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しまいもの

作者: 折坂勇生


 6月18日の午後十時過ぎ。雨が声もなく降りつづいて、外灯の小さな光から細かな雨の粒を見渡せた。

 合コンで男たちのご馳走になって、たっぷり胃に入った焼き肉とビールの酔いに幸せな気分になりながら、私は折りたたみの傘をたたんで、アパートの階段をつま先歩きで登っていった。

 登り終えると、人の姿が見えて、つい足を止める。私の部屋の前に、年は20前と思われる赤いワンピースのセミロングの髪をした女の子が腰掛けていた。どれぐらい座っていたのだろう。傘は持ってないようで、彼女が腰掛けている床の周りは水気で黒ずんでいた。

 女の子は、物思うように外の霧雨を見上げていて、まだ命が宿っていないピノキオのように悲しげな表情に写った。

 女の子は顔を向けた。私を見るなり、ぱぁっと輝かせていって、お尻を何回か叩きながら立ち上がった。そして「お姉ちゃん」と手を小さく降ってきた。

 私は「お姉ちゃん」と呼んできた女の子に「はて、誰かいな?」と首をかしげた。

「私よ、私~、ええと、6年ぶりになるのかな? ええとね、私は、そう、私なの~」

 女の子はネコがあくびするような間延びした声で、自分の顔を指さしながら、自己紹介にもならない紹介をしてきた。

 誰なのか迷った。どうやら知り合いらしい。でもいつ会ったのか分からない。ヒントは「お姉ちゃん」と呼ぶことぐらいで、私の23年間の人生でお姉ちゃんと呼んできた人はたった一人しかいない、つーことはこの子はもしや、と20秒近くの思考の上で、私はぽんっと手を叩いて、指をさした。

舞乃花まのか?」

 親が離婚してから、離ればなれになっていた妹だった。

「お姉ちゃん気付くの遅いよ。お姉ちゃんって呼んでんだから、私だって分かるでしょ」

「いやー。成長してるから。前ってこんぐらいじゃない」

 胸元ぐらいだったと、手で示した。今では私よりも1センチほど高い。

「えー。中一だから、もっと大きかったよ」

「そだっけ?」

 妹は小さいという印象しか残っていなかった。私の中に住んでいる舞乃花は小学生低学年の頃から、成長が止まっているらしい。タイムマシンから10年後の舞乃花が突如飛び出してきたような気分で、成人の舞乃花を目の当たりにしてもしっくりと来なかった。

 そもそも私は妹がいた事実を、今日の今まですっかり忘れていた。

 親が離婚をして、別々に暮らすようになった半年ほどは「舞乃花はどうしてるだろう?」と考えることはあった気がする。でも、手紙や電話やメールとか、自分から連絡することはしなかった。お母さんが変わって、家が変わって、土地が変わって、学校が変わって、親戚が変わってと、がらりと変わってしまった新世界にとけ込むのに精一杯だったし、ホームシックに縁のないいい加減な私は、忙しくしていたら、昔の家族を意識しなくなっていた。

 連絡ないことは、それなり元気にしているからだろう、という程度だったし、自分のことながら薄情な姉だと呆れるほど、今日の今まで、舞乃花のことを思い出すことをしなかった。

 一緒に暮らしていた当時、私と舞乃花は仲良かった姉妹とは言えなかった。だからといって仲悪かった訳でもない。好きか嫌いかと言われたら好きな方だけど、それは別に嫌いじゃないからの好きであって、特別に好きというわけではない。姉妹という縁で偶然に一緒に暮らすことになった間柄だった。

 だから離ればなれになってしまえば、会う機会も、会う必要もなくなるし、別に会いたい気持ちも沸かなかったから、5年以上も会わないままになっていた。

 そう、今日までは。

「ええと、何のよう?」

 連絡もなくやってきた舞乃花に聞くと、「えーとね」と足下のボストンバックをちらっと見る。洋服やら化粧道具やら生活の必需品がずっしりと入っている感じだ。

 これってまさか。

「泊めて」

 妹は両手を合わせてお願いのポーズをして、ぱちっとウインクをした。

 私が男なら、オオカミになるな、こりゃ、とちょっと思った。



 家賃5万の1DKの、酒臭さだけが特徴のアパートの一室。白のTシャツにパンツ一枚となった私は、テレビを見ながらビールを飲んでいた。普段なら素っ裸なんだけど、さすがに久しぶりの妹の前では気が引ける。

