は頑張っていたのかもしれない。大切な家族と、守りたい日々のために。
「ねぇ未来。俺はさ、未来を支える役になりたい。だって俺も未来と離れたくないから。……ね、いいだろ」
私は次々と溢れ出す涙を拭うことも出来ず、小さく頷くので精一杯だった。
翔は私が頷いたのを確認すると、頭に乗せていた手をそのまま引き寄せ胸に押し当てた。耳元で彼の優しい声がする。
「ありがとう」
言葉が体に吸収されて行くのを感じる。それは心にも深く染み渡り自然と落ち着くことが出来た。
「あーあ、俺がこんな体じゃなきゃ全身で未来を抱きしめることが出来るのに」
拗ねたような声に私は思わず吹き出した。と同時に小さく胸が疼くのを感じる。
「もうリハビリを始めているんでしょう? あと一週間で退院だっけ」
私は努めて明るく接した。もう平気だと言わんばかりに。
「そうそう。しばらく松葉杖生活らしいから、未来に色々お願いしちゃおー」
「ちょっと、支えてくれるんじゃなかったの?」
「それとこれとは別だろー」
実際翔の体はもうずいぶんと良くなっていた。検査の結果も良好で、今もベッドにいるもののずっと体を起こしている。
「俺さ、早く未来と学校に行きたいんだよ」
「なにそれ、翔ってそんなに学校好きだったっけ?」
「べっつにー。ただ病院にいると一日中暇だし、何より未来と一緒にいる時間が短くなるんだよ。さっさとこんな場所からおさらばしてまた一緒にいようぜ」
「そうだね、早く一緒にいたいよね。あ、じゃあさ、外の空気に慣れるためにも病院の周りを少し散歩しようよ」
「えー、散歩は良いんだけど俺ここの庭嫌いなんだよな」
「どうして?」
「人口的過ぎて気持ち悪い」
何てストレートなお言葉。関係者が聞いたら涙目だよ。しかしまぁ、私もちょっと思ってました。
「確かに。患者さんが怪我しないようにとか色々工夫されてるんだろうけど、やっぱり自然は不揃いなくらいが丁度いいよね」
「そ、だから散歩に行くならいつもの川辺がいい」
「無茶言わないでよ。元気になったらいつでも行けるでしょ。それまでは我慢」
唇を尖らせて訴える翔を、私は困ったように笑ってなだめた。
「分かってるよ。あと少しだ、あと少しでわざわざ未来がここに通わなくても、俺が迎えに行ってあげられるようになる。そしたらまたあの川辺を二人で散歩しよう」
「そうだね、その日が来るのを気長に待ってるよ」
言ってしまってから、私は酷く後悔した。それは私の胸の内から漏れ出した言葉だったのかもしれないけれど、決して言ってはいけない事だった。
「気長にって、まるでまだまだ先みたいな言い方をするんだな」
不思議に思ったのか、眉をひそめて首を捻る翔を、私は笑って誤魔化した。本音には静かに蓋をする。
「私にとっては長く感じるって話だよ。気分の問題」
「そっか、確かに残り一週間って今までの数週間より意外と長くて参るよなー」
ベッドの上で様々な顔を見せる翔は、いつもの翔と何ら変わりなかった。そんな彼に対して私は申し訳なさで一杯になる。翔はこんなにも自然体でいてくれるのに、私はというと……でもこれだけは、私の全てでやり通さなければならない。
この時には既に決心はついていた。
ありがとう、翔。そしてごめんなさい。
笑顔の裏では常にそう言い続けていた。
一週間後、翔の退院が目前に迫ったその日、私は誰にもなにも告げずに、ただ舞い降りるような気持ちで、その場所から飛び降りた。
確信はあった。私は死なないと。だって、最悪な人間ばかり良い思いするような世界なら、そんなの私には必要ないと思ったから。だから私が生き残れたら、その世界は素敵なはず。事実そうだったでしょう。
両親は私が飛び降りたその日から何とかして親権を手に入れようと一ヶ月間奮闘してくれたらしい。
結局、例の病気のお嬢様は外国に飛んで手術し成功したんだとか。ようは私は保険だった訳で、必要なくなったから再びお払い箱と言うわけらしい。また突然病院の非常階段から飛び降りるような気の狂った娘がいたなんて事を世間に知られれば名家の面汚しになるので、余計なものは取っ払う意味で親権を渋々渡したらしい。持ってたら言い逃れ出来ないものね。まぁ悪人にしては最良の判断だったと思うよ。
でも驚いたのは、そこにつけ込んだ両親の方。今後一切“互いに”干渉しないっていう誓約書を、向こうと関わってきた全ての出来事を他言しないという条件で書かせたんだって。勿論、翔のことも含めて互いに、だよ。破った際にどうなるか、なんて書く必要すらないくらい目に見えているよね。
はぁ、これでやっと、平和な日々に戻るんだ。
私は空を見上げて微笑んだ。
「なーに満足げな顔してんだよ」
「へ? そ、そんな顔してないよ!」
「してました。確実に、どうだやってやったぞって顔してました」
「それ、どんな顏か分からないよ」
よく晴れた日の夕暮れどき。私と翔は久しぶりにあの川辺を散歩していた。でも少しだけ景色は違って、いつもは隣を歩く翔が今日は後ろで車椅子をひいていてくれた。私は一ヶ月も眠っていたせいで筋肉がなまっていて、まだ普通の歩行が出来ないのだ。今日は特別な許可を貰って二人でここまで来ていた。
