アメジストの夜
三年前にとち狂って書いた話のリメイク。同性愛表現があるので苦手な方はお戻りください。
大きな仕事をやり遂げた後の煙草の味は格別なものだった。エネルギーを大量に消費して疲れ切った体の内側に煙を流し込むと、空腹感が麻痺していくのが分かった。胃は空っぽなのに、ニコチンやタールなど有害物質で満足する体は後どれくらい生きられるだろうか。なんてまだ二十代前半からそんな事を考える。
穴を掘るという作業を行ったのは学生の時以来だ。授業の一環で花壇に苗やチューリップの球根を植えていた頃が妙に懐かしく感じた。当時は炎天下の中で小さなスコップで土を掘って手が汚れる事が嫌で嫌で仕方なかった。なのに、今になってその記憶でさえ愛しく思えた。馬鹿馬鹿しい。
いずれにせよ、こんなに疲れる穴堀りは今夜が生まれて初めてだった。達成感はちゃんと在るのに不思議と喜びたいとは思わなかった。とにかく疲れた。今日、土の中に埋めたものが植物の苗だの球根だのと違って重かったせいだろう。
二酸化炭素と一緒に毒素を吐きながら歩道橋からの景色を堪能する。車のライトがダイヤモンドやルビーのように煌々と輝いている。遠くに佇むビル達が放つ細々とした小さな光は星のようだ。なのに本物の星は人工の煌めきに負けてどこかに消えた。何だか可哀想に思えた。
「煙草また吸ってるのか、先輩は」
歩道橋の階段を登って来たのは櫻井だった。その手には携帯灰皿が。あんまりにも俺が煙草を吸うので見兼ねて買ってきたものらしい。馬鹿みたいだ。こいつの前で吸うのを止めても、家ではパカパカ吸うんだから意味はないのに。
けれど、それは櫻井だって解っているのだろう。聞き分けのいい子の振りをして小さな袋のような灰皿に、少しだけ短くなった煙草を放り込む。人のいい振りをして、不可能だと解れば深追いしない少し甘い部分が後輩らしい。
「見てください。これどう思います? 俺の給料三ヶ月なんですよ」
テンプレ的な台詞を言いながら小箱をポケットから出して開く。白銀の輪の中心で米粒より少し大きめな紫色の石が輝いていた。そういえばあの女は二月生まれだった。だから誕生石のアメジストなんだろう。
「おー綺麗」
「先輩反応薄いな。もっと大げさなリアクションが欲しかったのに」
「はいはい、すごいすごい」
櫻井とあの女が付き合い始めたのは、あの女が櫻井に付き纏うようになってから一ヶ月後だった。何も用が無くても、べったりとくっ付いて、こいつに話し掛けて強引に交際する事を推し進めた。流されやすい櫻井は女の言葉に頷き続けて、結婚する事にも軽くOKしたらしい。どこまで流されるつもりだ、こいつは。
「失敗したらそれはそれでいいんです。短い夢を見せてもらったと思えば」
煙草は駄目だとうるさいくせに、こんな道徳的な所が少し麻痺している後輩はきっと彼女との赤い糸はすぐに切れると予想しているのだろう。
当たりだよ、櫻井。あの女はお前に結婚指輪が欲しいなんて言っておいて、俺と寝たいとこっそり暴露した。その事自体には怒りも喜びもしなかった。好きな人間がコロコロ変わるのは人間らしい習性だと俺は考えている。
でも、櫻井の指輪が無駄になってしまうのは嫌だった。だってそうだろ。金が勿体ない。こいつが二股をかけるビッチのためなんかのために一生懸命金を貯めていた事を俺は知っている。あの女は指輪は受け取る。受け取るだけで櫻井の想いは切り捨てるに違いない。
それでは意味がない。櫻井が指輪を買ったのはあの女に貢ぐためではなくて、幸せを繋ぐためだ。
「今からあの子の家に渡しに行くんです」
「応援してる。成功したらメールくれよ」
「ありがとう、先輩」
はにかむ櫻井にもうあの女があのマンションの一室に戻らない事を秘密にして激励する。ついでに言えば、もうこの世にすらいない。暗くて冷たい土の中で虫達に食われていくであろう肉体を残して彼女は消えた。俺がさっき、消した。
だから、安っぽい携帯灰皿ではなく、その指輪の入った小箱を俺にくれ。少し甘くて愚かで易しいお前を俺なら本気で愛せる。人を殺して化け物になった俺はもう人間なんかじゃないから、ずっとお前を愛し続けていける。