「どうしてここが分かったの?」

 シャワーを浴びてきた妹は、アヒル柄のパジャマを着ていた。濡れたストレートパーマの茶色い髪をタオルで拭いている。

「えーとね、年賀状」

「あんたに出してないよ」

 そもそも私は年賀状というものを出さない主義だ。理由はめんどい。出すならメールで「おめでとう」だけで充分だった。

「お父さんだよ。お姉ちゃんの住所もちゃんと書いてあったよ」

「へー。あれって年賀状出してるんだ」

「うん。わたしにだけどね」

 遠回しにお母さんには出してない、と言っていた。当たり前なことだし、連絡の一つもしない私が言うことでもないが、あの二人から産まれてきた娘としたら悲しいものがあった。

 3分の1ほど残っているビールを一気に飲んだ。飲み終えたら、テーブルにある新しいビールの蓋を開けて、グイッと飲んだ。

「はー。お姉ちゃんって、すっごい飲むんだ」

 合コンで大ジョッキのビールを飲んできたと言ったなら、さらにビックリしそうだ。

「ビールって、水みたいなもんよ。飲むか?」

「わたし飲めない、飲めない。未成年だし」

 舞乃花の両手は、ペットボトルのお茶が握られていた。

「いくつだっけ?」

「19だよ」

「そっか。私より下かぁ」

「妹が年上だったら恐ろしいことになるよ。お姉ちゃん生きてないよ。死んだら年とらないんだもん」

「あー、それっていいね。私は幽霊になるわ。葬式はいらんから、死んだことにしといて」

 と言うと、あははと笑った。へらへらと良く笑う妹だ。会ったときから笑ってばかりいる。

 6年前もこうだったっけ? そうだったような、そうでないようなと、ビール飲みながら、小さい頃の妹を回想するけど、妹と過ごしてきた思い出はろくに浮かんでこなかった。

「あんた学生?」

「ぷー、だよ」

 ぷー、ぷー、と言って、面白くなったのか、あははははっと笑った。

「んーと、今風でいうとニートっていうの、そういう商売してるんだ」

 ニートは商売じゃないやろ、とつっこんで欲しいのだろうか。

「んじゃ、浪人だ」

「受験したいって思わないし、してもいないよ」

「じゃあ、何したいの?」

「なんだろーねー。なにがいーかなー?」

 首をゆっくりと左右に振りながら、のんきに聞いてきた。私に聞かれても困る。

 舞乃花ってこんな性格だったっけ?母親と暮らしてバカになっちまったのか?と疑問符を浮かばべながら、妹の話を肴にビールを飲んでいった。



「いってきます」

 朝の7時42分。黒のオフィススーツをビシッと決めた私は、革パンプスを履き終えてから、舞乃花に声を掛けた。

「いってら~」

 舞乃花は、布団から腕を伸ばしてひらひらと手を振った。

 私がドアを閉める時には手を引っ込めた。お昼まで二度寝する気だろう。いい身分だ。

 舞乃花は押しかけてきて2週間、すっかり私の家に居着いてしまった。帰る気すらなさそうだ。舞乃花は何もしない。働くことも勉強することも家事もせずに、ぐうたらと過ごしていた。

 稼がなきゃ飯 ――というかビール――が食えない私としては、体ごと交換してやりたいぐらいだった。


 仕事に一区切りがついて、キーボードから手を離すと、両手をあげながら大あくびをした。休憩モードに入った私を確認した同僚が傍によってきた。

「白石さんあがったら、コレしない?」

 白石とは私のことだ。同僚の男はコレと言いながら、飲みのポーズを出して、ごくごくと喉を動かしていた。口からビールがこぼれそうな品のない飲み方だが、これは私の真似だろうか。

「あー、ごめん。まっすぐ帰るわ」

 私はメガネを取って、目頭のツボを軽く押しながら言った。長時間モニターに写った細かい文字とにらめっこしていたから、目が疲れしまっている。定期的に目のマッサージをするのが癖になっていたし、これをしなければ頭痛に悩まされる。