隣を歩けないというのは何だか寂しい。けれど四階と五階の間にある踊り場から飛び降りて擦り傷程度で済んでるのだから、私は自分の体について何ら文句は言えない。勿論、私は発作的に飛び降りた訳じゃないからちゃんと真下に植え込みがあることは把握してたよ。だって、こんなところで死んでられないもの。
ただ、これだけの大事を起こせばなにかしらの反応は得られると思っていたのだ。念のためにちょっとした手紙を用意しておいたけど、結局それは使わなくて済んだ。
「俺、これでも未来に怒ってるんだけどな」
急な宣言に私は驚き、上半身を捻って翔を見上げた。彼は目を合わせようとしてくれない。
「まさか、理由が分からない訳じゃないよな」
「えっと、飛び降りる前に何も言わなくてごめんなさい」
「本当にそう思ってるのか?」
「思ってます! でもあれは、もう決めてたことだったから……」
「それともう一つ。俺の事故が未来の事情に関連してたかもしれなかったってこと、どうして言ってくれなかったの? 未来の偽遺言を読んだ時、かなりショックだったんだけど」
「それは……ごめんなさい」
「俺さ、言ったよね。ずっと一緒にいようって。俺がちょっとだしにされたくらいで未来から離れるとでも思ったの?」
「そうじゃないの。そうじゃないんだけど、どうしても、言いたくなかったの」
そう、あの日私は全て説明すると言いながら、翔の話だけはしなかったのだ。確証がなかったからではない。あんな見え見えの脅し、気づかない方がおかしい。私が言えなかったのは理由はただ一つ、翔を巻き込みたくなかった、それだけだ。散々巻き込んで起きながら今更って思うかもしれない。けど、そのことを話したら認めてしまうようで嫌だった。だから一人でどうにかしようと思ったの。
「どんどん巻き込んでくれて良かったのに」
「……ごめんなさい」
私はいつの間にか視線を地面へと落としていた。
「いいよ、もう怒ってないから。偽遺言書を俺のところに置いて行ってくれたから、もう怒ってない」
翔は車椅子を止めて私の前にしゃがみこんだ。
「あんなの未来らしくないからね。あれを俺に預けてくれてありがとう。安心して、もうとっくに燃やしたから」
彼の言う偽遺言書とは、私が飛び降りる前に念のためと書いた手紙のことだ。それには酷いことが書かれていたんだと思う。もうあまり覚えていないけれど、兎に角人を陥れるような言葉を多用した気がする。それはまさしく、私の醜さだった。
私はそれを翔に預けて飛び降りた。出すか出すさまいかは翔に判断してもらおうと思ったのだ。
「未来、君はあんなことを書くような人じゃないだろう」
視線を合わせようとする翔から私は思わず逃げてしまう。
「それは違う。私は汚い人間に立ち向かうために、自らも汚くなったの」
「いーや、違う。未来はとっても綺麗だよ。本当に汚い人はね、自分のしたことに傷ついて泣いたりなんてしないから」
「私、泣いてなんか」
言葉は込み上げてきた嗚咽によって遮られた。
「全く、体は平気でも心はぼろぼろじゃないか。俺、こうも言ったの覚えてる? 未来は俺が支えるからっていうの。あの時未来頷いてくれただろ。だからさ、どーんともたれかかって良いんだよ。やっと全身で抱きしめられるようになったんだから」
翔の腕が、胸が、体が、全てが私を包み込み癒してくれる。
「長かったよ、一緒にこの場所を散歩する日まで。本当に長かった。俺さ、気長に待つことなんて出来ないから毎日夢で未来に話しかけたよ。でも今は、夢じゃないんだよな。夢じゃ、ないんだな」
首筋に雫が伝って行くのを感じ、私の体は熱を増した。そして何度も何度も彼の腕の中で頷き、返事を繰り返した。
翔にとって、この川辺を私と散歩するのは、この一ヶ月、いや二ヶ月かもしれない。兎に角長い間幾度となく夢に見たのだろう。その度に目が覚めて、何だまた夢かと何度も落ち込み……。それは私が、約束してしまったせいもあるのかもしれない。
今の私に出来るのは、ただ本物の温もりを与えるだけ。私にしかあげられない、夢では分からないこの肌と肌が触れ合う感触を。鼓動を。吐息を。
「最初ここで会った時は、ただ隣に座って話をするだけだったのにな」
「そうだね、あの頃からは随分と成長したよ。でもね、また始まるんだよ、私達は、この場所から」
「そう、だな」
まだ他人だったあの日見た夕日を今もはっきりと思い出せる。初めて二人で見る夕日は、視界の端に映る男の子を照らし出して実に頼もしく、私は置いていかれたような気がしてた。
いま夕日には、私達はどのように映っているのだろう。
半年かかってやっと完結です。前後編にしては長すぎですね。
とりあえず落ちるとこには落ちたかなぁと思っています。多分書いてみたかった不思議な世界観っていうのは前編で終了、後編はほとんど解説という割合になってしまいましたね。読んでてどちらが重かったのでしょう。
書き始めた当初思っていたものとは随分とずれた気もしないでもないですが、思った以上にいろいろ書けて楽しかったです。お待たせした方、誠に申し訳ありません。
これにて「ゆめきみ」(勝手に略称を作ってみる)は完結となりますが、まだ触れていない部分に触れたかったり、出したいキャラもいるので、そのへんをまとめて短めの番外編も書いてみたいと思っているので、その時はまたよろしくおねがします。
それではまた。
2015年 4月13日 春風 優華