「最近つきあい悪くない?」

「んー。悪いとは思ってるんだけどさ」

「ビールおごってもいいよ」

 それは珍しい。

「相談事?」誰も聞いちゃいないだろうけど、小声で聞いた。

「ちゃうちゃう。白石さんに相談しても、てんで役に立たないし」

 失礼な。

「だって、白石さんに相談すれば、テキトーにやればいいじゃんで終わるでしょ。それが白石風のキャラだけどさ、シリアスには合ってないね」

 顔に出てたようで、フォローを入れてるけど、褒めちゃいないな、こりゃ、私はギャグ向きかい。

「たまには、どう? いつも飲みに来るのに、最近は全然だもん。何かあったのかって、一応は心配してるんだよ」

 一応は余計だと思ったけど、気に掛けてくれているらしい。私はオフィスの天井を見ながら、考えごとをしてるような仕草をした。

「飲みたいって気持ちはヒジョーにあるんだけどさ。やっぱやめとくわ、ごめん。他の子を誘って」

「やっぱ駄目か。なんか用事あんの。彼氏が出来たとか」

 笑いをこらえるように唇が伸びた。私に彼氏なんぞ、てんで思っちゃいないだろう。もしそうなら、物好きな彼氏の顔を拝見したいと、爆笑しそうだな、こいつ。

「妹ができたのよ」

「が?」

「押しかけてきたの。居着いちゃってさ、アレの相手しなきゃなんなくなっちゃったわけ」

「なるほど、嫌われたわけじゃなかったか」

 安心してるが、私に好かれて欲しいのか?

「で、妹って可愛い? 白石さん並にずぼら?」

「私はずぼらかいな……」

 これでも仕事はクビにならない程度にちゃんとやってるつもりだぞ。

 舞乃花のおかげで、会社仲間とのつきあいが悪くなった。飲み会が好きというよりも、酒を飲むのが好きな私だから、別に気にしてはいないけど、相手が誰だろうと酒さえあれば付き合ってきた私なので、断り続けていたら、「なにがあったんだ?」と会社の人たちに心配されるようになったのには、はた困った。

 飲みに行けない私は、酒屋に寄り道をする。店番のおばさんと顔なじみになってしまい「いつもありがとうございます」と言われるようになったのは、恥ずかしさがあった。お礼よりの言葉よりも、お得意様になったのだから、ビール缶一本ぐらいサービスしてくれよという気持ちになってくる。

 ずっしりと重いビール缶の入ったビニール袋をカラコラと鳴らして、私は家に向かって歩いていた。頭の中は、アパートでビールを飲んでいる私を楽しく想像しながらも、夕食は何をしようかと考えていた。

 交差点を右に曲がろうとすると「お姉ちゃーん」と、向かいの道で舞乃花が手を振っていた。私が止まると、小走りでやってきた。舞乃花もずっしりとしたBOOKOFFのマークが入ったビニール袋をぶら下げている。

「あんた迎えにきたの?」

「うん、お姉ちゃんが帰るころだなーって思ったから。やっぱ姉妹だね、ビビビって分かったよ」

 うそつけ。買い物帰りに偶然会っただけだろ。どうせ買ったのだって、いつもと同じだ。

「晩ご飯なにー? あたしさお昼ってカップメンだけだから、お腹ぺっこぺこだよー」

 舞乃花は真っ平らなお腹をぽんぽんと叩いた。スタイルがいいのは羨ましいけど、痩せすぎのような気がする。栄養あるものを食べさせた方がいいかもしれない。

「あたしゃあシュフじゃないぞ。人に任んな」

「あれれ、いいなら私が作るよ?」

「すいません、作らないでください」

 初日に作った舞乃花特選の納豆入りケチャップマヨネーズチャーハンは、それは感涙するほどに酷い味だった。それで二度と料理すんなと叱ったのだけど、そうなると私が毎日料理する羽目になってしまう。妹が来ることで、ちっとは家事が楽になるかと期待した私がアホだった。母さんはなにをしつけたのか、舞乃花は立派に、なんも出来ない子に育っていた。

 アパートに帰ってきて、部屋の明かりを付けると、害虫が喜びそうな、物が乱雑に散らかった部屋が迎えてくれた。舞乃花が来てから、日を追うごとに、部屋がジャングルになってきた。

「よっこらせっと、はーい、お友達ができまちゅたよー」

 舞乃花はビニール袋のおしりを持って、10冊ほどのマンガ本を落としていった。

 私の住まいは『きんぎょ注意報』『赤ずきんチャチャ』『こどものおもちゃ』『とんでぶーりん』『姫ちゃんのリボン』『水色時代』など、懐かしい少女マンガによって占領されていた。マンガだらけで足の踏み場がないほどだ。酒と本が調合されて独特な匂いが出てきたような気がする。

「あははーっ」

 私がチンジャオロースを作っている間、舞乃花は手伝いすらせずに、うつぶせに寝っ転がって、泳ぐように足をバタバタさせながら少女マンガの世界に浸っていた。テレビが騒音のように付いているが、全く見ていない。電気代が持ったいないとスイッチを切れば「あー、見てたのにー」と舞乃花は怒り出すから、消したくても、そのまんまにせざる得なかった。

 テレビ音をバックグラウンドにして、マンガを楽しむのが、舞乃花にとって幸せな環境であるらしい。私にとっては迷惑だったけど、私の唯一の幸せであるビールを飲む一時を邪魔はしないでくれているので、まあいっかと、注意はしないでいた。

 舞乃花は仕事や勉強をせずに、寝て、食べて、マンガを読んでの、ノー天気な生活を送っているけど、久しく会わなかった姉の家に転がり込んで、やっていることなのだ。本人は口にはしないけど、なにか理由があるのだと思っている。こんな子だろうと、悲しいことに、私の血のつながった妹なのだ。追い出すことで、よからぬ惨事が起こるよりは、私の家にいて、何も起きない方がまだ良かった。

 今は少女マンガを読んでいる日々だけど、それも長くは続かないと期待を寄せて、そのままにしておくことにした。



「あの子ったら、あなたの家にいたのね。それなら安心……してもいいのよね?」

 あんた変な仕事してないでしょうね? と母さんは疑うような顔をした。

「少しは娘を信頼してください」

 ちゃんとOLやってます。給料低いけど、時間厳守で残業ないから、それなりに満足できる仕事に就いていますよ。

「そうはいうけど、あんたって全然連絡よこさないじゃない。これでも産んだ母ですからね、心配はしてるのよ」

「はぁ、どうも、すいませんです」

 ぐうの音も出ないので、つい、ぺこぺこと謝ってしまう。

「仕事はどう?」

「普通です」

「彼はいるの?」

「ビールが彼です」

「相変わらずねぇ、あんたって……」

 こんな娘に呆れていた。「一人身の方が楽なんですよ」と私はコーヒーゼリーの上に乗っかったソフトクリームを口にいれた。とろける冷たさがおいしかった。母さんは私が食べるのを確認してから、「無事ならいいわ、それで」とラズベリーワッフルに手を付けはじめた。

 デパートの6階にある喫茶店。母さんは8階の日本料理店で働いているので、舞乃花の無事を知らせるために、会いに行くことにした。3年振りの娘が突如顔を出したことに、最初はびっくりした顔をするけれど、直ぐに表情を引き締めて「舞乃花がいるのね」と聞いてきた。さすがは母親だと感心したと同時に、もっと早くに教えるべきだったと反省した。

 30分だけ時間を作ってもらって、私たちは喫茶店に入ったのだった。

「舞乃花はどうしてる?」

「マンガを読んでます、ずっと。きっと今も読んでることでしょう」

 舞乃花は、子供の頃に好きだったマンガを全部読むつもりらしい。毎日古本屋に通って、105円の古びたマンガを大量に買ってくる。私の家は少女マンガの倉庫になっていた。

「やっぱり。でも、元気そうで良かったわ」

「舞乃花になにかあったの?」

 はなしながら、私は母さんに敬語を使うべきか、ため口を使っていいのか迷った。久々というのもあって、親との接し方を忘れてしまい、言葉の使い方が分からなかった。

「ないような顔をして、あったんでしょうねぇ」

 母さんはフォークを置いた。

「あの子って、なんでもないよー、って笑ってばっかで、悩みごとを相談してこないのよ。私を心配させないように、あんなでも、気を遣ってくれてるみたい」母さんは意味ありげに間を置いた。「でも進路を決める時に、1つわがまま言ったの」

「わがまま?」

「大学行きたくないって。就職するのかと思ったら、それもしたくないって。なにもしないことが、自分のやりたいことだと言ったの。そのわがままを通して、進路が決まらないまま、高校を卒業しちゃったのよ」

「希望は叶ったわけだ」

「そうだけど、いつまでもそうはいかないでしょ? 毎日、毎日、家の中をゴロゴロしちゃってるの。見てられなかったわ。それでついキツイこと言っちゃって。あの子、そんな私に我慢ならなかったみたい」

 舞乃花の気持ちも分かるし、母さんの気持ちも分かることだった。そして、舞乃花にとっても、母さんにとっても、お互いの気持ちが分かっていながらも、反発しあったのだろう。

「それで家を飛び出して、私のところに来たんだ」

「みたいね」

 二人同時にため息が出てしまい、顔を見合わせて苦笑した。それから食べるのを再開して、菓子を平らげた。

「舞乃花をどうする気?」

 会計を終えて、財布を仕舞ってから母さんが聞いてきた。

「そのまんまにしておく」

「あれ、迷惑でしょ?」

 そりゃ、世話が増えたのだから迷惑してる。

「しょうがないよ。一日中ぐうたらしてるけど、怒るのめんどいし、下手に怒ったら逃げてしまいそうだし。別に悪いことをしてるんじゃないから、そのままでいいんじゃない」

「そういういい加減なところ、相変わらずだわ」

 ほんと変わってない、と安堵と失望が入り交じった複雑な笑みを浮かべる。

「たまには顔を見せなさい」

 母さんは仕事場に戻っていった。別れ際の言葉が耳に痛くて、いつまでも忘れられなかった。



 風呂上がりの私は、冷蔵庫から冷えたビール缶を取り出して、ぐいっと飲んだ。ぷはぁ、冷たい苦みが喉を通ってくるこの最初の瞬間がたまんなく好きだ。このために生きていると言ってもいい。

「あはは」

 舞乃花はといえば、相変わらず、ベッドの方々にマンガを置いて、寝っ転がってマンガタイムを楽しんでいた。上半身はパジャマで、下半身は下着姿なのは私に合わせてのことかもしれない。スーパーで買った安物の白いパンツをはいた色気のないお尻が丸見えだった。

 妹が来て1ヶ月近く経っている。

 舞乃花の恋人である少女マンガは300冊を超えていた。今日も7冊は買ってきたから、まだまだ増えていきそうだ。

 私は足でマンガを蹴って、小さなスペースを作ると、そこに腰掛けた。付け放しのテレビは女性検事が活躍するサスペンスドラマを映していた。面白くも、つまらなくもない。明日になれば忘れるような印象に残りそうにないドラマなので、それをビールのお供にすることにした。

 俳優の演技じみたセリフと共に、妹の「あはは」と笑う声がときおり聞こえてくる。少女マンガに夢中のぐうたらお姫様に興味を持って、そんなにハマるほど面白いか、あれって? と横にあったマンガを適当に手に取ってみたけど、30ページほどで、ムカムカしてきて放り投げてしまった。私はああいった、可愛い系のイラストと、非現実的なストーリーが苦手だった。

 趣味の合わない姉妹だ。私にはつまらないドラマを見ていた方が性に合っていた。

「いよっしっ! 電話だっ!」

 突然、妹は声を張り上げると飛び上がった。枕の隣に置かれたテレビリモコンを取って、「ぽちっとな」と電源を切った。私が見ていたドラマが消えた。

「お姉ちゃーん、電話貸してー」

「携帯しかないぞ」

「それでいいよ、貸すの」

 命令だった。

「自分のはどうしたんだ?」

 舞乃花は今時、珍しいことに携帯電話を持っていなかった。

「ウザかったから、半年前に捨てたんだ。ほれほれ、よこしなさい」

 分かったわよと充電中だった携帯を渡した。

「番号分かんの?」

「うん、まだ覚えてるよ」

 ぽそりと呟いた。舞乃花は笑みのまま携帯のディスプレイを見つめていた。

 心の奥深くにある思い出を見つめるような遠い目をする。その表情は、女の顔だった。その時、妹が大人として成長していたこと、子供の時と全く同じ顔をしていることに気がついた。舞乃花は覚悟を決めたように、番号をゆっくりと、時間を掛けて、押していった。

 耳を澄ましながら、妹は目をつぶった。口は笑っていたけど、表情はデビュー前のアイドルのように角張っていた。

「あ、朋和くん?」

 朋和。男の名前だった。名字でなく、名前で呼んでいる。親しい男の子なのだと思った。誰だろうか。彼氏? いるような気配なかったけど、いたのだろうか。

「私だよ、うん、そうだよ、ひさしぶりだね、うん、元気してた? そっか、そうだよね、うん、あのさ……」

 ごめんね、うん、そんなことない、私が悪いんだよ、ちゃうよ、ちゃう、ごめん、悪いのはこっち、うん、お互い様かもね、でも、ごめん、駄目だよー、それって私のせい? ごめんなさい、気にせずにやりなよ、ファイトだよ、うん、でも、うん、ごめんね、それとさ、ありがとう……。

 相手の声は聞けないけど、話から想像すると、舞乃花はその男の子に謝りたいことがあったようだ。

 気まずい時間だった。

 舞乃花の秘密を知るような気がして、その場にいるのが、まずいような気がした。私はそっぽを向いて、聞いてないふりをしてビールを飲んでいった。おいしいはずの、ビールの味が分からなくなった。

「バイバイ」

 携帯電話を耳から離した。手を下ろして、物思いにふけるように、暫くの間たたずんでいた。

「終わった、終わった」

 気持ちを切り替えたように、舞乃花はベッドに倒れていって、読みかけのマンガを手に取った。さっきの電話を忘れたように、あはは、と笑い声をあげる。

「ねぇ舞乃花……」

 ――朋和くんって誰?

 聞きたかった。

「私ってさ、どんな姉だった?」

 けれど、私が聞いたのは別のことだった。

 舞乃花はきょとんと顔をあげた。

「悪いんだけど、私さ、あんたとの思い出って、あんま覚えてないんだよ。私って舞乃花に姉らしいことってしてた?」

「お姉ちゃんは今とまるっきり同じだよ」

「今と?」

「遊んでもくれないし、構ってもくれなかった」

 やっぱ薄情な姉だったか。だから、舞乃花との思い出はぜんぜんない。

「でもさ、お姉ちゃんって、私のこと追い出したりしなかったもん。覚えてない? 私っていつもお姉ちゃんの部屋に入り浸っていたんだよ」

「そうだっけ?」

 覚えてないような、あるような。

「そうそう、雑誌、コミック、携帯ゲーム、そういうの持ってきて、お姉ちゃんの部屋で遊んでたもん。なのにさ、お姉ちゃんって見向きもしないの。ずっと机に向かって勉強してた」

「あー」

 なんとなく思い出した。妹は毎日のように、私の部屋に勝手に押しかけてきた。そして、マンガや雑誌やらを、私のベッドの上で読んでいた。

 迷惑ではあったけど、追い出すのは面倒だったし、勉強や趣味にしていた小説や詩を作ることの、邪魔はしないでいたから、ほったらかしていたっけ。

 それって……。

「そっか、今と同じだ」

 舞乃花はマンガを読んで、私はビールを飲んでいる。二人とも違う事をしながらも、その空間を共有していた。

 子供の頃の私たちと同じ姿だった。

「そうそう、同じ、同じ」

 舞乃花にとって、あの頃が一番落ち着ける環境だった。だからこそ、私のアパートに押しかけてきて、私の部屋で読んだ少女マンガを読んで、一緒に暮らしていた頃の私たちの世界を再現することで、気持ちをリラックスさせていって、朋和くんに電話をする勇気を作っていったのだろう。

 舞乃花は「あははは」と笑った。覗いてみたけど、大笑いするようなシーンではなかった。涙があふれそうなのを、笑うことで消している感じがした。

 慰めてあげようかと思った。けれど、傍にいることが、姉としての慰め方なんだと思い直した。

 舞乃花の笑い声を酒のつまみにして、私はビールを飲んでいった。


おわり


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[一言] どこかしっとりとしたお話で、とても面白かったです
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